第九話「手紙」


 その日も都内の道路は行き交う車であふれ返り、道を歩く人々は視線を絶えず車道
に向けていなければ歩道を一歩も出られない有様だった。横断歩道を歩く親子は互い
にしっかり手を握り合い、恋人同士の二人連れはしめたとばかり公然と身を寄せ合っ
て、他人のことなど構ってはおれないといった顔で足早に行き過ぎて行った。表通り
の大交差点はもちろん、盲人用信号機もない小さな交差点でも、車は次々急いで通り
過ぎて行く。
 務め帰りの人々が町中から吐き出され、急ぎ足の人々が道にあふれる夕刻、一人の
白い杖をついた老婆が、そんなちょっとした交差点を横断しようとしていた。隣りを
学校帰りのやんちゃ坊主達がはしゃぎながら追い越して行く。そのうちの一人が老婆
に衝突し、杖が軽い音を立てて老婆の手を離れて倒れてしまった。
 その子は済まなそうに老婆の方をチラッと見たが、他の子供達が駈けて行ったので
、彼らを追ってそのまま走り去ってしまった。老婆が手探りで杖を捜す。
 その手に、ふと若い女性の手が重なった。その女性のもう一方の手が杖を拾い上げ
、盲目の老婆に手渡す。老婆の右手が杖を握るのを見届けると、その声の主は、
 「どうぞ、お婆さん。」と老婆の左側に立って自分の右手の肘を差し出した。
 声の主は、マリに他ならなかった。老婆の左手がマリの右肘を掴むと、彼女は、
 「こっちですよ。気をつけてくださいね。」と、老婆と共にゆっくり道路を渡った。
 「これからどちらへ?」と問うマリの言葉に、なぜか老婆は驚きの表情を見せた。
 老婆は声のした向きに両手をさしのべ、そのために杖が手から放れて再び倒れてし
まうのもいとわず、マリの顔に手を触れ、その輪郭を確かめた。マリが目を丸くして、
 「どうしたんですか?」と問いかけると、その老婆は、
 「お前、良子かい?そうだろ…うん、良子だ。そうだね?」と老婆は口早に言った。
 唖然とするマリに、老婆が間髪を入れずに口走った。
 「会いたかったよ。どんなに母さん、お前を待ったことか…」
 「いえ、私は…」と、マリはとまどいながら口を開きかけた。
 だがその時、マリは老婆の見えぬ目に涙が光っているのに気づき、思わず口ごもっ
てしまった。すると老婆は急に顔をゆがめ、苦しげに胸を押さえて、その場にうずく
まる。
 「どうしました?大丈夫ですか?」とマリが老婆を抱き起こそうとした。
 だが老婆は青ざめ、息も絶えだえになっていた。マリは慌てて顔を上げ、叫んだ。
 「どなたか、どなたか救急車を!」
           ◇                ◇
 老婆は近くの病院に収容され、その場はことなきを得た。当直の若い医師が老婆の
ことをよく知っていて、彼女の眠るベッド際でマリにこう語った。
 「このお婆さんは目も不自由だけど心臓も悪くてね。前からよくここには通って来
ていたんですよ。身寄りもなくて、いや、良子さんという娘さんが本当はいるらしい
んですけど、どこかへ長く出かけているらしくて、前に聞いたけど何も教えてくれな
かった。」
 マリが何かを決心した様子を見せる。その時老婆が目を醒まし、せき込みながら医
師に、
 「先生、良子は、良子はどこに…」と体を無理に起こして、すがりつくように尋ねた。
 「塚本さん、この人は良子さんでは…」と言いかける医師だが、マリが彼をさえ切り、
 「お母さん、私はここです。」と老婆に手を差しのべる。
 その手に老婆の手が、祈るように重なる。何か言おうとして言葉にならぬ医師の前で、
 「良子、良子なんだね。本当に帰って来てくれたんだねえ。」と老婆が声を震わせた。
 老婆が涙まじりにマリの手に頬をすり寄せる。医師が慌てて何か言おうとするが、
老婆の涙がマリの指を濡らした時、マリは彼に向かって、黙って首を横に振るのだった。
           ◇                ◇
 翌日も、マリは塚本良子のふりをして老婆の病床を訪ねた。病室には、マリと老婆
