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大塚康生氏講演

「日本のアニメーションに期待すること」(2)

2000年2月27日 於 滋賀県立近代美術館


●日本には他国からのT技術移転Uはなかった

 アニメーションの原理は極めて単純です。
 2枚の絵、たとえば人物が真っ直ぐ前を向いた顔と、横向きの顔を描いて、その中を2〜3枚つなげて描いた絵を入れてパラパラやってみると「動いて」見えますね。子供の時、学校のノートの端に何枚かの絵を並べて描いてみて、絵が動くのを楽しまれた人もおられると思います。アニメーションの原理は、まさにあれです。ですから、絵が上手で、顔の大きさが揃っていたり、いろいろなポーズが自由に描けさえせれば、その人は明日からアニメーターと言っても過言ではありません。
 俗な言葉で言えば、原理が簡単なだけに作り方も見ればすぐに分かるのであって、どこのスタジオでも「あ、あれなら俺たちでも出来る」とばかりに始まったと考えて下さい。何年か前、韓国に行った時、向こうのアニメーターから「日本は、いつ頃アメリカからアニメーションのT技術移転Uを受けたのですか?」と聞かれましたことがありました。「T技術移転Uはなかった」と答えたら、「そんな筈ないだろう」と納得してもらえませんでした。技術ですから、何らかの移転があったのだろうと思うわけですね。しかも、質問者は、日本から学ぶのとアメリカから学ぶのではどちらがいいかを考えていたらしい。私は、「原理が簡単なだけに、見てすぐに自分たちで勝手に作ってしまったのだと考えています。絵については、自国の絵画文化の中からアニメーションのルーツを探した方がいいと思う」と付け加えておきました。韓国については、長い間日本のアニメの下請けをやっていますから、懇切丁寧なT技術移転Uが行われていることになります。韓国のアニメが、日本やアメリカそっくりなのは無理からぬことなのです。
 日本では、江戸時代からT回り燈籠Uに絵を描いて回してみると動いて見えるというものがありました。ヨーロッパでも中国でも、多分韓国でも、似たようなものはあったと思います。それを興行的に成立させるために、近代資本主義的生産として始めたのはヨーロッパで、その後アメリカで発展しましたが、それがT技術移転Uというような形で日本や中国やロシアに広まったのではないと思います。機械工業とはまるで違いますね。
 セルロイドの使い方も、聞けば誰でも分かる手法です。日本では、大正時代に京都と東京で、絵を描いて切り抜いて並べてやっていた時代が少しありましたが、1914年にアメリカのアール・ハードという人が思いついたと聞いて、セルロイドは当然日本にもありますから、「そりゃあいい」と言うことで早速普及したはずです。別に誰かがアメリカへ行って教わったわけではなくて、使用が定着しました。明治時代、札幌大学に赴任したクラーク博士が家族と一緒に近所でアイススケートをやったそうですね。すると大勢の日本人がしゃがんで夢中になって見ている。すると数週間後札幌に「新考案氷上滑走具」という看板を掲げて商売を始めた店が幾つも出現してクラーク博士を驚かせた話が残っていますが、きっと似たものが既にあって「見れば分かる」の好例といえましょう。
 信じ難いことですが東映動画が始まる前には、紙が動かないように穴を開けて固定する《タップ》という金具もなかったんです。《角合わせ》と言いまして、紙の左下角を合わせて位置を固定するという如何にも日本的な方法だったのです。『こねこのらくがき』や『ハヌマンの冒険』などはこの角合わせで作画されていたのです。
 アニメーションの演技についても日本にはディズニーの「動かし方の基本」といったようなものはありませんでした。プレストン・ブレアという人がまとめたディズニーの動かし方の全てを書いた本「アニメーテッド・フイルム」という冊子を藪下さんがアメリカへ行かれた時に買って来られたので、私はそれを持って帰って夜遅くまで訳して、教科書に作り直して配りましたが、その本の内容を忠実に学ぶとディズニー式のアニメートが出来るようになっています。
アメリカは面白い国で、軍隊などでもそうですが、懇切丁寧に誰にでも分かるようにまず理屈から教えるんですね。色々な人種がいるものですから、誰にでも分かるようにノウハウを公開しているんです。しかし原理といっても実は決して普遍的なものではありません。アメリカというよりもディズニーそのもので、面白く見せるノウハウがぎっしり詰まっていて動き過ぎといいますか、私たちが感じている自然な演技とは随分違っています。
 技術的には、《つぶし(スクウォッシュ)》《のばし(ストレッチ)》と言いますが、長い顔がいきなり潰れた顔になったり、あるいは《フォロースルー》と言って、あらゆるものを必要以上に柔らかく動かすということが書いてあって、みんなに配ってみて「どう思う?」と聞いたんですけど、やはり随分抵抗感があったようです。しかし、ディズニー的な部分をのぞくと「ものの動き」をよく研究していて大変参考になりました。
 最高の教師は、実際に動いているものを観察すること、人の仕種を観ることに尽きます。物まねタレントのコロッケさんがどれだけ「ちあきなおみ」を研究したかを想像するだけで充分です。
 日本人の演技に対する考え方で思い出すのが、大工原さんの仕事です。大工原さんの動きを見ていると、カッコイイところに来るとパッと止まるんですね。技術的な話で申し訳ないですが、歌舞伎なんか御覧になるとお分かりでしょう。役者が色々な所作をして、最後に一瞬止まりますね。キメとか見栄というんですが…あるいは能などでもいい所で止まりますね。そのキメのポーズと言われるものが日本人にとって大切なんですね。キメのポーズだけを見たい。その途中は余り見てないんですね。止まったカッコいいところを見たい―というところが、どうも私たちにはあるらしい。その頃はうっすらと思っていたんですが、その後段々と分かって来まして、どうもそういう要素を持っているらしいと思うようになりました。
 我々の美意識の中にカッコよく止まっている、そのカッコよさをずっと見せて欲しいと。そういう伝統を持っているらしい。今後研究に値すると思うんですけれど、そこに日本のアニメーションの、日本人の演技に対する考え方の秘密があると思うんですね。それでも当時は、政岡憲三さんを筆頭に全部フルアニメーションで動いていなければダメでしたが、無意識に出てくる「日本人的な演技」はあったんですね。それを面白く動かして見せるのは今後の課題だと思います。ただし、これはセル減らしのために仕方なく止まっているものを肯定しているわけではありません。
 また、カメラ技術についても、東映ではいかにも映画会社らしい移転が行われています。移動やパンなどのカメラワークの研究などは若い池田宏さんや高畑さんたちがディズニーやグリモーなどのフィルムを研究して、東映演出部の財産として後進に残されていることも見落とせません。しかし、ここは長い話になりますから先へ進みます。


