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あいも変わらず「評論」について語る


清瀬 六朗





屋上、屋を架する


 私は前回の『WWF No.12』ではじめて本格的にWWFのシリーズに論文を載せさせていただいた。思い出しても赤面するほかないような、長いだけで未熟なシロモノだったが、その点はご宥恕いただくとしよう。この『WWF12』には、私を含む3人の論文が合計4本掲載されていた。そして、これらの論文は、偶然にもいずれも「評論」というものを問題としてとりあげていた。

 ここでふたたび私などが「評論」について語ることは、高層ビルの屋上にさらに屋根を重ねるようなものかもしれない。たしかに屋根の上に屋根を重ねるのは屋根の重量が重くなって地震などのときにいかにもよくない結果を招きかねない。けれども屋上に念には念を入れて防水工事を施すことはあながちむだではなかろう。雨水の侵入は住人の迷惑にもなるし、木造の柱が腐ったり、鉄筋が錆びたりしたら、やっぱり地震なんかのときに一大事である。「防災」のシーズンは9月だが地震はいつ襲ってくるかわからない。つねに万全の対策を立てておくべきだ。

 さっそく駄弁に走ってしまった。反省せねば。それにしても、今年(1995年――いうまでもなくこの年の1月に阪神淡路大震災があった)の冬から早春にかけてあれほど喧しかった「防災」についての議論が最近は鎮静化しすぎているんじゃないかと感じるのは私だけだろうか? もちろん、どんな大事なことを扱っている言論にもあるていど「流行」がある。それはそれで当然だ。世の中、だいじなことはいくらでもある。そのすべてにつねに気を配りつづけるのは不可能だと思うし、かりに可能だとしてもそんなことをしていればそれだけで注意を奪われてしまって疲れきってしまい、かえっていざというときに行動できなくなってしまうかも知れぬ。けれども、いくらなんでもこれは忘れっぽすぎるというものではないだろうか―なんて書いてしまうのはやっぱり老人の繰り言というより大新聞の社説の繰り言に類するんだろうか。

 あ、また逸れちゃった。

 ともかく、ここでは、いたずらに屋上屋を重ねるのではなく、防水の万全を期するというような意味で、もういちど「評論」について思うところを書いてみようと思う。





「プログラムソフト」としての「評論」


 プログラムソフト

 へーげる奥田氏は、評論を「プログラムソフト」だと考え、その機能に照らして評価されるべきものだという趣旨のことを書いている。プログラミングにそれほどなじみのない私にはこうした発想は新鮮なものであった。まあ、「新鮮な」ということは「よーわからん」と紙一重でもあるのだけど。

 (註) へーげる奥田氏はここ数号のWWFの刊行物で「評論」をテーマにとりあげて論評を行っている。当ページでは以下のページを参照されたい。ここで念頭に置いているのは「『押井論』によせて 1」である。

 ・押井作品と戦うために (『WWF12』)
 ・『押井論』によせて 1 (『WWF12』)
 ・『押井論』によせて 2 (『WWF14』)
 ・えらそうな人びと (『WWF15』)

 この「プログラムソフトとしての評論」像は、それが公開されて、世間に、あるいは市場に出回ってからの姿をイメージしているように思われる。「プログラムソフト」は、通例、メーカーのショールームに出たり、量販店の店頭に並んだり、あるいはフリーウェアやシェアウェアとしてネットに載ったりするものだ。

 そして、それには、当然、ある程度まで特定されたユーザーの範囲がある。通信をやらない人にとっては通信ソフトは無用の長物だろうし、『赤ずきんチャチャ』を見たこともない人には『まるごと赤ずきんチャチャ』はやっぱり意味のないソフトだろう。ところで『かると赤ずきんチャチャ』はなかなかおすすめのソフトである――もちろんアニメ版『チャチャ』に「かると」な程度に関心のある人にとってはだが。

 まあいい。ともかくそのターゲットとされるユーザーが、そのユーザーにふさわしい適正な使いかたをしたばあいに、どれだけの機能が効率的に発揮できるか、あるいは使い勝手はどうだったか、さらにそのターゲットに照らして価格はどうかということがソフトの評価の基準になる。ここでは「ターゲットとされるユーザー」に即した評価というのが重要だ。プログラミング言語を自在に使いこなせるユーザーをターゲットにリリースするものにばかていねいなヘルプファイルをつけてもうっとうしがられるだけだし、メモリのむだでもある。しかしビギナーを対象にしたソフトにヘルプファイルをつけないとか、ヘルプファイルに基本的な操作についての項目を盛り込まないとかいうのも困ったものだ。また、プロとしてコンピューターを扱う人たちは、少々、値がはってもすぐれたソフトにはカネを惜しまないだろう。だから、ある程度、高価でもいいだろう。しかし、ビギナー相手のソフトがいかに出来がいいからといって、それに高い値段をつけるのは妥当とは思えない。まあ比較の問題ではあるけれど。ちなみに『かると赤ずきんチャチャ』(ウィンドウズ版)は6214円――内容からするとかなりお買い得なのではなかろうか(ここでしか聞けない歌とか入ってるし)。

 奥田論文「評論とは何か」(「『押井論』によせて 1」)で、「評論」のアナロジーとして捉えられている「プログラムソフト」のあり方というのは、ざっと以上のようなものだと捉えてかまわないだろうと思う。

 もっとも、プログラムソフトのなかには、自分で作って自分だけで楽しむようなものもあるだろう。しかし、そういうものは作者の手許ですべての行為が完結しているわけだから他人がとやかくいうものではなく、除外して考えていい。同様に、自分で書いて自分だけで読む「評論」もここの考察からは除外されているということになろう。


 プログラムソフトを評価する視点

 それに対して、『WWF12』所収の拙文(「チャチャその可能性の中心」)の第一節においては、「評論」に対する関心は主としてそれが執筆される段階に向けられていた。プログラムにたとえるならばプログラミングの段階である。

 もっとも、プログラミングのばあい、プログラマーが自分自身のなかにプログラミングへの動機を持っているとはかぎらない。とくに職業としてプログラマーをやっている方たちのばあいには、なかなか自分が「内在的」に求めるプログラミングをやる機会は持てないのではないだろうか。

 それにくらべると「評論」はもっと評論者自身の動機が重視される。書くか書かないか、あるいは何をどう書くかについて、自由意思によって決められる範囲が広いのである。職業として評論家をやっている人たちはじっさいには求められればなかなか断れないものかも知れないけど、それにしても書きたくない主題について無理強いで書かせたりすると憲法上の問題になってしまう。とくに日本の民事執行の考えかたではそうだ。

