第五話「時計」


 その街の駅前の公園には、大きな花時計があった。毎日、それぞれの時間に合わせ
て咲き、閉じてゆく色とりどりの花の鮮やかさが人々の心をとらえ、その周囲は有名
な待ち合わせの場所となっていた。
 その日も待ち合わせの恋人二人が、花時計を前に語り合っていた。一見線の細そう
な青年が、
 「ご免、遅くなって。」と若い女性に頭を下げる。
 「ずいぶん待ったわよ。どうせ朝寝坊でもしていたんでしょう。」
 「ゆうべ、徹夜だったもんだから。」
 「また売れもしないもの書いてたのね。」と、眠そうな目の青年に彼女が言うと、
 「おい、いくら君でも、怒るぞ。」
 「ご免、ご免。小説家になるの、夢だもんね。」と言って、女性は青年に寄り添った。
 二人が歩き出す。花時計の周りは、往来の激しい駅前にしてはきれいに掃除されて
いて、空缶一つ落ちていない。
 「この辺って、いつもきれいだね。」と言う青年に、女性は、
 「新聞で見なかった?近所のお婆さんが毎朝人知れず掃除していましたって…美談
じゃない、あなたの好きな。」
 「へえ…でもそういうのって、わかってしまっちゃいけないんだよな。姿を見せな
い善意が一番美しいんだ。」
 「立派なこと言うのね。だから小説も売れないんだ。」
 「このォ!」と笑って拳を振り上げる青年だった。
           ◇                ◇
  その二人が喫茶店で語り合う。女性は店のカレンダーを見て、ふと青年に問いか
けた。
 「長坂賞の発表日、明日なのね。自信ある?」
 「わからないなあ…今までが今までだから。入賞してたら三時までに電話が入るけ
ど。」
 「どんなのを書いたの?」
 「そうだな、たとえば一人の不思議な少女がいたとする。」
 「不思議な?」
 「そう、その少女の名前も育ちも誰も知らない。そのくせ少女に会った人はみんな
とても親しい、懐しい人に会った様な気にさせられる。少女は苦しんだり、悩んでい
たりする人の所に、何の前ぶれもなくふと現れるんだ。まるで霧か何かの中から抜け
出して来るみたいにね。頭上から降り注ぐ悲しみにうつむいている人が何か暖かな気
配を感じて顔を上げると、そこには必ず彼女の笑顔がある。現実に背を向けることし
か考えられなくなっている人が、肩越しに頬を照らしてくれる様なぬくもりに気づい
て振り返ると、そこにいつの間にか彼女の姿がある。彼女にはそんな人達がいとおし
くてたまらないんだ。人の背負っている悲しみを黙って見ていられなくて、いつも自
分が身代わりになってしまう。だから一人でいる時はいつでも辛そうにしているけど
、心の中では決して希望を捨てない。」
 「今時はやらない話の代表選手ね。」
 「でもいいさ、そんな空想をするだけで心が休まるだろ。読んでくれた人にもそう
思ってくれたらこれ以上のことはないよ。」と、青年はとても気持ち良さそうに言う
のだった。
           ◇                ◇
 その夜、青年は机の上の女性の写真に、話の続きを延々としていた。
 「そして、悲しんでいた人が幸福を掴むと、彼女は何も言わずに姿を消してしまう
。感謝の言葉をかけようと振り返ると、ついさっきまで後ろに立っていたはずの彼女
はどこかに消えてしまっている。そして、彼女のいたはずの所に、小さな一輪の花が
いつも咲いているんだ。」と語りかける様な口調で、青年の独り言が続いていく。
 「人が机に向かって頭をかかえて悩んでいる時、そっと窓際に幸せを置いて去って
行く。そんな彼女の正体を誰も知らない−実は、彼女は宇宙人なんだ。SFなのかっ
て?違うんだな。それはただの説明でね。そりゃ、僕にそんなものを書く力があるは
ずないからSFもどきになってしまうけど、僕が本当に書きたいのは、そんな少女の
心優しさが時間も空間も超えて人々を幸せにしていく過程、つまり心暖まる物語、な
のかもしれない。」
 その時、不意に電話がかかってきた。
 「はい…あ、母さん、今頃何?…えっ、父さんが!」
 受話器を取った青年が、通話中に急に顔色を変える。暫く話をして、返事もしどろ
