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家族の構造

 文化人類学の世界には、かねてから議論されつづけ、なお謎をはらむとされる問題があった。それは、親族における「母方のおじ」の問題である。

 イギリスの文化人類学者A・R・ラドクリフ=ブラウンは、次のような文化現象を紹介している。多くの民族社会には、ある局面で特定の態度をとるような態度様式の慣習があるが、そのひとつのケースとして、一家の息子は、ある場合は「母方のおじ」ととりわけ親しく振舞い、そのとき息子は父親と疎遠な関係にある。反対に、息子が「母方のおじ」を恐れるような関係にある場合、この息子は父親と親しい関係となる。この現象を説明する理論としてブラウンは、母系性社会と父系性社会に関連づけた説明をあげていた。

 これに対して異論を唱えたのが、のちに構造主義の中心的指導者となった文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースであった。レヴィ=ストロースは、ブラウンの説明モデルである母系性・父系性の社会形態の区別が、実際はこの現象とほぼ無関係であることを指摘し、ソシュールの記号学やトルーベツコイの音韻論の方法の応用である構造人類学を使ってこの問題を説明し、一躍学術界の注目を集めることとなった。

 レヴィ=ストロースは、この親族現象の背後には、実は二項関係の問題ではなく、四項関係の問題であることを指摘した。すなわちこの問題は、単なるおじと甥との目に見える二つの関係ではなく、(1)女の子と、(2)その女の子の男のきょうだい、(3)女の子が嫁いだ相手(つまり女の子のきょうだいから見た「義理のきょうだい」)、(4)女の子の産んだ子供(女の子のきょうだいから見た甥)という、潜在的な四つの項を持つ構造としてとらえることを提唱したのである。

 レヴィ=ストロースは、母方のおじに対する態度の慣習を、あたかも言語学者が言語を辞書に書き込むようにモデル化し、各モデル間の変換によって得られる構造と法則を取り出してゆく。それによればこの問題は、「相関的な」二組みの対立によって成る、最も根底的な家族の構造をあらわすモデルであるという。先のラドクリフ=ブラウンの分析では、家族の基本的な構造は、第一次関係としてまず「親と子の関係」、次に「同じ親から産まれた子供同士の関係」、そして「同じ子供の親としての夫と妻の関係」に限定され、母親のきょうだいなどという関係はあくまでも二次的なものとして考えられていた。しかしレヴィ=ストロースはこの考え方を否定し、「母方のおじ」という要素を、基本的な家族構造が潜在的に持っている極めて重要な要素であることを指摘した。

 人間社会において、婚姻による関係である家族は最も基本的な生活構造であるが、その構造の発生は、ひとつの禁則命令が契機となって起こっている。それは「近親相姦の禁止」である。男性は結婚する際、相手の女性を他の男性から何らかの形で奪取するほかなく、後者の男性はその女性を、娘やきょうだいの形で譲り渡すことになる。この関係構造の「ずれ」を引き起こすのが「近親相姦の禁止」であり、それだからこそ、「母方のおじ」にシンボライズされる関係存在は常に親族構造の中に出現し、親族関係構造の必須の項として機能してゆくのである。

 ここで重要なのは、この関係構造が生物学的な血縁などのような実在的関係を意味するのではなく、あくまでもコード―記号としての呼称であり、その構成員から見た「意味」であるということ、すなわち家族構成員という構造の本質が、他の家族との関係という「ものの取り方」に依存していることである。「それが何か」という「事実」ではなく、「それは何を意味しているか」という「サイン」こそ、レヴィ=ストロースがとらえようとした「構造」の普遍的原理なのである。

