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§押井論によせて 2


■はじめに■

 この文章は、当初『押井論によせて』と題し、WWFNo.8から11まで書きつづった文章をめぐって思うところを書くつもりであった。しかし最近、こうした「評論」をとりまく状況がいくぶん変わってきた。

 かつて、WWFがその活動を始めた1980年代の前半、一介のアマチュアが不特定多数の読者に対して意見を発する手段は事実上ほとんどなかった。当時、商業誌への投稿を一歩前進させ、読者投稿による紙面構成を売りにした商業雑誌が輩出していたが、あくまでそれは編集部主体のものであり、アマチュアが自由に意見を発信するという形態にはほど遠かった。

 そんな中で、ほとんど唯一の手段が、ミニコミ誌や同人誌、ミニコミ新聞などの印刷媒体の発行であった。とはいえ、現在のように同人誌活動がパッケージ化されていない時代のことである。ワープロなど一般には普及していない。セミプロの大手有名グループなどは、和文タイプライターで版下を作成していた。アマチュアではなんとまだ手書きコピー誌が主流の時代であった。WWFが誕生したのは、そんな時代である。

 いま、情報発信の方法にはいろいろな選択肢がある。同人誌活動には印刷所の設定した安価で手軽なパッケージが用意され、またパソコン通信、インターネットのWWWなど、コンピュータを手段とした方法の充実は飛躍的なものがある。特にコミック・マーケットなどを見ていても、意見交換や情報発信の主流はむしろコンピュータによるものが主流になっているように思える。

 じっさい、パソコン通信の会議室機能を使った情報交換機能によって、かつての同人誌にのみ依存していたアマチュア同士の意見交換、作品評などは、ほとんど代替されたと言ってよいだろう。パソコンを買い、ニフティ・サーブのIDをとれば、誰でも何千人もの前に意見を掲げることができる。同人誌など印刷媒体のもつ相対的な意義は確実に低下した。それほど長くない批評、作品に対する感想文、タイムリーな書評や新刊紹介などは、パソコン通信に圧倒的な分がある。いまや同人誌のような印刷媒体のあり方、その存在意義というものを問いなおす時期が来ていることを認めない訳にはいかないだろう。

 「評論」などのように、読み込み作業に時間のかかるものは、パソコン通信などの電子媒体ではややサポートしにくいものである。長時間かけて考えながら読む必要のある評論や小説などに関しては、まだ紙ベースの媒体の方が若干快適である。このあたりには、印刷物としての同人誌の存在意義がまだ多分に残っているのかもしれない。

 コミック・マーケットでは、「評論系」などといったジャンルができて久しい。しかし、現在のコミック・マーケットの同人誌の世界に本格的な「評論」はいまだ少なく、意義あるものはさらに少ない(SF大会あたりには本格的な評論誌が多いが)。いままで「評論」のあり方を考えてきたが、この機会にひとつ思いつくまま、若干の悪意をもって、あれこれと述べてみたいと思う。


2,迷宮

ダンジョンを作ると、やがてはモンスターが棲みつくものだ

                   ブリック・ロード


ソフトウェア

 ある目的を持って人為的に作られた、複製の可能な、情報の操作を行う機能をもった一連の命令群を「ソフトウェア」と呼ぶことにしよう。たとえば絵画は「鑑賞者の心に何らかの変化をもたらす」という「情報の操作」を本来的な目的として画家によって作成されたという点においてソフトウェアである。それは不完全ながら(ソフトウェアの意味において)複製が可能だ。カントの『純粋理性批判』も、星新一のショートショートも、ソフトウェアという点においては同じ性質のものである。芸術作品も、それに対する評論も、ソフトウェアという観点において言えばやはり同じ性質のものと言える。

