2.主人公とは誰か
普通、「物語」においては主人公は絶対的な君主である。これは前章の最初の方で触れた。しかし、『王立宇宙軍』においては「自我を持つ個人」という点でキャラクターの間に階層の差異は存在しない。
しかも、この映画の冒頭においてシロツグはこんなモノローグをもらしている。少し長いが、もう一度思い出していただこう。
「いいことなのか、悪いことなのか、わからない。でも多くの人間がそうであるように、俺もまた自分の生まれた国で育った。そしてごく普通の中流家庭に生まれつく ことができた。だから貴族の不幸も貧乏人の苦労も知らない。別に知りたいとも思わない。子供のころは水軍のパイロットになりたかった。ジェットに乗るには水軍に入るしかないからだ。速く、高く、空を飛ぶことは何よりも素晴らしく、美しい。でも、学校を卒業する2ヶ月前に、そんなものにはなれないってことを成績表が教えてくれた。だから、宇宙軍に入ったんだ。」
ここからシロツグが「落ちこぼれ」であることを読み取るのは難しくないし、いわゆる「王立本」でもそういう見方は多い。それはそちらに任せるとして、ここで強調されているのは、シロツグの「普通さ、平凡さ」である。落ちこぼれとはいっても、それは決して「貧乏人の苦労」とは違った次元の話だ。はっきりいえば「誰もが体験する挫折」の一つにすぎない。
普通であるということは、「物語」の主人公としてはおよそ不向きであることにほかならない。通常「一見普通に見える」人物が主人公たるためには、裏に別の事情が存在しなくてはならないが、それすら持っていないのである。
この映画の特徴の一つに、メインキャラクターにはほとんど血縁関係というものが絡んでこない点が上げられる。しかし、それは欠如を意味するのではない。血縁者の欠如もまた、それを材料とする物語を生む。だが宇宙軍士官には親がいるらしいことは台詞にほのめかされている。(マティ「親が泣くぞ」。あるいは、マジャホの「実家」の存在)リイクニはマナと擬似家族を営んでいるが血の繋がりはなく、信仰上の使命感から養育しているにすぎない。
実写・アニメを問わず多くの映画で血縁が何らかの形で登場し、物語の上で重要な要素になることが少なくないことを考えれば、これはかなり珍しいことである。同時に、それをキーにできないことをも意味する。
したがって、シロツグが宇宙飛行士を志願した理由はきわめて「いいかげん」なものにならざるを得なかったし、だからこそ、そのあとこう言われなくてはならなかった。
「これはおまえが始めたことなんだぞ」(ドムロット、0:55ごろ)
この台詞はシロツグが「橋の方が一人乗りの宇宙船より役に立つ」という「反対派」の主張に賛意を示したことへの返事である。これに対してシロツグは「俺が?まさか」という答えをよこす。素直に読めば、計画をめぐるさまざまな反応に直面してシロツグが弱音を吐き、それにドムロットがむっときたというやりとりだ。
シロツグの弱音を「世間にぶつかった若者の苦悩」や「覚悟のなさの裏返し」という次元に還元してみることはもちろん間違いではない。が、ここではもう少し違った視点から見てみたい。ドムロットの台詞は半分正しく、半分正しくない。仮にシロツグが志願しなくても有人宇宙飛行計画は誰かの手で行われていたはずだからである。思い出してみよう。この映画のタイトルの直後に描かれる葬式は、シロツグの預かり知らぬ宇宙服の実験で死亡した「同僚」のものだった。そして、シロツグはダリガン言うところの「(将軍の)また次の手」の一つにすぎない。
つまり、シロツグが志願しなくても別の誰かによる有人宇宙飛行はありえたかもしれない。ただし、その場合シロツグを飛行士(=主人公)とした「物語」は存在しなかったし、われわれが今見ているこの『王立宇宙軍』という映画もまた別の映画になっていたはずである。その意味でまさにこれは「シロツグが始めたこと」なのだ。
シロツグがなぜ「いいかげん」な志願をしたのかという問いには明確な答はない。それはあえて言えば「シロツグが主人公だから」ということになるが、なぜシロツグが主人公なのかという質問自体がこの映画を無効化してしまう以上、答えることは不可能なのである。
ただ、一つ言えることはシロツグが主人公に「なるべくしてなった」のではなく、『王立宇宙軍』という映画を成立させるという、ただそれだけのために主人公を演じてみせたということだ。血縁等の動機づけもなく、作品世界の中で優越した「人格」でもない(他のキャラクターもみな独立した「自我」)という条件の中では、それが残された唯一最低限の「主人公」の資格だからである。
青空市場(?)でのマティとシロツグの会話(1:19ごろから)はいわばその駄目押しのようなものだ。シロツグはこう尋ねる。
「もし現実が一つの物語だったとして、そう考えた場合に、もしかしたら自分は正義の味方じゃなくて悪玉なんじゃないかって考えたことはないか」
この質問を「自分のしていることの意義を確かめられない」という、多くの人が経験する現実の悩みに還元するのは正当である。が、同時にわれわれが見ているのはほかならぬ「王立宇宙軍という物語」なのだ。そう考えると、この時点でもシロツグは「主人公」を引き受けることを「躊躇」していた、と読み替えることは的外れではあるまい。
それに対するマティの答は実に示唆的である。