 だから、まあ、ここでは、職業としてプログラミングをやっている人ではなく、職業外で、たとえば、趣味として、あるいはある種の使命感をもってプログラミングをやっているような人のプログラミングの段階を念頭におけばよいと思う。

 私はプログラミングについては詳しくないが、プログラミングの段階でのプログラムを考えるときの要素と、それが市場に出回ってから評価される要素とは、たがいに密接に関連しあいながらも、それぞれ異なる部分があるのではないだろうか。

 たとえば、プログラマーが「こういうソフトをこういうコンセプトで作りたい」という意思を固めるとする。そのとき、たとえ前作ソフトや既存の他のソフトの評判などを参考にするとしても、最終的にソフトの内容やコンセプトや動作環境などを決定するのはそのプログラマー自身であろう。どんなに特殊な環境でしか作動しないものを作ろうとも、あるいは何のためにこんな機能を果たすものを作ったのかまるでわからないようなものを作ろうとも、それは極端にいえばそのプログラマーの趣味であり、あとはそのマニアックさを共有できるユーザーを捜すしかない。

 しかし、市場に出た段階での評価のされかたは逆だ。

 市場が要求しているのはこういうソフトである、それに照らせばこのソフトにはこれぐらいの評価が与えられる、このソフトですばらしいのは何々の点で、不満足なのは某々の点だから、バージョンアップの時には何々の点をさらに拡充し、某々の点をもうすこしなんとかしてほしい、以上、ってな評価が与えられるわけだ。ここでは市場の要求が最終的なもので、プログラマーの意図は参照されるだけにすぎない。斟酌されることすらないこともしばしばだ。

 ほかにも、プログラマーの側からいえば時間をかけてていねいにバージョンアップしたいけれど市場の側からいえばすばやいバージョンアップがより望ましいとか、プログラマーとしてはプログラムが煩雑になるようなオプションはあんまりつけたくないけど市場はいろんなオプションを要求するとか、いろいろな局面でこうした相克は出て来るにちがいない、うん、たぶんそうなんだと思う(だから具体的にはぜんぜん知らないんだって!だいたいほとんどワープロ専用機になっていたPC-286からウィンドウズ機に切り替えてまだ数か月だぞ)。

 (註) この文章の執筆時(1995年)にはこう書いたのだが、その後、ある機縁からある小さなソフトハウスで仕事をしているプログラマーの方と知り合いになった。ソフトハウスに対するリリース会社の無理解ははなはだしく、よい製品を作らなければならないという良心とリリース会社の課するさまざまな制約とのあいだに板挟みになって、この方は相当に辛い思いをしながら身体を削る思いで仕事をしているという。もちろんすべての会社がそうなのではあるまいけど、プログラマーという仕事も相当に辛いものがあるようだ。

 作者の側に視点をおいて論ずるのか、それとも受け手である市場の側に視点をおいて論ずるのか、あるいは、作成の過程に視点をおくのか作成されて作者の手を離れてからを基準にするのか―そのことを峻別して論ずることが必要なのは評論でも同様だろうと思う。ところがそういう点についての注意はかならずしも十分に払われているとはいえないようだ。


 駄弁――「文系の学問」とメソッド

 だいたい、プログラミングのメソッドというのはある程度まとまっているものと思うが、「文系の学問」の例に洩れず、評論のメソッドというのはほとんどまとめられていないという印象がある。

 幕末になって新たな学問として派生した「理系」の学問は別として、儒教の素読のような伝統を引きずり、その土台の上に移入された「文系の学問」には、どうもメソッドを立てることを嫌う傾向があるようだ。「習うより慣れろ」、「芸は習うのではなく盗むものだ」というやつである。たしかにそれが日本の「文系の学問」の強みを下支えしている部分もあるのだろうな、きっと。また、私はそうした気質に裏打ちされた日本の職人芸ってやつが大好きでもある。

 けれどもまた弊害もあることは認めなければなるまい。伝統的な職人芸のように、徒弟制で弟子がひとり立ちするまで師匠がつきっきりでその仕事を指導しているならともかく、そうでない状態でメソッドなしに何かを成し遂げるのはなかなかむずかしい。成果を上げることを急がされて方法の面がおろそかになってしまう危険も大きいし、だいいち、自分で手探りでメソッドを組み上げる手間があれば、その手間を出来合いのメソッドにそって自分の成果を上げるために使ったほうが効率もいい。効率がいいばかりでなく、そうすることによってさらにメソッドの改良も図れるはずである。

 だが、それよりも弊害が大きいのは、自分で体系的にメソッドを自覚していないために発生する事態であろう。

 たとえばへんな「新しいもの好き」なんかもその弊害のほうの例だと思う。よそから新しい概念が入ってきたとき、それが自分のいま考えていることや自分のいまの「ものの考えかた」にとってどういう意味があるのかを検証するという手続き抜きでそれを受け入れてしまう。そして、生半可な理解のままに、多分の優越感をもってそれを振り回し、そしてその優越感の与えるイヤミな印象だけ――ただそれだけを残して消えていく。これなんか、意味もなく日本人の「新しいもの好き」のせいにされるけれど、じつは、入ってきたものをきちんと検証するという習慣がないことのひとつの現れだと思っている。つまり、正当な意味での「批判」を施すという手続きが、私たちがだれかほかの人(や国・地域)の思想を受け入れるときの「方法」のなかにきちんと位置づけられていないのだ。ま、自戒でもあるんだけど。教訓、付け焼き刃ははげやすい、もとい、慣れないことはするもんじゃない、と、リナ・インバースも言っているとおりだ。わかんない人はCD『スレイヤーズ えとせとらその@』を買ってね、もっとも私がキングの宣伝をする義理はないんだけど。ただし、『チャチャ』ファンの方、このCDにはまじんちゃんは出てないのでそのつもりで(これを執筆した当時はアニメ版『スレイヤーズ』のCDはこれしかなかったのだ)。

 で、なんだ?
 まあ幕末とかスレイヤーズとかはいいんだけど、ともかく「評論」ってものに確立したメソッドはない。それでいて、「評論」そのものは、商業誌から同人誌にいたるまで過剰なほどに―いやはっきりと過剰にあふれかえっている。そのことへのいらだちが『WWF12』の執筆陣(奥田氏・鈴谷氏と私)それぞれにあり、そしてそれぞれが「評論」のあり方に疑問を投げかける文章を並べることになったのだと思う。





