Baby Baby‐SCENARIO#2


(注)このシナリオは、著作権者である MADARA PROJECT の許可を得て
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第2話 指が奏でる架空の声 心を癒す熊
    放棄された記憶


太陽の照らさない場所に光が差し込んで、水面のように空気の塵が踊っている。 事故の翌日、問診に訪れた看護婦が僕に名前を訊く。
「名前はない」と僕は短く答える。 看護婦は眉を寄せて名前と住所は、と僕につめよる。 「名前も住むべき場所も僕にはない。僕は記憶を持たない」 それだけ答えて僕は目を閉じる。 暗闇が暖かく僕を包み、僕は眠りに取り込まれてゆく。

夢の淵に文音が立っている。 透明な水の底にガラスの破片が光る。 アリアが流れる。 彼女は手に天使を抱いている。
「終末の天使だよ」甲高い子どもの声がどこからか響く。
「降・・・・」彼女の声が聴こえる。10本の指が奏でる架空の声。
「あたしをムーンパレスに連れていって」

真夜中に目を醒ます。 ベッドサイドに月の形をしたウォーターベースが置かれ、白い花がいけてあった。 僕は文音の真珠の貝殻のような白い耳をイメージする。 文音が瞬間、再生する。 オレンジがそっと置かれている。 「夢の底に記憶はありましたか?」とオレンジには書かれていた。 僕は音の影に祈る。
僕は起きあがり点滴の管を抜く。 両足をそっと床に降ろす。 綿密な闇のなかに痛みが静かに広がってゆく。 僕は目を閉じ、ゆっくりと深呼吸をする。 大丈夫、折れてはいない。 呼吸を整えて心臓の鼓動を抑え、僕は病室をそっと抜け出す。

ドアの真ん中に気圧計がかかっていた。 僕はブザーを鳴らす。 腕時計を見ると午前3時だった。 ドアが内側に開き、三木が眠そうに立っていた。。
「気圧計が下がってる。もうすぐ雨が降るね」
「降?」三木はいつものように熊の着ぐるみを着ている。 耳がひらひらと揺れる。 僕は肩で大きく息をしながら三木の腕に倒れ込む。
「降?ふざけてるの?この包帯はなんなの?」
三木の柔らかな毛並みが僕の頬に触れる。 僕は微笑み、意識が遠のいてゆくのを感じる・・・・・

それから1週間の間僕は三木のベッドで眠り続けた。 三木は仕事の合間になにも訊かずに僕を介抱してくれた。 僕は三木の作った苺入りのゼリーを食べ、アスピリンを飲み、再び眠った。 時折三木も僕と同じベッドで眠った。 大きな熊の手が眠っている僕の頬を優しく撫でた。
「僕はカウンセリング熊だからさ」、と三木は僕の耳元で囁く。 「おかまだけどね」彼は女言葉を喋り、他言語を片手以上操れる。 彼は翻訳を職業にしている。
彼のベッドは母国語でない書物であふれている。

季節はゆっくりと動いていた。 雨が降り続き、朽ちらせた葉を敷き詰めた歩道が水銀のようにぼんやりと光っていた。 週末の早朝、僕は三木のベッドを抜けだし公園に向かう。 天使の彫像が架空の声でアリアを奏でている。
僕の足許にいくつものオレンジがこぼれおちる。 声がきこえる。 音声ではなく、魂の底に響く、天使のアリア。 僕は振り返る。 瞳に雨音と文音が映る。 文音は傘を手から落とし、口元を10本の指で覆っている。 涙が花びらのようにこぼれ落ちる。 名もなき鳥が僕たちの間を通り抜ける。 文音は橋を渡り、僕に向かって駈けてくる。 不確かな、空に墜ちてゆくような足取りで。 その時、僕は確かに文音の声を聴く。 文音は激しく僕の胸に飛び込む。 見おろす僕の目に髪の間からのぞいている真珠の貝殻が映り、 僕は思わずその耳にキスをする。
「あっ・・・・(息をのむ)」、文音は僕を見上げる。 雨が僕達を濡らしてゆく。
濡れネズミのようにびしょぬれになった僕たちを見て、 三木は溜息をつきながら部屋に招き入れてくれる。 三木のいれるコーヒーの香りが僕達を包む。 文音はもう泣いていない。
彼女は10本の指ではずかしそうに頬を抑えている。 三木が差し出したタオルを指差して「熊のお友達がいるの?」と訊ねる。 「夢の底の記憶の森に迷い込んだら、小さな家があってね、 スープをのんでベッドで眠っていたら彼が帰ってきたんだ」、と僕は言った。 文音はくすくすと声をたてないで笑う。
文音の笑顔は光に包まれて、僕の心を打った。
ダメだ、と僕は心の底でつぶやく。
僕は記憶を放棄することで失うことから逃れようとしていた。 イメージはつかのまの再生に過ぎない。 それは失われ、損なわれて、消失してしまう。
けれど僕は文音の笑顔を魂の底に記憶してしまった。 つかのまの瞬間を再生していくことからからもう逃れられない。
文音は色の薄い果実のような瞳を僕に向けていた。 僕は顔を近づけて文音にキスをする。 文音の体が震えている。 三木が大声で笑いながらちぎった紙切れを僕たちの頭上に舞散らす。


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