「宇宙空間だから音がしない」という演出でバンダイビジュアルにおことわりの紙を封入させてしまった冒頭シーンから、板野一郎本人を起用しての「板野サーカス」、そして魔法少女ものとしての「正統」を行くさわやかなオープニングに入る。つづいて沙絵自身の語りによる設定の説明から沙絵のチセツな絵日記(高校生でしょうが!)へ、そしてマジックワンドとナルトを背景に沙絵がポーズを決める場面に至るのである。「えすえふ」から「魔法少女」ものをとおって沙絵の学園青春物語(?)へと、この物語の持つ幅が、イントロダクションとしてここでいささかオーバーに表現されているわけだ。
この作品の世界の広がりの範囲を示し、「現代の日本を舞台に魔法使いものをやる」ということを視聴者に自然に受け入れさせる効果をこの導入部は持っている。あの「ユニフォーム」でほうきに乗る話だ。この導入部で、ツリガネとよばれる地球規模の「敵」のとつぜんの登場と、沙絵が「先輩」にあこがれる高校生であることを、抜き打ち的に印象づけておかなかったならば、この物語はその「嘘くささ」を払拭するのにしばらくかかったであろう。さすがナルトのように何の役割も与えられないことでかえってこの作品を印象づけているような小道具もある。が、他方、一見するとたいしたことのなさそうな小道具でも、物語を語る手段として有効に使われているものが多い。
埠頭の場面では、高倉先輩に褒めてもらったときに浮き上がって行った自転車が、「ところで中富くんは?」と聞かれたときにはゆっくり降りてくるという演出がある。沙絵の心の浮き沈みを、沙絵の魔法力を受けた自転車で表現するという趣向だ。
アイキャッチにも登場するぬいぐるみのジェフ君も巧みに使われている。沙絵の体重が乗っていたり、高倉や油壷に引っぱられていたりするために、沙絵のほうきは、沙絵が魔法で加えた力のとおりには動いていない。だが、ほうきの先についているジェフ君の動きは沙絵が加えている力に忠実に動いている。沙絵がはじめて飛び上がる場面でも先にジェフ君が浮いているし、ほうきを止められなくなって油壷に後ろから引っぱられたときも、最初のうちはジェフ君は先に行こうと動いている。
「なぁんだ、あたりまえの演出ではないか」――あ、やっぱりそう思う? だが、この作品では、最初から最後まで、そうした細かい「オーソドックス」な演出が、目立たないところでも随所に念入りに積み重ねられている。ここまで緻密な演出は、テレビアニメではもちろん、ビデオアニメや劇場アニメでもそうそうお目にかかれるものではない(と思う)。
こうした緻密な演出に佐藤監督の「職人」芸が見えている。バンダイビジュアルが「売り」にしている「H」なシーンよりも、私は、まず、この演出の巧みさと緻密さにこの作品の質の高さを見たいと思う。
しかし「H」の描写の念の入りようもまたなかなかなものだ。ほうきから飛び降りた七香を救おうとした高倉が、七香の胸を見て思わず手を放してしまうという場面がある。これはまことにアラレもない描写だ。しかし、その直前、落下してくる七香を下から捉えているはずのカメラが、一瞬、七香の顔を捉える。カメラはいったいどこを通って七香の顔を捉えているのか? ――この作品では「H」もそれなりに念が入っているのである。
そうした「道具」のひとつとして、魔法クラブの「ユニフォーム」をはじめとする衣装にちょっち注目してみよう。
このユニフォームのデザインもなかなか作品のコンセプトに沿って「H」である。身体の前と後ろをマント状の布で隠している。このマントは、身体の線を隠して、その人の身体の個性が外に現れないようにする機能のものであるはずだ。だいたい「ユニフォーム」ってものの機能は、ほんらいは個人の個性が外に現れるのを抑制し、その集団の個性をアピールするところにあるものである。
ところが、このマントを着けていても、とくに少女キャラのばあい、身体の個性を強くアピールする肩や鎖骨や腿は見えるようになっている。しかも、風でマントが翻ったり、横から見たりすると、隠しているはずの身体の線がもろに見えてしまう。たとえば、自転車で飛んで落ちた沙絵が高倉に近寄っていく場面では沙絵の身体の線がそのまま見えている。
