(注)このシナリオは、著作権者である MADARA PROJECT の許可を得て
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いる箇所があります。ご了承下さい。
第4話 砕け散る月 終焉した世界と欲望の庭
月の光を浴びて三木が草の上を歩いてくるのが見えた。
僕は存在している。それは現実であり、リアルな事実だ。
「文音の兄です」とその男はいった。
「降、あなたはなにをみたの?」
彼はいつものように熊の着ぐるみを着ている。
双つの耳が頭の天辺でひらひらと揺れている。
彼は大きな体を折るようにして公園の片隅にうづくまる僕を見おろして
驚いた声をあげる。
「降?どうしたの?
あんたまるで誰かにめちゃくちゃに殴られたみたいじゃない?」
「殴られたんだよ、めちゃくちゃに」と、僕はいった。
三木は手にした鞄から手際よく包帯や消毒薬を取り出し、
僕の体に巻き付け「子供のくせに」と笑った。
「僕がおかまの熊とはいえ、
一応大学で医師免許をとったのはこんな風に役にたつのね。
あんたみたいにわけがわかんなくて医者嫌いの子供っているからさ。
それで?降は一方的にただ殴られていたってわけ?」
「相手がまずい」と僕は言った。
「相手って?」
「文音の兄貴」と僕はいった。
「文音って、こないだ濡れねずみちゃんになってた、あの子?
あの子のお兄さんと殴り合ったわけ?何故なの、降?」
「彼は僕が記憶をもたないことを知っているんだ」
三木の指の動きが止まった。
「その人は、降のなにをしっているの?どこまで降のことを・・・・」
「わからない・・・・文音の兄は僕が存在しない人間であることをしっていた」
それは僕の最大の秘密であり、同時にそれは僕の傷だった。
僕はその傷に触れないように、
傷の存在に気づかないように現実をやりすごしていたのだ。
しかし突然現れた文音の兄と称する男はその傷をあっさりと切り開いた。
けれど存在を認められた存在であるか、という仮定にたつとき、
僕の存在の根底は揺るぎ始める。
僕の父は満州で少年時代を過ごし、終戦後はソ連によってシベリアに抑留された。
そこで父は記憶に関して特殊な能力があることを発見された。
父は瞬間かいま見ただけのどんな無意味な数字の羅列を記憶できた。
それは現実の生活にはほとんどなにももたらさない。
父は体も弱く、言葉も稚拙で社会的には無能の人であったが
ソビエトの情報部は父の能力に興味を示した。
父はモスクワに迎えられ、父の記憶についての研究班が設けられた。
それは人類がはじめて月に降り立とうとしている季節だった。
中国では文化大革命が始まり、ケネディはまだ若く、
プラハには春が訪れようとしていた。
そして共産主義はスターリンによって(あるいは統一の名のもとに)変容され、
国威を示す花火は犬をのせて月にまで放たれようとしていた。
父にとってその時期は栄光の日々でもあった。
父の非現実的な能力が国家によって迎えられていたのだから。
ソビエトの情報部の連中は
父に30年近くものあいだ無意味な数字を無目的に記憶させ続け、
それに飽くと、その特殊な能力が遺伝するのかを知りたがった。
そして僕が試験管のなかで誕生した。
僕は研究材料として生まれ、育てられた。
そして冷戦が終焉し、ソビエト連邦は崩壊した。
経済効果をもたらさない研究機関は閉鎖された。
少年の体に成長して始めて僕は父と出逢い、そして同時に組織から遺棄された。
僕は戸籍も記憶も名前も持たなかった。
父は日本語をほとんど記憶していなかった。
日本にむかう船にのせられた父は水面に浮かぶ月を指さし、
悲しそうに「降」とだけいった。
それが僕の名前になった。
その男の両手には白いケーキが握られ、
話の間中彼はクリームで指をべたべたにしながらそれを口にしていた。
「文音が大変お世話になりまして」とその男は言う。
彼は僕より10センチほど背が低く、痩せて眼鏡ごしの目は斜視だ。
僕は用心深く頷く。
父が床の上でもがいている。
父は心臓が弱い。
発作だ、と僕は思う。
男は喋り続ける。
僕は男がケーキを貪る口元をみつめる。
男は写真を取り出す。
僕は息をのむ。
そこには文音が・・・・
三木が僕の肩にそっと手を載せる。
僕は俯いて川面に映る月を見つめる。
「降?教えて・・・」
三木の柔らかい毛皮が暖かく僕を包む。
トナカイのひく橇のような衣擦れの音がしゃんしゃんと響いた。
「文音・・・・」
僕は文音の10本の指の記憶を再生させる。
文音の笑顔。
文音のオレンジ。
そこにサブリミナルのように挿入されるあの男の声が響いて離れなかった。
「三木・・・・」僕は僕の咽頭から奇妙な音が痙攣のように噴き出すのを感じた。
「降?あんたなに笑っているの?」
「笑ってなんかいないよ」といいながら
僕は暫く流れ出す奇妙な音の連なりを聴いていた。
「三木、文音はあの男と寝ている」と僕はいった。
「文音は文音の兄と寝てるんだよ、三木・・・」
僕は手にした天使の彫像を川面にたたきつけた。
月が粉々に砕け散った。
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〈第3話
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