今年、還暦です。
大学を出てすぐは、高校の国語教員をしていました。
神奈川県立麻溝台高校に三年いました。大学四年時に、金の星社、世界文化社、文化出版局、鎌倉書房、新潮社、リクルート、神奈川の県立高校などを受けました。二次面接まで行ったところもありましたが、一番早い時期に、教員の合格通知が来たので、気楽に遊んでいられるのも最後と、就職活動をやめました。社会人になってから、何度もプータローとなりましたが、この先の、転職人生の中で、採用試験を受けて、その結果、採用された、唯一の時期です。
二年も経たぬうちに、まだまだこっちよりあっち側にいたいと思うようになり、折角得た地方公務員の仕事をやめるなんて勿体ないと周囲に呆れられながらも、三年でやめました。
やめる時、体育会系の教員が、あんたは教師には向いてないねと、頭のてっぺんから爪先までジロリと見ながら言いました。担任をしたクラスで、夏のキャンプのしおりの挿絵に、ソバージュ、ジーンズ、右手にタバコ、左手に徳利、という姿で描かれました。
念願通り、勉強をしようと、フェローネットワークという翻訳学校に通い始めました。
大学では国文科でしたが、四年間、フランス語の授業をとり、アテネフランセ、日仏会館、上智の夏期講習、早稲田の語研などに通い、英語は担当教諭が気に食わなかったので落として、第二外国語としてドイツ語も二年履修しました。
でも、ぜんぶ、忘れました。
翻訳学校での先生は、NHK教育テレビのフランス語講座を受け持っていて、今度、日仏辞典を作るから、手伝わないかと誘われました。こっちの水に行ってたら、人生がらりと変わっていたかなぁ。
王禅寺にある親の家からは出て、町田で一人暮らしをしていましたが、両親のツテで、旺文社の学参の編集協力、模試の採点や集計、フランス語の翻訳など、在宅でできるような仕事をしていました。
その翻訳学校では、各国語の翻訳や通訳、教員養成、かな入力のワープロ検定などの授業のほかに、新規事業を立ち上げようとしているところで、キャプテンシステム用にブリタニカ百科事典を翻訳するというプロジェクトが、その第一歩でした。
学校に通いながら、フランス語の辞書編集を手伝い、英語の翻訳で小銭を稼ぎ、以前から憧れていた在宅仕事の端緒につく、はずでした。
百科事典翻訳プロジェクトの説明会には、二百名近く人が集まりました。仕事の詳細を説明した後で、社員以外に、出社してコーディネートをする人が必要、誰かやらないか、という話になりました。こんなにたくさん人がいるんだからと、冷やかしに手を挙げてみたら、他に応募者はなくて、即決。
後にSOHOと言われるようになる勤務形態の夢は断たれ、その後、断たれっぱなしです。