閉め切りの部屋の室温が換気したせいで、26度から31度になっている。あまりの高温ではたまらないが、日差しが適当にさえぎられ、風通しがよければ、冷房は効き過ぎないほうがいい。

ギリギリまで部屋にいたので、食事を促しにきたスタッフにオムツ交換をしてもらって、すぐに食事となった。下に降りていくと、気をきかせてくれたスタッフが、椅子を勧めるので、ばあちゃんの隣に座った。刻み食のおいしくなさそうなことと言ったらない。同じテーブルの人たちはほとんど普通食だ。食べ物の形が分かる。何を食べさせられるのかが分かる。

器をひとつひとつ傾けて中を覗いては、どれひとつとして食指が動かない様子だ。おいしそうだねぇとは言えない。これ食べてみたら? 食べるとおいしいかもしれないよと無責任なことを言ってみる。食べてもいいのかい? ばあちゃん得意の反語だ。暗に、食べたくなかねぇ、と言っている。

ひとつずつ、スプーンですくい始めた。遠くに置いてある器を引き寄せようとはせずに、スプーンで器を傾けてすくおうとするから、傾き過ぎて、中味がこぼれる。生前、ではなかった、まだ軽度のボケのときにも、ばあちゃんはなかなか横着だった。左手を使わずに、箸で器を寄せたり遠退けたり。

お盆の上にこぼれたものを、スプーンでさらっては口に入れる。同席している人がばあちゃんの食べ方に辟易するのもよく分かる。口に入りきらない食べ物が、口のハタから頬を伝って、前掛けに落ちる。それをまたスプーンですくい・・・。一緒に暮しているころ、妹とよく話した。ばあちゃんと一緒に食事をすると、ダイエットにいいかもね。

エレベーターで降りてくるとき、中にはめ込まれた鏡を見て、左右の耳の上の髪をかきあげたり、整えたりしていた。食事を終えてエレベーターに乗るとき、後ろ姿に手を振ると、鏡の向こうから、ばあちゃんの前にいた人がニコニコしながら手を振り返し、ばあちゃんは、品よく会釈した。他人様だった。

何度も読み返した、石牟礼道子の「十六夜橋」の一節。作品解説で、辺見庸がこの一節を引用して、このくだりを私は何度も何度も読んだ。じつに大事な箇所だ。と書いている。

---むかしむかしのものたちが、幾代にも重なり合って生まれ、ひとりの顔になるのだと思われる。人に限らず畜生たちに限らず、その吐く息をひそかに嗅いでいるとき、志乃はそう思う。とても一代やそこらで、あんな生ぐさいような息が吐ける筈はない。人の来て立つ気配も座る気配も千差万別でいて、ひとりひとりが重なるものを持っていた。志乃は死んだものたちの思いの累りのようなものをいつも感じる。自分はもう未来永劫の中の人間だけれども、前世のように思えるこの世と、ぷつんと切れているわけではない。---

←前へ 次へ→