自分たちに攻撃をしかけて来ない者には何もしない。攻撃を仕掛けてくる者にも、その攻撃に使われる道具を消滅させるだけで、直接に生命を奪うことはしない。信号も守る。ただ、そこに存在するだけの巨大な「侵略者」――ここは、そういう「侵略者」があたりまえに存在し、うろついている世界である。
その「侵略者」の挑戦を受け、それを撃退する役割を担うはずの国連ですらすでにツリガネの存在に慣れっこになってしまっている。いつ「侵略しちゃうぞーみたいなメッセージ」を実行に移すかわからない巨大なモノ――しかし、それがなかなか実行されないとわかると、「監視」そのものが緊張感のない日常作業になってしまう。こうなると、最初は、「侵略者」の存在を排除しようとしてもできないので、次善の策として「監視」していたのが、こんどは「下手に手を出すと相手を刺激して侵略を始めさせるかもしれない」という根拠での「監視」に変わってくる。むしろ「国連監視団」はツリガネに接近しようとする地球人の側に向けられるようになる。
ちなみに、平和維持を目的とする国連の軍事行動のあり方を正面から採り上げたアニメーション作品は、私の知るかぎりでは押井守監督の『機動警察パトレイバー 2 The Movie』が最初だ。その後、『新世紀エヴァンゲリオン』でも国連は人類的脅威と戦う組織として描かれている。それ以前の作品ならば、米ソ対立をはじめとする国家対立という要素抜きにこういう設定を導入するのはたやすくはなかったろう。一方、この作品では、国連は、「人類的脅威と戦うこと」が日常業務になり、すっかり緊張感を失った組織になってしまっているのである。軍事力を背後においた国連の平和維持がもはや日常業務になっている世界――この作品世界を私たちの生きているいまの日本と地続きであるという感覚を演出するのにこの設定は一役買っているようだ。
それはともかく、この国連や日本国民の態度は好ましからざる現状への安易な妥協だ! そして、そういう安易な現状への妥協は、「侵略者は侵略者なのだ。それを放置しておいていいのか!」という原理主義的な批判を「かっこいい」ものにしがちである。てなわけで高倉は「ツリガネをヤッツケル」などとかっこうをつけた。もちろん、「まだ飛べてもない」魔法クラブのメンバーが、「宇宙から来たそんなわけのわかんないのと戦うなんてゼッタイむりです!」ってことぐらい「一理」どころかひじょうに多くの理がある。けっきょく、高倉にとっても油壷にとっても七香にとってもたぶん茜にとっても、それはたんに高倉が「かっこうをつけた」だけのものですんでしまったはずのものだ。
――それが「沢野口くんあたり」の「魔法が上達すればみんなの役に立つことができる」という気もちをくすぐって「本気」にさせてしまわなければ。
ここまでの「ツリガネ」は、「地球を侵略しちゃうぞーみたいなメッセージを世界中に送りつけた」(ところでナニ語で?)だけで、何もしてはいない。「ツリガネ」にいろんな役割を勝手に割り振っているのは、それに慣れっこになってしまった人びとであり、それをやっつけると言ってみれば女の子にかっこいいと思われると思った高倉であり、それを高倉をいじめて愛を表現するための絶好のネタだと思った油壷であり、そして、ほんとうにそれを倒せば「何をやってもドジでダメなワタシ」が魔法で「みんなの役に立つことができる」と思いこんだ沙絵である。一人ひとりに、それぞれの都合で勝手な役割を想定されてしまう「宇宙から来た巨大な侵略者」が、前半の「今日のツリガネ」だ。
で、後半、ツリガネのロボットとついに接触を果たした魔法クラブに、ツリガネはどんな姿を見せたか?