 構造主義という世界の知の潮流を決定づけた問題意識が、こうした親族構造論から発したことを考えれば、押井守が作品『御先祖様万々歳!』において親族構造論の問題を持ち出したことが単なる偶然ではないように思えてくる。家族構造の背後に必然的要素として現れる母方のおじという記号は、極めて多義的で複合的な記号に書き換えられて機能する。そこではソシュールの共時態・通時態モデルはタイムマシンの持ち込みによって崩壊し、近親相姦の禁止というテーマはある部分でそのままの形で機能するとともに、マクロ的には「不純血縁交流の禁止」なる禁則に変換され、そこから引き起こされる構造の「ずれ」が、物語を展開させる重要な契機となって機能してゆく。中心的登場人物である四方田犬丸(評論家四方田犬彦のパロディと思われるがその真意は不明)は、息子であり夫であり父親であり祖父であるという複合的な状況に立たされるが、そのうち「息子」は意識的現状であり、「夫」は願望、「父親」は無意識下の状況、「祖父」は一方的な被規定的関係の呼称と、それぞれ全く異なる意味を付与されている。そしてさらに、その状況を成り立たせている状況設定がすべて虚構であるという二重設定は、その状況が登場人物の詐称と、それに対する願望というもののみに依存して設定されていること、すなわちそれが客観的・実証的な状況なのではなく、あくまでもものの見方、「視」の体系によって成立していることを物語っている。

 押井守の設けたダミーのサインやトラップ入りのトレジャーボックス・プログラムによってある程度ぼかされてはいるものの、構造主義的な色彩を強く帯びたこの『御先祖様万々歳!』がある意味で非常に危険な知的冒険であるということの根拠は、実はこの部分にある。

料理の三角形

 レヴィ=ストロースの親族の構造分析において重要な点は、構造とは「循環」の体系であり、そしてその循環の媒体として、言語学では「話す者による『語』の循環」が、親族構造においては「男性による『女性』の交換」が、その役目を果たしているということである。この点からレヴィ=ストロースは、こうした構造の背後にはひとつの普遍的法則性があり、言うなれば、婚姻や儀式はひとつの言語であって、文化による婚姻形態の相違は、構造における循環法則の様相の違いであるとする。

 先にあげたロートレアモンの『マルデロールの歌』の分析も、実はレヴィ=ストロースによるものであるが、『御先祖様万々歳!』の解析のために、ここにもうひとつの構造分析の例を提示したい。

 トルーベツコイとともにプラハ言語学サークルに属したヤコブソンはその音韻論の研究において、「母音三角形」と「子音三角形」という概念を提出した。ヤコブソンによれば、あらゆる言語における音素間の対立は、まず母音・子音の二項対立に分けられ、次にそれぞれの項に内在する二組みの二項対立―たとえば鋭−鈍、密−素というような対立に分析される。この二項対立の複雑な絡み合いによって音韻論の構造は説明されるが、このモデルはそれぞれ「母音三角形」「子音三角形」によって明示される。

 レヴィ=ストロースはこれをもとに、「料理の三角形」なる概念を提出する。知的営為における言語活動と同様、料理というものは人間の文明に必然であって、いかなる社会においても「料理」のない人間生活はありえず、ゆえに「料理」という営為は、言語や婚姻とともに人間生活の普遍的要素と言える。こういった視点よりレヴィ=ストロースはまず、料理の三角形における「生のもの」「火にかけたもの」「腐ったもの」の三つの頂点を設定する。

 「生のもの」とは、何の符号も持っていない極であり、その「文化的変形」としての符号をもつ極である「火にかけたもの」、「自然的変形」としての符号をもつ極である「腐ったもの」に対立する。この対立は、変形における《自然−人為》という概念をキーとしてなされるものであり、対立のキーを変えることによって対立構造は変換する。例えば「火にかけたもの」において、その方法の《文化的傾向》をキーにしてみれば、この極から新たな二極が生じる。すなわち、《文化的》の符号をもつ極としての「煮たもの」、符号を持たない極としての「焼いたもの」の対立である。直接火にかける「焼いたもの」は比較的自然物に近く、ナベという人工的な容器に水を入れて調理するという「煮たもの」は、その間接的技巧的性格からいって文化的な傾向が強い。

