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1.「キャラクター」との出会い


 あなたは今までに、何の予備知識も用意もなしに映画館に飛び込んでたまたま上映中の映画を見たという経験があるだろうか。宿代わりにオールナイト映画に入ったとか、もしくはよほどの映画マニアであるということがなければ、そんな人はまずいないだろう。多くの人は前もって何らかの情報−予告編、広告、紹介記事、パンフレット、口コミ、その他−を仕入れた上で映画館に出かけていく。その時点で映画と視聴者の間には一つの共通な認識というべきものが生まれているといっていい。(実際の映画がその認識を裏切る場合があるのはまた別の問題である)そして、今日の商業映画の大半はそれを前提として作られている。

 しかし、これを日常で出会う人間関係に置き換えてみるとそれは決して自然な関係ではない。見合いや各種の面接、商談といった局面を除けば、相手の情報を前もって入手してから接触することはまれである。むしろ接触してから徐々に相手の情報を得ていくことになるはずだ。

 あるいは文学や演劇、音楽を考えてみればよい。最近でこそ「あらすじ」や「登場人物紹介」の入った本は多いがそれが多数というわけではない。演劇には予告編が存在しない。音楽にはそもそも予備知識を与える手段自体が乏しい。これらのジャンルは「出会うことによって始まる」という社会における「現実」を現在でもかなりの部分でなぞっているということができる。これらのジャンルはいずれも映画の発生と進化の上で大きな影響を与えたものである。

 にもかかわらず、なぜ映画だけが「出会いの前の共通認識」を半ば前提とするようなスタイルを黙認されたのだろうか。一概には言いにくいが、「短い時間に膨大な情報を一方的に与え続ける」という映画のシステムがそれを決定付けたのは間違いあるまい。われわれは今ではそうしたシステムを自明のこととしている。が、ここではまず「現実」の人間と出会うように、予備知識なしに『王立宇宙軍』という映画の登場人物達と出会ったと想定することから始めよう。それにこの映画は後でも触れるが、可能な限り先行する他の作品等からのアナロジーを排して作られている。

 冒頭、一人の少年の姿が描かれ、それに声優(森本レオ)のモノローグがかぶさる。このことから視聴者はこの少年がこの声の主であって、かつこの作品の主人公なのではないかという思念をめぐらせる。しかし、この時点ではまだこの少年の名前はわからない。タイトルロールが終わると、一人の青年が登場する。どうやらさきほどの少年の成長した姿のようだ。続く場面でこの青年の同僚と思しき一団の青年と、上司と思われる人物を認めることができる。しかしここでも名前は不明だ。ようやく名前らしきものが出てくるのはその次の場面である。

「マジャホのところからパンが送られてきたぜ。こーんな箱ごと」(0:07ごろ)

 この台詞によって、「マジャホ」という名の人物がいることがわかる。しかしそれが誰かはわからない。続いてこんな台詞が主人公らしい青年に向かって投げ付けられる。

「余裕たっぷりだな、シロ」(0:08ごろ)

 この主人公はシロという名前なのだろうか。

 最初にはっきりと人物の名前がわかるのはさらにその次の場面に移って、主人公たちが盛り場へと赴くところである。彼らが賭事らしきゲームをしているシーンに主人公のこんな台詞がある。

「ひでえなマティ、何で俺にばっかり当たるんだよ」(0:10ごろ)

 このことから、視聴者はようやくこの主人公と親しそうなハンサムな男がマティという名であることを認識する。

 主人公の名が明確に示されるにはさらにまだ時間が必要だ。この主人公が盛り場で出会った少女のもとに出向き名前を問われるに至って、彼が「シロツグ・ラーダット」という名であることを知ることができる。ここまでに映画はすでに15分ほど経過している。同時にここでこの少女が「リイクニ・ノンデライコ」で、彼女が連れている男のような女の子が「マナ」であることも知らされる。

 この調子でやっているとそれだけで膨大な紙幅を費やしてしまうので、以下はメインキャラクターの名前がどの時点で明らかにされていったかを順に抜き書きする。

「こちらグノォム博士だ」(ダリガンの台詞。0:32ごろ)
 *ロケットの組立工場での場面。これは登場直後に紹介されている。

「ネッカラウトがこれからの飲み物はこれだって」(シロツグの台詞。ただし、公開時にはなし。0:44ごろ)
 *公開時にカットされた箇所。牛乳を手にするネッカラウトが描かれている。