の二人きりである。マリはベッドサイドの花瓶にスズランの花を飾った。
 「お母さん、この花の花言葉、“幸せを取り戻す”って言うのよ。きれいでしょう。」
 そう言ってマリは慌てて言葉を止めた。マリの表情がわかるのか、老婆が悲しげに
笑う。
 「ご免なさい、私ったら、うっかり…」
 「いいんだよ。良い匂いがするじゃないか。」と言われ、マリは涙ぐむ程嬉しかった。
 <造花なのに…人間の母親って、皆こうなんだろうか…でも私、この人をだまして
るんだ…>とマリは心の中でつぶやいて、再び口を開いた。
 「あの、私、本当は…」
 だが老婆は、まるでマリの言葉をわざとさえぎるように言った。
 「良子、お母さんは本当に嬉しいよ。もう会えないとばかり思っていたからね…良
子、一つだけお願いがあるんだけど。」
 「何、お母さん?」
           ◇                ◇
 医師が回診で病室を覗くと、老婆はマリに見守られて幸せそうに眠っていた。彼が、
 「大丈夫でしたか…」と、会釈するマリに小声で心細そうに問う。
 「ええ、何とか…私も内心ひやひやしていましたけど。」
 「こんなことがいつまでもうまく行くはずがない。うち明けてしまったらどうです?」
 「でもお母さん、昔の話はしないでおくれって言ったんです。だから、何とか。」
 「塚本さんの方から?」
 「何かあるんでしょうか。本物の良子さんのことで。」
 マリの言葉に、不思議そうな表情を見せる医師だった。
           ◇                ◇
 マリはそれから数日のうちに何度も病院に通い、老婆を見舞った。マリは病院にい
ないときは、病室での話題を欠かさないように、世の中のいろいろな話題を新聞や図
書館で探し回った。その多くは以前重病だった人が今では快復して幸せに暮らしてい
るとか、体の不自由な人が障害を乗り越えて社会に貢献しているとかいった内容のも
のだった。肩を叩いたり足をさすったりしながらそんな話をゆっくり語って聞かせて
くれるマリに、老婆は時おり涙を浮かべては繰り返し礼を言い、マリはその度に親子
なんだから当然でしょうと語るのだった。
 そんなある日、マリは病院の診察室で医師に言われた。
 「これは申し上げにくいことだが、あなたはあまり頻繁にはお見舞いに来ないほう
が良いかもしれませんよ。」
 「先生、それは…」
 「ご好意は医者の私にも嬉しいが、万一ばれた時の精神的なショックが怖い。塚本
さんの心臓が、それに耐えられるかどうかということです。」
 「そんなに、お悪いんですか…」とマリは暗くうつむいた。
           ◇                ◇
 ある日、マリは病院の近くの道沿いの草原で、腰をかがめて懸命に何か探していた
。ちょうどそこへ往診の帰りの医師が通りかかり、車窓ごしに声をかける。
 「やあ、そんなところで何を?」
 「四つ葉の、クロ−バ−を。」とマリが答えると、医師は、
 「塚本さんにですか。」と少し笑って言った。
 「ええ、あれならお母さんにでも手で触ってわかってもらえますから。」
 「まるで、本物の親子になってしまいましたね。」と言われ、マリは少し手を休め、
 「先生。」
 「何ですか?」
 「私、自分の母親の記憶、何もないんですよ。だから…」
 「…そうでしたか。この前あなたには悪いことを言ってしまったかもしれませんね。」
 「いいんです。私も気をつけます。」とマリが頭を下げ、医師は車で走り去りながら、
 「不思議な人だ。」とつぶやいた。
           ◇                ◇
 病院に戻った医師は、診察室で看護婦に大きな封筒を渡された。封筒の表には塚本
の名があり、中には一枚のレントゲン写真が入っていた。それを取りだし、シャーカ
ステンの白い蛍光にかざして、医師は思わず息を飲んだ。
 「いくら悪いったって、ここまでになっていたのか…」
