(注)このシナリオは、著作権者である MADARA PROJECT の許可を得て
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空音・・・・・桂川千絵
森・・・・・・桑島法子
(Reading:桂川千絵 as 空音)
私の名前は、私を取り巻く小さな世界に対して何かの意味を持っているのかな?
図書館は静かだった。
翌日は大晦日で、朝から雪混じりの雨が降っていた。
私はこの小さな私のまま、
名前をつけてもらったという記憶だけで存在していくのかしら?
水色のテディベアさん、おにいちゃんは私に空音という名前をくれたの。
私はそれだけで満足しなければいけないのに、
いつの間にかとても欲張りになっていたみたい。
だめだよ、空音。と、私はテディベアを抱きしめた。
リファレンスの人が98に図書目録を打ち込むパタパタという音だけが
微かに響いていた。
私は辞書を広げて
J.D.サリンジャーの Catcher in the Rye を訳していた。
私の斜め向かいに高校生くらいの男の子が座っていた。
私は見るとはなしにその男の子を見ていた。
彼は、不思議な途方にくれたような表情をしていた。
机の上には一応参考書や単語カードが置かれていたけど、
彼の目はそれを通り越してどこか遠くを見ているように見えた。
彼はぼんやりした様子のまま、
青いチェックのシャツのポケットから煙草を取り出すと
火をつけずに口にくわえた。
周囲の人はぎょっとして彼を見た。
彼はしばらくそのままでいた。
時間で言ったら二分ぐらいの間だったけど、
図書室に小さな緊張がさざ波のように広がった。
「(空音)あの、ここ、禁煙ですよ」と、思いきって私は口を開いた。
「(空音)火はつけてないみたいですけど、でも、やっぱり…」
彼はゆっくりと視線を上げて私を見た。
少し伸びた前髪からのぞく瞳は、
道に迷った子供のような弱い光が瞬いていた。
「(森)禁煙?」彼はつぶやいて指先で口元を探り、
それから初めて気づいたように慌てて煙草を唇から離した。
「(森)そうだった…ごめん」彼は立ち上がり、
荷物をまとめて出て行った。
私は机の上に残された黄色いノートを見ていた。
表紙には「動物園襲撃計画」と書かれていた。
私は手を伸ばしてそれを引き寄せた。
中を開くと一枚の写真がひらりとこぼれ落ちた。
女の子が印象的な笑顔で写っていた。
裏面には一年前の日付と「勇魚」という文字が書かれていた。
図書館は休館だった。
私は固く閉ざされた扉の前にたたずんで、傘越しに雨と街を見ていた。
停留所にバスが停った。降りたのは一人だけだった。
予想した通り、それは昨日の煙草の人だった。
彼は私に気づかず、扉を開けようと手を伸ばした。
「(空音)図書館は休館ですよ。水さん」
彼はしばらく私を見ていた。
そして、「(森)…君は…誰なの?」と、静かに言った。
「(空音)本当の名前なんて…知らない」と、私は言った。
彼は昨日と同じ不思議な眼差しで私を見て、
「(森)君は…あのノートを持っているのか?」
「(空音)大切なものなんですか?」
「(森)すごく大切だよ」
「(空音)どれくらい?」
「(森)大晦日の朝一番、しかも雪の日に電車に乗って、
休館の札の出ている図書館に取りに戻るくらい大事なものだ」
と、彼は言った。
私は彼の顔を見上げた。
冗談を言っているようには見えなかった。
彼の顔に写真の女の子が重なって見えた。
印象的な目が似ていた。
不意に私は苦しい気持ちになった。
そして、思いがけず私は、今はあのノートは持って来てはいない。
と、彼に告げていた。
「(空音)でも、今日の夜、またここに来ます」
彼は何か言いかけたけどやめた。
頭を軽く揺すって髪についた雪を払った。
遠くのざわめきが風に乗って、切れ切れに聞こえていた。
「(森)分かった。今夜、僕達はもう一度ここで会おう」
私は駆け出した。
心臓がドキドキと脈打っていた。
おにいちゃん。
と、私は胸の奥で強く思った。
でも、それは思ってはいけないことだと私は知っていた。
私はおにいちゃん以外の人のことをもっと知らなくちゃいけないんだ。
私は振り返って彼を見た。
「(森)僕は水じゃない。水は僕の兄貴だよ。死んじゃったけどね」
停留所に再びバスが停って、
黄色い帽子とスモックを着けた子供たちの群れがわっと道路に広がった。
子供たちは雨の中を四方八方に散らばって、
どこかへ吸い込まれていった。
気がついた時、私は一人で誰もいない図書館の扉を見つめていた。
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