「HOW-NOT-TO」としての準則


 HOW-NOT-TO

 「評論についてのメソッドがない」なんて大きく出ておいて恐縮だけど、私にそのメソッドを書く用意があるわけではない。まあそういうのを「大家」に任せていると「大家」ってのはいつまで経ってもそんな仕事はしてくれないものだから、「大家」になってないだれかが書かなきゃいけないのだろうけど、ともかくいまの私はやだ。そういう私が無責任だと思った貴方、ぜひやってください。

 でも、「こうやるべきだ」ってことははっきり決められなくても、「すくなくともこれはやってはいけない」ということはかなりの普遍的妥当性をもっていえる、というようなことはこの世の中にはたくさん存在する。いや、この世の中を動かしている準則の多数はそうした性質のものだといっていい。

 たとえば、「こうすれば絶対の世界平和が実現する」というようなことを確定的かつ具体的に断言できる人物はあまりいない。いるとすれば、一部トンデモ本の作者と一部の宗教家ぐらいなものだろう。でも、たとえば、侵略戦争をやってはいけないとか、国際社会が侵略行為を黙認してはいけないとかいった、「世界平和」という目的に照らして「こういうことをやってはいけない」という準則は、比較的広い範囲の人たちの同意を得られるものと思う。もっとも、それをさらに具体的に現地に適用する段においてはまた意見が区々に分かれようけれど、それはまたべつの問題だ。

 あるいは、こういうふうにやれば自由に幸福に暮らせるという具体的な方法について、だれかが「真理」を発見したと称してそれを唱えたとしても、それが広い範囲の人に受け入れられるのはむずかしいだろう。しかし、「こういうことをやっては自由が侵害される」とか「こういうやり口は幸福追求の権利を侵害する」ということは広い範囲の人たちに対して説得力を持つ。憲法というのはそういうところで働いているものなのだ。モーセの十戒だって、安息日をたいせつにしようというのとお父さんお母さんをたいせつにしようという二つを除けば「××をしてはならない」という禁止規定である。

 まあ憲法やモーセまで行ってしまうことはないんだけど、HOW-TOではなくHOW-NOT-TO―つまり「これはやってはいけない」というかたちで語れるものごとがこの世界にはあんがい多い、とまあそんなところである。


 書くときの論理と読むときの論理

 で、評論についてともかく言える「HOW-NOT-TO」は、何をおいても、作者が書いているときの論理と、それが読者の手に渡る段階の論理とを混同してはならないということだ。

 私は評論とはけっきょく主観的であり個人的なものであり、その評論の作者から、あるいはその作者の体験から切り離しては成立し得ないものであると思っている。くわしいことは『WWF12』に載っている拙文を参照していただければ幸いである。

 ようするに、ある固有の体験や、その体験からくる固有の「思い入れ」を持った個人が、ある作品に遭遇する。その作品はかならずその「思い入れ」とそのままでは整合しないナゾの部分を持っているはずだ。そこで、その個人は、自分の体験や「思い入れ」と食い違いを起こさないように、自分の「思い入れ」を微調整しながらそのナゾを解いていくはずである。それが「解釈」ってやつだ。その「解釈」が完全に遂行された(と自分で判断した)とき、その作品はいわばその人のなかにとりこまれたことになる。その「解釈」の過程をたどるのが評論というものだ―というのが私の信ずるところである。

 だから、くりかえし言えば、評論とはけっきょく主観的であり個人的なものであり、その評論の作者から、あるいはその作者の体験から切り離しては成立し得ないものなのだ。

 ――が、ここでぜひとも押さえておかねばならぬことは、これは「評論を書く」過程に視点をおいたときの論理だということである。

 ここに例のHOW-NOT-TOがきいてくる。評論は主観的であり個人的なものであり……(以下略)――ってなことを書いているときに意識しているのはかまわない。というより意識しておいたほうがいいと思う点だ。書いているときには、読者がオレを規定するんじゃない、オレの書いたものを気に入ったやつが読みゃあいいんだ、という気もちで書けばいい(と思っていま書いてるわけ)。

 しかし、その、「評論は主観的であり個人的なものであり」ってやつを、評論が読者の手に渡ってからの論理として、読者とか、その評論を評する者に対して押しつけるのはルール違反である。そのときには「評論」をめぐる論理がまるで変わってしまっているのだ。

 かりにも市場に出回る論文である。「市場」といわれてもピンと来ないかも知れないが、かりに一般の書店や取次のルートに載らないとしても、ここでは、特定の者が作ったものを不特定多数の者に受け取ってもらうために持っていく場所という意味で「市場」ということばを使っている。まあ打ち明けて言えばこの文章で扱っている問題は「市場」というものをめぐる考察のひとつの応用問題でもあるわけだ。ますますピンと来ないかも知れないけど、コミケだって「コミック・マーケット」つまりは「市場」であることを忘れないでね! ただ、インターネットのそういう意味での「市場」としての性格は、伝統的な市場論とは別に考察すべき面があるように私は思っている。

 そうである以上は、その論文は、すくなくとも市場のなかでその論文を読むであろう人たちにじゅうぶんに了解できるものでなければならない。そのためには、そのターゲットとなる人たちの標準に照らして妥当なレベルの客観性を持つことが最低の条件となるべきはずだ。また、それが多くの人たちに共有されるものである以上は、それが「個人的」であってはいけない。たとえ個人のことを書いているにしても、それが市場で受け手となる人たちに十分に共有できるものでなければならないのだ。それは、市場に出たとたん、読者から、あるいは読者が自分の体験として想像できる範囲から切り離しては成立し得ないものになってしまうのである。読者は著者のことなんかはその文章に書かれた情報を除いてはなんにも知らないはずのものなのだ。

 この、評論を書くときの論理と、評論が市場に出たときの論理とを混同してはならない。

 評論にとって守らなければならないHOW-NOT-TOの重要なひとつがこれだと思う。


 ケーススタディーあるいは愚痴

 にもかかわらず、商業誌の評論から同人誌の評論にいたるまで、この準則をきちんと守っていないものが多いのだ。

 その例については、奥田論文にも出ているし、名指しでヒトを批判するのは、そうするほうがその人のためになると考えられるばあいと、そうしないと重大な弊害があるばあいに限られると思っているから、とくに具体的にはあげない。でも、この文章をここまで読んでこられた辛抱強い方には、商業誌に載ったものでも同人誌に載ったものでもいい、ひとつやふたつ、思い当たる文章があるはずだ。

