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§押井作品と戦うために


『御先祖様万々歳!』の知的地平




へーげる奥田







解釈学という思考法

 われわれがある作品について考えるとき、しばしば犯す過ちがある。それは、作品をひとつのデータ、ないしはプログラムのようなものとしてとらえてしまうという誤謬である。作品鑑賞という行為は、データのインプットやプログラムのインストールのような作業とは性格を異にする。このことは、意外と理解されていない事実である。

 いくつかの評論や解説は、ある目的をもった作者が、その目的に基づいたプログラムとして作品をつくり、また、作者の意図を伝達するためのデータとして作品を送り出すという前提をもって語られている。こうした種類の文章はしたがって、作品のなかに込められている「作者の意図」を解読するといったスタイルをとることが多い。われわれはかつて学校において、「作者は何を言いたいか」を問われ続けてきた。これはそこにおいて培われた思考習慣の影響なのかもしれない。だが、この思考態度はつねに正しいとはかぎらない。

 作品の鑑賞という行為が単なるデータのインプットと異なるのは、そこに「解釈」という遂行運動がかかわるという点にある。

 われわれは、世界の中に生き、また同時に世界を持って生きている。われわれは世界の中で、さまざまな他の世界と出会う。作品の鑑賞は、ひとつの世界との出会い──邂逅接触にほかならない。それは、作者の世界解釈に基づく真理要求と、鑑賞者の真理要求との地平融合という「できごと」としてあらわれる。したがってそれは、たとえ同じ作品の鑑賞であっても、いつも同じものとしてわれわれの目の前に展開するとは限らない。

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 この文章の目的はこの「できごと」への立ち会いであって、たんなる作品の「謎解き」や「解読」ではない。それはむしろ鑑賞者の知的地平に対するはたらきかけである。鑑賞者の世界解釈の深化は、作品との邂逅という「できごと」を変貌させる。たしかに、われわれにとって押井監督の「意図」を見抜くこと、その隠された暗号を解くことは、大きな魅力を感じさせる目的である。だが、それはあくまで鑑賞者としてのわれわれ一人ひとりに課せられた目的であって、ただこの文章にのみ帰せられるべきものではない。押井守という謎と戦うのは、あくまでもあなた自身なのである。


哲学的思索の契機としての押井作品

 押井作品はわれわれに、時として強い知的興奮を与えてくれる。それはしばしば、哲学的な体験ですらある。われわれの心を通常支配している日常の思考に異化効果をもたらしてくれるような作品はほかにも数多くあるが、押井作品にはなにか異なった魅力がある。

 われわれの精神は、いつもフル回転している訳ではない。ごくふつうの日常の生活を営んでいるとき、われわれはいつも人生や、世界の意味や、存在についての思索をしているとは限らない。いやむしろ、現代ではそういった思索はどちらかといえば流行からはずれた行為であり、根源的な思惟に心をくだくという愉しみを、われわれはごく限られた機会にしか味わうことができない。そしてすくなくとも押井作品は、その重要な契機となっている。

 日常の思考の単純なループから、われわれの思惟を別のロジックへといざなう力を、押井作品は持っている。たんなる異化効果を超えて、もっとも根源的な問いをわれわれの前に開示する押井作品の効果は、けっして偶然によるものではない。それは歴史上のいくたの賢哲の語るいくつもの哲学思想に通底する部分をもち、その深い真理要求がわれわれの知の地平に融けあうときにもたらす根源的な感覚なのである。押井監督は、そういう方法を(それはどちらかといえば、興業的成功を確約する方法ではないかもしれないが)とってきた。

 とはいえ、押井監督が作品のなかにどのような思想を込めたのかを明らかにすることは、ここでの目的ではない。われわれはただ作品の世界と邂逅するべきであって、作者の意図などといった二次的な要素はむしろ背後に後退させられるべき問題である。この文章の目的は、言ってみれば作品世界の語られる「地平」を、かつて幾多の先哲によって語られた「地平」になぞらえ、鑑賞者の世界観の深化に力を貸す作業にすぎない。それによって作品との邂逅をより深遠なものにする責務は、ただ鑑賞者にのみかかっている。

