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3.「繰り返し」の物語



 前章において、『王立宇宙軍』の「世界」には「物語」は一つとは限らないと書いた実際の映画においては「宇宙軍がロケットを作り、シロツグが飛行士になって宇宙に行く」という「物語」が選択されたわけだが、それはあくまでメインストリームである。この映画はそれに付随するさまざまな「物語」を合わせ持っている。たとえば、こんな「物語」はどうだろう。

 劇場公開時にはカットされた場面で、牛乳を飲むシロツグが出てくる。ここではまだ牛乳は「珍しい飲み物」(まあスポーツドリンクやウーロン茶が出たときのことを想像すればよい)で、マティは「よくそんなものが飲めるな」と言う。(これに対してシロツグが引き合いに出すのが、1章で引用したネッカラウトにかかわる台詞)

 しかし、そこからしばらくしてそのマティが牛乳を飲んでいる場面が出てくる。(「発射場移転」の新聞記事を読む場面)新聞記事に驚いて立ち上がったマティが牛乳瓶を蹴飛ばして、その滴がほかならぬネッカラウトに降りかかる。

 やがて、シロツグがその牛乳の広告に起用され、その写真がネレッドンの手にも渡ることになる。暗殺婆に追われる場面では、この広告看板に銃弾が打ち込まれ、さらにシロツグ自身がその広告看板を突き破って落ちてくる。最後には食事をする将軍の卓上にこの牛乳を認めることができる。

 これは『王立宇宙軍』という映画の中に見られる、また別の「物語」といえないだろうか。別の言い方をすれば、「宇宙軍の有人飛行計画が遂行される期間に、王国では牛乳が普及した」ということになる。その気になれば「オネアミス王国における牛乳普及史」というものを作ることもできるだろう。

 それはともかく、ここで重要なのは「牛乳」というアイテムが何度も映されることでこのような「物語」の存在を確認できるという点である。しかもそれらの多くが何らかの関連性を持っている。「よく飲めるな」といったマティが牛乳を飲んでいる皮肉。さらにはそれが、牛乳にいちはやく飛び付いたネッカラウトに「降りかかる」。あるいは、(この映画の中で)最初に牛乳を飲んでいたシロツグが、その広告に起用された事実。 (しかもその写真が何度も使われる)

 明確な物語の有無はともかく、「同じもしくは類似の事物や事象を繰り返し映しだす」という手法がこの映画にはこのほかにも多数存在する。わかりやすい例からあげよう。シロツグの訓練の中に、体に紐を結わえ付けてビルの屋上から飛び降りるという、一種のバンジージャンプがある。この訓練の絵はこの映画の中に3回使われている。

 これなどはごく単純な繰り返しに属する。(ただし、「落下と上昇」というのはこの映画における重要なモチーフの一つ。今は割愛させていただく)

 再び、第一章のように思いつく限りこうした「繰り返し」を羅列してみよう。

 冒頭の同僚の葬儀(00:04ごろ)→グノォムの葬儀(0:52ごろ)

 冒頭の葬儀でシロツグだけが礼服を着ていない(0:04ごろ)
→その次の盛り場ではシロツグだけが軍服を着ている(0:09ごろ)
→マジャホたちを送り出す場面ではシロツグだけが礼服(1:18ごろ)

 冒頭近くで宇宙軍屋上に設置されるネオンサイン(0:07ごろ)
→再度画面に映される(1:03ごろ)

 パンを食べながらマティと会話するシロツグ(0:07ごろ)
→牛乳を飲みながらマティと会話するシロツグ(0:44ごろ、公開時なし)
→パン?を食べながらシロツグと会話するマティ(1:19ごろ)

 盛り場での宇宙軍士官たち(0:09ごろ)→再度の盛り場(1:02ごろ)

 盛り場で布教するリイクニ(0:13ごろ、1:09ごろ、1:56ごろ)

 鏡を見て髭を剃るシロツグ(0:14ごろ)
鏡を見て櫛で髪をとぐシロツグ(1:38ごろ)

 テルシを焼く鍋(0:16ごろ)
→取り壊されたリイクニの家の跡に映される(0:47ごろ)

 マナの「お星様」の台詞(0:38ごろ、1:29ごろ)