 「おれはこの作品に接したとき、こういう境遇で、こういうことをやっていた」と、たいてい、読者にはなじみの薄そうな体験や境遇を挙げる。そして、「そういうおれにとってこの作品はハートにびーんと来たんだ」ってなふうにつづく。ま、そこで終わればまだいいんだけど、そこから「でもこの監督は最近こんなものをつくった、これはおれのハートにひびかない、したがって駄作だ」ってな調子でつづいて終わる。けっきょく、その評論作者が、一般社会では一般的ではない体験をしたり志望をもったりしていた――あるいは一般社会でじつに高尚とされる趣味や思想の持ち主だ――、それでいかにも「どうだエラいだろう」って態度だった。概略そんなことだけが読み手の側に残る。

 そうしたもののなかには体験談としておもしろいものもある。だからいちがいにダメだとは言わないけれど、そのおもしろさはもはや評論本来のものではない。作品の評論にはなっていないと言わざるをえない。

 こういうのの亜流に、自分が気に入っている作品について語るのに、無関係な作品を引っぱってきて、それをけなすことで自分の好きな作品のほうを賞揚しているつもりになるという系列がある。その逆もよくある。

 もう何年も会っていないけど、むかし親しかったブリティッシュロックのファンが、「ローリングストーンズは好きだし、ストーンズが評価されることも嬉しいけれど、ビートルズを叩くことでストーンズを持ち上げるような論法は大嫌いだ」と言っていたことがある。かれがどんな気もちか、直接には門外漢の私にはわからない。けれども、アニメーション評論で似たようなパターンで不愉快に感じたことは何度もある。

 もちろん比較するのが悪いわけではない。むしろ、比較が妥当さを失わないならば、やったほうがおもしろいことも多いと思う。また、たとえば、上の例でいえば、ローリングストーンズのファンが、おなじストーンズのファンを対象にして、ビートルズについて批評を試みてみるというようなこともあっていいだろう。そういうのまでよくないことにしようとは私はけっして思わない。

 そうではなくて、単純に片方をけなすために片方を持ち上げるとか、あるいはその逆とかいうのは、正当な比較にすらなっていない、ということを言いたいのである。比較というからには、条件を同じにして、しかもその比較の趣旨からして妥当な対象を選ぶという手続きが必要で、そうでなければその比較はアンフェアなものだ。ところが、たんに「有名な作品だから」というだけで槍玉に挙げる例が目立つ。まあ、むちゃくちゃな条件で比較することが、かえって二つの作品に共通する意外な要素ってやつをあぶり出すこともあろうから、これも一概には否定できない。けれど、それでも、この種の「評論」には、評論としての価値を認めがたいものが多いのは事実だ。

 いやそんなのはじつはましな部類なのである。

 もっとたくさんあって、もっと鼻持ちならないのは、自分の立場・自分の思想・自分の経験……といったものを明らかにもしないで、それでいて客観性だけは装いながら、じつは作品とは何の関係もない自分の基準でもって作品を「あれはだめ、これもだめ、えらいのはオレだけ」という論調で片づけていくような自称(そして出版社称)「評論」ってやつである。

 とくに目立つのは、「映画とはこうでなければならん」と、自分の考えを何の説明もなしに(あるいは自分はそういうのが好きだからという理由だけで)書いて、それでこの映画は駄作だあれも駄作だとやるというパターンだ。まだ「新進」の評論家がこういうのをやるんだったら「ああ若いっていいなあ」とか「お、こいつ元気あるなあ」ですませることもできようけど、それには限らないのが困ったところだ。最近は私も映画評論をぜんぜん読んでいないけれど、もう4−5年もまえ、ある雑誌で私の好きなアニメーション映画についての評を読んでいたら、高名な評論家の方に意外にこのパターンが多かった。不愉快だった。

 この流儀で自分の好きな作品が「評論」されているのを見ると、評論作者のところまで押しかけていってぶん殴ってやりたい衝動にすら駆られる。また多いんだ、こういう連中が。さらに始末の悪いことに、なんだか知らないけどこういう連中のなかには「世界中が自分と同じ思想・同じ感性を持ってとうぜんだ、そうでなければ世の中のほうが狂ってる」というような発想をするやつがじつに多い。いちいち怒っていてはこっちが疲れる。だから、リナ・インバースほど(あるいは高宮リナでもいいがどっちにしても番組は終わってしまった――1996年10月記す)凶暴でもなく元気でもない私としては、ぶん殴るかわりにそいつの名まえを見つけたらその本は買わないことにする。いまはそれでせいいっぱいだ。


 「卑小な評論屋」コンプレックス

 ―なんてひとごとみたいに書いてますけど、自分もじつはこういうの得意なんです、すみません。自分の知識や体験でもって、「これはちがう、あれもちがう、ぎゃはは、これめっちゃくちゃだぁ!」とばさばさと斬り倒していく。その快感は私にも十分にわかる。

 でもね、それは長谷川如是閑(にょぜかん。大正期から戦後にかけて活躍したイギリス自由主義系の評論家――とでもしておくのが妥当かな)がカーライルのことばとして書き留めている「リットル・クリティックス・コムプレックス」(だったっけな)っていうのの現れにすぎないと私は思う。私もよく知らないのだけど(興味のある方は著作集が出ているので調べてください)、イギリスの作家カーライルは、作品にいちいちケチをつけてくる「評論」家どもについてつぎのように評したという。

 評論屋どもは作品にケチをつけるけど、それはけっきょく評論屋が作家のようにちゃんとした作品を書くことができないからだ。そうした「ちゃんとした作品を書ける」「偉大な」作家に対して、自分はそれだけのものがとても書けない、「つまらぬ」人間だという劣等感があるから、それを隠すために作品にくだらぬケチをつけてまわるのだ、と。

 けっきょく、このテの「評論」は、作者から見ればそんな程度のものにしか映らない。というより、このテの「評論」が騙しおおせるのは、その「評論」作者の「エラさ」に酔いしれて自分もおんなじようにエラいつもりになりたい連中―というよりそれで自分もエラいつもりになれるしあわせな人たちだけだ。まあ自分でもそういうのをよく書くからには、くれぐれもそういう「評論」の読者はそういう連中だということを忘れないようにしたいものだ。

 でもやっぱりそういうの書くのは気もちいい。有名な作者だけどけっきょくこんな程度のことしか考えてないんじゃないかということを見つけてみるのはそれはストレス発散にはなる。ましてそれを有名出版社から出版することができればその快感は相当なものなんだろう。だが、そういう快感を感じるかどうかということと、それが評論としてちゃんと成立しているかというのはまったく別問題だということだ。私は、そういうのを、カッコ付き「評論」としては認めるけれど、評論としてちゃんと成立しているとはけっして認めない。

 と、ここまでヒトを叩くことに専心してきたわけだけれど、ここまで書いてしまうと、じゃあ、どういうのがめちゃくちゃでない、妥当な、あるいはすぐれた評論なのか、ということについても書かなければなるまい。私は基準をごまかすことはしていないつもりだからここまで書いたことをたんなるワルクチとして捉えられることには承服できかねるけれど、現状否定的なことばかり羅列してポジティブな要素をすこしも書かないというのはやっぱりあんまりいいことではないだろうから。





評論と「客観性」


 それでは?