●虫プロダクション発足とテレビ時代の到来

 手塚治虫先生の虫プロダクションは、西武池袋線で二駅しか離れていない所にスタジオがありました。手塚先生は、若い頃『バンビ』(1942年 デビッド・D・ハンド監督) を80回観たとかで、自他ともに許すアニメ・マニアでした。御自身も「自分こそが日本のアニメーションを担うのだ」という意にあふれていて、常日頃「ぼくが描けば一本位すぐ出来るよ」とおっしゃっていていました。アニメーターとしても大変な自信をお持ちになっていたのは有名です。しかも、手塚先生は日本漫画界のスーパースターです。自分の数々の作品を映像化するために御自分のスタジオを設立されたのは自然の成りゆきです。
  したがって、東映動画の動きには大きな関心をお持ちで、創立以来しばしばスタジオに見えて『西遊記』では「私にコンテを切らせて下さい」と言って、短時間で丸々一本切って持って来られました。しかし、これを検討した東映のスタッフは、先程お話した起承転結のあるドラマと娯楽映画のセオリーに合致していないものと判断し、「アレンジして使う」という条件であの映画が出来上がりました。これについて手塚先生は大変な欲求不満になられたのは当然で、1962年の「虫プロダクション」創立の引き金になったことはよく知られています。
 手塚先生の『西遊記』の絵コンテは、いわゆる《スーパーマーケット方式》と言われたものでした。面白いアイデァがいっぱい詰まっていて、華やかで見ているうちにいっぱい買わされてしまうファンシーなマーケットのようなので、そういう名前がついたわけです。ご自分でお作りになった長編『千夜一夜物語』(1969年6月14日公開 山本暎一監督)がまさにそれでした。『鉄腕アトム』(1963年1月〜66年12月放映)でも最後のアトムが悪い奴をやっつけるシーンなどは短いもので1分もないんです。アトムは「えい、えい、えい、やぁ」とやっつけて、ポンと放り投げて解決してしまいますね。何となく客をスポイルしてしまうあっさりしたラストの処理について、何かの機会に手塚先生御自身にお聞きしたこともありましたが「十万馬力ですからね。あれでも苦労している方ですよ」「そうですけど、苦労して敵を倒すのが常道だと思いますが…」などと話したことがありました。先生は「いやーっ、それが東映的な発想なんですよ」とおっしゃって図らずも手塚先生の心中を見た思いをしたことがあります。
 手塚先生は長い間出版物という媒体でお仕事をされたこともあって、その発想も作用していたのかと思いますが、本だと一寸わかりにくいところがあっても前のページをめくってみて確かめることが出来ますが…映画ではそうは行きません。強制的に前へ前へと進みます。もしかするとあるいはアンチ東映というのではなく、面白いアイディアがいっぱい詰まっている天才的な方の着想をお持ちの手塚先生の地かもしれません。
 ともあれ、先生はアカデミズムとしての東映の劇構成に随分反発を感じていらっしゃったらしく、東映がそうだから、そうでない方式をとお考えになったのは当然のことでした。それをやると真似になってしまうという意味で東映のセオリーに反発するということをはっきりおっしゃっていました。「だからダメなんだ東映は」という考え方にも結びついていたようです。企画も『猿飛佐助』や『安寿と厨子王』ではいかにも古いと感じられたことでしょう。
