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【「温故知新」 本をめぐる雑談】

渡部潤一

ヘール・ボップ彗星がやってくる


(誠文堂新光社、1997年)




 ―― はじめに ――
 ・国立天文台ホームページ
 ・ヘールボップ彗星はどこに、どう見えるか?
について知りたいかたは →こちら をご覧ください。





 はるかオールトの雲から数万天文単位の空間を越えてやってきた(註1)彗星の熱血スポークスマン(註2)渡部潤一さんの最新作――ということになるんだろうか。現在、地球に接近中で、3〜4月に観測の好機を迎える今世紀最大の彗星「ヘール・ボップ彗星」の解説兼観測ガイドである。

 1990年代も半ばに入ってからにわかに彗星の絡んだ話題が多くなってきた。

 1980年代には、76年に一度というハレー彗星の回帰もあまり条件がよくなく、その後も『天文年鑑』(註3)を見てもせいぜい7等とか8等とかいう明るさの彗星のことしか載っていなかった。ちなみに6等星が目で見えるいちばん暗い星だということになっているけれど、彗星はぼうっとしていて恒星より見えにくいうえに、いまの日本で6等星までちゃんと見えてくれる場所がどれぐらいあるだろう? 7等や8等の彗星は、やはり、初歩的なものであれ観測機材を持ち、空の暗いところまで出かけていく手間と時間を使う覚悟のある「天文ファン」のものであって、「ただ星や天体現象に興味のある」だけの人にはまず縁のない存在である。

 それが、1994年には、何世紀に一度という確率でしか起こらないとされる彗星の木星衝突という現象が起こった。シューメーカー・レヴィー第九彗星の木星衝突である。これも最初は「衝突場所が裏側で何も見えない」といわれていたのが、衝突でできたキノコ雲が見えたり、衝突の痕が黒く孔のようになって見えたりと、肉眼でこそ確認できなかったものの、初歩的な観測機材で十分に観測できる派手な天体現象になった。彗星が惑星に衝突するという終末的雰囲気が受けたのか、報道でもさかんに取り上げられたものである。

 昨1996年には、やはり肉眼で十分に見える百武彗星が接近して、話題になった。ただ、百武彗星接近の時期には、季節の変わり目ということもあって曇の日がつづいた。私はふだん住んでいる東京からすこしは空の暗いところまで行ったのだが、はっきりした曇でなくても薄雲は消えず、けっきょく北天の星のなかでどれが百武彗星なのか見分けがつかなかった。

 そして、今年はこのヘール・ボップ彗星の接近がある。これを書いている1997年2月中旬ですでにマイナス等級の明るさになっているはずで、すでにこの彗星をご覧になったかたもいらっしゃることと思う。ちなみに、ご存じと思うが星は等級の数字が小さいほど明るい。したがって、1等星より0等星、0等星よりマイナス1等星のほうが明るい。だから「プラス等級」のほうが暗くて「マイナス等級」のほうが明るいのだ。北極星が2等星、夏の牽牛織女(アルタイルとベガ)などが1等星で、全天でいちばん明るい恒星のシリウスが0等星、宵の明星・明けの明星の金星がマイナス4−5等と考えておけばよい (註4) 。ただし、さきにも書いたように、彗星はぼーっとしているので、同じ等級の明るさの恒星・惑星とくらべるとすこし見つけにくいようである。
 いったん書いてから追記 筆者は先にヘール・ボップ彗星を探して見つけた。核周辺だけで尾は見えない。たしかに、ちょうど「かさをかぶった」ようにぼやけた感じで、マイナス等級のシリウスや木星のような「するどい」明るさは感じなかった。

 いろいろな天体現象のなかでも、彗星ほど人の想像力をかき立てるものは少ないのではないかと思う。ふだんは星の世界に興味なんかない人たちも、彗星の出現や、彗星の関係した話題には関心を持つようで、マスコミも注目する。もっとも、マスコミのばあい、自社の映像・画像技術をアピールするよい機会、という動機も混じっているように思うが。

 なぜ彗星は人の心を捉えるのだろうか?