 「主観的であり個人的なものであり、その評論の作者から、あるいはその作者の体験から切り離しては成立し得ないもの」が、どうして同時に「客観的であり、共有されうるものでなければならず、読者から、あるいは読者が想像によって追体験しうる範囲から離れてはならないもの」でありうるのか?そんな相反する要請はもともとムリじゃないか―そういう私の論旨への批判はあるものと思う。

 だが私はそんなにむずかしいことを言っているわけではない。主観的で個人的で自分にしかわからないようなことを、受け手にとっては客観的でよくわかるように書けばいいだけのことだ。

 しかしこの返事も読みようによっては同義反復に読めてしまう。もうちょっと展開してみよう。


 「想定される読者」

 私は、評論は読者にとって「客観的でわかりやすい」ものである必要があると書いた。だが「万人にとってわかりやすい」ものを書くべきだと言っているのではない。そんな必要はない。よく難解なものを「難解だ」というだけでヒハンする人がいる。だがそれはむちゃくちゃな議論だと思う。

 非難されるべき「難解」さというのもあるにはある。それは、その内容と対照して不必要にわかりにくい表現やら文章の構成やらが目立つ場合だ。つまり「わざとわかりにくく書いた文章」である。こういうのは私はあんまりいいとは思わない。むろん、そういう文章だって、その「わざとわかりにくく書いた」ところに作者のペダントリーを感じとり、それをたのしむ、ってな鑑賞のしかたはある。作者の側からいっても、多少、そうやって読者のプライドをくすぐり、挑発するというスタイルは有効だと私は思う。でも、それは文章構成上の一種の「遊び」としてやるべきものであって、全篇がそんな調子ではやっぱり評論にはならない。「私は文章のやさしくしてレベルを下げるようなことはしない」などとうそぶく人物に会ったこともあるが、理解を容易にするという意味での「文章をやさしくする」ことと「レベルを下げる」ということは同じではない。むしろ、一部の人にしか理解できない「テクニカルターム」を多用して書かれた「難解」な文章より、同じ内容を「テクニカルターム」を知らない人にも理解できるように配慮して書かれた文章のほうがレベルが高いことすらある。「テクニカルターム」を使うことで自分がよく把握していない概念をわけもわからないまま振り回している例がよくあるからだ。

 ただ、逆にいえば、その評論に必要な「難解」さのレベルというのはやはりあるのだ。

 さきに書いたように、プログラムソフトにはそれがターゲットとしているユーザー層というのがある。そして、そのユーザー層の熟練度や性格に応じてプログラムソフトの機能は評価されるべきものだ。

 同じように、評論だって、「万人」に読まれることを想定して書かれるわけではなく、それが想定している読者というものがある。『赤ずきんチャチャ』について評論を書くのに、『チャチャ』のことをまるで知らない人のために詳細に説明していたりしたらそれだけで話が終わってしまう。しかも、それだけ紹介したところで、やはり『チャチャ』を見たことのない人には、赤土'さんの声がどんなにやっこちゃんの性格づくりに寄与しているかとか、桜井(弘明)さんの演出の話がなんであんなに「『チャチャ』らしくておもしろい」のか、やっぱり理解はできないだろうと思う。作品を見ていないとどうしてもわからない要素はあるものだ。文芸批評には、対象となっている作品を読んでいなくても十分に理解でき、たのしむことができるものも多いが、アニメーション批評ではそれはむずかしいだろう。だから、作品紹介そのものを目的とするようなものでないかぎり、まずは、読者もこの作品を見ているものとして書くのが普通である。

 「想定する読者」の限定はそれだけで終わるわけではない。『チャチャ』について書くのだって、2−3回おきにとびとびに見ている人などもふくめた相手を想定して書くのと、毎回エアチェックしてその話を2−3回は見直す――気に入った話だったら10回でも20回でも見直すという相手を想定して書くのとでは、やはり内容も文章構成もちがってこなければならない。さらに、そのなかでも、声優さんに関心のある人を相手にするか、それともとくに関心のない人を相手にするか、あるいは特定のキャラに思い入れのある人を相手にするかそうでないか、またそのキャラはだれか、『チャチャ』以外のアニメもよく見る人かそうでないか、また見るとしたらどんな作品を見ているのか―そういった要素が評論の文章を決定することもあろう。あるいは、中学生や高校生のファンを念頭において書くのか、それとも大学生ぐらいを相手にするのか、『ヤマト』以来のアニメファンを相手にするのかそれともとくにアニメファンではなかった人を相手にするのかなどという点がかかわってくることもあるかもしれない。

 こういう「分類」の話をすると、よく「ジャンル分けは無意味だ」というようなことを前提なしに言い返してくる人がいる。しかし、それが暴論であることは、きちんとジャンル分けのなされていない大書店で本を買うときの困難さを考えてみればいい。あるいは、民事法も刑事法も行政法も労働法も道路交通法もおかまいなしにひとつの法典にぶちこまれているとしたら、裁判はもちろん、通常の企業活動だってはたしてできるものだろうか? 不必要なジャンル分けというのにはもちろん弊害がある。また拙いジャンル分けというのも弊害が大きい。しかし、どういう目的でジャンルを分けているのかをきちんとふまえて、その限度のなかで適正に行われるジャンル分けは必要なものなのだ。

 書き手の側は、自分がターゲットとする読者層を想定しつつ書き、読者の側は、自分がその評論の読み手として想定されていると判断したものを読む―それが評論の通常のあり方だと思う。もちろん、自分はこの評論のターゲットのなかには含まれていないかもしれないけれど、それを承知で読んでみるということもあるだろう。そうやって自分の興味の範囲を広げていくというのは重要なことだし、そういう読者からのレスポンスが書き手の新たな関心を呼び起こすということもあるかもしれない。だが、そこでは、読者の側は「わからないのは承知」で読んでいるわけだから、書き手の側に「難解だ」とクレームをつける権利はひとまずは放棄していると考えるべきだろう。