 古くさい東映式と手塚式のどちらがいいかというのは各々が信念に従って考えることでもあり、最後はお客さんが決めることです。時間が経ってから観客がもう一度観たいと思うような映画にしたい、というのが創る側の願いだとしたら、手塚さんは別のかたちで東映のドラマ作りの秘密を研究すべきだったと私は今でも思っています。その考え方は時を経ていろいろなバリエーションはあるものの、今も生きています。映画はたった1時間半か2時間ですからね。
 こうして東映から中堅のアニメーターを8人位引き抜いて中核とし、その他は全国から集まった手塚ファンで固めて「虫プロダクション」は発足しました。皆新しいことをやるんだ、と言う熱気に満ちていました。『鉄腕アトム』だけでなく、手塚先生の原作そのものがある程度映像的な画面構成になっていますから、原作のページに沿ってコンテがきれます。知名度抜群のキャラクターもそこにある。問題はそれをどうアニメートするかですが、私の想像では手塚先生は「動かすだけでしょう?」と簡単に考えられていたと思います。
 動かし方のノウハウは集団としてのアニメーターに蓄積されています。東映から引き抜いたアニメーターはここでは演出になっていましたから、実際に動かす人はみな先生の大ファンだけど素人同様、基礎教育もろくに受けないまま本番に入っていたと聞きます。手塚先生はあきらかに御自身と同じように「動かすだけだ、簡単だよ!」とアニメーターの能力に甘い期待をされたのだと思います。手塚先生のような天才は「描けない」ということが不思議でならないと感じておられるはずですから。
 『鉄腕アトム』の放映が始まり、私たち東映のアニメーターも早速観ましたが、一人として評価する人はいませんでした。極論すると「あれじゃ誰も見ない」と思うほど拙劣な技術でした。それでも、虫プロではスタッフに死人が出るほどの重労働をせざるを得なかったようです。3コマ撮りとは言いますが、3コマに1枚の絵どころじゃなくて《トメ(静止画)》《バンク(同じものを兼用して使う)》の連続で、「アニメーションは動かすものだ」と信じていた私たちにとっては、到底受け入れ難いものでした。
 しかし、放映されてみると爆発的に人気が出たんですね。『アトム』によって突然生まれた、小さいとはいえ、新しいマーケットに業界が色めきたったのは当然です。老舗の東映は敏感に反応しました。大工原さんと森さんにTVシリーズへの進出を打診しましたが、お二人とも二の足を踏んでいました。しかし時間はない。…という状況の中で、若干22歳の月岡(貞夫)さんを中心に『狼少年ケン』(1963年11月〜65年7月放映)楠部(大吉郎)さんを中心に『少年忍者 風のフジ丸』(1964年6月〜65年8月放映)をスタートさせました。他社も、雪崩をうったようにテレビアニメに参入し始めました。「動いてこそのアニメーションではなかった!」「企画さえよければ日本のお客さんはあれでも充分満足してくれるんだ!」となれば、どっと新規参入が押し寄せるのが資本主義的生産の通例です。
 東京ムービーは、TBS系列の会社でしたが、アニメーション事業に乗り出すために「アニメーターとやらを集めれば何とか出来るらしい」と聞いて、東映の玄関にスカウトを派遣して「あんた、アニメーター?ウチに来てくれない?」という調子で求人した言います。当時の熱狂ぶりが想像出来るでしょう。手塚先生は、こういうことを見越して、随分安い額を設定されたため、スタッフを苦しめただけではなく、テレビアニメの標準価格さえ低いものに押さえてしまい、禍根を残しています。


