(注)このシナリオは、著作権者である MADARA PROJECT の許可を得て
ここに掲載するものです。このページの記載内容の全部及び一部の
複製を禁じます。
森・・・・・・桑島法子
勇魚・・・・・桑島法子
(Reading:桑島法子 as 森)
魚たち、
泳ぎ手たち、
フナたちが水の形を変えていく。
僕が高校を中途退学して、
東京に来て一ヶ月が過ぎた。
勇魚がいることで、
僕のささやかなワンルームの日常性は微妙に揺れ動き始めていた。
大きく開かれた空の下で、
闇が深く僕達の上へと降りてきた。
水は柔らかく、
身動きしない。
青く冷たいモニターに指を近づけ、
僕は勇魚の綺麗な笑顔を、
その不思議な色合いの奥に意味もなく探していた。
運送屋の手違いで荷物が届くのが二週間近くも遅れたので、
僕は文字通りトランクひとつしか持たずに新生活を始めることになった。
シャツとセーターを一枚ずつと、
数冊の本と、
ポータブルCDだけが、
僕の持っている物の全てだった。
僕は毎朝図書館へと向かい、
昼には食堂でパンと牛乳を買って食べ、
夕方まで勉強し、
それから週に五日はバイトに行った。
それほど大きくないイタリア料理店のウェイターの仕事だ。
仕事は楽じゃなかったけど、
おかげで何も考えずに眠ることができた。
11月も半ばを過ぎ、
夜空の月も凍り始める頃、
僕のアパートの前に勇魚が所在無げに立っていた。
「(森)勇魚?」
僕は階段を駆け上がり、
勇魚の固く握られた両手を取った。
指は氷のように冷たかった。
「(森)いつからここにるんだ? いつ東京に?」
「(勇魚)あのね、
森君。
わたし、いま耳が聞こえないの。
だから、話しかけないでね」
と、勇魚は不均一なトーンの声で小さく言って、
微かに笑った。
「(勇魚)耳のことは気にしないでね。
わたしたまにこうなるの。
お医者様は精神的なものじゃないかって言うけど」
「(森)精神的なことって、
何?」と、僕は聞き返したが、
勇魚はぼんやり僕を見つめるだけだった。
僕はノートを取り出し、
質問を書いた。
「(森)コーヒー、
飲む?」
「(勇魚)ありがとう。
ミルクいっぱい入れてね」
と、勇魚は言った。
「(勇魚)森君?」と、微かに唇を動かして、
ささやくように勇魚が言った。「(勇魚)私のこと、忘れてなかった?」
僕は、彼女の瞳をのぞき込んでうなずいた。
「(勇魚)嘘。
聞こえなかったよ、森君の声」
僕は勇魚の指に僕の指を絡ませ、
左右に振った。
「(森)忘れるなんてできないよ」
と、僕は言った。
「(森)でも、考えないようにしてた。
勇魚のことも、
それから……」
僕は言いよどんだ。
勇魚は手のひらを頬に当てた。
僕の指が、
勇魚の頬と手のひらの間で優しく暖められた。
勇魚の瞳は大きく澄んでいて、
見る人の心を打つ強い光があった。
不意に、
窓の外を消音器を取り外した幾台かのバイクが通り過ぎた。
僕がその大きな音に思わず顔を窓に向けたのに、
勇魚は身動きもせず僕を見ていた。
「(森)本当に聞こえないの?」
と、僕は言って、
勇魚の耳元で大きく手を鳴らした。
しかし、
勇魚はただまっすぐと僕を見ているだけだった。
「(勇魚)森君の声しか聞きたくない」
と、勇魚は言った。
「(勇魚)それ以外は、何もいらない」
一ヶ月分伸びた前髪が、
パラパラと勇魚の顔の上に落ちた。
僕は黙って、
勇魚を抱きしめた。
何故、
僕は何も持っていないんだろう?
腕の中には勇魚がいて、
その暖かな身体を僕に預けてくれているのに……。
僕は彼女に声を届けることもできない。
「(森)何もいらないから、
離さないでね」
と、勇魚がささやいた。
Copyright (c) 1996 MADARA PROJECT. All rights reserved.
〈第5話
|「夢から、さめない‐ストーリー」のページ|
第7話〉