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・都会の星の手帖・

部分日食とヘール・ボップ彗星


清瀬 六朗




 3月9日、部分日食が日本全域で見られた。

 私の住む地方は雲ひとつない快晴というやつである。食の開始は8時54分、いちばん大きく欠けるのが10時4分、食の終了が11時19分ということだ。

 食が始まり、どんどん太陽が欠けていく。あたりはぶきみにしーんと静まり返っている――のはじつは今日が日曜だからである。私の家は、昔からここに住んでいる人たちも多いけれど、住宅地というよりはいまやオフィス街である。休日になると、いや平日でも夜も早いうちに、メシ屋とかが閉まってしまってちょっと不自由するという、そんな街だ。だから休日は遠くから路上で遊んでいる子どもたちの声がのどかに聞こえてくるだけで、至って静かだったりする。ビル工事をやってなければ――だけど。このへん、交通規制がやかましいらしく、休日じゃないと巨大なクレーンとか使えないらしいのである。

 カラスが鳴いているのは、やはり都会だからか、それとも日食という現象に反応してなのだろうか。

 子どものころは、小学校の教材でもらった「太陽めがね」という分厚いフィルムみたいなのを持っていた。それは最近までちゃんと持っていて、それで日食を見たこともある。だが、このまえの引っ越しでついに所在を不明してしまった。

 昔は、煤をつけたガラスとか、フィルムとかで観測するといいといわれていたが、どうやらそれも危険という結論になったらしく、最近ではそういう話もきかない。だいたいガラスに煤をつけるといったっていまどきの都会でそれをどうやればいいのだろう。

 でも、欠けている太陽を見てみたいと思っていろいろ試してみたが、あまりいい工夫がない。針穴写真の原理で太陽の像を照らしてみたりもしたのだが、なにしろ小さくしか映ってくれない。ハーフミラーならいいんじゃないかと思いついたがとっさのこととてハーフミラーなんかおいそれと出てきてくれたりはしない。と、ふと、さっき聴こうとして盤面に思いっきり脂汗の指紋をつけたことを思い出し、昨日、買ってきたカラヤン指揮のベートーヴェン3番交響曲のCDを通して見るというおそれ多いことをした。3番というと、ナポレオン・ボナパルト(1世)をたたえるつもりで作曲を開始したものの、献呈しようと思っていた矢先にナポレオンが皇帝の位についたのを知って、ベートーヴェンが怒って献辞を消したという「英雄」交響曲である。このへんの事情はご存じの方も(たぶん私よりずっとよくご存じの方も)多いと思う。

 1811〜12年、今回のヘール・ボップ彗星に軌道も「巨大彗星」としての性質もよく似た彗星がめぐってきた。この彗星が北東の空に出現したのを見て、ナポレオンはロシア侵攻を決めたという逸話があるらしい。いっぽう、ベートーヴェンは、ちょうどこの彗星が観測されている時期に、ワーグナーが「舞踏の聖化」と呼んだ交響曲第7番を作曲していた。この第7番は、たいへん躍動感あふれる曲であり、とくに第四楽章は第二拍と第四拍に強いリズムが入る(こういうのもアフタービートっていうんですか?)曲になっている。この7番はこのすこしあとに完成した第8番とともに1813年に初演されている。

 ところで、CDで太陽をのぞくのは、やむにやまれぬ好奇心でやったことであって、やめたほうがいいと思う。やはりCDでは遮光能力が不足だ。食が進むと(なんか太陽や月に食欲があったりなかったりするみたい……)、例の「針穴」方式でもちゃんと欠けているのがわかる。それ以上にちゃんとした日食の像を見たいのであれば、天文ファンや最寄りの天文台・プラネタリウムなどで観望会をやっているだろうから、そういうのに参加するのがよいと思う。

 ちなみに「日食」は、いわゆる正字では「日蝕」と書くはずである。「蝕が進む」ならべつにへんな表現にはならない。また、「食の進みぐあい」は天文用語では「食分」などという。

 もひとつちなみに、筆者は罰が当たったらしく、カラヤンの9番(合唱)とフルトヴェングラーの6番(田園)が再生できなくなりましたとさ。

 このいちばん太陽が欠けていた時間になると、どうも太陽の光がやわらかになってきたように感じた。そういえば、いまの太陽の光はちょうど9月末のころと同じ強さで、秋の太陽よりもずっときつく照らしているのである。それが、日食のおかげで、秋のやわらかい光がとつぜん戻ってきたように感じたのだ。