 その理由の一つは、いつ現れるかわからない、というところにあるだろう。いまや、というより、だいぶ前からだが、たとえば月や惑星の軌道などはかなりきっちりと計算されている。日食や月食もなかなか派手な天体イベントではあるが、だれも予測しなかったのに、町を歩いていたらいきなり皆既日食……なんてことは現代ではあり得ない(たまたまその人が知らないということはあるだろう。日食・月食などは秒の単位まできっちり予測されている。

 そこへ行くと、彗星は気まぐれである。それがいつ出現するかはいまのところ予測はできない。ヘール・ボップ彗星は明るかったので一年以上も前から存在が知られていたが、1996年の百武彗星などは最接近の2か月足らずまえ(発見が1月30日、最接近が3月25−26日)になって発見されたにすぎない。彗星はそんなふうに「彗星のように」いきなり出現する。そして、太陽や地球に接近して、ごく短い間だけその姿を見せてくれる。しかも夜空に尾をたなびかせるという、ほかの天体にはない変わった姿を見せてくれるのだ。その短い時間のあと、彗星はまた宇宙の遠い暗いところに帰っていってしまって、私たちの前から完全に姿を消すのである。現在、観測技術の進歩によって軌道全周で観測できる彗星も増えたが、それはまだ一部にすぎない。なんせ彗星の本体は直径数キロの塊である(百武彗星で1〜3キロだった)。だからいまでも多くの彗星は地球から遠く離れて太陽の光が弱くなるとまったく見えなくなってしまうのである。

 もっともいつ出現するかが予測できる彗星もある。ハレー彗星のように太陽の周りを回っている彗星は出現時期がかなり正確に求められる。それにしてもハレー彗星にしても76年に一度しか地球のほうには来てくれないのだからやはり大イベントではある。じつは木星族とよばれる彗星はもっと頻繁に地球の近くまで来てくれるのだが、残念ながらあんまり明るい彗星がない。

 それに彗星はほかの惑星ほど精度の高い軌道が決められないので、あらかじめの予測より何か月、ばあいによっては何年もずれた時期に現れることがあったりする。「あの彗星はどこかへ行ってしまったんだ」と思っていたら、100年ぐらいぶりに再発見された彗星もある。1995年に出現したデヴィコ彗星というのがそうだったように記憶している(もしかしたらちがったかも知れない)。かと思うと、ちゃんと軌道の上を回っていたはずなのに、急に消えてしまった彗星というのもある。本書100−101頁に紹介されているビエラ彗星がその例だ。

 なんでそんなことになるのかというと、まず、彗星は小さいのでほかの惑星の影響を受けやすい。木星なんかに近づこうものなら、もろに木星の重力に引っぱられて軌道が変わってしまう。こないだ木星にぶつかったシューメーカー・レヴィー第九彗星などはおそれおおくも木星様に近づきすぎて木星から離れることができなくなってしまい、ぶつかるまで何十年の単位で木星の周りをぐるぐるまわりつづけていたらしい。こういうふうに木星につかまって離れられなくなってしまう彗星はあまり多くないと考えられる。「考えられる」というのは、じつはふつうの規模の彗星は木星のまわりを回っていても地球からの観測では小さすぎて見えないからだ。シューメーカー・レヴィー第九彗星は、いちど木星に接近しすぎて、木星の引力(潮汐力)で壊れていくつもの破片に分裂してからはじめて発見された。分裂して粉々になったので、その粉々が太陽の光を反射して明るく見えたのだ。そうでないかぎり、木星の近くの直径数キロのかたまりなんてまず見つからない。

 シューメーカー・レヴィー第九彗星の木星衝突の際には、彗星の木星衝突は千年に一度の現象とされていたが、本書の著者である渡部潤一さんらの研究によって、1690年にも木星に彗星が衝突した可能性があることが明らかにされている。土星の環の「カッシーニの間隙」に名を残す天文学者カッシーニの木星観測の記録に、今回と同様の黒い痕跡が見つかったというのだ。シューメーカー・レヴィー第九彗星衝突の当時に考えられたより彗星の木星への衝突はもっと頻繁に起こっているのかも知れない。シューメーカー・レヴィー第九彗星の衝突の際には黒い痕ができたが、衝突してもそういう痕を残さない彗星があるという可能性もある。だとすると、地球からは観測されていないけれども、彗星の木星への衝突・落下はもっと頻繁に起こっている可能性もある。

 しかし、そうやって木星に「つかまってしまう」彗星よりも、木星につかまることはないけれど木星の重力に引っぱられて軌道を変えてしまう彗星のほうが圧倒的に多いのはたしかである。

 惑星いろいろあるなかでなぜとくに「木星」なんだという疑問を持たれるかも知れない。とうぜん、彗星の軌道をその重力によって変える力を持つのは木星にはかぎらない。火星も地球も、小惑星ですらそれを変える力を持っている。ただ、木星はともかく大きい。いくら地球より密度が小さいといっても、その質量(重さ)は地球の300倍を超える。大きいだけに重力も強い。それに、ケプラーの法則(角速度一定の法則、だったっけ?)ってやつで、彗星は火星や地球の近くはすばやく通り過ぎてしまうが、太陽から遠い木星のあたりではわりとぐずぐずしている。それだけ、ぐずぐずしているあいだに木星さんが近くに来てしまう確率も高くなるのだ。では、なぜ、逆に木星のすぐ外の土星ではないのだというと、まず土星は本体は木星より小さい。本体のほかに目立つ輪っか(環、リング)がついているので大きく感じるが、その直径は8割5分ぐらい、質量は密度の差もあって3割にすぎない。しかも、木星は12年で軌道を一周するが土星は29年半かかる。土星軌道のあたりでぐずぐずしていても木星ほど頻繁に土星に出くわさない。そんなわけで彗星の軌道に大きな影響を及ぼす惑星はまず木星ということになるのである。

