(注)このシナリオは、著作権者である MADARA PROJECT の許可を得て
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空音・・・・・桂川千絵
森・・・・・・桑島法子
勇魚・・・・・桑島法子
(Reading:桂川千絵 as 空音)
ゼリーが溶けていくように、現実が私の周囲から消えていく…。
遠く街の灯がデコレーションケーキのように揺れていた。
「(勇魚)あなたは…誰?」
吸いこまれるように大きな瞳を持ったあの女の子は誰だろう?
「(勇魚)あなたは誰?」
そう、私は誰なんだろう?
私が持っているのは、おにいちゃんがくれた空音という名前だけ。
私はおにいちゃんに全てを委ねて生きてきたけど、
おにいちゃんは男の人で、私とは違う。
おにいちゃんは遠く夢を叶えに旅立てるのに、
私は空の音を聞いて、迷子になって、もう帰る道が分からなかった。
ため息をつくと小さく消えてゆく…。
私はバスを降り、停留所の時刻表にもたれて、
ゆるい坂の上にある図書館を見つめた。
入り口に誰かがうずくまっていた。
私の目に雪が入った。
冷たい…。
私ははっとして駆け出した。
青いチェックのシャツを着た男の子が雪まみれになって眠っていた。
頬は冷たく、まつげが薄く凍っていた。
私は慌てて彼をゆさぶった。
返事がなかった。
「(空音)森…君…」私は膝をつき、彼の前髪に付いた雪を払った。
「(空音)森君」私は指で彼の冷たい唇に触れた。
そして、そのまま唇を重ねた。
何故そんなことをしたのか、自分でも分からなかった。
舌が歯に触れると、彼の体に意識が戻ったのを感じた。
彼は薄く目を開けると、小さく何かささやいた。
「(空音)なあに?」
「(森)…勇魚…」彼は強い力で私を抱き寄せた。
闇と降りしきる雪が私達を包んでいた。
彼は私の髪に顔を埋(うず)め、震える声で、「勇魚」、と言った。
「(森)もう…どこにも行くな」私は、その声の持つ切実な響きに打たれた。
この人は…全身で…自分ではない誰かを求めることの出来る人なんだ。
私は雪の中に消えていった大きな目の女の子を思い出した。
あの子が勇魚なんだ。
と、私は思った。そう思うと、私は悲しい気持ちになった。
私は誰にも求められていなかった。
パパもママも優しかったけど、
おにいちゃんは抱きしめてくれるけど、
私を壊しては…くれない。
「(空音)私…勇魚って名前じゃありません」
「(森)…え?」彼の体が硬くこわばっていくのが分かった。
彼は夢からさめた時のように視線を宙に浮かせた。
「(空音)水のノート…。あのノートは、お兄さんの遺書なんでしょう? 森君」
「(森)君は誰? 何故僕の名前を…」
「(空音)わたし…、私は…」うつむくと、不意に涙が溢れ出した。
私は誰?
私は何のために、誰のために生まれてきたの?
「(森)どうして…泣いてるの?」静かに彼は言った。
自転車のタイヤが雪をくわえてきしむ音がした。
真冬の木枯らしが私の背中を揺らした。
彼の指が私の涙を拭った。
「(森)泣くなよ」
「(空音)ごめんなさい…わたし…もう…あのノート持ってません」
「(森)どうして?」
「(空音)…捨てたから」
「(森)捨てた? どうしてそんなことを。
…あれはすごく大切なものだと言ったじゃないか」
「(空音)じゃあ、どうして忘れていったりするの?
本当に大事なら…もっと大切にすればいいじゃない」
彼の手のひらが私の頬を弾いた。
私達は強く見つめあった。
「(森)君に…何が分かるって言うんだ」彼は立ち上がって歩き出した。
一人になると闇がその比重を増したように感じられた。
私は、膝の上にそっと舞い降りては消えていく雪のかけらを見つめていた。
「(森)ごめん…」私はゆっくりと顔を上げた。
彼が叱られた子供のような顔で立っていた。
「(空音)森君…」
「(森)君の言う通りさ。僕はいつだって一番大切な物ばかり失くしてる」
彼は右手を差し出した。
私は左手でその手を握った。
大きくて優しい手だった。
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〈第16話
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