ツリガネのロボットは魔法クラブのメンバーを「目」でしつこく調べたあと、沙絵の反撃に会い、ほうきを攻撃手段と断定したのかほうきに消滅攻撃をしかけ、さらに沙絵を連れ去ろうとする。で、高倉の反撃にあって、当の高倉の帽子だけを持って帰ってしまう。余談だが、このツリガネの「目」攻撃は、H.G.ウェルズの火星人以来の「触手がたくさん生えている宇宙人」の姿の正統を継いでいるようである。
これは当人たちにとっては絶体絶命とはこういうときに使うのねというほどの危機一髪の経験であったろう。いかにツリガネが直接に生命を奪うことはないといっても、あの高さから落ちたら助からない確率も高いだろうと思う。じっさい、沙絵はこの経験を経て「魔法クラブを辞める」という意思を固めるらしい(でもホントに『ダロス』でのダロスのような描かれかたで終わってしまう可能性もあるし。
さて、この『魔法使いTai!』の登場人物たちも目を合わせずに会話することがある。しかし、その描写の意味は『エヴァンゲリオン』とはちがっているように思う。
埠頭での場面、高倉は「顔に書いてある」文字で自分の思っていることを表現する――という演出がとられている。口では沙絵の言うことをまじめに聞いているような反応をしているけれど、じつは「はやくおうちにかえりたい」のだ。
沙絵は、その高倉先輩の目をまっすぐに見ているのと目を伏せているのと半々ぐらいで高倉と話をしている。が、沙絵は、高倉先輩の「顔に書いてある」ことをひとつも読みとらない。高倉先輩に向かってしゃべっているようでいて、じつは自分一人でしゃべってしまっている。
他方、この「顔に書いてある」文字は、高倉の背後にいて顔を見てもいない油壷にはぜんぶ通じている。油壷は、このまま沙絵が熱心にしゃべりつづけたらいったい高倉がどういう決断を下すか、そこまでわかっているようだ。同じ「恋人」でも、沙絵とは高倉に接する接しかたがちがっている。それは、油壷が、同期であり副部長であるのに対して、沙絵が後輩ヒラ部員であるというだけのことではない。
高倉は、「えッ、そんな、えッえッ絵っ? あわわ(汗)……」などと思いつつ、上の空でてきとうに沙絵に応対している。そして、沙絵が「高倉…先輩…みたいな」立派な魔法使いになりたいと言うのをきいていきなり舞い上がり、そして沙絵の胸を上からのぞき込んで「魔法クラブ、心は一つだ」などと心にもないことを口にしてしまうのだ。けっきょく高倉がきいたのは沙絵が高倉を目標とすべき先輩であると思っているということだけ、そして見たのは沙絵の小さくない胸だけである。
うしろの油壷が「あーあ」と言っているとおり、高倉・油壷・沙絵と心はぜんぜん「一つ」ではない。沙絵は高倉先輩に話しかけているようで、そのことばは高倉に伝わるよりはるかに多く沙絵のなかで回転してしまっている。「ドキドキ純情」の高倉は、沙絵の前でかっこうをつけて見せたことの成果が上がっていることを知り、その沙絵の胸を見て舞い上がって「またカッコつけちったい」ってな始末だ。油壷は沙絵の前でカッコつけずにはいられない高倉がいとおしくてたまらない。油壷は沙絵に嫉妬を覚えているようだが、沙絵がいるおかげで高倉のいとおしい面が一段と引き出されるのだからその気もちは両義的である――たぶん。
高倉と言えば、この作品の高倉には「普通の顔」がほとんど描かれていない。極端に崩されている表現も多いし、そうでなくても喜怒哀楽マヌケ顔エッチ面その他がオーバーに表現されている場面がほとんどなのだ>ちなみにくずれるとなんか佐藤監督の自画像に似ている……。
その高倉は、箕輪のボートに拾われて意気消沈している沙絵に「帰ろ」と声をかける場面でだけ、やさしい先輩のノーマルな表情を見せる(あと、「見たまえ沢野口くん」のところが比較的ノーマルに近いだろうか――でも油壷のちょっかいですぐに崩される)。しかも、この場面では、油壷が帽子をかぶったままなのと対照的に、高倉は帽子をかぶっていない。つまり、まるごとの素顔で、おちこんでいる沙絵にやさしく声をかけているのである。この場面は、高倉と沙絵がはっきりとたがいに目を合わせるほとんど唯一の場面なのだ。