 彗星の軌道が予測どおりにならないことがあるのは、じつはそれだけの理由ではない。彗星自体が不安定な天体だということにもよる。彗星は「汚れた雪だるま」などと言われて、水のような軽い分子をたくさん含んでいる。というより氷が主成分だといわれるほどだ。それが彗星本体からときどき噴き出したりする。そもそも彗星が地球の近くまで来ると尾を引くようになるのは、太陽熱で溶けだしたガスや細かい物質(「塵」という)が大量に彗星から噴き出すからだ。それが太陽の光を受けて尾になって見える。だが、どうも彗星から物質が噴き出るのは、太陽に温められたときだけではないらしい。太陽から遠くでも突発的に物質が噴き出すらしくいきなり増光する彗星もあると読んだことがある。シュワスマン・ワッハマン第何彗星かがそれだったはずだが、このワッハマン氏はとうぜんあさりよしとおとは関係がない。この彗星を見つけた人である。どうやらチームみたいなのをつくって彗星を観測している人たちがいるようで、「シュワスマン・ワッハマン」組とか「シューメーカー・レヴィー」組とかの発見した彗星はけっこうたくさんあるみたいだ。

 で、彗星から物質が噴出すると、ロケットをふかしたようなもので、それだけ軌道がずれたり加速度がついたりする。それも彗星の軌道についての地球人どもの勝手な予測を狂わせることになる。

 彗星はそういう「予測を裏切る」ことを平気でやってくれる、「センス・オブ・ワンダー」に満ちた天体なのである。

 彗星には発見者が自分の名まえをつけられるというのも魅力のひとつかも知れない。さだまさしのずいぶん昔の歌「天文学者になればよかった」というのにそういう一節があった。もちろん「自分の名まえ」とは限らないが、発見者が自分で名まえを提案できる天体はほかにもある。惑星の新衛星や小惑星がそうだ(と思う)。しかし、いまどき発見される小惑星は本格的な機材でないと見ることができないし、彗星のような派手さもない。まして惑星の新しい衛星は、これも先年の「土星の環消失」や掩蔽(惑星が恒星の前を通過する)のようなばあいを除けば惑星探査機でもなければ発見できない。しかも、よく知らないが、惑星の衛星はだいたいつける名まえの範囲が決まっているらしい。だいたいはギリシア神話の神々で、天王星だけはシェイクスピア劇の登場人物名になっている。いきなり「惣流・アスカ・ラングレー」とか「プリティサミー」とかつけてやろうとしてもたぶんだめだ(小惑星「砂沙美」・「美紗緒」なんかは可能だと思う――ってSasamiはともかくMisaoぐらいもうありそうだな)。それにくらべれば、彗星は、双眼鏡程度の機材で発見することができるので多くの人にチャンスがあるし、ともかく第一発見者であれば自分の名まえはつくのである。ただこれは自動的に自分の名まえがついてしまうので、「砂沙美」とか「美紗緒」とかいう名まえをつけようと思っている向きには、やっぱり小惑星がオススメだ。

 さらに、さきにもちょっと触れたが、彗星の魅力のひとつにはやはり「破滅の予感」という暗〜いものがあると思う。いつかぶつかってきて、私たちの文明を破滅させてしまうのではないか、という予感があるんじゃないかと思うのだ。

 もともと、彗星の正体が判明する以前は、彗星は気もちの悪い現象として忌み嫌われたものだったらしい。いまよりずっと夜が暗かったころ、暗い夜空にぼうっとした異様な光の塊がとつぜん現れ、何日もそれがつづき、やがて消えていくのだ。『三国演義』(小説のほうの『三国志』)で、諸葛孔明が死ぬまえに「客星が出現してすごく明るい」ということを天子の側近である自分の死の予告だという場面がある。「客星」というのはほんらいそこにあるべきでない星のことだ。『演義』の諸葛孔明が具体的に何のことを言いたかったのかはよくわからないが、新星・超新星などとともに彗星もそうしたものの仲間に入るだろう(それとも「彗星」は「星」に入らなかったかな?)。中国では、ある時代には天の現象と人間界の現象は関連があると考えられていたから、天に予期もしないしろものが出現するのは世の中に悪い異変が起こる前触れだとして恐れられたのである。古代中国のように「治」(「乱」の反対語としての)・安定への志向の強い文化ではとくにそういうものが恐れられたであろう。このあたりのことは本書『ヘール・ボップ彗星がやってくる』の57−61頁に述べられている。

