(注)このシナリオは、著作権者である MADARA PROJECT の許可を得て
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空音・・・・・桂川千絵
勇魚・・・・・桑島法子
森・・・・・・桑島法子
(Reading:桑島法子 as 勇魚)
私は電車のドアの背にもたれて、
眠っている森君とその手をかたく握っている知らない女の子を見つめていた。
睫毛が長くて彫りの深い顔立ちの可愛い女の子だった。
綿菓子のようにふわふわしたピンクのコートを着て、
髪にリボンをつけている。
唇が果実のように赤かった。
私は不思議なほど静かな気持ちで、
眠っている森君の顔を見ていた。
強く白い朝の光の中で、
何もかも置き去りにしたような無防備な表情で眠っている森君を見ていた。
誰かが私の前を通り過ぎる。
振動が体の奥に響く。
けれど私の世界に音は存在しなかった。
「(空音)あなたは…誰?」
突然、誰かの声が響いた。
私は、はっとして顔を上げた。
森君の隣で眠っていたはずの女の子が、目を大きく開いて私を見ていた。
「(勇魚)あたし…あたしは勇魚。あなたは誰?
どうしてここにいるの?
あなたは昨日、水のノートを持っていた」
「(空音)私…私は空音。
でも、私は私の本当の名前を知らない。
私…自分の本当の名前を知りたいんです」
私は困惑していた。
私の世界から音は一切失われていたはずなのに、
この人の声だけがはっきりと聞こえる。
森君の声だって聞こえないのに…。
何故?
「(空音)声を出さないで。森君が、起きてしまうから」
彼女は立ち上がると、私の口元に人さし指を当てた。
「(空音)お願い、このまま帰って下さい」
「(勇魚)どうして?」
「(空音)森君、今、せいいっぱいだから。
あなたを見たら気持ちが壊れてしまいそうな、そんな気がするから」
「(勇魚)何故あなたが、そんなこと言うの?」
「(空音)動物園には、私が行きます」
ドアが開いた。
幾人かの人が乗り込んできた。
街は動き始めている。
私は息をひそめて彼女を見た。
「(空音)私が、動物たちを放します、森君と一緒に。
だから、心配しないで」
「(森)勇魚…」
森君の声が、人の波の向こうから聞こえた。
「(森)…勇魚…どこに…今まで何処に…?」
「(空音)森君」
彼女は庇うように森君の腕にそっと触れた。
「(空音)ごめんなさい。
私があの時、水さんのノートをちゃんと持ってれば…」
「(森)…え? 何?」
「(勇魚)…森君が水のノートをこの人に渡したの?」
「(空音)ごめんなさい」
「(森)…そうじゃない、勇魚」
「(勇魚)でも、動物園のことを知ってる…。
水のことも…。
森君の嘘つき…。
あたしを…壊さないって言ったのに…。
どうして…?
水を…水を返して!」
「(森)勇魚、どうしたんだ?
…何か…あったのか?」
「(勇魚)…何かあった?
…森君、どうして何も分からないの?
あたしたちの絆は、水だけなのに…。
水が、遺したあのノートだけなのに…。
どうしてそれを…他の人に言ってしまえるの?
水がどうやって死んだかも話したの?
あたしがどれぐらい、水が大事だったか…。
水が、どれくらい森君を大事だったか…。
それも話したの?
森君が分からない…」
「(森)勇魚、待てよ! 僕は…」
「(空音)森君…」
「(勇魚)さよなら…森君」
私は、後ろ向きのままプラットホームに降りた。
目の前で、ドアが閉まった。
森君がドアを叩いた。
彼女が、後ろから森君を抱きしめていた。
私は、階段を降りた。
自動改札のベルが鳴った。
私は立ち止まらなかった。
体が震えていた。
意識しない、声が聞こえた。
自分の声だった。
泣いてる…。
私は泣いていた、大声で。
音が…音がよみがえっていた。
街の音…私の知らない世界の音。
水が拒んだ世界。
魂が還っていく大きな木を持たない世界。
木の葉が全て地面の下にある荒れ地のような倒錯の森。
私は、体を二つに折って、
両手の中に顔を埋め、
息を詰まらせながら、
激しく泣いた。
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〈第20話
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