 その時机上の電話が鳴り響いたが、彼の意識にはすぐには届かない。看護婦に、
 「先生、先生、お電話が。」と言われて、医師はようやく我に返り、受話器をとった。
 「はい…塚本さんが俺に?わかった、すぐ行く。」
 医師は受話器を置くとすぐに立ち上がり、病室に向かった。
           ◇                ◇
 「塚本さん、どうかしました?」
 部屋に入る医師の表情が不自然に明るい。老婆はそれがわかる様子で、彼に言った。
 「先生、良子に手紙を代筆していただきたいんですけど。私の生きているうちに。」
 「塚本さん!」と叫んで、医師は自分が名演技者でないことを思い知った。
 「先生、私にはわかっているつもりです。この年では手術も無理でしょうし。です
から、私がものを言えなくなる前に。」
 老婆がかすかな笑みを浮かべながら語る。医師は肩を震わせながら、
 「わかりました。便箋を持って来ますから。」と言って病室を出るのだった。
           ◇                ◇
 ようやく四つ葉のクロ−バ−を見つけたマリは、すぐに病院に駈けつけた。だがそ
の中に入るなり、彼女は異様な雰囲気を感じた。
 それは、そこにいる者を押し殺すような、恐ろしく暗い雰囲気だった。通りかかっ
た看護婦がマリの顔を見るなり、足早にそばのドアに姿を消す。マリがわざと彼女か
ら目をそらすように歩いて来た別の看護婦に声をかけると、その看護婦は顔を上げ、
何か言おうとした。だがそれは言葉にならず、彼女の目には涙までもが浮かんでいた。
 マリははっと電撃に撃たれたように感じて、病室へと駈け出し、ドアの前でノック
もせずに中に跳び込んだ。
 ベッド際に、若い医師と、数人の看護婦の姿があった。その中の誰かが、
 「もう少し早く、来てほしかった…」と言い、他の数人が悲しげにうなづいた。
 老婆の顔を、白布が覆っていた。
 マリは目の前が真っ暗になったように感じてどうしてよいかもわからなくなり、思
わずその場に立ちつくした。医師はそんなマリを気遣うように、一封の封筒を差し出
した。
 「私が代筆しましたが、あなたあての遺書です。」
 マリの手で、悲しい開封が行われる。そこにはこのように書かれてあった。
 「この手紙を先生に書いていただいてから、あなたに読んでいただくまで、そう時
間はかからないでしょう。とても短いおつき合いでしたけど、私は一生の終わりにあ
なたのような人に出会えたことをとても幸せに思っています。
 実は、あなたが本物の良子でないことは私には始めからわかっていました。なぜな
ら、本物の良子は今、刑務所の中にいるからです。悪い男の人にだまされて、私の良
子は、その人を手にかけてしまったのです。もう二度と遭えないと思っていた良子に
、声ばかりか顔立ちまでよく似たあなたに出遭った時、自分の体のことに気づいてい
た私は、間違いと知りつつ娘の名を呼んでしまいました。一生の終わりに、こんな哀
れな年寄りの甘えを最終まで許してくれたあなたの優しさに触れることができて、私
は今まで生きてきて本当に良かったと思っています。私の良子も、本当はとても心の
優しい子だったから。
 今のあなたにもきっといろいろな悩みがあって、これからももっと背負い込んでい
くことができてくるのでしょう。あなたのような人ほど、そうなってしまう世の中で
す。でも、その心の優しさだけは、どんなことがあってもなくさないでください。目
の見えない私には、かえってよくわかるつもりです。あなたがこの世に最初に持って
生まれてきたもの、あなた自身、それはあなたのその心優しさだということが。」
 「塚本さんは、とても幸せそうにして亡くなりました。あなたに、救われたんです
ね。」
 医師が下手な演技と知りつつも、芝居臭い言葉でマリをなぐさめる。しかしマリは
、やがて自ら顔を上げ、むしろ確信に近いものすら浮かべて言うのだった。
「違います。救われたのは、私のほうかもしれない。」


目次へ戻る