写真=「もののけ姫」制作中のスタジオジブリで談笑する近藤さん(中央) 1997年5月、南正時さん撮影
南正時さんホームページ「南正時の鉄道と旅の世界」
こんどう・よしふみ
1950年生まれ。
「新聞紙とはさみを持たせると一日中何かを作って遊んでいた。近所の洋品店に飾られていた鯉のぼりを見つめて、てこでも動かなかったこともある」(母・キチさん)。
村松高校で美術部に所属。「いつもスケッチブックを持ち歩いていた。その後の彼のアニメを見ると、村松の風景や当時のあこがれだった人の面影を感じる」(同人誌を二人で作っていた同級生・神田聖一さん)。
卒業と同時に上京。専門学校を経1968年、制作会社「Aプロダクション」に入社。早くから才能を認められ「ルパン三世」TVシリーズ、短編映画「パンダコパンダ」などで原画を担当、高畑、宮崎らと出会う。
日本アニメーションなどを経て1987年スタジオジブリへ。「日本というより世界で指折りのアニメーター」(鈴木敏夫さん)。
「後進への影響も大きく、彼の死によって日本のアニメーションが失ったものは非常に大きい」(映像研究家・叶精二さん)。
【参考文献】「近藤さんのいた風景」(高畑・宮崎作品研究所編)、「近藤喜文の仕事」(安藤雅司、スタジオジブリ編)など。
●特別寄稿●
新潟県出身の物故者を取り上げ、その人生の全うの仕方が描きたいという企画で、近藤さんの名前が挙がったのは、今年の7月頃でした。亡くなられた年齢が今の自分と近いと言うこともあり、「やらせてほしい」と手を挙げましたが、アニメーションの世界に詳しいわけでもなく、正直言ってそのときまで近藤さんの名前も知りませんでした。
しかし、取材に入ってすぐ、近藤さんをめぐる世界に引き込まれていくのを感じていました。最初に目を通した、叶さん編集による「近藤さんのいた風景」に寄せられた多くの人の「惜しむ声」を知ったこともありますが、なによりも心に刺さったのは、「ふとふり返ると」から感じた近藤さんのまなざしでした。「見ることと、愛し、慈しむことは、同意語なのだ」という思いがこみ上げてきました。
このまなざしはどこから来たのだろう、なにを見たいと思っていたのだろう…。
そんな思いで、人と会い、もちろん結論にたどり着くことなどはできませんでしたが、近藤さんという人のすごさ、アニメーションの世界の奥深さには触れることができたと思っています。
小さいころの近藤さんは本当に内気な子供だったようです。家があるのは織物の街・五泉市の中心街。黒塀の並ぶ小道沿いに用水(いまは埋められてありません)が流れる感じのいい一角です。近所には大勢のいとこたちがいて、遊び回っていたのですが近藤さんはもっぱら家の中で、絵を描いたり、畳んだ新聞を切り抜いて作る細工物などに熱中していたそうです。すぐ近くの雑貨屋に、一人で画用紙を買いに行けず、切れると仲の良かったいとこに頼んでいたという話しも、お母さんはしてくれました。
美しいものへのこだわりはこのころから強く、洋品店の鯉のぼりの前から、駄々をこねるでもなく動かなくなったときには、女主人が「お代(800円だったそうです)はいつでもいいから持っていって下さい」と根負けしたそうです。女物のきれいな着物や「ぽっくり」も大好きで、それを着て出ると女の子と間違えられることもあったといいます。
内気さと頑固なまでのこだわりは、このころからだったのですね。
小学校のころから絵が上手なことは定評があって、卒業文集の表紙は近藤さんの絵だったというのですが、見つけることはできませんでした。
進学した村松高校は五泉から車で5分くらい。当時はまだあった蒲原鉄道のかわいい電車が走る城下町にありました。新潟は、なだらかな丘陵地が少ない土地柄ですが、この高校は小高い丘に囲まれた、不思議な桃源郷のような場所にあります。