 評論は「不特定多数」の読者を想定したものではないのである。多数か少数かはわからないけれど、ある程度まで「特定」された読者を相手にでなければ評論は書けるものではない。むろん、その「特定」の絞りこみがどの程度までのものかは、評論作者の志向により、また発表するメディアの性格などにもよってさまざまだ。新聞記事としての評論のように、かぎりなく「不特定多数」に近い読者層を想定しなければならないものもあるし、逆に一部のマニアにしかわからないものであってもいい。

 ある「特定」された読者を想定しつつ書く―このことが、作者にとっては主観的・個人的であることが要請されるものを、読者にとっては客観的で共有されうるものにするための重要な媒介をなしていると私は思うのである。


 評論を書くという作業

 ここで作者の側に視点をすえて、そのことを論じてみよう。

 自分の固有の体験やら思想やらを持った評論作者が作品に接し、その作品の「わけのわからなさ」を自分がいかに解釈したかを記すのが評論である。ちょっと表現が大仰だけど、さきに書いたように、私は評論とはそういうものだと考えている。

 ここで「わけのわからなさ」というように書いたけれども、それは作品の「むずかしさ」のことではない。設定がわからないとか、そもそも物語の筋がわからないとか、そういう話ではないのである。もちろんそうしたものも含むけれど、それだけではない。「どうしてこんなにおもしろく感じるんだろう」というようなものでもいい。

 その「解釈」の過程ってやつをもうすこし解剖してみよう。

 自分の接した作品が「わけがわからない」としたら、それをどうやれば了解することができるかという作業が必要になる。まあ必要かどうかは知らないけど、「わからないけどいいや」で終わってしまえば評論は生まれないわけだから、すくなくとも、その「わけのわからなさ」が評論につながる例について考えるならばやはり必要だと言っていいだろう。

 作品を何度も見直す、というのもそうした作業のひとつかもしれないけれど(「二度見る必要があるんだ!」)、ただたんに見直していただけで「わけがわかる」ようになるとは限らない。自覚的にせよ、あるいは自覚していないにせよ、その作品を了解するためには自分にどういうものが必要かをさぐることが必要になる。

 たとえば、この作品で描かれているこういう気もちは、そういえば、むかし、自分がこういう状況になったときに感じたことがあったとか、あるいは、そういえば別のあの作品のこういう場面に似ているとか、そういうことを考えて、理解しようとするものだ。自分のなかのどういう体験とか思想とか、あるいは知識とかをもってくれば、作品の「わけのわからなさ」をいくぶんでも理解できるかということを探り、そして、そのなかから有効そうなものを持ってきてその「わけのわからなさ」を解いてみる――そういうことをやるんじゃないだろうか。あるいは、いまの自分ではそれを解釈しきれないと感じたならば、別の作品を見るなり、関係のありそうな本をさがして読むなり、あるいはたんに散歩にでかけて外の空気を吸ってあらためて考えてみるなり、ってこともあるかもしれない。

 ともかく、その段階でやっていることは、いったん「あるがままの自分」を離れて、自分の持っているはずの体験や思想や知識を、作品との関係を意識しながら点検してみるというものである。作品というのはもともと自分の外からやってきたものだけれど、それと自分の関係をさぐるために、自分もいったん自分の体験や思想の外に出て、いわば外からの目でそれをたしかめてみる。そこで自分の体験や思想と作品とをつなぐうまい方法を見つけだしたなら、その体験や思想をふまえて評論を書きはじめるのである。

 そんなこむずかしいことをやっているつもりはない―と反論される評論作者の方もおられるかも知れない。わざわざ外から自分を眺めるようなことをしなくてもちゃんとことばは出てくる、それでいいじゃないか、という方もおられるだろうと思う。また、自分を点検するとか自己批判するとか、会社で働いているわけでもないし、ましてや狂信的な思想運動や宗教をやってるんじゃないんだから願い下げだ、というような感想を持たれた方もあるかもしれない。

 けれども、私の感じているところによれば、評論を書くときには、たとえ自覚していないとしてもそういうことをやっているものだと思う。もっとも、これを読んでいる方のことを何も知らない私が「あなたは無自覚にこういうことをやっているんです」と言っているわけだから、やっぱり思想運動や宗教めいたところ、あるいは精神分析医みたいなところが出てくる。けれども、いちど考えてみてやっぱり信頼できないんだったら、あるいは考えてみる気にもなれないんだったら、それは見解の相違、または立場の相違ってやつだ。私のほうから私の考えを強制することはしない。ただできればちょっと考えてみてください、ということだ。


 作者と読者が共有できる場所

 ともかく、ここに、評論が作者にとって主観的なものであり、読者にとって客観的なものでありうる契機があるのだと私は考えている。

 「いったん自分の外に出て、自分の体験や思想をたしかめなおす」ということは、いったん自分を客観的な立場から眺めてみるということである。そこに、評論作者と読者が共有できる場所があるのだ。言い直せば、評論を書くときに、自分の固有の体験や思想を、いったん客観的な立場に立って、作品との関係で考えなおしてみる、その過程を読者と共有してもらうことこそが評論の役割なのだ。読者の側からすれば、その作者の作業を、いったん客観的な立場に立った評論作者の体験を追体験することでたどりなおしてみる。評論を読むとはそういうことなんだと思う。

 評論にはそれぞれ固有のターゲットがあるというのもそのことと関係がある。作者が、自分の体験や思想を、客観的な立場から作品と関連づける、そのときの「客観的な立場」というのは一義的に決まるわけではない。その作品にはじめて接した者から見た「客観性」のレベルから自分と作品の関わりを見ることもあるだろうし、逆に、その作品や特定のキャラのマニアの立場から見た「客観性」のレベルで見ることもあるだろう。ばあいによっては、背伸びして、自分よりもずっとその作品を知っている人間の「客観性」を基準にして、自分と作品の関わりを見直すことだってあるかもしれない。そのとき、評論作者がどういう「客観性」に立ったかによって、評論がどの層と共有できるかが限定されてくる。その層をこそターゲットとして評論は市場に出されるわけである。

 あるいは、逆に、この層をターゲットにしようと決めて評論を書きはじめるばあいもあるだろう。そのばあいは、自覚的に、自分の体験や思想と作品を結びつけるために立つ「客観性」のレベルを設定することになるわけだ。

 ところで、こういうことを書くと、「客観性」というのはだれから見ても「客観的」であるということだから、「客観性」がいくつも存在するという議論には承服しかねる、「客観的」なものはひとつしかないはずだという感想が出そうだ。もうちょっと具体的にいうと、マニア仲間の「客観性」なんてものはありえない、一般社会でも通用するような「客観性」だけが、唯一、「客観性」とよばれる資格のあるものなのだ、という感想である。