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 押井監督の作品の背後には、たしかになにか高度な思索の存在を感じることがある。押井監督が一部のファンに注目を集めたのは『うる星やつら』のシリーズであるが、この時期の作品にはしばしばある種の哲学など学術的領域の雰囲気を感じとった方も多いだろう。たとえば、ハイデッガーの『存在と時間』を記憶している鑑賞者が、これと『ビューティフル・ドリーマー』や『とどのつまり』の方法との間に大きな共通項をみとめることはさほど困難なことではあるまい。このことが単なるドグマでないことを論証することは当論の目的ではないし、またわれわれは今そのいとまを持たない。だが少なくとも、誤解を防ぐために付言すれば、それはあくまで「共通の地平」ないしは「方法」をとった作品という意味であり、安易に「知的影響」といった判断をしている訳ではない。これはたとえば、ミヒャエル・エンデの『モモ』が、やはりハイデッガーの思想に大きく通じる部分をもつものでありながら、けっしてそのエピゴーネンであるなどと理解するべきでないことと事情を同じくする。

 ただともかく、ここで忘れてはならない重要な点がある。それは、こうした作品や著作に展開する「世界」や「存在」や「現象」の思考、哲学的な諸問題を、たとえおぼろげな形であれ、われわれもまたかつて幾度か心に思い、自己の精神の宇宙に内在する謎として考えた経験があるという事実である。押井作品は、この記憶を呼び覚ます。この共通体験こそが、押井作品を単なる虚構から超越させ、われわれの「私の世界」と強烈な融合をもたらす現実的通路となっている。


ふたつの方法

 われわれはつい、「作家」に特定のアイデンティティを固定してとらえがちだが、かならずしもそれは一定不変のものとはかぎらない。

「──おそらく、わたし同様に、一人ならず、顔をもたぬために書いているはずである。わたしが何者であるかおたずねなさるな、わたしに同一の状態にとどまるようにおっしゃるな。同一であることは戸籍の道徳であり、この道徳がわれわれの身分証明書を支配している。書くことが問題なときには、われわれはそれから自由になって然るべきであろう──」

 ミッシェル・フーコーは『知の考古学』においてこう述べているが、これは押井監督についてもあてはまる知的スタンスである。われわれは作品に対し、やや紳士的に、唯名論的な位置を保つべきかもしれない。

 押井作品に接するときわれわれは、すくなくともなにか漠然とした高度な思考を感じる。だが、ひとくちに「高度な思考」といっても、さまざまな問題意識がある。押井作品の場合も、それを単純な一元論で片付けるには若干の困難さがつきまとう。

 『うる星やつら』において、押井作品を他からはっきりときわだたせた要素は主に、内省的な世界と客観的世界との関係を論じた問題意識であった。現実的、客観的な世界の実在に対する懐疑という形をとったその方法は、現象学や実存哲学などの知的領域にたいへん近い雰囲気をもっている。この作品傾向はたしかにその後も押井作品のひとつの特徴となったし、その傾向が『天使のたまご』を頂点として展開したという見方は、それほど的外れな指摘ではあるまい。

 こうした「作品性」のため、一時は押井監督の作品を語るとき、「現実と夢」とか「不条理」などといったおきまりのフレーズばかりがその枕詞に添えられるという状況がしばしば見られた。しかし、われわれは今この愚をくりかえすべきではない。じっさい、押井作品には、『ビューティフル・ドリーマー』を名作たらしめたもうひとつの重要な要素、われわれを無意識の驚異へと導いた知的方法が潜在していた。そしてそれは、次第に強力に、押井作品を特徴づけていったのである。

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 押井作品の世界には、ふたつの異なったまなざしが交錯する。そのうちのひとつ──世界の実在に対する懐疑や、人間の内省的・精神世界に展開するといった様相を特に強くもつ部分は、多く「鳥」のモチーフをもって描かれている。

 今われわれを取り巻く世界を、文字どおり「鳥瞰」するまなざしは、世界従属的な世界内存在としての視点を超越し、世界超越的認識へと飛翔する。それはまた、ノアの方舟より放たれた「破滅の終焉を意味する記号」でもあり、「運命」や「世界解釈」や「希望」といったもろもろの意味を呼び出してゆく。