男性キャラでは、油壷だけが肩が見えるユニフォームを着ている。横を向いた場合に身体の線が見えてしまうのは男性キャラも同じだが、配色が黒と白なのであまり目立たない。男性キャラでも、高倉がまったく無頓着なのに対して(それなりにかっこいいデザインのはずなんだが)、油壷はさりげなく身体が目立つようにふるまっているように描かれている。
また、ユニフォームではないが、胸の開いた服を着ている茜はもちろん、ボーイッシュなかっこうをしている七香も、鎖骨のあたりとおへそは見えるように描かれている。……やっぱり「H」を意識した演出は細かい。
……で、ここで話そうと思っているのはそのことではない。
冒頭、魔法や、りっぱな魔法使いとしての高倉先輩へのあこがれを照れなしに口にするときの沙絵だけは私服姿である。今回は沙絵の私服姿はここだけだ(なお背後に魔法クラブではなく北野橋高校の制服が見えている)。そのあと、沙絵はずっと「ユニフォーム」を着ているが、そのあいだじゅう、沙絵は、自分は魔法がうまく使えないのではないかという恐れ、また自分は魔法が使えないというコンプレックスから解放されることはない。ほうきで空に飛べたのもつかの間、沙絵は最大の弱点であるおしりの傷みを感じることになる。
「魔法使い」としての服装をしていないときには「魔法」にすなおなあこがれを抱いているが、「魔法使い」としての服装をすると「魔法」に自信のない自分に直面する。「ユニフォーム」はそういうものとしてここで使われているのだ。
一部の魔法少女ものや変身少女ものでは、変身後の服装はそのキャラクターを端的に表すものとして描かれる。佐藤カントクの昔の作品『セーラームーン』では、うさぎが最初に変身した当初はともかく、その後はいずれのセーラー戦士もセーラー戦士のコスチュームで戦うことに義務感すら感じるようになる。それ以上に変身後のキャラクターに何の疑問も持たなかったキャラクターがアニメ版『赤ずきんチャチャ』のマジカルプリンセスで、初登場で何のためらいもなく敵キャラをマジカルシュートでやっつけている。逆に、「魔法使いの成長物語」として『魔法使いTai!』が強く意識していると思われる劇場版映画『魔女の宅急便』では、キキはふだんから魔法使いの服装をしていることを強いられ、その服装に最後までコンプレックスを持ちつづける。
たぶん、「魔法使い」の服装を着ていても自分の魔法に自信を持てるようになったとき、沙絵はひとつ「成長」したということになるのだろう。そういう沙絵のいまのあり方を示す道具として、この「ユニフォーム」は使われているのだ。
「風のように……」と言ったとたんに帽子が風に飛ばされて自転車と沙絵がガードの反対側にコケてしまうのはお約束である。それにしてもアレで飛んでしまった帽子がどうして対ツリガネ戦で飛ばされずにすんだのだろう?
ともかく、このいかにも「頭のとがった宇宙人か魔法使い」風の帽子をかぶっているかどうかは、場面によって意図的に使い分けられているようだ。沙絵が帽子を飛ばすのが上記の場面で、つづいて埠頭で自転車から落ちたときに沙絵は帽子を飛ばしてしばらく頭を見せたまま高倉先輩にすりよりながら話をしている。ちなみにこの場面では高倉が沙絵の帽子をかぶっている。落ちてしまった沙絵が箕輪と吉本と話すときには、沙絵は帽子を自分の正体を隠すための手段として使っている。
また、埠頭の場面で魔法クラブの活動をまじめにやる気のない高倉と油壷は帽子をかぶっていない。物語の最後、沙絵にやさしい声をかける場面では、高倉と油壷のうち高倉だけが帽子をかぶっていない。その直前、沙絵を飛ばすために魔法をかける場面まではかぶっているのだが、海に落ちて、頭からかぶさってきたランジェリーににやける場面ではなくしてしまっている。
沙絵や高倉にとって、この帽子とはいったい何なのだろう? あるいは、「この帽子が表しているもの」は、沙絵や高倉、それに油壷や七香にとって何なのだろう?