「共和国のネレッドン政務次官は(中略)はげしく非難した」(TVニュース、ただし字幕。1:07ごろ)
 *共和国側で名前が判明するのは彼だけである。

「チャリチャンミ・マジャホ両2名のグリア天文台への派遣、出発!」(シロツグの台詞。1:18ごろ)
 *この2人の名前が明らかにされる。が、どちらがだれかまでは不明。

「ダリガンは打ち上げ管制の訓練で篭もりっきり。奴もあさってには発射場、俺も一緒だ。(中略)カロックはもう発射場へ行ってじじいどもと張り合ってる」
 (マティの台詞。1:19ごろ)
 *ここでダリガン、カロックの名前が出るが特定はできない。また、公開時にはこの(中略)の箇所でネッカラウトの名が初めて出た。

「こちらグリア天文台マジャホ」(将軍への電話。1:35ごろ)
 *マジャホ判明。同時に消去法によってチャリチャンミも特定される。

「ドムロットさん、発射基地から電話です」(1:40ごろ)
 *ここでドムロットが判明。

 これだけである。カロック、ダリガンの2名は特定されず、ヤナランは名前も出てこない。また、カイデン将軍は本編では「将軍」と呼ばれるだけで、「カイデン・ル・マシーレ」という名前は一切登場しない。さらに宇宙旅行協会の面々はグノォム以外不明のままである。

 判明する人々にしても、マジャホやドムロットがわかるのはほとんど映画の終盤であって、それを気にとめない視聴者も少なくあるまい。彼らの名前がわからないことで鑑賞に困った人はあまりいないはずである。
 しかし一方でこの映画においては、視聴者が特に名前を知る必要のない人物が自ら名前を明かす、という描写が幾つか存在する。シロツグにサインを求めたヘリコプターのパイロット。打ち上げ基地にやってきた国境警備隊の女性士官。彼らはいずれもその場面だけの人物であって、それ以後の作品の展開にかかわってくることはない。「通行人A」と変わらないはずである。「名前のわからないメインキャラ」と「名前のある端役」が共存するというのはどういうことなのだろうか。

 さらに、劇場公開時のパンフレットにはこの映画のメインキャラ一人一人に身長・体重・血液型・趣味にいたるまで事細かな設定が記されている。が、その多くは作中での描写にほとんど関係がない。名前すら明かされない人物もいるのだから。こんな細かな設定と、劇中での取り扱いとは矛盾してはいないのだろうか。

 われわれは映画や文学に接するとき、無意識に一つの仮定を前提にしている。物語には主人公と呼ばれる人物がおり、さらに主人公からの距離や描写の多寡によってその他のキャラクターは重要度で色分けされる。そういう仮定だ。さきほどの「王立宇宙軍」における主要人物の名前の開示がいつかという話も、それを前提にしたものである。だが実際には「名もない庶民」などいはしない。みな「名前」を持っていて、それぞれの「生活」を背負って生きているではないか。そうすると、そうしたキャラクターの「階層性」というのは方便か幻想にすぎない。

 ここで「『王立宇宙軍』は、キャラクターの階層性に疑問符を突きつけた画期的な作品だ」と言ってしまうのは簡単である。だが問題はそんなに単純なものではない。あらゆる人間が「名前」と「生活」を持つキャラクターだという「事実」と、われわれがそれをどう感じているかは、また別の次元の話だからである。さらに映画というメディアの中におけるキャラクターを扱うには、もう一つ別の考察が必要になるだろう。

 まず、前者の方から考えてみよう。われわれはこの世のあらゆる人が名前と生活を有するキャラクター(自我)だと頭で理解することはできる。しかし、実際われわれにとって最も大事な人間はほかならぬ自分であり、そして自分が見知っている一握りの人々を除けば、他の人間とは「存在はしても意識はしない存在」にほかならない。これは人生が代替の利かない個人の占有物である以上、避けられないものである。