 彗星に「破滅」の予感を感じるのは、しかし現在でも同じである。彗星が衝突して地球の文明が崩壊するというあらすじの『悪魔のハンマー』というSFもある。昔から読みたいと思っていて、こないだようやく買ってきた(翻訳はハヤカワ文庫)のだがまだ読んでいない。アニメ映画では『さらば宇宙戦艦ヤマト』の彗星帝国というのもあった。『魔法使いTai!』にはツリガネというのが出てくるし(あんまり関係ない)、『ガメラ2』のレギオンも、彗星ではなかったけれど、その類縁の巨大隕石ということで日本にやってきていた。現在でも、火星人なんかとならんで宇宙から来る正体不明の侵略者の有力なバリエーションが、彗星や彗星類似の軌道を描く小惑星・隕石などなのである。「恐竜絶滅の原因が巨大隕石衝突か」などといわれていることも、彗星に、「破滅」の予感と、なぜかそういうものから感じてしまう魅力を感じさせることに一役買っているようだ (註5) 

 しかも、先年のシューメーカー・レヴィー第九彗星の木星衝突で、彗星が現実に惑星に衝突するところを人類は目撃してしまった。そして、それは、衝突をめぐるイベントは「何も見えない」という予想を覆し、巨大キノコ雲を巻き起こし、遠く離れた地球から小型望遠鏡でも見える痕を残したのだ。

 さきに書いたとおり、地球は木星ほど重力がないし、彗星が近くにやってきてもさっさと通り過ぎてしまうから、シューメーカー・レヴィー第九彗星を木星が重力で捕まえ、その結果その彗星が本体にぶつかってきた――というような事件が起こる確率は木星よりずっと小さい。

 それでも、地球にはこれまで何度か彗星がぶつかっているらしい。「恐竜絶滅」との関連で注目されているメキシコの巨大クレーターを作ったのは彗星である疑いが強いとされているらしいし(本書98−99頁)、今世紀に大爆発を起こしながらクレーターを残さず消えてしまった「ツングース爆発」を起こした元凶の有力候補も彗星である。ちょっとまえに香川県の地下に巨大クレーターがあってそこに水が大量にあるので水不足解消に使えないだろうかというニュースがあった。この水はあとから溜まったものかも知れないけど、もしかすると彗星自身が持ってきてくれた宇宙の水かもしれない。宇宙の水で打った讃岐彗星うどん、というのはどうだろうか。しかし、地殻変動の多い日本列島で、しかも中央構造線の隣接地帯で、よくクレーターが残っていたものだと思う。じっさい、水星のクレーターの下に水が溜まっているのがレーダー観測で発見され、それは彗星が衝突してそのまま凍りついたものではないかと言われているらしい(本書96頁)。

 どうやら、破滅的な影響を及ぼす彗星はいつかは地球にぶつかるのだ、と覚悟しておいたほうがいいらしい。しかも、彗星はさきに書いたようにいつ出現するかわからないきまぐれな天体であるから、その「終末」がいつ来るかわかったものではないのである。なんのことはない、「終末はいつかは来る」というキリスト教の世界観とあんまり変わらないではないか。

 さきに書いたように、百武彗星は発見から最接近まで2か月なかった。もし地球衝突軌道の彗星を人類が衝突の2か月とか3か月とかまえに発見したとして、人類は何をすることができるだろうか?

 核爆弾をぶちこんで彗星を破壊するとかいうことも考えられるかも知れない。たしかに彗星の核はそんなに大きくないから、熱核兵器を爆発させればその表面全体にダメージを与えることはできるだろう。だが、彗星を破壊できるか、破壊できないまでも軌道を変えられるかというと、それは彗星の構造がよくわかっていない以上、確定的なことは言えないし、だいたい核爆弾を地球到達前に彗星に衝突させる軌道に投入することができるかどうかもわからない。さらにいえば、もし核爆弾を彗星で爆発させることに成功して、しかも彗星を破壊することに失敗すれば、その彗星が地球に衝突してくるときに彗星表面に付着した核汚染物質をいっしょに持って帰ってきてくれることになったりする。

 もし、いま、3か月後に地球に衝突する巨大彗星が発見されたとしたら――そしたら、私たちは、「ヨハネの黙示録」の世界を実感として経験することができるかも知れない。なんせ1世紀ごろのごく初期のキリスト教徒は「終末はまもなくやってくる」と信じていたらしいから。