 ソフトウェアには、「構造」と「機能」というそれぞれの側面がある。たとえばコンピュータのプログラムを作成する場合、「構造」は重要な意味をもつ。「構造」を重視しないで作成されたプログラムは、メンテナンスや改良に非常に大きなコストがかかる。しかし、「構造」と「機能」とを、重要性(プライオリティ)について評価するならば、必ず「機能」が上位にくる。「構造」に留意しないソフトウェアは、そのランニングコストやメンテナンスコストが大きくなって不経済が生じるが、「機能」が不完全なソフトウェアは、まったく役にたたないばかりか害を及ぼすこともある。バグの多いプログラムは、修正を考えるよりあきらめて捨てたほうが経済的であるケースが多い。いったん運用されてしまったプログラムを修正するコストは、あたらしくコーディングを書く場合の数十倍にもふくれあがる可能性がある。


 「評論」について、「こうあるべきだ」「こうしなくてはならない」という条件は、ない。極端なことを言えば、ある文芸作品についての作品論を銘打ちながら、その作品にまったく触れていない「評論」があっても、べつだんかまわないと筆者は思う。問われるべきなのはやはり「機能」である。

 「作品」に要求される機能とは、極限的にいって、鑑賞者にとっての心的有益性ということになるだろう。これはかなり曖昧な表現だが、要するにプラグマティックなレベルでの「効用」を意味していると解してもらいたい。一次的な位置づけの「作品」に要求される「機能」はふつう、いちおうこれのみである。しかし、対象が「ある作品に対する評論」である場合、状況は若干複雑となる。

機能と目的

 芸術作品もそれに対する評論もソフトウェアという点において同じであると述べたが、厳密な話をすれば、むろんこれらはレベルの点で異なる。一方は対象言語として語り、いま一方はそれに対する メタ言語 であるというレベルの違いである。

 作者の、表象としての世界の再構成である一次的な「語られたもの」として作品が紡がれ、それに対する言葉としての「評論」が追って語られる。こうした、いわば二次的な作品である「評論」に要求される機能は、広い意味ではやはり「有益性」なのであるが、それはその評論が対象にしている原・作品を常に射程におく。読者がそれを読んで面白いと思うのもソフトウェアとしての「評論の機能」なら、原・作品のいまだ見いだされぬ魅力を暴き出し開示して、新たな相貌を表象せしめることも「評論の機能」であるし、またショーペンハウエルがしきりに「評論」に委ねたような、愚作の蔓延に対する防護壁の責を担うのもまた「語られた言葉を裁く言葉」である「評論の機能」である。機能を有効にはたすソフトウェアであれば、それがいかなる態度において語られようと是とするのが最もラディカルな、もっともプラグマティックな評価の態度なのかもしれない。

 ソフトウェアには、開発当初に想定された「目的」がある。ソフトウェアの機能は、想定された目的を達成することということができる。芸術作品に課せられた目的とは、主に鑑賞者に何らかの心的変化を起こさせることである。この目的を達成するために、作者はあるコンテクストを想定し、それに沿ったプログラムをもって作品を仕上げる。だがこのとき、鑑賞者の心的変化は必ずしも作者の想定どおりにおこるとは限らない。芸術作品の鑑賞とはひとつの邂逅であり、その主体はもっぱら鑑賞者に帰せられるためである。場合によっては、作品は、作者の想定をはるかに離れ、まったく異なったプログラムとして効果する。芸術作品の場合は、こうした形もじゅうぶんに成功である。作品は作品に語られたものがすべてであり、世に出た以上作者のうんぬんするものではないという見解は、芸術作品のこういった性質を前提としたスタンスである。

 しかし、論述を方法とする論文の場合は事情が異なる。それはあくまで論者の初期想定どおりに機能しなければ意味がない。読者に、論者の思惑どおりの影響を与えない論文は(それが論者の思惑以上の影響を与えたとしても)、基本的に失敗である。

 筆者がしばしば、論者の内省的要素を中心的に取り扱う評論を攻撃するのは、それが非常にしばしば読者にとって有用性を目的とせず、もっぱら書き手自身の動機(悪口を言うことによるフラストレーションの解消や、自分が観たかったのはこういうものだといった形の一方的要求、また自分はこんなに見識や知識があるのだぞという自己顕示欲の発露など)そのものを目的とするケースが目立ちすぎることに発している。プログラマの中には、プログラムソースを書くこと自体が愉しいという者もいる。同様に、自分が接した作品の感想を書くこと自体が目的だという論者もいるだろう。しかし、そうやってつくられたプログラムの多くは、リリース対象には向いていない。