 押井作品の比較的表層にあらわれるこの「鳥」の観念は、きわめて意識的であり、示唆的であり、啓示的である。だが一方で押井作品の世界観を措定しつづけたのは、さらに無意識的、暗示的、深層的なもうひとつの要素であった。

 世界を支配するシステムへの思考、世界の中にあって自己のいるべき場を求めてさまよう者たちのまなざし。そのファウスト的彷徨の果てに、目的地を持たぬ自己の姿に気づいた彼らの遁走劇。

 「意味」の座を支配する要素──「鳥」のまなざしに対してそれは、「犬」のまなざしとでもいうべきもの──構造主義的な方法だった。


構造主義という知

 「彼は肉食猛禽の爪の牽縮性のように美しい……ミシンと洋傘との手術台のうえの不意の出逢いのように美しい!」

 これはロートレアモンの『マルドロールの歌』第6の歌の一節である。シュールレアリズムの精神状態を象徴する例として、マックス・エルンストらシュールレアリストによるたびかさなる称賛と喧伝を受け、やや陳腐化のきらいがあるテクストであるが、これに対するひとつの分析がある。

 「手術台」という語の示唆する解剖・解体という概念から、その中に隠される「ひそかな意味作用」にアプローチすると、ある法則性が表層化する。それは、「ミシン」と「洋傘」というふたつの要素に内在する規則的な対立の連続という構造である。すなわち、ミシンは布を「貫く」ためのものであり、一方傘は雨が「貫き通せない」ようになっている。そもそも金属製のミシンは「硬く」硬質であり、布に対して「能動的」な働きをするが、布製の傘は「やわらかく」弾力性があり、雨に対して「受動的」なものである。ミシンの「鋭くて攻撃的な」針は「角ばった」本体の下端に「下向き」についているが、傘の鈍い先端は、「丸い」ドームの中央に「のっている」。このように両者は、その潜在的な意味において連続的な二項対立の関係を構成する。

 この分析を行ったのは、文化人類学者レヴィ=ストロースである。レヴィ=ストロースは、ソシュールらの言語学の方法を文化人類学の分野に適用し、構造主義という思考法を提唱した。言語学では特に二項対立のモデルを重視するが、この章句において両者の二項対立は無意識的下部構造を形成し、その鑑賞者はそれと知ることなく、無意識の驚異へと導かれてゆくのである。

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 レヴィ=ストロースが構造主義の説明として挙げる例のひとつに、「料理の三角形」という概念がある。「料理」とは、「言語」や「婚姻」とともに人間の文化の中で普遍的な位置をしめるものであり、その構造分析は近代形而上学の深層に潜む「構造」という知の形式の本質に関与してくるものであるという。

 「料理の三角形」は、「生のもの」「火にかけたもの」「腐ったもの」の三頂点からなる。「生のもの」はいわば起点であり、これに火という「文化的」な変形が加わると「火にかけたもの」となり、「自然的」な変形が加われば「腐ったもの」へと変化する。この三角形の中には、いくつかの「キー」に対応する複雑な構造が潜在するが、特に「水」という概念から分析を進めれば、「火にかけたもの」と「生のもの」の間に「焼いたもの」が、「火にかけたもの」と「腐ったもの」の間には「煮たもの」が対立する。そしてレヴィ=ストロースによれば、この対立のなかには、社会学、経済学、心理学や歴史、審美的、宗教的要因など、社会に内在するさまざまな無意識的構造の翻訳システムが反映するという。

 たとえば「煮たもの」には定住生活のイメージがあり、逆に「焼いたもの」は野外の放浪生活のイメージをもつ。また「煮たもの」は女性と不可分な関係にあり、家族などの親密な小集団の間で食されるため、そこには節約的、家庭的、庶民的、内向的な意味が内在している。反面、「焼いたもの」のもつ荒々しい性格は男性をあらわし、また浪費的、反家庭的、貴族的、外向的といった意味を内在させる。このように、「煮たもの」と「焼いたもの」の対立構造の無意識的背景には、女性と男性、家庭と社会、文化的生活と放浪生活、節約と浪費、俗と貴、生と死などの対立概念が重なっていると、レヴィ=ストロースはいう。