沙絵がほんとうは高倉のどんなところに惹かれているのかがはっきりわかる場面である。
それは、沙絵が自分で考えているように高倉の「かっこいい」ところではない。高倉が「かっこいい」というのが沙絵の思いこみにすぎないことは、高倉の初登場の場面から意地悪いほどに一貫して描かれている。
まったくこの物語は「すれちがい」(あるいは「ディスコミュニケーション」)の連続である。思いこみ、誤解、すれちがい――この世界はそういったものに満ちあふれている。それは、「何をやってもだめ」というコンプレックスに捉われ、「ぼけーとしている」沙絵を主人公に措くことで強調されているが、それは何も沙絵だけの話ではない。それぞれのキャラがそうした「すれちがい」に捉えられているのだ。あるいはツリガネだってそういう状況のなかにいる一キャラクターなのかも知れない。
だが、その「すれちがい」は、『エヴァンゲリオン』での「視線の回避」が本質的にひどく居心地のわるいものと位置づけられていたのとはちがって、たいへん心地よく描かれている。
無数の「すれちがい」が原因となって活劇が生まれる。沙絵・七香・高倉・油壷がきちんと対話して理性的な結論に達していたとすれば(対話すればかならず理性的な結論に達することができるかという問題はこのさい措くとして)、魔法クラブはツリガネをやっつけになんか行っていなかったはずだ。沙絵は「自分は高倉先輩のような立派な魔法使いになって世の中の役に立つ」という思いにとりつかれ、高倉は一途な沙絵と沙絵の大きな胸に惹かれて、油壷は高倉に惹かれて、七香は沙絵の「保護者」として――それぞれの思いが通い合うわけではなく、それぞれの勝手な思い入れによって、魔法クラブはツリガネ退治のドタバタに巻き込まれるのだ。そして、その、勝手な思いや一方的な視線が交錯するドタバタの世界のなかで、ただ一回、ちゃんと目を合わせて気もちを通わせる。別の言いかたをすれば、その、ただ一回、目を合わせて気もちを通わせる基盤となる世界は、無数の「勝手な思いこみ」・「誤解」・「すれちがい」から構成されている現実なのである。
「すれちがい」から構成された現実のなかを飛び交う「好奇心」の視線――あるいはそうした「好奇心」の視線が織りなす「すれちがい」だらけの世界――それが、『魔法使いTai!』の、居心地のよい、五月の晴れた休日(こどもの日)の世界なのだ。
こうやって「空とぶ魔法」の話なんかすると、たいてい出て来るんだ、こういうやつ――「空を飛ぶというのは性的な快感を表しており……」って言い出すやつ! はいはい。なんせ『魔女の宅急便』のときも、文脈とはまったく関係なくそのことを書いている評論家がいたもんね。
もちろん空を飛ぶのが性的快感だというのはそりゃわからんでもないし、べつにすき焼きのネギがなんとかの象徴だとかそういう話でもいいんだけどさぁ、そういうネタをところ構わず持ち出すの、やめません? 『エヴァンゲリオン』でもエントリプラグが男性器の象徴だとかいうことを得意げに言って回る人がいたそうだ。これはどうやら作者の側で意図された表現であったらしい。正解で「おめでとう」ってところだが、でもさあ、それをそう言うだけでは話はそこで止まっちゃうよ。なんかそういうネタを出せば人を圧倒できるみたいなことを考えているヒトがをるようで、困ったもんだと思う。
とりあえず安直な答えを出しておこう。「空とぶ魔法」の話が最初に来ているのは、沙絵にとって自分のいまの「ドジでダメな」現実に別れを告げ、「みんなの役に立つ」自分へと離陸するための通過儀礼として、地面を離れる必要があったのだ。地面というのが、そこに立っていればとりあえず安心できるものであるのと同時に、重力によって人間を束縛しつづけるものでもあるということは、『エヴァンゲリオン』の最終回にも描かれていたテーゼであるがちゃんと見てましたか? ――まぁそんだけ。とりあえず。