顕著な洗練

 制度主義の経済学、とくに ヴェブレニスト の間には、「顕著な浪費」という概念がある。自分の経済的実力を誇示するために、必要以上の時間もしくはカネを消費するという人類史上しばしば現れる経済・文化現象をいう。

 じっさい、人間の経済・文化行為には、自己顕示を動機とするものが思いのほか多い。歴史の初期には経済的実力者によって「顕著な閑暇」(わざと生産的労働を行わないというタイプの自己顕示行動)が行われ、やがてそれが経済的実力のない者の模倣を得るに従って新たな差別化をもくろんだ「顕著な消費」(生活に必需といえない高価な材を「これみよがしに」消費するというタイプの自己顕示行動)へと移ってゆく。この行動もやがて非実力者階級に模倣され、自己の実力を誇示したい者はさらなる自己差別行動をおこす必要に迫られる。「上流階級」という差別構造の成員は、その行動を「ある規約」で規定される。それは、「洗練」という規約である。

 一定の教養や専門用語、外部の者にはわからない「しきたり」などは、自分を他のつまらないひとびととはっきり区別するための「洗練」の一例である。そしてこうした「洗練」は、結局のところこうした「顕著な浪費」をその動機としている。

 「オタク」という差別用語は、中森明夫の提唱の当時は、どうでもよいことにいやに知識をもち、それをもって相手に接する態度が必要以上に横柄なところから、アニメファンなど特定の対象に向けられた揶揄であった。彼らをそうした態度にせしめた要素とは、自己の得意分野に関する膨大な知識であり、また世俗に迎合しない独自の処世態度に対する自負であったことだろう。これは、「顕著な浪費」が「洗練」の方向にベクトルを移した発露の一例であるように思える。

 彼らは、本来は特に金銭的実力に秀でていたわけではないが、自己を他から差別(ここでは「ぬきんでる」という形において)するため、「知識」や「他との問題意識の違い」を強調するという「洗練」の態度だけを模倣することをもってこれにあたった。それがしばしば鼻持ちならない態度となって現れた例もあったにちがいない。こうした例は現在でも多く見ることができる。

 重要なのは、こうした行動が、元来は金銭的実力の誇示という行動の転化であるという点である。「教養」のスキルアップには、多くの時間と精神的エネルギーの消費が必要である。自分は他の者には入手できないような「知識」や、簡単には身につけることのできないような「教養」を持っているのだということの誇示は、多くの社会でごく一般的に行われる経済活動である。

 昨今やや盛んになってきた観のある「評論系同人誌」や、パソコン通信の書き込みの一部にも、こうした意味での「顕著な洗練」の例を見ることができる。過剰に自己の洗練性を強調し、他の目にいかに映るかということにばかりに拘泥したもの、必要以上に攻撃的な表現を多用するものなどの中には、思考方法や情報の伝達、読者にとっての有用性などを目的機能としない、「顕著な洗練」そのものを目的とするものも少なくない。プログラマの中にも、あまり使われない命令文や、他の者に理解しづらいようなロジックを多用してプログラムを組む者がいる。しかし、むろん例外はあるが、こうしたプログラムもまたリリースに向いていない。たとえそれによってマシン系の効率がよくなったとしても、人間系──たとえば保守をする者が、プログラムソースを読んで理解するのに時間がかかり、総合的に効率が悪いからである。

課金

 ソ連崩壊後のロシアでは、「利子」という概念がなかなか理解されなかったという。彼らには、カネを「貸しただけ」なのに対価を要求するなんてナンセンスだ、という考え方があったらしい。利子というものが日常的に扱われるわれわれからみるとこの話は奇異だが、似たような例はわれわれの回りにもある。