 もっとも、百武彗星は比較的小さい彗星だったのでそんなに時間がなかったのであり、大きい彗星ならばもうすこし遠くで発見されるものである。今回のヘール・ボップ彗星は特別に大きいらしく、木星と土星の軌道の中間よりちょっと手前という距離で発見されている(さきに書いたように、木星軌道あたりの彗星はふつうは見えない)。もしヘール・ボップ彗星級の巨大彗星が地球に落ちてくるのならば、準備期間は一年以上はもらえる。もっとも大きいだけに阻止に失敗するとそれだけ被害も大きい。最大級の時空魔法「メテオ」を食ってパーティー全滅(註6)って程度ではすまない惨状になるのは確実である。――あー早くファイナルファンタジー7をやりたいよぉ!! FFやってなくてもすでに寝不足だもんなあ。

 ちなみにそういう地球に大接近する天体の話は、同じ出版社から出ている同じ著者の『巨大彗星が木星に激突するとき』に詳しく出ている。そのなかには地球にぶつかりそうな彗星状天体が地平線の上を動いていくのを天文学者が目撃した(見たのが専門家であり、写真も撮影されているので、錯覚やトンデモではない)というエピソードも紹介されている。やっぱり終末は近いのかも知れない。そういえば1980年代には「ヨモスエ的」という表現があったような気がするが(どうしてそういう話題になる?!)。

 さて、ほんの枕のつもりで書いた「彗星はなぜ人の心をそんなに捉えるのか」という話が脱線して長くなってしまった。脱線で線路が不通になって利用者のみなさんに多大な迷惑をかけるのもよくないと思うので、そろそろ復旧を図ろうと思う。そういえば昔の軽便鉄道はよく脱線したそうで、で、脱線のときの被害を小さくするためには、脱線が起こったときに車体にむりな力がかからないように線路などのどこかを弱く作っておくんだそうだ(吉川文夫『楽しい軽便鉄道』保育社カラーブックス)。――ってそれが脱線なんだって。でもまあここはあくまで「雑談」のページなんだし……。ちなみにこの脱線のエピソードが紹介されている草軽軽便鉄道はいまはもうない。

 さて――。

 彗星の関係するイベントがあるたびに本を出版しているのがこの本の著者である渡部潤一さんである。シューメーカー・レヴィー第九彗星の木星衝突のときには、衝突まえに一冊、衝突後に一冊、百武彗星接近のときにも一冊、誠文堂新光社から解説兼観測ガイド的な本を出版している。

 前述のように百武彗星はほとんど準備時間がなかったはずで、ふつうのペースで校正を出しながらの出版だと絶対に間に合っていなかったはずだ。しかも著者はべつに専業のもの書きの人ではなくて、彗星観測の最前線でがんばり、さらに国立天文台の広報業務の責任者としてきわめて多忙な立場の人なのだ。それだけではなく、百武彗星接近当時には彗星観測者は今回のヘール・ボップ彗星観測のプログラムにすでに入っていて、二つの彗星に対して二正面作戦であたらなければならない時期にあったのである。その時期の忙しさは本書『ヘール・ボップ彗星がやってくる』にも触れられている。「連日の徹夜作業の中で、ほとんど他の仕事には思考停止の状態が続いていた」(155頁)とのことだ。

 彗星が何かのイベントを起こすたびに渡部さんはそれだけの忙しさを引き受けて解説兼観測ガイドの本を出版しつづけている。その情熱にはまったく頭が下がる。

 渡部さんはどうしてこうした彗星イベントの解説や観測ガイドのために情熱を注ぐのだろうか? 国立天文台の広報普及室長としての義務感、ということもあるかも知れない。しかしそれだけではないように私には感じられる。渡部さんも「あなた義務感でやってるでしょ?」と言われるときっと不愉快に感じられるにちがいないと私は勝手に推測している。

 では、何か?

 それは、この国の人たちに星空に親しんでほしい、という願いであろうと私は思う。

 この国では宇宙論が流行し、それに乗じたトンデモもたくさん出ている。だが、その宇宙論の読者のどれだけの割合の人が、隣の銀河であるアンドロメダ星雲を、いや自分たちの銀河系の姿である天の川すらを実際に見ているであろうか。「ビッグバン理論」ということばでその内容を思い浮かべることのできる人のどれだけが、写真ではなくじっさいに夏になれば天高くかかる銀河の姿を見ているだろうか?