もどろに受話器を置いた青年は、少しの間茫然として、女性の元へ電話をかけた。相
手が出ると、青年は元気のなさそうな声で、
 「もしもし、僕だけど。今田舎から電話があってね。父さんが、怪我をしたんだ。
帰んなきゃならない…うん…駄目なんだよ…仕方ないだろ。三時過ぎまでいつもの所
で待ってて。当選したら行くよ。落っこちてたら、一人で田舎へ帰る。」
 「それで、いいの?何か私にできることはない?」と言われ、かえって彼は苦しそ
うに、
 「いいよ、いいんだ。じゃ、うまくいってたら明日。」
 女性が言葉を続けるのを阻む様に、青年は受話器を置いた。そして、小さくつぶやく。
 「僕だって、男なんだ。何かされたらかえって惨めになるだけじゃないか。」
           ◇                ◇
 翌日、青年は一歩も外へ出ず、じっと電話を待っていた。女性もまた、花時計の前
で彼を待ち続けた。女性の目が祈るように、開くべき時を待つ三時の花を見守っている。
 <あの花が咲くまでは、可能性があるのね。>
 数分を数時間にも感じながら、女性は待ちわびた。そして、青年もまた。
 しかし、三時を過ぎても電話はかかって来なかった。
 「畜生、畜生…」と青年が髪をかきむしりながら嘆く。
 絶望の淵で、青年は懸命に自分を慰める言葉を探した。彼も小説家を目差す者なら
、少くともそういうことには自信があった。いや、あるはずだった。
 だが、青年の頭の中には、何の新しい言葉も浮かんでは来ない。彼は頭を抱えて、
 「自分を支える言葉も出て来ないなんて、僕はやっぱり駄目なんだ!」と絶叫した。
 自分の中で何かが音を立てて崩れ去って行く、青年にはそう感じられた。
 いつか外はにわか雨。道を歩く人々は、我先にと帰り道を急いで行く。
 「もう待っていてくれないよな…あんなに昨日は僕の話を聞いていてくれたけど。」
 青年が女性の写真に目をやって、昨夜の自分のうっとりした言葉を思い出す。
 「人が机に向かって頭をかかえて悩んでいる時、そっと窓際に幸せを置いて…」
 ふと自分の部屋の窓際を見て、青年は窓枠にはさまる小さな紙片をみつけた。手に
とって開いてみると、それは小さな手紙だった。
 「えっ?でも誰が?」と青年はそれを読んで驚き、窓を開けて外を見回した。
 だが外には誰の気配もない。青年は、傘もささずに雨の中を花時計のもとに走った。
           ◇                ◇
 傘をさして待っていた女性の姿が彼の目に。相手を見つけ合った二人が駈け寄る。
 「良く待っていてくれた!」と、青年は女性の傘の下に入るなり叫んだ。
 「入選したの?」と問う女性に首を横に振りながらも、青年はきっぱりと言った。
 「でも、君を見たら勇気が出てきた。こんな時間になっても待っていてくれたんだ
から。」
 「だって、まだ三時前よ。ほら。」と女性は花時計の方を指差し、驚きに息を飲んだ。
 三時の花は、雨に打たれながらも鮮やかに咲き誇っていた。
 「あれ、ずっと見てたのよ。今の今までしぼんでいたのに…」
 「何言ってんだ、もうすぐ四時だよ。」と青年が腕時計を見て告げる。
 「おかしいわよ、まるで誰かが花時計を狂わせたみたい。」
 「そんなこと、人間にできるはずだろ。でも、にわか雨なのによく傘なんか持って
たね。」
 「通りすがりの女の人がくれたの。きれいな人だった。」
 「へえ、そう言えば、僕にあの手紙くれたの誰なんだろ。君が待ってるって。」
 「手紙?」
 「何か、信じられるような気がする…まあいいや、それより頼みがあるんだ。」
 「何?」
 「これで決心がついた。僕の田舎に来てくれないか?」
 「私、私ね、前からその言葉を聞きたかった!」と女性は青年の胸に跳び込んだ。
 「よかった。小説だってあきらめないさ。どこでだって書けるもんな。もう僕達に
怖いものなんかないんだ!」
 三時の花が、二人を祝福するように色鮮やかに咲き誇っていた。

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