 つまり、文学や映画におけるキャラクターの「階層性」と同じことを、われわれは現実の「他者」との関係においても行っている。いや、むしろ文学や映画の方がそうした「自己−他者」の認識を投影したものだというべきかもしれない。だが、それなら『王立宇宙軍』が先に引用したような人物描写をしている意味はますますわからなくなる。ここで、後者の視点−映画というメディアの中のキャラクター−が必要になる。

 映画とは、先に述べたとおり「短い時間の間に多くの情報を一方的に視聴者に与える」メディアである。ここでまず求められることは−「キャラクターの階層性」を自明のものとして受け入れるとすれば−、メインとなる人物の明示と、その簡潔かつ十分な紹介ということになろう。それはまさに「短い時間で知ってもらう」という必要性から来るものである。そのために、作中の時間で登場人物に関する情報はすべて提示される。逆にいえば、作中で描かれた事柄がその人物に関するすべてなのだ。必要とされる度合が少ない登場人物の情報は切り捨てられる。それが映画的了解とでもいうべき「ならわし」である。

 とはいえ、実のところわれわれは「重要でない」人物に関してもそれなりの情報を映画から受け取っているのだ。ほんの一瞬カメラがパンした時に映る人物でも、その容貌や身なりの情報は、活字に置き換えると決して小さくはならない。切り捨てられる、と書いたけれどもそれはあるレベル以上の話である。それはむしろ、映像のもたらす過剰な情報に対するタガだと言った方が適切かもしれない。だが同時に、そうした「情報の過剰」を映画は無視することもできないのである。たとえば、どんなモブシーンでもわれわれは主人公をその中から見つけることができる。むろんカメラワークやフレームワークのもたらす効果もある。が、結局のところその識別を可能にしているのは、実写映像のもたらす膨大な情報なのである。

 つまり、映画におけるキャラクターの階層性は、その膨大な映像情報とのバランスの上に成り立っているということになる。

 さて、ここまで書いてきたのは「実写映画」を念頭に置いてのことだ。いうまでもなく『王立宇宙軍』はアニメーション映画である。この部分を考慮に入れて初めてこの作品における人物描写のスタイルを読み解くことができる。 アニメーションが実写と大きく異なるのはその情報量である。アニメーションは実写よりはるかに少ない情報量しか与えられない。情報量が少ないということは、「情報量の過剰」に悩む必要がないようにみえる。事実、ある種のアニメーション作品−いわゆる「プライベート作品」−は、その情報量の少なさを一種の抽象性に転化させて、実写映画に不可能な作品世界を作り出している。しかし、ここで問題にされるのは「アニメーション映画」なのだ。すなわちそれはアニメーションであるにもかかわらず、映画のような情報量を持つことを暗に求められる、アンビバレンツな媒体である。

 アニメーションを「映画」にするために様々な方便が用いられた。それはたとえばストーリーの簡略化であったり、時間の制限だったりするのだが、ここでは目に見える造形面に限定する。アニメーションのキャラクターは紙に描かれた絵である以上、その情報量には自然と限界がある。これに、動かすためには線が少ない方がよいという作画上の要請も加わり、ただ単に絵として並べただけでは差異が際立たないということになる。それを克服するためになされてきた「約束ごと」を取り上げてみよう。

 たとえば、モブシーンにおいて「動くキャラクター」とそれ以外のキャラクターは多くの場合区別されている。(もちろん「動く」方が重要なキャラクターである)もっと極端な例では、重要でない人物は顔形もはっきりとは描かれない。その昔のスポ根アニメにおいては、しばしば観客は肌色の頭部と服の色の胴体だけのオブジェとして「背景」に描きこまれていた。

 あるいは、こういう点はどうだろう。アニメにおいては主人公がおよそ現実ではありえないような髪(色・型)や服装をしている例は枚挙に暇がない。これは、情報量の少ないアニメにおいて、主人公を際立たせるための手段とはいえまいか。(それを視聴者がなぜ違和感なく受け入れているかについては別の考察が必要だが、さしあたってここでは省略する)

 これらがすべて「情報量の不足を補う」ことのみを目的として作られたものではない。むしろ、他の事情とも複雑に絡み合って結果的にそういう効果をもたらしていたというべきであろう。これらの「約束ごと」はいずれも他のキャラクターの情報を抑制することによって中心となるキャラクターを浮かび上がらせ、「映画的体裁」を「アニメーション映画に与えてきた。