 また話題が拡散することを恐れずに言うならば、それはべつに星空にかぎったことではない。たとえばスポーツの振興ということがいわれる。しかし、国民のどれだけの人が自分でスポーツに親しんでいると言えるだろうか。プロ野球やJリーグやウィンブルドンやアルペンスキーの中継を見るという人はかなりの数にのぼるだろう。だが、生活の一部としてそうしたスポーツを実践している人というのは、そのうちあまり大きな割合であるとは思えない。ま、天文ファンにくらべるとけっこういるとは思うけどね。さらに飛躍しているといわれるかも知れないけど、政治ネタのニュースへの関心は低くない、でも投票には行かない――っていう傾向はここのところずっとつづいている。

 メディアを通して伝えられるものには強い関心を示すけれど、自分からメディアを通さずにその対象に近づくことはしない、という分裂現象が、いまこの国のどこの分野でも進んでいるように思える。消費者が低いコスト(金銭的なものではなく、手間・時間なども含む)でものや情報を仕入れるのがあたりまえになり、その消費者本位で社会が作られる。生産者の立場はそれだけ文化の傍流に追いやられることになる。「消費社会」化である(註7)。その一環として、宇宙論のようなものには関心を示すけど、自分から星空を眺めることにはそれほど強い意欲を感じない、という人もけっこう多くなっているんじゃないかと思うのである。

 渡部さんはそういう状況をなんとかしたいと思っているのだ。

 それは、これまた突き放して言えば、自分の専門とする学問のため、というふうに言うこともできないこともない。星空を自分の目で見て、それに感動したことのある人が、現在の天文学のかなりの部分を支えているのだ。もちろん、耳のほとんど聞こえなかったベートーヴェンが音楽史に残る偉業を成し遂げたように、自分であまりよく星空を見ていない天文学者というのもいないことはない。ケプラーがそうだったと言われる。

 しかし、天文学を支えているのが、星空を自分で眺めて感動を味わった人や、いまも星空を飽きずに眺めつづけている人たちであるのは事実である。とくに、仕事ではなく、星空をこよなく愛するがゆえに望遠鏡で天体の姿を求めつづけるアマチュアの天文家といわれる人たちがいなければ、現在の日本の天文観測はあり得ないだろう。木星表面の観察や彗星の発見、軌道の確定など、あらゆる分野で、専門家ではない天文家が日本の天文観測を支えているのである。渡部さんの本にたびたび登場し、『天文ガイド』や『天文年鑑』にも執筆している淡路島在住の中野主一さん(いまさらなんだが、地震、だいじょうぶだったんだろうか?)もアマチュアの一人である。この中野さんはアメリカにある、彗星観測の世界的中心の役割を果たしている研究機関の彗星軌道計算プログラムを書き換えてきたという重要な役割を果たしている。

 この国の多くの人たちが星空の魅力を感じなくなるということは、そうした日本の天文学のレベルを急速に低下させることに直結するのだ。

 これもまた、天文学だけの問題ではない。いまの電子技術を支えているのは、たとえば、自分で回路を組み、自分でダイオードやらトランジスタやらを組み合わせて、自分の自作のラジオからラジオ番組が聞こえてくるといった、そんな感動を味わったことのある人だ。もちろんみんながそうではないだろう。ラジオは作ったことはないけど、たとえばおやじのパソコンでBASICでプログラムを組んでみて、それがちゃんと走ったときの喜び、とかいうのでもいいかも知れない。ともかく、学校の授業のなかではなくて、遊びのなかで、あるいは自分の興味からそういうものを作って、その喜びを味わう「アマチュア」の存在がなければ、やはり日本の電子技術の底力は失われるのではないだろうか。

 電子製品から、たとえば宇宙論のような情報にいたるまで、極度の「専門化」が進み、その専門家が作った製品は社会に広く供給されているけれど、そのあいだをつなぐ「アマチュア」の存在の余地が極端に少なくなった社会――というのが現在の日本の姿ではあるまいか。

 そして、星空そのものへの関心が低くなっているということは、そういう社会の変化のを代表する現象なのではないか。

 渡部さんは、だから、彗星の解説を書くだけでは満足していない。百武彗星接近の際には、渡部さんの提言がきっかけとなって、国会議事堂や東京タワーのライトアップが消されたそうである。もちろんだからといって東京で百武彗星のしっぽが見えるようになったわけではない。

 百武彗星というのは類を見ない明るい彗星だった。その明るい彗星の尾がこの国の都会では見えないのである。こんどのヘール・ボップ彗星だって、今世紀どころか、有史以来人類が見た彗星のなかでは飛び抜けて大きい彗星であるのに、たぶん都会では尾は見えないと言われている(202−203頁。見えちゃったらごめん、でもそのほうがうれしい)。マイナス等級というからそれでも核の周辺だけがかなり明るい星としては見えはするだろうけど、せいぜい「ちょっと明るい星がある」という程度にしか見えない。そして、たぶん、すぐれた画像処理技術によって処理された天体写真のなかだけで、ヘール・ボップ彗星の「巨大彗星」としての姿はこの国の多くの人の目に触れるのだろう。