 そういう考えかたをなさるならばそれは自由だ。けれど、そういう方には、ぜひ、貴方が依拠している「客観性」が「一般社会」一般の「客観性」と整合していることを「客観的」に証明していただきたい。自分の持っている「客観性」についての考えかたを、何の手続きもなしに「一般」に押しつけ、それに合わない者を「異常」扱いするなどというのは、ヒトラーのしっぽ以外のやるべきことではない。私はそう思っている。





評論を読むということ


 評論の「享受されかた」

 こう考えると評論を読むほうも漫然と読むわけにはいかないということになりそうだ。作者が自分を客観視して作品との関連を見ようとした、その体験を追体験しなければならないってことだからである。

 まずここで注意しておきたいのは、評論にはいろんな読まれかたがあるということだ。私のばあい、「評論」と称するものに接するのは、多くは、自分がまだ知らない作品がどんなものかを知ろうとするときだ。映画だったら、新聞なり雑誌なりの映画評を見て、おもしろそうだったら見るし、おもしろくなさそうだったら見ない。いわば作品紹介のかわりとして「評論」を読んでいるのである。

 評論がそういうものとして享受されることを否定するつもりはない。だいたい資本主義社会の市場である。どういう商品がどういうふうに享受されるかを作者や第三者が決めることはできない。評論を、作品紹介として読んだり、たんなるひまつぶしで読んだりするのも、それはそれで正当な享受のしかたである。

 ただ、ここでは、そうした享受のしかたでなく、評論を評論として読むときのことを念頭において書きたいと思う。まあアニメ評論ではそういう読まれかた自体はめったにされないと思うし、それはそれで問題は問題だ。あるいは、アニメやマンガの「物語」と同様にただ「消費」され尽くすのがアニメ評論の正しいあり方なのかも知れない。けれども私はそこまで悟りきってはいない。文学に関心のある読者が文学評論に接するのと同じように、アニメ評論もまたアニメファンに接してもらえるもの―そういうアニメファンがいるものと信じている。そしてその前提でこれを書いている。


 読者にとって作者とは?

 さて、書く側から言えば、自分を客観的に見て自分と作品の関わりをさぐり、それを文章にすればいい。ところが読む側はその書く側の作業を追体験してどうなるのか?評論作者は他人である。読む側としてみれば、その作品と他人の関わりなんか知ったってしようがないではないか。――そういう批判があるだろう。

 いちおうそのとおりである。「自分の体験押しつけ」型の「評論」がくだらないのは、作者があからさまに自分の体験を読者に押しつけてくるからだ。

 私が言いたいのはそういうことではない。だいいち、「自分の体験押しつけ」型の「評論」は、自分を客観視して作品とのかかわりをさぐるという態度で書かれたものとはいえない。

 読者は、ある評論を読むとき、そこで主題とされている作品に接して、その作品への興味からそれを読みはじめるものであろう。ところが、読者の関心にはかかわりなく、そこには「作者」というやつが闖入してくる。べつに読者はその「作者」について何を知りたいわけでもなかったとしてもである。では、いったいこの「作者」というのを読者はどう片づければいいのだろうか?

 もっとも、実際には、評論作者のほうに関心があって、こいつの評論だからあんまり興味のない主題について書かれたものだけど読んでみようか、というようなこともある。そうでなくても、私などのばあい、「トンデモ評論」をつかませられないためにも、普通は作者についても一定の関心を払って評論を選んでいる。それでもときどきハズレの「トンデモ評論」をつかまされてしまうのだけど。

 だからここに書いたような想定はどちらかというと理念型に近い。けれども、評論作者に関心がある場合や、評論作者を選んでから読む場合にも、ここで考えることは妥当すると思うので、ここではそうした理念型に近いばあいのことを考えてみよう。

 読者が評論を読むのはどういう動機によるものだろうか?

 ある作品に接して、その作品のことをもっと知りたい、とか、この作品のこういうところをどう考えればいいんだろう、とか、ばあいによっては「なんか見たあと感じわるいんだけど、それはなんでだろう」とか、そういう疑問への回答を求めてだと言っていいと思う。つまり、作者が評論を書くことを喚起されたのと同じ種類の「わけのわからなさ」を作品に感じているからこそ、読者は評論に向かうのである。

 なお、私は「同じ種類の」と言っているのであって、「まったく同じ」と言っているのではない。たぶん、作者が評論を書くときに作品について感じている「わけのわからなさ」と、読者が評論を手にするときに感じている「わけのわからなさ」とが一致するのは稀なことだろう。むしろ共通しているのは「わけのわからなさ」という種類の感じかただけだと考えたほうがいいかもしれない。だがそれでいいのだ。ここでの私の言いたいことのポイントは、読者が評論に向かうのも、そうした「わけのわからなさ」が動機だ、という点である。

 ところが、作者のばあいとちがって、読者は評論を読むにあたって、もうひとつの「わけのわからない」ものにぶち当たらなければならない。いうまでもなく作者である。そして、その「わけのわからない」作者が、自分にとっても「わけのわからない」ものを含んでいる作品との関わりを懸命に探っている記録を読まされることになるわけだ。

 これでは「わけのわからない」だらけで評論なんか読んでも何の役にも立たない―というような感想をお持ちかもしれない。けれどもそうではないのだ。「わけのわからない」作者と「わけのわからない」作品のあいだに、作者によってどういう「関係」が見出されているか――そのことは読者には伝わってくるはずだからである。

 そして、それでいいのだ。作者がどういう人であるかわかる必要はない。作者が見出した作品との関係というものを、読者が自分の作品への関わりかたを探るための手がかりとするならば、その評論は読者にとって十分に意味のあったものだと言えるのである。

 つまり、ここでは、作者がどういう人かということではなく、作者の作品への関わりかたを知ることが重要なのだ。そして、こんどはその作者の占めていた位置に自分をいわば「代入」してみて、自分と作品のばあいでその関わりかたが成り立つかどうかを検証してみる。もちろんそのまま成り立つということはあまりないだろうと思う。それは、作者と読者とで、それぞれに固有なもの、つまり体験とか思想とか知識とかいったものがちがっているからには当然のことだ。しかし、そうやって作者の作品に対する関わりかたを自分で検証してみることを通じて、「それだったらこういうふうに考えたほうがいいのではないか」という、読者自身の作品への関わりかたを発見することができる。これも無自覚かもしれないけれど、評論を読んでいるときにはだれでも多かれ少なかれそういう作業をしているものだ。