 WWFNo.11だったか、新古典派経済学の学説について少しだけ触れた。一物一価の法則というものは、情報が無料でリリースされることを前提としていて、情報の価格というものを考慮していない。こうした踏み倒し型の不完全性をもった理論では、正しい現実の分析はできない。現代では、「情報」には必ずカネがかかっているが、われわれはついこれを忘れがちである。これはむしろ、われわれの周囲に、あまりに情報があふれていることに起因するのだろう。しかし、いくつかの例外を除いて、どんな情報も実は課金されている。このことは、少し落ちついて考えれば誰でも気がつくことであるし、情報の価格を無視したものの考え方が不完全で現代では通用しないことは簡単に理解できるだろう。しかし、あるジャンルでは、こうした踏み倒し型の考え方が、「顕著な洗練」の隠れみのの役割をはたしている。

 パソコン通信などで見られるディベートで、相手に対してもっと勉強してこいなどといった発言を目にすることがある。こういった攻撃は、情報に関する自己の優位性と相手の無知を同時に暴露し、また相手の感情を逆撫でして怒らせるにはたいへん有効な手段であるが、その問題について研究することを義務づけられているワーキンググループの構成員やプロの研究者ならともかく、ごく一般的な知識をもつ者を前提としたディベートにおいては、これはあまりレベルの高い戦術とはいえない。

 そもそもディベートというものは、双方が同等のデータを持っている前提から始めるゲームである。その上で、各自がもっている世界観、論理構成力、総合判断力などが競われる。互いが持っているデータの自慢をし合うだけの「論争」は、おしなべて低能な人間同士のすることのようだ。にもかかわらず、非常に広い部分でこうした戦術がまかり通っている背景には、「顕著な洗練」の思考習慣──情報を自己の顕示のための材として扱う考え方が隠されている。

 一般に、情報とは課金されているものであり、金銭的価値に換算できるのだという考え方は、通念のレベルでは隠蔽されている。情報──知識は、努力と精進の成果であり、聖なるものであって、世俗の象徴である金銭的価値とはかけ離れている──こうした考え方は、通念において、一般に受け入れられやすい。教師は知識の売人としてではなく「師」として、「先生」と称される。

 人間は情報をあやつることで進化した動物である。そのため、たとえば「通行人に道を教える」程度のことであっても、情報を提供することによる優越感という心地よい感覚を味わうことができる。こうした「通念」の教義は、この快感の反動としての罪悪感を避けようとする心の作用が生んだものなのかもしれない。


 新聞の世界には、5W1Hという言葉がある。一方企業では、5W2Hを教えるところが増えている。「いつ」「どこで」「誰が」「何を」「なぜ」「どうやって」という点に、「いくらかけて(How much)」が加わる。企業では、すべての行動は有料のものだという考えが徹底している。

 ある問題についてまったく知識を持たない人間が、その問題について議論や判断をしなければならないケースは企業において非常にしばしば生じるが、その場合、そのメンバーに問題に関する知識を短時間で効率的に吸収させるため、企業は相当に巨額のコストをかけるのが普通である。会議の席上で、発言した問題に対する知識を他のメンバーがもっていないのは(時にその不勉強さが非難の対象になる例も多いが)、事前に適切なプレゼン用資料を用意してこなかった当事発言者の責任となることも多い。担当者に一冊の本を読ませることに対して、企業はその労力を金銭的に計上する。その場合、「知識」は聖なるものとして扱われない(技術系の企業など、「職人気質」の生きている企業では、このかぎりではない)。知識を「修行の成果」と考えているような世界では、それは個人的な努力によって克服されるべき問題だとして課金の対象にされない。経済学の世界では、こうした行動を「自己搾取」と呼ぶ。議論に参加する者が、たとえば特定の本を読んでいるべきだとか、最新のデータをもっているべきだとかいう事を、計上対象外の「教養」として要求する例は、アマチュアのディベートや、学術、宗教の世界などにしばしば見受けられる。こうした思考習慣の裏には、「顕著な洗練」の思想が貼りついている。

 「評論」の世界においても、しばしばこうした態度を見かけることがある。他人の知らないであろう裏情報などを得々として書き、それを「評論」と称する者もいくらかいる。それは時には読者に大きな有用性をもたらすが、同じくらいの確率で、書き手の自己陶酔という生産者側の効用しか得られないケースがある。