 また、媒介のキーに《水》をとり、原構造の三角形にこの二項対立をあてはめると、「焼いたもの」は「生のもの」の範疇に近く、「煮たもの」は「腐ったもの」の範疇に近いという。なぜなら、一般に焼いたものには生の部分が有りがちであり、ゆえにどちらかといえば「生のもの」に近い。対して煮たものは、水を媒体として処理され、またふやけたようなその形の類似から、「腐ったもの」の側に位置するというのである。

 レヴィ=ストロースは、この「焼いたもの」と「煮たもの」の二項対立には、社会学、経済学、心理学や歴史、審美的、宗教的要因など、社会に内在するさまざまな無意識的構造の翻訳システムが反映するとした。たとえば「焼いたもの」は、簡便な器具と少ない手間で済むところから傾向として野外の放浪生活のイメージがあり、逆に高価で重い器具を用い、多くの手間を要する「煮たもの」は、定住生活のイメージをもつ。

 また、焼きもの料理には焦げなどの損失がつきものであり、「煮たもの」はその性格上、材料の無駄は少ない。そこから「焼いたもの」のもつ荒々しい性格は男性をあらわし、また浪費的、反家庭的、貴族的、外向的といった意味をもつ。反面「煮たもの」は女性と不可分な関係にあり、またその調理に容器が不可欠であるところから、親密な小集団の間で食される。ここから「煮たもの」には節約的、家庭的、庶民的、内向的な意味が内在している。このように、「煮たもの」と「焼いたもの」の対立構造の無意識的背景には、男性と女性、社会と家族、放浪生活と文化的生活、浪費と節約、俗と貴、死と生などの対立概念が重なっていると、レヴィ=ストロースはいう。

 『御先祖様万々歳!』においてこの対立は、鍋物と焼きトウモロコシの形で登場するが、「構造主義」という方法論そのものをキーとしてこの作品を観たならば、その対立要素が極めてシンボリックに強調されて出現することも当然だと言えるだろう。押井作品の一部には、こうした構造主義的なパラダイムを思い起こさせる「キー」を数多く見いだすことができる。また押井守本人の発言からも、明らかに構造主義を意識した内容を汲み取ることが可能である。

 押井守の構造主義的手法はしばしば、二項対立をはじめとするある構造と、その無意識的な背景に垣間見られる類似構造を契機とする、驚異の喚起という形であらわれる。たとえば『パトレイバー「劇場版」』においては、まず情報として提示されるコンピュータ・ウイルスのもたらす混乱が、「言語」というキーを介して神話上もしくは言語学上の「バベルの混乱」のイメージを喚起する。

 言語の持つ機能とそれが作り出す体系への知が、ふたつの物語の中に同じコードをもつ構造の存在を感じとる。われわれの意識へと流れ込むひとつの物語と、われわれの意識下に沈むもうひとつの物語。それが、ひとつの記号と構造のもとに無意識の経路をもって結ばれてゆく。

 このとき開いた翻訳論理の経路は、これと同等の翻訳経路をもつ背後の構造を次々と喚起してゆく。構造をもつ全体は、単なる個の集合以上の意味を持つ。こうした構造の展開は、作品そのものに特殊な意味を付与することとなるのである。

野生の思考

 レヴィ=ストロースの構造分析はこのように続いてゆくが、そもそもこうした分析にはどういう意義があるのだろうか。構造主義という知のスタイルが持つ学史的使命とは、いったい何だったのだろうか。

 自己を動物やその他の自然物とを何らかの形で結び付けて考える「トーテミズム」という思想は、西欧文化社会の知的態度の歪んだ視線が必然的に生み出したものだった。レヴィ=ストロースは、この醜悪な視線を暴露する。キリスト教的思考から見た従来のトーテミズムを、「幻想」にもとづく単なる「仮説」であるとしたレヴィ=ストロースは、トーテム・タイプの文化圏について分析を加えた。