 たぶん、昼になると、ふたたび夏過ぎと同じ強さで太陽はここを照らしてくれるようになるのだろう。

 これだけ欠けたのは9年ぶりということだ。その9年まえの日食では、ぜひ見ようと心に決めていながら、何かで疲れはてて寝ていて(たしか休日だったと思う。すくなくとも私は休んでいた)、気づいたときには日食が終わっていたという思い出がある。


 NHKの特別番組など

 今回の日食はモンゴルではモンゴルやシベリアや北極圏の一部では皆既日食になる。NHKは衛星放送でモンゴルの皆既日食に中継を出している。日食で太陽が隠れたときに、今世紀最大の彗星で、ちょっと前からこの珊瑚舎のページでも騒いでいるヘール・ボップ彗星が見えるという打算からだ。肉眼で十分に見える巨大彗星の接近と日食が同時に起こるというのはめったにないことなので、おもしろい企画だと思う(追記――結果的にはモンゴルの天候がよくなかったということで、地上からはあまり日食はよく見えなかったようであるが)。

 でも、さきほど見た予告では、どうも放送局の技術力のアピールのほうが先行しているように私には思えた。いや、それはそれでおもしろかったんですけどね。やっぱり時代はCCDカメラ――ってことか。

 ただ、ここのページでしつこく書いているように、ヘール・ボップ彗星は肉眼でふつうに見てもちゃんと見える彗星なのだ。都会でもコマのぼーっとした彗星特有の感じが見て取れるぐらいなのである。

 またNHKを例に引っぱり出して恐縮だが(他局がこの彗星についてどういう報道をしているのかちゃんと知らないからだけど)、NHKでは、このまえも「電子機器の発達によってヘール・ボップ彗星の観測ではアマチュア天文家が活躍しそうだ」というニュアンスの報道をしており、自宅に望遠鏡・CCDカメラ・パソコンを用意して自分の家からこの彗星を観測しているアマチュアを取り上げていた。

 よいことであると思う。日本のアマチュア天文家の底力というのは、機材が十分でない時代から相当なものであった。それが、最近では機材に恵まれ、鬼に金棒というか諸葛孔明を幕僚に加えた劉備というか水を得た魚という感じで、その活躍にも目が注がれ出したということであろう。

 ただ、そんな機材がなくても、この彗星は見える。明るさはゼロ等級ぐらいだから、宵の明星・明けの明星クラスで明るく見えることはない。だいたい織女星と同じぐらいの明るさだ。だから、空の明るいところではそんなに目立つ星ではない。ちょっと見たところではそこにいつもは見えない星が見えていることにすら気づかないだろう。しかし、しばらく見ていれば、この彗星は、空の明るいところでも、そのまわりだけ雲がかかったようにいつも霞んでいる明るい星という独特の姿を見せてくれる。その独特の雰囲気は、肉眼で見る者をも魅了する魅力を持っていると私は思うのだが。いや、肉眼で、夏の大三角(いまはもうだいぶ離れてしまったが)などとの位置関係を追いながら、ふだんは気にしていないような星がまたたいているのを見つけつつ、彗星を見る楽しみは、望遠鏡やCCDカメラで彗星を追うのにも劣らぬたのしみなのではないのだろうか?

 望遠鏡もCCDカメラも持っていない「一般人」でもこの彗星は見えるし、空の暗いところに行けばちゃんとしっぽまで見えるということを、全国に放送網を持つ報道機関にはぜひアピールしてほしいものだと個人的には思っている。

 いや、日食のほうは肉眼で見ないほうがいいんですけどね。


 追記(3月15日)――ヘール・ボップ彗星が接近して、報道でも彗星のことが取り上げられる機会が増えたように思う。「光害」問題にふれたものもあれば、彗星という天体そのものに即したアプローチもあり、新しい発見についての報道もある。
 しかし、彗星接近にあわせて「南高北低」の気圧配置が出現し、本州南岸付近には雲が広がりやすくなった。北日本は、冬型が去って晴れの機会が増えただろうか? ヘール・ボップ彗星は地球や太陽の北を回っているので、最接近前後は北のほうが観測には有利であると思うが。



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