高価な言葉

 経済というものは、需要が供給を上回っていることが前提となる。需要がほとんどない物、また供給が需要にくらべて過多なものには、一般に経済原理が当てはまらない。

 「言葉」は、一見無尽蔵に供給され、豊饒なストックを持っているように思えるが、実際はきわめて有限で、差別的で、特権的なものである。ある特権的な言葉は、限られた有資格者によってのみ発信される。それはたとえば、大学教授等の「有識者」、ある種の「聖職者」、特定の才能や資格によってテレビ等に出演し喋ることを許可されている者、社会的影響力をもった団体の代表者、またはそういった資格を代理する立場の者、──といったペルソナによって、発信を許可されているのである。

 こうした言葉は、必ずしも技術的に高度なものである必要はない。むろん、適度に難解な内容をもった言葉は、それを半分程度しか理解できないひとびとの尊敬を得ることができるし、そういった用語を共有する特権階級の仲間入りをすることができる。しかしたいてい彼らの仕事は、一般の人がおぼろげながら脳裏に描いている考えを、明確に言葉によって語り、再確認させてやる作業となるようである。その場合、内容の記述に有効な言葉を造語する権利も、彼らは有する。先に触れた中森明夫は、いままで記述不能だった対象に「オタク」という用語を与え、ひとびとがそれに対して言及することを可能にした。こういった「命名」という仕事も、特権階級の証となる。

 ただこのように、ひとびとが前言語的段階にしか把握していないことを明示してやる作業は、一般に少しやっかいな仕事であるし、うまく高い評価を受け、他人に自分がほかの者と一線を画した特権階級であることを認めて貰うためには、あるていどの運も必要である。むしろそれよりは、徹底的に難解な専門用語を並べたり、読む者がなるべく理解できないような言い回しを使って煙幕をはる方が、効率よく自分の凡庸さを隠すことができ、同時に自己の特権性を誇示できる。このため、多くのアマチュアの「評論」においては、不必要に難解な表現がならび、また不自然に居丈高で訳知りの物言いが並ぶことになる。そのため、せっかくわずかに到達した評価すべき内容は誰にも理解されず、またむやみに偉そうな奴だと反発を招くことすらある。「自己を特権化したい」という目的そのものはべつだん悪いことではない。ただそれによって「評論」のに想定された機能が阻害されるようであるなら、それは効率のよい方法だとは言えない。

鑑賞と評論

 多くのコンピュータ・プログラムは、外部の副プログラムを呼び出したり、外部のデータファイルを参照したりしているが、われわれの脳の中で実行されるプログラムであるさまざまなソフトウェアも、おおむね似たような動きをしている。同じ内容の作品であっても、鑑賞する者によって感じ方がまったく異なるのは、同じ「鑑賞」であっても、その際にリンクするさまざまな要素が異なるからである。

 コンピュータのプログラムの場合、副プログラムの呼び出し(リンク)には2種類ある。実行の制御が実際に副プログラムに移る際に、そのつど対象となる副プログラムを呼び出しにいく「ダイナミックリンク」と、主プログラムをコンパイルする際に、副プログラムをあらかじめ読み込み、固定してしまう「スタティックリンク」である。

 「原・作品の鑑賞」という視点から考えると、一般の鑑賞者が作品を鑑賞するのは前者であるダイナミックリンクに近く、鑑賞の終わった作品について、論者が「評論」をまとめる作業は後者のスタティックリンクに類似する。つまらない比喩だが、これは重要な点である。

 静的(スタティック)リンクの場合、いったんできあがったプログラムはそれ自体完結していて、実行する際に外部の副プログラムをもはや必要とせず、多少環境が変わっても同じ機能を果たす。しかし、動的(ダイナミック)リンクの場合、ダイナミックリンク・ライブラリなどの副プログラム等を実行のつどリクエストするため、環境が変わってしまえば動作が変わる可能性がある。