 従来のトーテミズム観においては、未開社会を支配する思考形式は「野蛮人の思考」であるとされてきた。そこには抽象的概念はなく、また世界を秩序あるものとして見る視点が欠落しており、その点において西欧合理主義的思考は「野蛮人の思考」に対して優位に立つという論理が通用していたのである。レヴィ=ストロースはまず、具体的例証によってこうした謬見を指摘した。

 レヴィ=ストロースはまず、「残忍な男が哀れな子供を殺した」という意味内容が「男の残忍さが子供の哀れさを殺した」というレトリックのもとに語られるといった例(北米北西部chinook語)をあげ、未開社会の言語にも極めて抽象的な語法が実在することを示した。またこうした社会の中では多くの場合、動物界や植物界の構造と社会構造とが相同的形式をもって結び付けられているが、それは決して無秩序で曖昧な不連続、混同や無思慮に基づくものではなく、そこには極めて精密な分類の論理体系があるという。つまりたとえば、自分の先祖がアライグマであるという場合、それはあくまでアライグマでなければならず、決して赤キツネであったりカシの木であったりしてはならない。それは厳密な分類学的な知に基づくものであって、たとえばNavahoインディアンにおける非常に精密な動植物の分類体系や、スーダンDogon族の動植物の分類と社会構造との対応づけなどの例に見られるように、それは非常に高度な知的営為だと言えるのである。

 こうした文化のタイプでは、世界の構造を、動植物など自然界にある構造の助けを借りて記述するという方法が一般的であり、その根底には、「分類」によって宇宙を汲み尽くそうとする人間精神の性向が隠されている。これはもはや西欧文化社会が見たような「野蛮人の思考」や「未開の思考」ではなく、近代西欧文化社会の思考とはパラダイムを異にする神話的思考の源泉、「野生の思考」の息吹にほかならない。

 レヴィ=ストロースはその代表的論文『野生の思考』において、未開文化社会について述べる。「野生の思考」とは、人類が科学以前のはるかな時代を通じて用いてきた、知のオペレーティング・システムである。しかしそれは、当時の西欧文化社会が見ていたような、科学的思考に到達する前段階の知なのではなく、科学的思考と平行し並立する異質の知である。だが、相対するそれらの知の根底に流れる世界真理への問いは、ともに同質な方法に根差している。

 野生の思考は、われわれ西欧合理主義的な文化における日常の知的操作や芸術活動の中にも重要な役割を演じている。野生の思考に内在する神話的思考は、科学的思考の根底にもまた生きている。

器用な仕事

 科学方法は、人工の概念を駆使して構造を道具とし、世界を改造する。それは限られた目的のためになされる「栽培の知」と言えよう。しかし野生の思考にあらわれる神話的思考は、こうした「概念」を作り出すことはしない。野生の思考のとらえる世界は、十分に精密で、より感性的であり、構造的である。それは、動植物や特定の出来事など「あらかじめある」材料の「残渣」や「破片」を組み合わせ、再利用して、世界の構造を記述しようとする。

 レヴィ=ストロースはこのことから、野生の思考は「ブリコラージュ」にほかならないとした。

 ブリコラージュとは、「器用仕事」という意味のフランス語であり、専門的職業的作業ではなく、言ってみれば日曜大工的な仕事のことをいう。その作業に合わせて作られた専用の材料を使うのではなく、あらかじめ与えられた限定された材料を使うこの「ブリコラージュ」は、具体的な作業ばかりにとどまる概念ではない。それは、「すでに一度使われた『記号』」の再定義による、構造の再構築の作業なのである。このとき、概念の部品を人工的に設定し構造を道具にして森羅万象に対する改造を行い、世界を変えてゆく科学的方法と、世界に散らばる森羅万象を再利用して構造を作り出してゆく「野生の思考」とは、その方法、つまり「『構造』と『世界』の関係」という項において、二項対立の関係にあると言えよう。