マジックワンドは「鳥」である。魔法クラブのアイテムが「鳥」であることと、最初に使う魔法が「空とぶ魔法」であることとはもちろん無関係ではない。そういえば『赤ずきんチャチャ』でも魔法のトーテムは鳥だった。
『赤ずきんチャチャ』というと、以前、WWFで『チャチャ』本(『WWF13』)を編集していたとき、ふと、あるメンバーが、女の子が「ほうきに乗る」のは苦痛ではないのかということを言い出した。自転車のサドルですら慣れないうちは相当に痛い。まして、多少なりとも幅のあるサドルではなくてただの棒のほうきの柄にまたがるのだ。そこで体重を支えるのだからずいぶん負担がかかる。女性の身体の構造を考えれば相当に痛いはずである、というのだ。
そのとき、私は、ほうきの上にまたがっているということよりも、ほうきを手に持っていることが飛ぶために必要なこととされているのではないかと思った。ほうきの柄を持って魔法をかければ、身体全体に浮力が生じて浮くようになる――そういう魔法だと思ったのだ。そうでなくてほうきにしか浮力や推進力が生じないのならば、上半身のほうが重いのですぐにバランスを崩して落ちてしまうはずである。自転車のばあいは、前に進むことで動的に上の重心を支えているわけだが、ほうきでは接地面がないのでそうはいかないし、逆に空気抵抗がバランスをとるのを妨げるはずだ。ちなみに、『チャチャ』では、ほうきにおしりは着けていないか、柄ではなくて先の部分に乗っているかのように描かれていたし、手を放せばほうきは消えるようだから、やはり手に持っていることのほうが本質的なようだ(『チャチャ』では爪先で乗っている場面もあるがそれはさておき)。
それに対して、この沙絵の飛びかたは、WWFの某メンバーが心配したとおりに相当に負担のかかる乗りかたをしている。ほうきに浮力をかけて、そのほうきにおしりを載せ(まぁあの乗せている部位がほんとに「おしり」なのかということはさておき)、それで身体全体を浮かせているのである。
もっとも、このエピソードを見るかぎり、そういう乗りかたが必然ではないようだ。やっぱり私の理論のとおり身体全体に浮力をかけることができるのである。高倉が水に落ちるまえ、高倉の魔法で沙絵の体に浮力が生まれ、沙絵は助かっているのだ。要するに、魔法カードと同じようにほうきは魔法で浮力を生むための媒介にすぎない。もっともほうきのかたちがバランスに影響しているようだからあんまりよくわからないが――それにしても油壷のように横座りしても高倉のように胡座をかいてもかまわないわけである。
沙絵が未熟なために、そのほうきを「浮力を生む媒介に過ぎない道具」として扱うことができず、ほうきの浮力と推進力に頼りきった乗りかたしかできない――とりあえずそういうふうに考えるべきだろう。
『魔法使いTai!』は、「ドジでダメな」現実から飛び上がることで沙絵がただちに変わることができたという描写にはなっていない。「ドジでダメな」自分から一歩踏み出て、「風のように、ふわっと」空に舞い上がったとたん、おしりが痛くなって同行者に「足手まとい」扱いされる自分がいる。その苦痛を、精神的な圧迫としてではなく、文字どおり肉体的な圧迫・肉体的な苦痛として描いているところが『魔法使いTai!』の斬新なところだ。もしお好みなら『エヴァンゲリオン』で描かれている「苦痛」の質と比較してみればよい。
勇気を出して夢のつづきを現実にするということはけっして代償なしにできることではない。それはいっそうの苦痛を伴うものなのだ。では、その苦痛を避けていままでの「ドジでダメなワタシ」に戻るか、それとも、その苦痛を引き受けて背伸びをしてでも追いかけていくのか。
――『魔法使いTai!』はそういう物語なのである。