 教官がシロツグに「残業代」の硬貨を放り投げる(0:08ごろ)
→シロツグが物乞いに硬貨をばらまく(1:07ごろ)
→リイクニのポケットから硬貨が飛び出し、床に散乱する(1:13ごろ)

 シロツグがリイクニの家の燭台(?)を倒して壊す(1:10ごろ)
→その燭台をシロツグが寝ながら眺める(1:13ごろ)
→リイクニが強姦しようとしたシロツグをその燭台で殴る(1:16ごろ)

 シミュレーターを覗くネッカラウト(0:41ごろ)
→打ち上げ直前、ほぼ同じアングルでカメラを回している(1:40ごろ)

 TVに映るトネス殿下(0:43ごろ、0:54ごろ)

 道を走る清掃車(1:04ごろ)
→暗殺婆が清掃車でシロツグ暗殺を企てる(1:24ごろ)

 清掃車が出す水(1:25ごろ)
→ロケットの発射台の下に注がれる水(1:47ごろ)


 これらの中には、いささか無理に「似ている」あるいは「関係がある」と思われるものもあるかもしれない。特に最後の二つは「絵として何か関連があるのかな」という程度のもので、「そんなものまで取り上げる必要があるのか」という向きもあろう。

 しかし第一章で触れたとおり、映画はほんの些細な事物ですら「情報」として視聴者に与えることができる。視聴者はそうした「情報」を様々に関連づけながら映画を見ている。(「映画を見る」とはただ眺めるのではなく、そうした関連づけの集積である)実写より少ないとはいえ、アニメーション映画としては異例の情報量を持つ『王立宇宙軍』においても、それは例外ではない。

 映画において、同じ場面や場所・事物を繰り返し映し出す手法自体は、古くから何度も使われてきたもので、とりたてて目新しいものではない。もちろん中には『うる星やつら2』のように「あ、これは繰り返しの手法を使っているな」と思わせること自体を目的の一つにした高度なものもあるが、一般的には「視聴者の記憶を喚起すること」が目的である。

 また、一つのものを映し続けることで別の文脈を語る例としては、黒沢明のデビュー作『姿三四郎』に出てくる下駄の描写をあげることができる。これは、辻試合で三四郎が脱いだ下駄の変転―ドブに転がっていたり、雪の日に生け垣に差し込まれていたり、猫がじゃれる相手にされていたり―の描写を続けることで、その後の時間的経過を間接的に物語っている。

 『王立宇宙軍』における「繰り返し」の描写も基本的にはそうしたスタイルの延長線上にある。ただし、『王立宇宙軍』において特徴的なのは、既に指摘したとおり単純に同じ場面や場所の描写を繰り返すのではなく、何らかの変化や関係が絡んでいることが多い点である。

 牛乳や燭台がそのよい例だが、その事物が「被作用→作用」という関係をはらんでいる例。あるいは硬貨のように、「落ちる」という動作を共通させながらその動作に含まれる意味を微妙に変えている例。服のように、「シロツグ一人だけが違う」という構図を違ったシチュエーションの中で描いた例。しかし、それらが「あくまでエピソードの付属的な描写」にとどまっている、という意見も当然予想される。牛乳はともかく、先に列挙した「繰り返し」の描写すべてから、何らかの「物語」を抽出することは確かに難しいかもしれない。しかし、この映画における「繰り返し」の描写はそれだけだろう か。

 いや、もっと大きな「繰り返し」がこの映画にはある。シロツグが地上で訓練のために乗り続けた「パパからのプレゼント」(ネッカラウト)のシミュレーター。考えてみれば、シロツグの宇宙飛行自体がこのシミュレートの「最後の一回」に過ぎなかったといえないだろうか。もちろんその「最後の一回」と地上の訓練との間には大きな差異が存在する。また、地上で行われる訓練には実際の飛行で体験することのないものも多く含まれているはずだ。しかし、にもかかわらず、それ自体が「繰り返し」であるということの意味が損なわれるわけではない。

 シロツグの次の台詞を思い起こしてみよう。

 「たった今人類は星の世界に足を踏み入れました。海や山がそうであったように、かつて神の領域だったこの空間も、これからは人間の活動の舞台としていつでも来れる、くだらない場所となるでしょう。地上を汚し、空を汚し、さらに新しい土地を求めて宇宙へ出ていく。人類の領域はどこまで広がることが許されているのでしょうか」(1:52ごろ)