 レヴィ=ストロースは、自身の論文に対してその思考法を当てはめている。レヴィ=ストロースの論文の題名は技巧的なものが多いが、中でも『野生の思考』は、その内容を体現する意味を持つ。

 ヨーロッパに伝わる家族構造をあらわすシンボル的な伝説に、野生の三色スミレの話がある。

  野生の三色スミレ(学名 Viola tricolor L. 別名『野スミレ』または『三位一体草』)について

……継母、一脚ずつ椅子を貰っている後妻の息子二人、一脚の椅子に二人で座る先妻の息子という解釈は、非常に古くからある……。『アシェルソン資料大成』によれば、花弁は四人の姉妹(先妻の娘二人と後妻の娘二人)を象徴し、継母は、対になるもののない五枚目の花弁である。

(Treichel,Volksthuemliches.)


 家族構造という人間生活の原初的構造を、自然物の形状に重ね合わせて特殊な意味内容を持たせたこの伝承こそはまさにブリコラージュの一例であり、潜在する野生の思考の体現であろう。レヴィ=ストロースはこの伝承をさらに自らの論文に重ね、その題としたのである。(『野生の思考』―「LA PENSEE SAUVAGE」は、そのまま「野生のパンジー」を意味する)

 さて、そうした視点からみれば、押井守がいかにこの「器用な仕事」をしているかがわかるであろう。それは多分に、与えられた設定の中でしかその手腕を奮うことができないアニメーション演出家という立場の問題でもあるかもしれない。しかしその芸術活動の内には、たしかにブリコラージュ的なものが見え隠れする。もともとごく普通の作品であった『うる星やつら』に現象学的存在論を発現させ、どこにでもありそうな巨大ロボットアニメーションとなるべきであった『機動警察パトレイバー』を構造主義的形而上学批判の場にしつらえる。『不思議の国のアリス』の各モチーフは『とどのつまり』の中に生かされ、捨て犬の姿が『ストレイドッグ』に浮かび上がる。その知の形式は、それを観る者の野生の思考に訴える。押井守の創り出す「驚異の念」の源泉は、ここにある。

 押井守の作品は、『天使のたまご』以降その手法において構造主義的な様相が強くなる。ここに至って押井作品傾向は、二つのライトモチーフを意識しつつ語られる傾向がつよくなる。そしてそのひとつが、ここで言う構造主義的傾向であり、それは押井守の世界において、「犬のモチーフ」として浮かび上がるのである。

 むろん、単純な二元的見方は厳につつしむべきであろう。ことの事情はもっと微妙で、複雑なものである。押井守のライトモチーフはそれぞれ極めて有機的に絡み合い、影響し合い、より深遠な領域へと踏みこんでいる。だがここで行っている「分析」は、ただの要素論的還元にとどまらず、われわれにひとつの重要な「視」を与えてくれるであろう。

 ただし、ここまでの情報では、果たしてそれが何を意味し、また押井守が何を地平としてその視点を広げていったのかという問いの「手掛かり」にしかならない。そもそも、押井作品全体において、構造主義的方法の展開にはいかなる意味があるのだろうか。天才プログラマ押井守は、そのプログラムをなにゆえ、何を意図して「構造化」したのだろうか。

 その答えを引き出すキーワードは、作品『紅い眼鏡』の中にある。

「酷く熱い」

 レヴィ=ストロースの論文『野生の思考』の出現によって、構造主義はまさに世界の学術界を席巻した。構造主義は、20世紀初頭を代表する知的潮流となり、そのパラダイムは単に言語学や文化人類学にとどまらず、あらゆる人文・社会科学、自然科学、また文学など芸術や、またその評論に至るまで影響を及ぼしていった。われわれ自身の知も、構造主義の指摘するモデルのとおり、まさしく無意識的な下部構造の段階において、構造主義の影響下にあるのである。