 もちろん星空に関心を持ちましょうと言えばみんなが星空に関心を持つようになるわけではない。まず星が見える星空がなければならない。そして、星を見える星空の下で星を眺められる余裕を多くの人が持てる社会が、その星空の下になければならない。それは渡部潤一さん一人の手には余る仕事だ。それどころか、国立天文台の徹夜仕事で洩れる光は、三鷹の空を明るくして星が見えにくくすることに貢献してしまっているかも知れない。それは真夜中に部屋の電気をつけてこんな文章をパソコンに打っている私も同じことだ。いちおう遮光性のあるカーテンを窓に吊ってはいるけどね。

 しかし、だからといってあきらめるのではなく、あきらめずに星空を取り戻すために戦いつづけている天文学者が、この渡部さんなのだ。

 この国の繁栄が、星の見える夜空を奪ってしまった。だが、星の見えない夜空の下で、全社会的に進んでいる、消費ばかりが優越する社会への変化は、その繁栄の土台すら掘り崩しつつある。

 もちろん、消費が優越する社会そのものは、べつに悪いことではない。消費者が快適に買い物をし、望むものを低いコストで入手できるのは悪いことであるはずがない。渡部さんを含む彗星観測者にしても、星空を奪っていった現代文明と大衆社会化の恩恵を受けている。現在のような電子メディアの発展は大衆社会化を抜きにしては考えられない。そしてその電子メディアが全世界の彗星観測で果たしている役割の革命的ともいえる意義は本書を読めば一目瞭然である。

 昔は星がよく見えた、という懐古趣味ではない。そうではなく、この電子技術が支える情報化した社会が「持続可能」であるためにも、その情報化した社会の上に星の見える夜空を取り戻したい、というのが渡部さんの思いではないかと私は勝手に考えているのだ。だからこそ、「天文ファン」ではない多くの人の想像力をもかき立てる力を持つ彗星の接近を利用して、自分の眠る時間も削って彗星についての解説&観測ガイドを書いているのだと思う。資料や写真のページも入っているとはいえ(しかし一頁分の資料作成にはそのぶんを埋める原稿を書くぐらいの手間はかかるものだ)、一頁に原稿用紙一枚半で240頁、つごう360枚――けっして片手間で書ける分量ではない。

 そして、私が渡部さんの思いを勝手に発展させていうならば、庶民がサッカー中継に熱中し、行政がサッカースタジアムの建設を進めるというだけの「スポーツ振興」から、一人ひとりがスポーツに親しむ社会、さらにいうなら、選挙速報や政治スキャンダル報道に関心を寄せるだけではなくて自分で選挙の投票にいく社会――そういうものが、星の見える夜空の下に取り戻せること、それこそが、これからのこの国の、いやこの国にかぎらず情報化された世界がこれから「持続可能」であるための理想なのではないだろうか。

 そういう世界が実現されたなら、たとえ巨大彗星の衝突でとつぜん文明が滅亡したとしても思い残すことはない、といったところであろう。

 ――ってな千年王国的な文章でまとめてみました。

 


■国立天文台ホームページ

 なお、ヘール・ボップ彗星の情報や、本書の著者である渡部さんのプロフィールなどは、国立天文台のホームページに掲載されています。ほかにも、さきに触れた17世紀の彗星衝突や、一部の彗星の故郷といわれる海王星・冥王星より遠い領域(エッジワース・カイパー・ベルト。ただしヘール・ボップ彗星はここの出身ではない)の天体の情報とかも出ているぞ。

 国立天文台のホームページへ
 国立天文台のホームページ(日本語目次)へ


■ヘール・ボップ彗星の見えかた

 本書や『天文年鑑』によると、ヘール・ボップ彗星は、2月から3月にかけて、明け方の白鳥座からカシオペア座の「W」字の下のほう(カシオペア座とアンドロメダ座のあいだ)へ向けてのあたりに見えるはずである。白鳥座といえば七夕の牽牛織女とともに夏の大三角の一角をなす星座で、カシオペア座は秋の天高くに「W」字型をなして見える星座だ。ちょっち季節がずれているので、明け方の東の空になる。

 私は2月21日午前5時ごろにヘール・ボップ彗星を見た。北東の空に見える白鳥座の一等星デネブと東の鷲座のアルタイル(牽牛星)の中間ぐらいに、なんか周囲にくらべてぼやけた明るい星が見える。たしかに周囲とはちがった異様な感じのする星だった。

 ちなみに、都会の明るい空で、夜明け前、真東に見える牽牛星と北極星の中間、北東の空にぽつんと一つだけ見える星が織女星のベガである。ヘール・ボップ彗星は、この(都会では)寂しいお姫さまの星の右斜め下に見えるはずだ。

