4.結びにかえて──語り足りなかったことなど
一応これで本論は終わりである。しかし、筆者はこれで『王立宇宙軍』という映画を十分語り尽くせたとは思っていない。むしろ逆である。語りたいことがたくさんあるのに、時間と文章にする能力がないことを歯がみしているのだ。
以下、まとまった形で文章にすることはできなかったが、筆者がとりあげたいと考えていたいくつかの点について簡単に触れて、拙文を終わりにしたい。これらの点について、読者の方の考えを触発することができれば望外の喜びである。
@この作品における3つの「死」について
『王立宇宙軍』において「死」が描かれる(メインの)登場人物は3人いる。グノォム、暗殺婆、そして実験で死んだシロツグの同僚である。
グノォムについては、その葬儀の描写がシロツグの同僚の「繰り返し」になっていることを前章で取り上げたが、時間的にもこれは映画のほぼ中間点に当たっている。
同僚は、映画の中で「存在は語られるが、一度も姿を見せない」キャラクターである。彼の死がこの映画の「物語」の出発点になっていることはすでに述べた。「存在は何度も語られながら一度も登場しない人物」というのは押井守が繰り返しこだわっているモチーフでもある。
暗殺婆の死自体は前の二者に比べればさほど大きくない。それはシロツグが「殺した」という部分の方に大きな意味があるからだが、それでも「その死がシロツグの行動に影響を与えた」という点では共通していよう。
これらの点については一度きちんと検証してみる必要があるように思われる。
(たとえば押井作品などとの比較)
A天候の描写について
この作品で雨が降る描写は3箇所ある。最初はシロツグたちが空軍に飛行訓練に行く場面。ここではシロツグの離陸前には曇天で、シロツグが雲の上の青空飛行から帰ってくると本降りになっている。そのあと、空軍との喧嘩シーンにつながるのだが、雨で部屋の中にいるという湿った雰囲気が効果的に使われている。
次に、宇宙軍本部の前に「反対派」の群衆が押し寄せる場面。最後にシロツグがリイクニの家に居候を決め込んだ場面である。これらに共通しているのが、「孤立」「遮断」という点ではないだろうか。反対派の場面では、「世間」の前に宇宙軍士官たちは孤立し、シロツグは弱音さえ吐く。一方、リイクニの家の場面はこの映画の中でシロツグがリイクニともっとも近づいた時間であった。(強姦未遂が起きたのはその夜)翌日、謝るシロツグにリイクニが「すれ違い」に近い答えを返す場面が好天だったのもその対比では興味深い。こうした効果は過去の映画(たとえば、『ガンダム』でアムロとララァが出会う場面)でも見られたものであるが、『王立宇宙軍』においてはどのような意味を持っていたのだろうか。
また、昼・夜の別という点でこの映画の場面を眺めてみるのも面白いかもしれない。
B上昇と落下
本編の中で(アバンタイトル以外に)シロツグのモノローグ(というよりナレーション)が入る唯一の場面がある。それは、0:34ごろから始まる人工衛星についての説明である。この中でシロツグは人工衛星を「地球の丸みに沿わせておっことす」「落下するために上昇するだけのまったく何でもない仕掛け」と説明している。(3章で取り上げた「バンジージャンプ訓練」の絵もこの部分に一つある)
宇宙飛行前に2回あるシロツグの飛行シーン(空軍の訓練機と、発射場に向かうヘリ)や、リイクニの宇宙観(「不浄な地上」)、さらにはシロツグたち宇宙軍が(一般には)「落ちこぼれ」として見られていることとも合わせると、このモチーフが『王立宇宙軍』の中で占める割合は、案外大きいように思われる。
また、「物語」の固有性という点に関しては、この映画でシロツグの視点からの描写が多用されている事実も指摘しておいてよいだろう。
このほかにもおそらく、見ていけばきっと「あれ、これは?」と思う部分が出てくるだろう。『王立宇宙軍』はそうした再見に耐える映画であるし、見れば見るほど奥の深さを感じる。
この文章を最後まで読んだあなたは、きっと『王立宇宙軍』という作品にそれなりの意識を持って見ているはずだ。(そうではないけれど読んだという人がいれば……ご苦労様です)だから、『王立宇宙軍』のよさというものを筆者がくたくだしく説明しなくても、あなたなりの理由でわかっているに違いない。よって、この文章には『王立宇宙軍』のここが素晴らしい、という記述がない。それは筆者もまた自分なりに考えていることである。ただ、それを前提にしてこの文章が書かれていることだけは明言しておきたい。そうでなければ、誰がビデオを何度も早送りして場面の確認と台詞起こしまでするだろう。
最初にも書いたが、単純なストーリーとキャラクターの煩わしい「主張」に、いい加減な評価をしてこの映画を放り投げてしまった人は何と不幸なことか。しかし、それはここでは言うまい。(エンタティメント性に欠ける、という主張はある程度認めるにしても)快感原則だけで映画を見ること自体は否定しないが、それは映画にとってもその人にとっても不幸なことである。とりわけその人が「物書き」を自称している場合はなおのことであろう。
拙文を読んで「もっといいのを書いてやる!」という人物が出ることを筆者は期待しているのである。
この項終わり
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