 だがここで、ひとつの問いが立てられなければならない。それは、構造主義そのものの歴史的意義の問題である。構造主義の思考方法そのものには、特定の思想的主張はない。それはあくまで「思考方法」であって「思想体系」ではなく、「何を言わんとするか」の「意味」という問題は、また別に問い直されなければならないのである。

 『野生の思考』においてレヴィ=ストロースが批判した西欧文化の「トーテミズム仮説」は、西洋形而上学世界というひとつの限定された知の下部構造の上に成立した思考習慣であった。人間精神が常に進歩を続け、合理的意識によるすべての克服が、神によって約束された歴史的必然だとする前提は、それが単なる知的類型のひとつにすぎないということをすら気づかせないほど、近代西欧文化の深部に根付いたものだった。特に19世紀は、そういった理性盲信・科学崇拝が頂点に達した時代であった。そして20世紀へと受け継がれたその確信を支える哲学の理論的代表は、ジャン=ポール・サルトルの弁証法的理性批判であった。レヴィ=ストロースの攻撃は、サルトルへと向けられた。

 言語学において、語の静的体系であるラングは、動的な言語活動としてのパロールによって「揺らぎ」、「出来事」によって「傷つく」。これと同様に、社会における「構造」は、時間的に連続した──「通時的」な出来事によって傷つきやすい。レヴィ=ストロースによると、近代西欧社会に見られるような社会体制と、未開社会といわれる社会体制との間には、この「通時的な出来事」に対する社会態度の相違があるにすぎないという。

 「野生の思考」が支配的である神話的社会においては、「出来事」は世界の始源期にしかない。世界の基本的な様相は世界の成立の時から変化せず、現在は太古の時代と根本的にかわらない。そして未来においても、世界の姿は今と変わらないとされている。

 むろんこうした社会においても、社会構造をゆるがすような「出来事」は起こり得る。しかしこの場合こうした社会では、その出来事を構造の存続のために無視し、あくまでも自らの社会を「無時間的モデル」にあてはめるという態度がとられるのである。このとき、その態度の正当化をはかる論拠は明快である。

  ──その体系性を証明するために、一つ一つの技術、規則、習慣について飽くことなく繰返される正当化の手段は、全世界的に、「御先祖様の教えだ」という説明ただ一つである。


(レヴィ=ストロース『野生の思考』)


 そこにおいては、古さと連続性とが正当性の基礎となる。その伝統のなかで、社会はあたかも歴史など存在しないかのようにふるまおうとする。このように「歴史という概念をもたない」ような社会をレヴィ=ストロースは、「歴史的温度」が限りなく低い、「冷たい社会」であるとした。

 それに対して現代の文明社会のような文化タイプは、社会の変革と発展が「常態」であるとすら言える「歴史をもった」社会である。こうしたタイプの社会は、内在する圧力差を利用して常に運動し、構造をゆるがす出来事の歴史的生成をつぎつぎと自らの中に取り込んで進みつづける。その社会類型をレヴィ=ストロースは、「熱い社会」と呼んだのである。

 こうした社会は、あくまでも類型のひとつであって、それはサルトルが言ったような「弁証法」的必然ではない。歴史とは、世界開示と解釈の段階の記録であり、あくまで「解釈」の地平に立つ知であって、非時間的な知である「構造」の地平にたつ「野生の思考」とは相対する形式の知に属するものなのである。

 「歴史をもった」社会も「歴史をもたない」社会も、それぞれがひとつの類型であり、近代合理主義の先入観にあるように歴史という概念について特権的価値を認めるのはドグマであると、レヴィ=ストロースは言う。われわれの住む「熱い社会」にあっても、その構造の知のなかに「野生の思考」は息づいている。ひとつの時代の、ひとつの時間を、「構造」の成員として生き、やがて「熱い」流れに洗い隠されようとする者たちは、いったいどのようなまなざしで世界を見るのだろうか。






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