爪切りをして、耳かきをして、髪をとかして・・・もうすることがなくなった。
毎年、スタッフに頼んで、ばあちゃんと近くへ花見に連れていってもらっていた。同居していたときの習慣をまきば園に来てからも続けたくて、わがままを言ってきたが、去年の感動のなさ加減に加えて、足の力がなくなってしまったいま、世間の春を、無理して一緒に味わうこともない。車椅子を押して花のあるところまで行くには、一人では心細いし、天気に恵まれ、妹という協力者に恵まれるチャンスもここしばらくはありそうになかった。行事の花見だけで、ばあちゃんは精一杯だろうし。
今日はほとんど言葉がない。天気が悪いからだろうか。低気圧が近づくと、何を察するのか、様子が違っていることがよくある。機嫌が悪く、言葉や態度が乱暴になったり、興奮してはしゃいだりする。そして、連れて帰れ、連れていってくれ、ここに置いていくな、と意外なほど力強く腕を握る。今日は動きがない。写真を撮るよ、とカメラを向けると、おすましをする。カメラを見た一瞬だけ、笑顔を見せる。笑顔は続かない。
いっちょん、よぉなかねぇ。
何がよくないの?
うふふ、なんでんようなかったぁい。
葛の飴をお土産に持っていった。大きな飴をほおばり、テレビを見ている。遠山の金さんが片肌脱いで、大立ち回りをしている。それを、まんじりともせずに、見ている。
昼過ぎに妹とまきば園に着いた。
お昼が終わって、二階に上がり、エレベーターホールにたむろする車椅子の中にはばあちゃんはいなかった。部屋に行くと、ベッドで横になっていた。
小さな目。たるんだまぶたと目脂にふさがれてしまいそうな。
なんや、いっちょん、わからんようになってしもうた。ばかんごたる。
頭を叩きながら、ふにゃふにゃと同じ言葉を繰り返す。何かあったのだろうか。風邪を引いたのだろうか。それにしては、顔も赤くないし、熱っぽくもない。
誰かにいじめられたのだろうか。あんたは馬鹿だ、という言葉を何度か投げかけられただけで、そんな気分に落ち込むだろう。ひがみ根性とでも、ぼけてるからとでも、なんとでも言える。あまり会話のない生活の中で、積極的に働きかけられた言葉がそういうものばかりであったとしたら、言葉は呪縛になる。
ばあちゃんのような立場の弱い人をいじめるには、言葉だけで十分だ。同じことを何度も繰り返す、数秒おきに繰り返す、現在の状況などまったく意に介さずに、自分の我を押し通すかのように、何度も何度も繰り返す。そんなばあちゃんに苛立ち、苛立ちを押さえられなかったころ、言葉の暴力を振るったものだ。
近ごろよく聞く、老人ホームでのいじめ。物理的な暴力が取り沙汰されているが、言葉の暴力は見えないところで、その何倍も振るわれているにちがいない。子どものいじめ、おとなのいじめ。家庭のなかでも、職場でも。
あらぬ妄想をしているところに、スタッフがやってきた。
どうして昼食終わってすぐに寝ているの? 風邪でも引いた? もしかして、いじめた?
あっはっは、と豪快に笑いながら、説明してくれた。最近、全面的にオムツになったので、オムツ交換のために、ベッドに移したのだそうだ。そう言えば、先日もらった「まきばメール」にそう書いてあった。完全オムツになる、というのは、そういうことだ。いままでとは違うこともでてくる。いままでよりも、手をかけてもらえる、ということかもしれない。ちょっと複雑な気もするが。
オムツを換えてもらうことへの何か。羞恥心やら屈辱やら抵抗感やら、そんなはっきりしたものはなくなっているかもしれない。かつて生活を共にしていたころ、外出時にはオムツをするようにしていたが、こちらの態度ひとつで、嫌がったり、すんなり受け入れたり。頭がぼんやりして、いつもどこで何をしているんだか、分からないようになっているいまだって、赤ん坊のように人にオムツを換えてもらうことに対して、何か感じているだろう。
そんな何かと眠気。とてつもない無力感に襲われていたのかもしれない。ああ、もう自分は駄目だ、という絶望、諦め、恥ずかしさ。行ったり来たりするんだ。そういう気持ちと、なんだか気持ちんよかねぇ、という気持ちと。