美術部に所属した近藤さんは、仲の良かった同級の神田聖一さんと同人誌「ぺんだこ」を作っていました。二人には共通のあこがれの女性(同級生)がいたのですが、神田さんによると近藤さんは「一言も口をきいていないはず」。もっぱら横顔をスケッチしたり、学園ものストーリーの主人公キャラクターに使ったりしていたようです。神田さんによると、「耳をすませば」のキャンペーンで新潟に来たとき、「あのころの世界のようだね」と言うと、「やっと描いたよ」と言葉少なに話していたそうです。
3年の夏休み二人は上京、20日程度、神田さんは漫画家を訪ね、近藤さんはアニメの事務所を回ったようです。帰省した後近藤さんは母親に、「新潟から来たんだけど使ってほしいというと、手があるけど飯食っていけと言ってくれたり、どこそこへ行けと紹介してくれたり。なかには学校なんかいいから、ずっとここで働けといってくれたりした。母さんが持たしてくれた金よりはたくさん稼いだよ」と話しています。自信をつけたのでしょう。その後すぐ母親に「大学には行かない。自分のやりたいアニメをやる」という意思を伝えています。頑固だった父親には、春、上京する汽車に飛び乗る直前まで黙っていたそうですが。
その後の近藤さんの活動は、叶さんらが様々な出版物などにまとめられていられるとおりです。
ジブリの取材では、広報担当の方は「次作の準備に入っているので対応は難しい」と言っておられたのですが、結果的には高畑監督、鈴木代表らにお会いすることができました。「近藤さんのことなら」ということなのでしょう。そのことだけでも、彼がどれほど周りの人に思われていたかを感じました。
「トトロ」と「火垂る」での宮崎、高畑両監督の近藤さんの奪い合いの話では、この両作品は資金繰りの関係でどうしても同時に作る必要があったのだそうです。ですから、宮崎さんの「(近藤さんを使えないなら)僕は入院する」という言葉の裏には、「トトロ」に近藤さんを使えないなら「火垂る」も作らせないという意味も込められていたことになります。その後「耳をすませば」のキャンペーンで、そんなに話をする機会の多くない鈴木さんと近藤さんが寿司屋で二人になったとき、「あのときは大変だったね」と切り出すと、あまり感情を表に出さない近藤さんが大粒の涙を流したというエピソードも話して下さいました。
高畑さんもこのときの印象は強いらしく「どうしても彼が必要だった。キャラクターを作り上げたのは彼。近チャン抜きにこの作品はなかった」と強調されていました。
倒れる1年前近藤さんは、長男の哲平君を連れ帰省。母の実家白根市の大凧合戦を見に行っています。あちこちで凧づくりの職人と話し込んだり、気に入った凧を売り物では無いというのに無理矢理買い取ったり(その凧は自宅の天井に飾られていたそうです)、熱心に取材?していたということです。
どのようなストーリーを思い描いていたのでしょう。秀でた才能があまりにも早く失われたことは確かですが、彼の業績を知れば、一つの人生として十分すぎるほど充足していたと言うこともできるような気がします。
村松高校の前で、何人もの在校生に話を聞きました。「近藤喜文という先輩を知っている?」。「知らない」という返事にあきらめかけていたころ、美術部に在籍という女子高生が「『耳をすませば』の人でしょう」と、答えてくれました。そうすると周りにいた何人もの女子高生が「私知ってる」「あの映画大好き」と、一斉に声を上げました。
表に出たがらず、取材もなかなか受けなかったという近藤さんは、後輩が自分の名前を知らなくても、作品を愛してくれていることを一番喜んでいるかもしれません。
今回の取材では、本当に叶さんにお世話になりました。アニメーションをこれほど愛し、深くとらえている人がいるということ自体に驚き、こういうレベルの高い「観客」の存在が日本のアニメのレベルを引き上げているという印象を受けました。
アニメの見方がかなり変わったと感じています。少なくともこれまで目を向けることの無かった、最後のロール部分の名前の向こう側に、無数の近藤さんがいるような気がして、熱心に見るようになったことだけは確かです。