当山は、神奈川県川崎市幸区北加瀬、通称夢見ヶ崎〔ゆめみがさき〕(今から約550年前、江戸城を築いた太田道灌が、この地に陣をひいて築城を計画したが、ある夜、道灌は武士の魂である兜を白鷲がくわえ去る夢を見た為、築城をあきらめた伝説によりこの名がついた。)にある。
 当山の歴史は古く、その昔日蓮大聖人のお弟子日頂聖人の開山による加瀬山妙法寺に由来し、その後、天文法難(1536)にあい寺門は荒廃したが、当山開山本成院日啓聖人(杉田妙法寺第12世、木月妙海寺第4世)が、元和元年(1615)当地に巡説のおり、北加瀬住人名主工藤小右衛門重則(当山起立大檀那)が日啓聖人に帰依し、現寺地を寄進、小泉太郎左衛門・藤田源太左衛門等と協力して旧寺を現地に移し、一寺を建立して頂龍山了源寺と改めた。
 現在の本堂、客殿、山門は宝暦2年(1752)第11世宝乗院日運聖人により、5年間にわたる丹精の末、完成を見る。その後、関東大震災・太平洋戦争の戦火をまぬがれ、230年間の風雪に耐えたが、昭和56年(1981)宗祖日蓮大聖人第700遠忌の砌、第25世永田日洵上人により一部が修復され、現在に至っている。

旧了源寺絵図


 元文4年(1739)7月4日夜半、大雨があり民家が漂流するほどの大洪水となった。やがて水もひき、多摩川の支流川崎堀に浮き沈みする木片を付近の羽太源太左衛門の子「源」という子供が拾い上げ家に持ち帰ったところ、父がこれを見て「神像」であることを知り、近隣の寺「東光禅寺(現在の苅宿八幡神社)」に持参し安置した。ところが、翌年7月、当山檀家苅宿鈴木平右衛門が東光禅寺の住職からゆずりうけ、了源寺に安置し現在に至る。
 この古像の背後に「鬼母天・承和三年」と記されている。承和三年は西暦836年、仁明天皇の時代で弘法大師空海が入寂された翌年である。
 現在当山では、毎年2月28日に鬼子母神大祭を行い、その際に特別開帳をして檀信徒の家内安全息災延命その他を祈願し、各講中から持ちよった日用品雑貨を景品に開運福引き大会を催している。
 


 当山墓地の入口には、赤穂義士ゆかりの軽部五兵衛家の墓碑が並んでいる。
五兵衛は武蔵国橘樹(たちばな)郡平間村(現在:川崎市幸区下平間)の豪農で村年寄役を務めていた。屋敷は現在の真宗大谷派平間山称名寺の門前にあったとされる。
 江戸の元禄期、赤穂藩五万石浅野家の江戸屋敷に出入りを許されていた篤農家で、秣(まぐさ)を納めたり、掃除を担当していた。また、吉良家上屋敷にも出入りしていたが、赤穂びいきだった五兵衛は吉良邸の情報を浅野家に流していた。
 浅野家の家臣とも親しく赤穂藩改易後、元馬回り役二〇〇石富森助右衛門が討ち入り前に同居していたことから、大高源吾・堀部弥兵衛・堀部安兵衛らも五兵衛の屋敷に潜伏した。
 また、元禄15年(1702)10月26日には、大石内蔵助良雄も五兵衛の屋敷に到着し、10日間滞在の後、江戸に向かった。天野屋利兵衛と並んで「忠臣蔵」を支えた一人である。
 当山には、両親らの墓に並んで五兵衛の墓碑も建てられているが、残念ながら詳しい資料は残されていない。
 今般(平成14年)、宗祖立教開宗七五〇年の慶讃事業で改葬した際に地中より瓶が出土し、中には遺骨らしきものも発見された。

大きな墓石2体が両親の墓碑で、向かって左端の墓石が五兵衛の墓碑。

五兵衛の墓碑
法号:妙法 圓照院宗春 霊
享保十二申天 二月廿三日
施主 軽部八平
と記されている。