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空談寸評

『とどのつまり…』

コミックス、徳間書店(アニメージュ連載)、押井守原作/森山ゆうじ作画




へーげる奥田



 押井守ファンの間でも、そろそろマボロシの一作になりつつあるのではなかろうか。アンケートを取ってみたいぐらいである。私も一応アニメージュで毎回チェックしていたのだが、時々見落とすこともあった。大学時代の盟友にして当大学SF研の部長(当時)であった眠丑満氏のご厚意によって「ワイド版コミックス」を入手し、貴重な研究資料とさせていただいた次第である。もっとも、「ワイド版コミックス」は連載中のものにいろいろと手を加えてある。オリジナル版はアニメージュ誌上にしかないというわけだ。まあこだわるほどのことではないのだが。

 当時の押井守は、『ルパン3世』の企画がコケたりいろいろあって大変だったらしく、なんとなく全体に陰鬱な空気が漂っている。……って、押井守の作品はみんなそうかな? ともあれ、押井守がバスの中で紡いだちょっとした妄想をライトモチーフとして、物語は見切り発車的に開始されたらしい。

 以前書いた『押井論』という文章で、押井守には「現象の時代」という作品傾向があったと書いたように記憶している。こののち押井作品は、「構造の時代」を経て「意味の時代」へと進行していくのだが、この『とどのつまり…』は典型的な「現象の作品群」に属する作品だ。

 最近、押井作品について「犬と魚と都市論だろ」など訳知り顔でぺらぺら喋る輩が増えた。大学時代、ひとの会話に割り込んできて「ショーペンハウエル? ああそれってエンセイシュギでイシのテツガクでヤマアラシのジレンマなんでしょ」などと教科書に載っているダイジェスト版の知識をぺらぺらとひけらかしてくれる馬鹿がいたのを思い出す。日本の教育は「思考能力の養成」にほとんど力点を置かないため、どんなジャンルでもこういうものの見方しかできない者がいるのかもしれない。

 ……話がそれたが、ともあれこの作品には犬も魚も都市論も出てこない。強いて類型を求めるならば、ハイデッガーの『存在と時間』などにきわめて強く通底するものを感じる。そもそも、押井守の「現象の作品群」には、実存主義的なテーマを色濃く扱ったものが少なくない(ゆえにこれは、「実存の作品群」と呼ぶべきかもしれない)。『ビューティフル・ドリーマー』『天使のたまご』などがそれにあたるが、この『とどのつまり…』はそれがもっとも典型的な形で発露した作品と言えよう。人は誰も、気がつくとそこに「投げ込まれて」いる。いや、ハイデッガーの言葉でなく押井守の言葉を使えば「置き捨てられている」と言うべきだろう。

世界はそのまま巨大な舞台であり
自分を含めてすべての人間はその上で
それぞれの役割を演じる役者なのではないかという
疑問というよりそれは確信に近いものだった
そしてこの芝居が恐ろしいのは
いつ幕があき
どこで幕がおりるのか
演じつづけながら
どうしても思い出せないことなのだ

(『とどのつまり』P.45)


 もしハイデッガーの『存在と時間』を読んだことのある者なら、これがそのまま「基礎的存在論」の方法論的思索であることがわかるはずだ。ただこの本は、ほんのすこしだけ長いし、ちょっとばかり訳のわからん系の用語が多いので(ハイデッガーという人は独自用語を多用するのだ)、すぐにご一読をお勧めするのははばかられる。そこで以前ダイジェスト版のレジュメを書いたのだが、どうもこれもコムズカシかったらしくてあまり読まれていないようである。ただ、もしもハイデッガーの思索のロジックを理解していれば、押井守のたどった道がきわめてクリアに浮かび上がってくる。押井守が「難解」というのはお門違いの評価であって、しかるべき方法を押さえておけばずっと楽しくて深いエンターテイメントであることがわかるはずだ。

 「その世界」には、「未登録児童」と呼ばれる子供たちがいた。彼女らはどこから来るのかわからない。なぜか「社会の敵ナンバーワン」と言われ、黙々と夜の街を徘徊するのだ。腕利きのアニメーター(だったはずの)彼はある日なんとはなしに「未登録児童」の少女をかくまうはめになる。しかし彼の眼前に展開する世界は、少しずつその様相を変え、異様なものとなっていく。いままでただの同僚だと思っていたアニメーターたちが、突如仕事場の床下から軍隊並の兵器を取り出し、「アリス狩り」を行う警察当局と銃砲撃戦を展開する。「アリス」を追う「トランプ」たちと、なぜかアニメーター業界に展開する「アリス」の逃亡を援助することを目的とした非合法組織・CATSとの間にくりひろげられる虚々実々の狂騒のの中で、彼は自分が誰であったのかまるで知らないことに気がついていく。

 物語のラストシーンで登場し、舞台の構造を解説する「演出家」の最後の笑みは、アニメージュ掲載時のものに手が入れられ、よりおぞましく、より不気味なものとなっていた。いくつか著されている(そのうちのいくつかは未完のまま終わっているが)押井守原作のコミックスの中で、最も押井本来の味が出ている重要な一作である。






1998/05


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