 もちろんこの「関係」は一方的なものではないから、「あ、この作品でこんなことを考えるなんておもしろい人」という興味を作者について抱くこともあるかもしれない。評論を読んで、作品より作者に興味を感ずるのはこういうばあいだと思う。作品に対する評論は、また作者自身に対する評論となり得るのだ。こんなところが評論を読むことの楽しみのひとつだと私は思っている。ただし、作者自身に対する評論としてきちんと成立し、読んでもおもしろいものは、そうたくさん転がっているわけではないけれど。





おわりに


 『WWF12』に載っている奥田氏の文章と拙文では、表面的には反対のことを言っているように感じられたので、その点についてちょっと釈明しておく必要があろうと思って書き出したのがこの文章である。私の文章が、いわば主観的な思い入れを深めることこそが評論にとって重要だという点を強調したものだったのに対して、奥田氏の文章は評論にとっての客観性の重要性に強調点を置いたものだったからだ。両者ともソクラテスの産婆術に言及しているところもなんとも妙な一致だった。ちなみに私は『WWF12』の原稿執筆時点では奥田氏とは一面識もなく、これはまったくもって偶然の一致である。

 この文章は、「チャチャその可能性の中心」でいちど論じたつもりの「弁証法」というものをどう理解すればいいかということをつねに念頭に置いて書いたものである。

 「チャチャその可能性の中心」は、タイトルが柄谷行人の『マルクスその可能性の中心』のパロディーになっている(冒頭としめくくりの文もそうなっているはずである)ことからわかるように、もともと柄谷行人の「ものまね」を『赤ずきんチャチャ』を素材にやってみたらどうなるかという「お遊び」の文章だった。その続編となるこの文章で「市場」がテーマになっているのもその影響なのである。

 マルクスは資本主義の崩壊を予言したのに実際に崩壊したのはマルクスを「教祖」とする社会主義のほうだった。だからマルクスはまちがっている!――などという見かたはまちがってはいないにしても皮相な見かたであると私は思う。もろちん「マルクス主義」は無謬の理論などではなく、政治的に失敗した部分も多い理論である。だが、そのまえに、マルクスの『資本論』は、ほかでもない資本主義社会を考察の対象にしたものであるということを思い起こす必要がある。その資本主義社会に対する考察から出てきた「マルクス流」社会主義の理論に誤りがあったからといって、その前提となった資本主義社会の考察に同種の誤りがあると即断することはできない。もちろんそれはマルクスの『資本論』はいまでも正しいんだよあははははという無批判な態度をとれということではない。また、たんに、マルクスが「私はマルクス主義者ではない」というようなことを言ったことをもって、マルクスを社会主義体制の崩壊から救出できたと心を慰めるというような態度とも無縁でいなければならないと私は思う。

 むしろ「マルクス主義」の崩壊はあらためて「市場」というものの魔性を浮かび上がらせたように思う。「市場」とは残酷なものだ。作り手がどんなに思い入れをもって作ったものでも、買い手がそれに価値がないと思ってしまえば、それはまさに二束三文で取引されざるをえない。そういう商品が「市場」に出回っていたことすらだれの記憶にも残らないかも知れない。ぎゃくに、消費者をナメきった作者がどんなに手を抜いて作ったものでも、消費者がそれに群がればそれはヒット商品になり、作者には多大な収入が転がりこむ。もちろんそれを模倣した作品もつぎつぎに登場し、作者はそうした商品の創始者としての栄誉をほしいままにする。

 わからない人でアニメファンの人は上の文の「商品」というところに「アニメ作品」とか「番組」とかいうことばを入れ替えて読んでみてほしい。思い当たることの一つや二つは……ないかな?

 ないとしたら貴方は幸せなアニメファンである(貴方がアニメファンだとすれば)。

 それでも私たちはその「市場」が支配する――支配というのが言い過ぎなら優越するとでも言い直すか――社会のなかで生きていかなければならない。アニメファンは「市場」原理のもとでスポンサーや代理店の商売道具として位置づけられて放映されるアニメ番組を見て喜んだり涙を流したりしなければいけないのである。

 「弁証法なんて「正・反・合」と覚えておけばそれでいいんだよ」と学生に言った有名な大学の先生がいるという話を聞いたことがある。このエピソードはかなり潤色されているように感じる。だが、弁証法的過程とはいったい何なのだろうか? 「「正・反・合」と覚えておけばそれでいいんだよ」以上にそれを考えて人に弁証法の話をしている人がどれほどいるだろうか? 私は、「市場」というものをあいだにはさんだときに、「弁証法」つまり「対話による方法」がどういう性格を見せるものなのかを考えてみたかった。

 まあ弁証法なんか理解できなくても日常生活にはちっとも差し障りがないのだからそれでいいようなものである。それに、弁証法についていくら真剣に考えたって、スポンサーはアニメ番組を自分の会社が利益を上げるための宣伝だと位置づけることをやめないだろう。小規模ソフトハウスのプログラマーはリリース会社の都合にこれからも振り回されつづけるのかも知れない。そして、良心的な作者は、どこかで妥協しなければならないにしてもギリギリまで自分の考える「良いもの」を世に――すなわち「市場」に送りだそうと身を粉にしてがんばりつづけるのである。非良心的な作者がどうしているのかよく知らないけど――でも非良心的な作者ってのも「市場」社会では不可欠の要素だよなぁ。

 ともかくこの文章についてのネタばらしはそんなところである。

 もうひとつ情報を追加しておこう。

 この文章を書いたとき、私はNIFTY-ServeのIDを取得したところであった。それまでもYOMINETには加入しており、フォーラムにもいくつかアーティクルを書いたことはあったが、まだまだコンピューターネットワークというものを視野に含めて論じるなんてことはできていなかった。「ホームページ? なにそれ?」というような状況で、「インターネットなんてやめようよ、かったるいし」などというようなことを口にしていた時期である。『WWF15』掲載分からは私はインターネットをはじめとするコンピューターネットワークを考察の対象としている。その点も留意して読んでいただければ幸いである。

 この文章は『WWF14』(として刊行された号)に寄稿するために1995年の夏に書かれたものに手を加えた。『WWF14』は1995年冬に刊行されたが、私は『WWF13』にかかりきりであったため修正している余裕がなく、執筆時からほとんど修正を加えないものが『WWF14』には載っている。

 論旨を大きく変更した部分はない。ただし、この「おわりに」だけは全面的に書き直している。





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