「周りの奴等、親とかみんな含めて、そいつらが俺をほんのちょっとでも必要としているからこそ俺はいられんじゃないかと思ってる。(中略)この世にまったく不必要なものなんてないと思ってる。そんなものはいられるはずがない。そこにいること自体誰かが必要と認めてる。必要でなくなったとたん消されちまう」
素直に読めば、ここにこうやって存在している以上、自分は誰かに必要とされているということになろう。実際シロツグはそれに勇気づけられ、われわれもその答に安心する。しかし、この答えは「消されちまう」可能性を否定しているわけではない。そしてこのやりとりのすぐあとに、シロツグ個人の抹殺を企てる暗殺者(暗殺婆−実はじじい)が出現するのだ。
執拗なまでの追跡。にもかかわらず、暗殺を企図した側の主目的はシロツグではない(ロケット打ち上げを遅らせて奪取する時間を稼ぐためとされている)その理不尽さがかえってこの暗殺(未遂)劇を「物語」への挑戦と読ませることを可能にしている。 主人公の抹殺は「物語」にとっての自殺行為にほかならない。それゆえに、われわれは主人公の「不死」を信じ、それを自明のものとしている。実際、ここでもシロツグは最終的には勝つ。が、それは「約束された勝利」というにはあまりに凄惨だ。主人公だからシロツグは勝ったのか、それとも勝つことで自らが主人公であることを示したのかというトートロジーにすら陥りかねない。
シロツグの主人公としての立場は「軽い」。しかし、その「軽さ」が逆に「主人公であること」すなわち「物語」を死守させることにもつながる。主人公のアイデンティティが「映画(の物語)の成立」という、まさにその点にしかなかったために、シロツグは命懸けで自らを消そうとする者に立ち向かったのだ。
「物語」の暗殺者をはらいのけたシロツグは、あとはひたすらその「物語」の成就に向けて突っ走るだけである。「戦争」ですらその相手ではない。ロケット奪取を目論む共和国軍攻撃の報に発射をあきらめかけた管制室に対して、ロケットに搭乗したシロツグは叫ぶ。
「ここでやめたら俺たち何だ、ただの馬鹿じゃないか。ここまで作ったものを全部捨てちまうつもりかよ。今日の今日までやってきたことだぞ。(中略)俺まだやるぞ。死んでも上がってみせる。いやになった奴は帰れよ。俺はまだやるんだ。十分立派に元気にやるんだ」(1:43ごろ)
多くの視聴者の胸を打つこの叫びは、視聴者に対しても投げられたものである。それは視聴者の「実生活」へのアピールばかりではない。「いやになった奴」を、「ここまでこの映画を見ていやになった奴」と読み替えると、この台詞のもう一つの顔が浮かび上がる。見たくない奴は見なくてもいいから、自分たちはこの「物語」を完成させる。だがここで終われば、それは「未完成の物語」でしかない。映画は観客なしには成り立たないが、その「見られること」を拒否しても「物語」にこだわる姿と見るのは穿ち過ぎだろうか。かくてこの映画は、ある意味では予期された結末―─またの名を予定調和―─の大団円を迎える。
文学の世界では「物語」の衰滅がいわれて久しい。「物語」が必然的に存在することを否定し、「物語」が生まれ出る場所そのものまで現代文学は解体し尽くした。映画においても「物語」は必然ではない。しかし、現実には映画の場合「物語」との共存は続いている。とりわけ、アニメーション映画はその情報量の少なさゆえに、実写以上に「物語」に依存し、それを一つの様式として定着させるまでに至った。(難しい話じゃありません。「お約束のパターン」というやつ。ロボットアニメの必殺技、魔法ものの魔法、血縁関係の設定etc……)
『王立宇宙軍』は可能な限りそれに「抵抗」してみせた作品といえるかもしれない。先に上げた血縁関係もそうだし、ヒロインのあり方(およそ「美少女」から程遠く、しかもエキセントリック)、「戦争」の描き方(あの「戦争」の妙に間延びした描写は、かえって現実の戦争に近いように思える)。そして、詳細な設定と、細密な描写がもたらした「自我」の氾濫は、「物語」がなくとも自立してしまうほどの「世界」を生み出した。そこでは「物語」が「世界」を語るのではなく、「世界」から「物語」が出てくる。それは一つとは限らない。その一つが「宇宙軍がロケットを作り、シロツグが飛行士になって宇宙に行く」という「物語」なのだ。シロツグ以外の誰かでも主人公になり得る。つまり、「物語」はここでは絶対的なものではない。しかし「シロツグが主人公の物語」は一つしかなく、それはまぎれもなく「物語」である。
『王立宇宙軍』は「物語」を捨て去らなかった。それを「物語の呪縛」と言うのはたやすい。だが「たかが一介の商業アニメーション映画」に「物語の放棄」など求めるのは間違っている。むしろ、「物語」の危うい時代にその「不安定さ」を見せつつ、「物語」への(そして「アニメーション映画」への)オマージュを隠さなかったことを筆者は素直に認めたいと思う。「主人公」を全うしたシロツグというキャラクターをも。
そのほか、リイクニには「おば」がいたり面倒を見てくれる「ゴリおじさん」(肉親の「おじ」かは不明)がいたりするが彼らは画面にまったく出てこず、リイクニが彼らとどのような関係にあるのかを見ることは不可能である。
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