 さて、ここでようやく『王立宇宙軍』に話を戻す。既に述べたようにこの映画ではそうした人物描写は採用されなかった。見ればわかるが、どんなモブシーンでもあらゆるキャラクターに動きが与えられ、その描きこみは「メインキャラクター」とまったく変わらない。描き込まれた情報という観点からは、キャラクターの間に格差は存在しないといっていい。しかもその細かな描き込みが見た目の「均質化」を防いでいる。しかしながら、セル画の持つ「等質感」は(アニメの宿命として)失われない。

 そのことが何をもたらしたか。それを象徴的に示すものの一つが、さきにあげた「名前のわからないメインキャラクター」と「名前のある端役」であるが、ここではそれと別のシーンを取り上げたい。

 上映時間でいうと大体1:03ごろ。さまざまな問題に直面して疲れ果てたシロツグが、夜宇宙軍本部の屋上で酒をあおる場面がある。宇宙軍軍歌を口ずさみながら酒を口に含み、それを下の道路に吐き捨てるシロツグ。アルコールの入った彼の定まらない視線は、周囲の建物を不規則にめぐって行く。その一つの窓が開いていて、その中に一人の婦人が電話で楽しそうに会話しているのが目に入る。その婦人は−シロツグにとっても視聴者にとっても−「どうでもいい」存在のはずだ。しかし彼女がそこで快活に電話している姿を見るとき、われわれは彼女もまた「生活」を持った「他人」、さらにいえば自分とは別個の「自我」であることを認識しないわけにはいかない。

 この場面で描かれるのはシロツグの疎外感とでもいうべきものだが、そもそも疎外感とは「他者」の認識なしにはあり得ないものである。また、同時にこれがシロツグの内面描写であるという点にも注目する必要があろう。

 似たような場面はほかにもある。その少し前に、冬の夜道で警官に取り押さえされる少年が出て来る。画面はこの「どうでもいい」はずの少年の歪んだ顔をいっぱいに映しだす。自分が捕まることの理不尽さを訴えかけるような顔。シロツグはそれを無言で眺めている。まさしく「ただの通りすがり」でしかないにもかかわらず、シロツグは少年を「他者」として認識している。

 主人公やメインキャラ以外に「自我」を持つ人物がいる。しかもそれはよくある「ゲストキャラクター」などではなくて、「物語」の中心からは離れた場所にあふれている。『王立宇宙軍』の世界はいわば「自我」にあふれた世界というべきであろう。

 それぞれのキャラクターが個性を持ちながらなお、「自我」として均質な空間。それは決して実写映画と同質の物ではない。情報量の少ないアニメーションを「映画」として成り立たせるために一捻りしていたのが従来の「アニメーション映画」だとすると、『王立宇宙軍』はそれにもう一つ捻りを加えたものということができる。緻密な描き込みと周到な世界の描写がもたらしたのはそうした空間だった。

 そう考えると、さきにふれた問題、すなわちメインキャラの(画面には出てこない)詳細な設定の意味も見えてくる。つまり、彼らは「自我」を持つ自立した個人であり、映画に描かれるのはその一部にすぎない。映画の中で描かれた事がすべてという「登場人物」ではないのである。名前もまたその一つにすぎない。  ところで、文学における「自我」とは決して古代から存在したものではなかった。表現技法がそうした概念を生み出したのである。「自我」と同じく「内面」もそうである 漫画において、その「自我の発見」の役割を担ったのが手塚治虫であったことを指摘したのは夏目房之介だった。(『手塚治虫はどこにいる』筑摩書房1992年)詳細は夏目の著書に譲るが描線やコマ割り、あるいは目の「光」といった技法がそれと連関している点を鮮やかに示して見せた。

 『王立宇宙軍』のもたらした成果は決して『王立宇宙軍』が独自に手に入れたとばかりはいえないが(たとえばキャラクターの「内面」を描く試みはあの『ホルス』以来いくつもあった)、従来のアニメーション映画にはなかった空間を獲得したという点で、文学や漫画における「自我」の発見になぞらえることはあながち不当ではあるまい。同時に繰り返すが、決して技法が意識的にそれを目的として考案され、使われたものではないのもまた事実である。

 では、そのような空間はこの映画の「物語」という側面に何をもたらしたか?以下はそれに関する考察である。






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