機械翻訳用の辞書を作るのにも飽きて、また、ポストEDRを会社としても考えなくてはいけない時期でもあり、機械ではなく、人間のための縦横無尽な用例集『言葉づくし』を妄想したのは、じき三十になろうという頃のことでした。
当時、流行りだしていたカシオの電子辞書とは違う、コンピューター上で展開される、人間のための生きたことばの辞書について、企画書というか夢想書のようなものを書き始めたところ、ワープロのルポで書くよりパソコンでワープロソフト「一太郎」を使った方が大量に書けると同僚に勧められました。
まだ、機械の性能も通信環境も日本語の入出力も黎明期でした。「一太郎」も、フロッピーディスクから立ち上げていたのを、ハードディスクにインストールするようになる過渡期でしたし、一ギガのハードディスクなんて一体何に使うのだろう、というような時代でした。
当時のPCの日本語環境は、半角カタカナが主流で、夢想している「豊かな日本語表現を展開する」なんてなものは、そうそう作れるわけもなく、デジタルはもういいやアナログに戻ろうと、INSをやめ、プータローになって数ヶ月、済州島、釜山、慶州、九州、山陰と旅行をしたあと、記念に、Macを買いました。
しばらくプータローをしてから、次の仕事までのつなぎに、月刊誌の校正や、季節労働者的なアルバイトもしました。アンパサンドという会社では、当時珍しく、募集要項に、Macでの仕事とあったのに惹かれたのですが、その仕事はなく、数ヶ月限定で、就職情報誌の進行管理をすることになりました。
就職情報誌に求人広告を出す会社の人事担当に電話をして、その原稿を書いてくれるよう促す仕事です。募集要項に、時給が五百円の幅で書かれていて、面接時に希望額を聞かれ、最高額を言ったら採用されたのが、あだとなり、後々、飲み友になった若い子に、わたしも同じだけ欲しいとせがまれ、社長に交渉する羽目になりました。
営業アポイントメントではないのですが、原稿をせっつかれる人事担当の多くは、作家大先生にでもなったかのように、尊大に威張って、時には、俺は忙しいんだと怒鳴りだしたりするので、それをなだめて書かせるのが無理なら、たたき台書きましょうか、それを直していただけますか、なんて下手に出ながら、電話で話すのが主な仕事でした。
数ヶ月の韓国・国内旅行から帰ってくると、父に、いつまでも遊んでるわけにもいかないから、やってみないか、と勧められたのは、予備校講師です。
父は、都立高校の教員でしたが、定年前に退職し、河合塾などの講師となり、早稲田ゼミナールでは講師代表でした。
父と娘だけが教員免許を持ち、公立高校での教員経験もあるというのが効いたのか、一応、親の七光りってわけでもないようだと人々に認められつつ、時給六千だか七千だか、三つの予備校を掛け持ちすることになりました。
教員時代のように授業コマを詰め込んだら、簡単に年収一千万になっていたかもしれませんが、半分ぐらいに抑えました。有り体に言えば、時給仕事ですから、遅刻欠勤をしないというのが、最大の条件とも言え、それが一番キツかったとも言えますが、あの時期だけは、ほぼ皆勤でした。
まだ予備校講師という職業がもてはやされていた、バブルの終わり頃のことでしたが、あまりに荒っぽい日々に嫌気がさしてきて、京の都に住みたくなりました。京都での仕事を探そうとしたら、駿台予備校の講師をしている友人が、専任になる試験を受けて京都校を希望すればいいとアドバイスしてくれたので、試験を受けると、一次には通りました。筆記試験はトップで合格したと、その友人から聞きました。
しかし、二次試験の少し前、十月半ばに、全く思いがけず、母が急死したので、ボケた祖母の介護をするために、外で働くのはやめて、実家に戻ろうと思うようになりました。
二次試験は、母の法要四十九日の翌日で、まったくやる気も失せていましたが、折角だから受けてみたら、と友人に勧められ、与えられた課題については何も勉強せず、カメラの前での模擬授業は惨憺たるものとなり、落ちました。
その年の暮れまでに、借りていた部屋を解約し、一部屋分の荷物を、実家近くに借りたアパートに移し、実家に戻って、春期講習の時期を待たないで、三十五才のうちに予備校講師をやめました。