 白鳥座はご存じのように「北十字」といわれ大きな十字型をした星座なのだが、その姿は半分ぐらいしか判別できなかった。天頂から北西の高いところに見える北斗七星さえ見えにくい条件だった。それでもこの彗星は見えたのである。

 その後は、カシオペア座からペルセウス座を通って牡牛座に向かい、夕方の西空に見えるようになる(3月下旬には夕方と明け方のどちらでも見えるらしい)。牡牛座というとあの「昴」のある星座である。こちらは冬の星座なので、季節が春になるとさっさと沈んでしまう。

 夜中の空に見えてくれない、ってのが、この大彗星のちょっち不親切なところかも知れないな。


 評者:清瀬 六朗




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■ 註 
 

 (註1) ウソ。1960年に、太陽から約1.0天文単位のところにある会津若松市で生まれたそうである。現在は、やはり太陽から約1.0天文単位のところにある国立天文台の広報普及室長。ちなみに、1960年生まれというと、同じ「じゅんいち」さんではほかに『メイプルタウン物語』・『きんぎょ注意報!』・『美少女戦士セーラームーン』(初期)などの監督および『魔法使いTai!』総指揮の佐藤順一さんがいる。やっぱりツリガネというのはそういうものだったのか、ふむふむ。→『魔法使いTai!』のページ(4巻も出るというのにさっさと更新せねば……)

 

 (註2) 私がかってにそう呼んでいるのだけど、以下の文章をお読みいただければわかるように、これはほんとである。

 

 (註3) 本書と同じ誠文堂新光社が年刊ペースで出している、その年に起こる天体現象を解説したハンドブック。毎月の星の見えかたと、その月のトピックを見開きで解説した「毎月の空」や、各惑星・彗星・流星群その他のトピックと、データ類が載っている。「離心率」とかが出てくる専門的なデータなどは別として、小中学校程度の知識があれば十分にたのしく「読む」ことができる。なお、誠文堂新光社はほかにも月刊で『天文ガイド』誌を出していて、この雑誌も天体写真のページを見るだけでもけっこうたのしい。

 

 (註4) あくまで「目安」である。実際にはベガ(織女星)は0等級に近く、シリウスは0等級よりさらに明るいマイナス1等級以上(数字が小さいほうが上)である。

 

 (註5) この説はまだ定説となるに至ってはいないときいた。ただ、「恐竜絶滅前後に天体の地球への衝突があった」ということは確定しているようだ。そういえば、もう10年以上もまえに、この隕石衝突の証拠として「イットリウム層」(イットリウムは原子番号39の元素)の存在が挙げられているのをきいたことがある。地上であんまり見られない元素が地層のなかにとつぜん多くなっているのは、どっかよそからきた天体が運んできたのだろう、というわけだ。それはね、魔法の国ジュライヘルムから魎ちゃんが……ってな話はこのさい措くとして、このときの天体が彗星だったとすれば、彗星にはイットリウムのような地球上ではあまり多くない元素が含まれているということになるが、どうなんだろう?

 

 (註6) 「メテオ」は流星の意味で、「ファイナルファンタジー」シリーズでは、宇宙から隕石群を呼び寄せて敵に落下させるという設定で最強の魔法の名として登場することが多いようだ(とくに「4」では早くからその名が出されて物語のひとつの鍵になる)。なお、「ファイナルファンタジー5」では「コメット」(彗星)が「メテオ」より弱い魔法として登場するが、現実には彗星が落ちてきたほうが破壊力が大きいのはいうまでもない。「6」は途中までしかやってないし、「7」はまだ買ってすらいないので、「メテオ」がどうなっているのか不明である。プリメもまだほとんどやってないし、ドラクエ3のSFC版も「ソウルエッジ」も買ったままほってあるし……しくしく。ところで、「賢者」ビリーちゃん様の力で「思想的ゲームマスター」に転職した(ほんとか?)へーげる奥田氏の『ドラゴンクエスト3』(SFC版)評がWWFのページに載っているぞ。

 

 (註7) だからといって社会の制度そのものは消費者本位にできているわけではない。低コストで「快適な消費生活」だけを求める「消費」者の関心が、それによって生産に影響を与える方向に向けられなくなっているだけの話だ。「日常生活」の場としての社会では生産や統治などという営みへの関心が極度に薄れ、「日常生活」の場としての社会を統制する部門は全体として「日常生活」の場から排除されている。しかし、そこには「日常生活」の場からの関心が注がれないだけに、(現場で生産に携わる人ではなく)生産を統括する者や統治の専門家(官僚など。しかしここでは官僚化した「代表」=議員や司法関係者なども含む)に握られ、かえってその支配は強くなりつつある。私はこうした傾向を「大衆民主主義」化として捉えたいと思っている。しかしそれについての詳論はこの「雑談」の範囲を超える。