 「評論」というものは、それを書き上げた際の執筆者の思惟を固定したものであり、基本的にはいつ、どのように読んでも同じ効果を現すよう期待される(読者のわずかな個人差、精神状態の変動などによってそのたびに受け取られ方がことなるような文章は、芸術としてならともかく、教科書や説明書、報告書などのたぐいとしては若干問題がある)。一方、芸術作品の鑑賞というものは、その一回ごとが未曾有の出来事なのであって、同じソフトウェアといえども毎回同じように効果するとは限らない。鑑賞者の個人的体験、知識の質や量、認識や判断力の水準などによって、ソフトウェアの効果は影響を受ける。それだからこそ、「副プログラム」的に機能するこうした外部要因を変化させ、そのことによって作品鑑賞自体を変化させるというのが、評論という営為の目的なのである。

 アマチュアの評論やパソコン通信のアーティクルなどでしばしば目にする意見として、あるジャンルの作品を他のものより高度なものであるとし、そうした作品には単なる娯楽として以上の何か高尚な目的があるのだとする立場がある。こうした意見は一面では正しいが、本質的な部分で誤解している。最大公約数のとらえ方をすれば、芸術作品というものは、それ自体論文や、マニュアルや(「マンガでわかる○○」などが例にあがろう)、説明書、報告書、また報道や広告、戦意昂揚など「別の目的」を機能として想定した場合を除いて、総じて鑑賞者との邂逅による心的影響をその目途としている。早い話、ソフトウェアとしての作品として、『天使のたまご』であれ『ドラゴンボール』であれ、「娯楽」がその正当な機能であると考えるのが正しい。ただし、それぞれのソフトウェアが作動するためにはある程度の環境の設定が必要であり、また作品によってはあるレベルで「機種依存性」があるということは無視することができないというだけのことである。西洋哲学、スコラ神学、占星学といった「副プログラム」をあらかじめ用意していれば『天使のたまご』がさっぱりわからないから駄作だという感想は出にくいだろうし(わかればOK、というわけではないが)、そういった環境がなければないで、べつだん鑑賞者の脳の中で不正終了することもない。どちらにせよ「評論」の書き手としては、主プログラムの支援用副プログラムを供給するだけである。

ダンジョン・マスター

 「評論を書くこと」の原動力は何か。職業としてではなく、みずからある作品について語り、それを支援し、その解釈を深めて他に語ろうとする行為。それはたしかに、単なる作品解説というスタンスでは説明しきれぬところがある。

 ある作品についていかに情熱的に語ったとしても、それに興味を持たぬ者にとっては無意味なばかりか、奇異な目を向けたくなるのが関の山、というシニカルな見方もある。しかし、理由の説明を要すことなく、語る者はいつづける。

 その作品に対する愛着や執着が、そのまま情熱的な言葉になって噴出することもあるだろう。また、ここしばらく筆者がとっているように、「評論する側の情熱」は括弧に入れ、あくまで鑑賞者の当該作品に対する感覚を重視し、周辺の知識や思考方法の紹介に徹するという方法もあるていど有効だったと思う。そのどちらが正しく、どちらが誤っているということはない。「自分だけのため」に語られた言葉を他人に強制することがないのなら。

 世界は、いりくんでいる。世界のあらゆる局面に「意味のひだ」は存在し、そこをまさぐり、押し広げることで、新たな「意味」の通路が開示される。みな、自己の内省的世界の中に見いだした「意味」たちを深め、その通路の交錯する迷宮を探索するのだ。迷宮の中では、思わぬ「宝箱」を得るかもしれないし、とある回廊で、他の冒険者や、強力な怪物に遭遇するかもしれない。そしてまた、押井守のように、せっせと迷宮を作り続ける者もいる。地下を掘り、トラップを仕掛け、暗号を壁に彫りつける。彼は一流の「ダンジョン・マスター」なのだ。とすれば、筆者はさしずめ押井守の迷宮に棲み憑き、そこを通過する冒険者に謎をかける事を愉しみとする魔物の一匹といったところであろう。どうやら、祠に住み、冒険者に鍵を手渡す「賢者」にはなれそうもない。

(おわり)

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