ツリガネのまわりの5月の入道雲は『天空の城ラピュタ』の「竜の巣」であるし、ほうきに乗って飛び上がるまでに「集中」のためのウォーミングアップ時間があるとか、魔法使いの少女が空中でほうきのコントロールに失敗するとかいう描写は、いうまでもなく『魔女の宅急便』にある。そもそも、「私たちの世界とそう変わらない世界での、少女を主人公にした魔法の修行の物語」という構成自体が『魔女の宅急便』に共通している。というより、論点を先取りして言えば、逆であって、そうであるからこそ『魔女の宅急便』を思わせる描写をあえて導入したのだろう。
パロディー的な描写はそれにとどまらない。冒頭は「板野サーカス」そのものであってすでにパロディーではないとしても、たとえば、場面転換に離陸していく大型飛行機を下から映した場面を使うのは、『機動警察パトレイバー』で「東京の(首都圏の)海辺」を表現する手段として頻繁に使われたものだ。『攻殻機動隊』でもこの描写は使われている。この場面転換の飛行機に、その航路を横切っていくツリガネの球体を加えることで、「この作品での東京湾岸」がどういう場所かが印象づけられるという仕組みだ。この場面は、もちろん『パトレイバー』を見ていなくてもどういうことを狙った描写かは理解できるだろう。だが『パトレイバー』を見た者にはとりわけ強い印象を残す描写であるはずだ。
また、この作品の音響を担当しているのは、やはりスタジオジブリの諸作品や多くの押井守作品の音響を担当したオムニバスプロモーションである。そのこともあろうが、オムニバスの音があちこちで活かされている。アバンタイトルの空母の上でなる警報音は『パトレイバー』の特車二課で使われたもののようであるし、ツリガネのロボットの飛行音は『ラピュタ』のフラップターにどうも似ている。そのすこし前、七香のほうきがツリガネの光線で消されてしまう場面の効果音も『ラピュタ』で使われていた音のようだ。
だからただちに『魔法使いTai!』がジブリ作品や押井作品のパロディーだということにはならない。また、『トップをねらえ!』のように、パロディーであることを「売り」にしている挑戦的なアニメであると言いたいわけでもない。だいたいこういう点に気づく視聴者がどれだけいるか。『トップ』は、明らかにそういう視聴者だけを狙って売られたアニメである――ことはないんじゃないかとさいきん疑っているがその話はまたにして、とりあえずそうである。だが、『魔法使いTai!』では、そうしたパロディー的要素に気づかなくても、作品は十分に楽しむことができる。
このようなパロディー的描写や音響がどこまで計画されたものなのかは私にはわからない。ほうきの描写は、先行作品として『魔女の宅急便』がなくても必要なものだったろう(もちろん『魔女の宅急便』がなければ『魔法使いTai!』の企画の内容はずいぶんちがったものになっていたろうがそのことはとりあえず措くとしよう)。また、音響も、たまたまオムニバスプロモーションが音響を担当し、その音響監督がたまたま適当な音としてオムニバスにある音源からそうしたものを拾ってきただけにすぎないのかも知れない。
だが、これを、ジブリ作品(とくに宮崎駿監督作品)や『パトレイバー』をずいぶん熱心に見てきた者の側から見ると、そこにある一貫した演出効果を感じることができる。
これらの作品を見慣れた者は、「こういう話は『魔女の宅急便』にあったじゃないか」とか「この舞台は『パトレイバー』と同じ東京湾岸なんだな」とかいうことをこの作品を見ながら感じるであろう。そして、そのままほうっておいたら、たとえば(あくまで「たとえば」だが)「これだったら『魔女の宅急便』のほうが出来がいい」などと、すぐに両方の作品を比較して、しかも既知の作品のほうに高い評価を与えていま見ている作品の価値を貶めてしまいがちである。もちろんこれはあまり意味のない比較だ。いまの例でいうと、『魔女の宅急便』と『魔法使いTai!』との『魔女の宅急便』らしさを比較しているのだから、『魔女の宅急便』のほうが高く評価されるに決まっているのである。そうでないとしたら先行作品がよほど情けない出来なのである。これは、いま見ている未知の作品の「得体の知れなさ」に対するアニメ作品を評価する者の防衛反応だと見ていいだろう。
そういうところに先行作品のパロディーに見える描写が出てきたとする。そうすると、そのファンが作品を見る視線はまったくちがったものになる。「そうか、この作品もあれを意識して作られていたのか!」と、目の前に見ている作品の得体の知れなさは大幅に減殺されるはずだ。親近感すら感じるかも知れない。作品の側からいえば、その作品に敵意あるものになりかねない「先行作品を見慣れた視線」の向きを転換して、その作品に親しみを覚えさせる役割を果たすものに変える働きがあるわけである――ちょうど沙絵の魔法がツリガネのロボットをパンダのおざぶとんに変換したように(ホントか?)。
ともかく、意図したのか意図せざる結果なのかわからないが、この作品のパロディー的な一面は「おたく的視線」に対するアクティヴなシールドとして機能しているようである。