 作品『御先祖様万々歳!』は、その内部に多くの「暗号」を含む。数々の二項対立によってなる構造主義的示唆、いくつかの興味深い暗示、演劇という形式のもたらす異化効果など、どれも重要な要素であろう。この「煮たもの」─「焼いたもの」の対立が「ナベ物」─「焼きトウモロコシ」という形で再現されていることをはじめ、『御先祖様万々歳!』には多くの構造論的二項対立を見いだすことができる。そしてまたそれ以前に、この作品において展開される「家族」のスラップスティック自体、レヴィ=ストロースがラドクリフ=ブラウンの家族構造論に異論を展開した「母方の伯父の命題」のアナグラムとすら受け取れるのである。


押井作品の知的冒険

 ただしここで注意しなければならないのは、押井作品にとってこういった諸概念──「家族構造論」や「構造主義」といった抽象概念は決して作品に隠蔽された「暗号の答え」といったものではなく、いわばそれはあくまで「契機」にすぎないという点である。

 レヴィ=ストロースの提唱以来、この構造主義という思考方法があらゆる知的領域に絶大な影響を及ぼしたことはここであえて言うまでもないが、構造主義提唱の契機となった問題領域が、「近親相姦の禁止」という基本原理によって成立する「親族の構造論」であったことは、重要な示唆を含んでいる。実体的存在ではなく、相対的な「関係」という規約によってのみ意味をもつ「家族」という概念を取り扱ったこの『御先祖様万々歳!』は、無意識的・潜在的なレベルに展開する知、「構造」の知への知的回路をひらく論理的通路としての意味を強烈に象徴する。そして虚構である家庭劇に世界性を与える基盤となっていた「家族」の崩壊は、思考の絶対的座標軸を失い、思考経済学的な規約主義──コンベンショナリズムに頼らざるを得ない現代という時代の虚無性を、サディスティックに表現している。

 ここにおいて「家族」という概念は、たんなる家庭劇の場という意味を超え、「構造」という知そのもの、さらには近代的思惟を可能ならしめる形而上学という思考形式そのもののひとつのメタファーとして意味を持ってきはしないだろうか。  そして押井守の真理要求は、記述作品の根幹を規定する「物語」という知の形式自体へと言及してゆく。人がなにゆえ「物語」を必要とするのか、またなにゆえ他者によって語られる「虚構」を好んで受け入れようとするのか。演劇論のH・グイエはこれを「善意」という概念で説明したが、『御先祖様万々歳!』において押井守が提出したのは、まさに「悪意」の概念であった。

 「虚構」の、みずからの構造自体の虚構性への言及、「この命題は偽である」というパラドックス……このモチーフは、「思考」という営為が形式的にもつ限界を、ひそかに浮かべた嗜虐的な笑みとともにわれわれの眼前に暴露する。それはある意味で、犯罪的行為──あたかも、オペレーティング・システムの性能の限界につけこんでウイルスをばらまくハッカーのような──にも似た作業ですらあった。

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 以上の議論はしかし、たんなるひとつの示唆にすぎない。押井作品の世界との邂逅は、あくまでその鑑賞者のものである。あらゆる他者の言説は、その目をもって作品の世界に遊ぶ鑑賞者の前に、つつしみぶかく口を閉ざすべきなのかもしれない。

 ──お月様のなかにはうさぎがいるの?

 そう言って見上げる子供の問いにわれわれが提示しうる最高の真理とは、はたしてどのような知の形式をとるのだろうか。三十八万キロ彼方の虚空に浮かぶ死の天体に関する物理学の知識、またその斑紋が人間の認識野に映ずる際の心理学・精神分析学上の研究成果、あるいはその天体にまつわる神話や伝承の民族学的な諸学説の提示……これらの知は、ある実践的営為の前に沈黙せざるを得ないであろう。

 ──ほんとうにいるか、今晩一緒に見てみよう──

 幼い質問者の手を引き、ともに夜空を仰ぐというこの解答こそ、ほんとうの真理との邂逅の瞬間と言えるのかもしれない。






(この項終わり)




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