 宇宙に来ることが「(山や海などの)未知の領域を我がものとする」ということの繰り返しであるという主張がここには述べられている。山に登ったり海を航行することと宇宙に飛び出すことは、形の上では全く違う営みである。しかし、それらが「未知の領域を我がものとする」という点で同じ次元に属しており、時系列的に見ればそれは「繰り返し」にほかならない。他方、地上のシミュレーター(での訓練)と実際の宇宙飛行は、逆に本質の点で大きな違いがあるとはいえ、形の上では「同じ営み」に属し、時系列的にはやはり「繰り返し」である。

 ここには「同じことの繰り返し」という言葉の2種類の態様を見ることができる。しかもその一方が他方に対して入れ子になっているのだ。

 このことから、前の章で指摘した点がもう一度思い起こされる。それは、『王立宇宙軍』という物語(の中のシロツグの物語)の「固有性」ということだ。

 シロツグの「物語」は「誰かがやっていたかもしれない」ものではあってもシロツグ以外の物語」ではありえない。つまり、「同じこと」かもしれないが、それは「単純な反復やコピー」ではないのだ。ただ一度(本編に限って言えば)の本番の宇宙飛行が、シミュレーションと形はほとんど同じでも、全く異なった意味を持つのと同じように。

 「単純な繰り返し」とは言ってみれば「固有性の否定」である。「前と同じこと」にオリジナリティを求めることはできない。しかし、「非常によく似ていても、どこか違う」ことは、置き換えることが不可能なものだ。その意味で、これらの「繰り返し」の描写は、シロツグの「物語」の固有性とパラレルなものだということができる。

 しかも、そうした「繰り返し」の描写が『王立宇宙軍』という映画(の物語)に包み込まれた形で描かれているのだ。

 あるいは、こう言い直すこともできるかもしれない。「単純な繰り返しではないところに『物語』は発生する」。


 この文章においては、直接テーマやストーリーに触れないことを旨としてきたのだが、このような「繰り返し」の姿からは、本編の次のような台詞を思い浮かべることができる。

 「神は火によって永遠に生きた。ダウはその燃える薪を拾うと一目散に逃げ出した。竈の守はあらかじめそれを知っていたので火には呪いがかけられていた。ダウが火を持ち帰り、神と同じように煮炊きすると、彼の七人の息子が死んだ。これが人の死の始まりである。ダウの前に神は降りられ、そして予言された。人よ、あなたは呪われてしまった。あなたの子孫はみな争って奪い合い、苦しみながら暮らすであろう。そして災いは地の涯までも広がり、一人が何度でも殺されることになるだろう」
(リイクニの経典、0:49ごろ)

 「同胞を異民族の侵略から守るため必死で戦った。しかしそれが正義などではなく、太古の昔から繰り返されてきた殺戮の歴史をなぞっているだけであることもよく知っていた。(中略)歴史は破産するまで終わらないゲームなのだ。たぶん、間抜けな猿が始めたに違いない。昔へ戻れだと?道は一本きりだ」
(カイデン将軍の台詞、1:28ごろ)

これらに、宇宙でのシロツグの台詞が付加されて、この作品における「文明論」的な論点が出そろう……ようにも見える。その当否は措くにしても、その「繰り返し」の語られ方と、本編における「繰り返し」の描写がパラレルな関係にあることは認めざるを得ない。「繰り返し」という言葉が持つ虚無(それは「単純な繰り返し」に帰せられるものだが)にひれ伏すのでもなく、他方「繰り返しでない」ことを否定もしない。

 もちろん、そうした描写は直接テーマと結びつくものでも、そこから演繹されたものでもない。もっと豊かな「物語」の生成の中で、「物語」の中で語られた「主張」のスタイルと、「物語」の描写のスタイルが同じ構造を持っていた、と考えた方がよいように思われる。(テーマと直結させて見ることで、どれほど映像の味わいが失われてきたことか)

 この「構造の一致」は、『王立宇宙軍』が見た目よりもはるかに深く強固に作られていることを示している。。そして、この映画の作り手たちが「高度な情報量を持ったアニメーション映像」という形式を使って語りたい「物語」に、きわめて自覚的だったということを雄弁に物語っているのではないだろうか。






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