●技術を軽視していた手塚治虫さん

 『鉄腕アトム』の功罪については、方々でいろいろと語られています。手塚先生は「原作漫画があれば準備はおろか宣伝さえもいらない」風潮を巻き起こし、テレビアニメ時代を出現させました。しかし、私がお会いして語った印象では御自身はあれではとても満足しておられなかった。本当は心の底からディズニーを超えるフルアニメーションの大長編を作りたかっのだと思います。ただ、実際に長編をやってみて驚かれたと思うんですね。自負していたのとは随分違う。それは、繰り返しますが、技術を甘く見ておられたということに最大の原因があったのではないかと思います。手塚先生は技術集団を鍛え上げることにも熱心ではなかった、と私は考えています。
 こんなことがありました。私共が『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年12月15日公開 宮崎駿監督)を完成させたあと、手空きがあったものですから『火の鳥(2772 愛のコスモゾーン)』(1980年3月15日公開 手塚治虫総監督・杉山卓監督)を手伝うことになりました。手塚さん自身が原動画全員に話をしたいということでテレコムにいらっしゃいました。
 手塚先生は、「私はまだ『カリオストロ』は見てません。(虫プロの人によると試写室に籠りっきりで繰り返し御覧になっていたそうです)噂に聞くと3コマ作画だそうですけど、今度皆さんに手伝ってもらう『火の鳥』はオール2コマ・フルアニメーションですからそのつもりで宜しくお願いします」と言われるので、皆緊張していました。しかし、届けられたカットを見て、私たちは唖然となりました。たしかに、2コマで作画してありましたが、3コマ用に描かれたものを「…(点々々)」と言いまして、原画と原画の中に何枚入れるかを変えただけで、2コマにしなければならない特有の描き方や工夫が全く入ってないんですね。必要もないシーンにただ枚数が増えているだけで、私たちは本当に驚きました。
 2コマ使用ということはかなり小さな演技(仕種)を拾うことになりますから原画と原画の間の密度が高くなり1カットの原画の枚数も3コマ使用よりもずっと増えてしまいます。『カリオストロの城』は基本的には3コマ、速い所は1コマ・2コマを自由に使っていますが、この時どうやら手塚先生は理念としてのフルアニメーションに憧れていらっしゃるが、技術的な使い方は御存じないのだとわかりました。
 今、私がこういうことを言っても先生を傷つけることにはなりません。長編アニメーション特有の技術は、先ほど言いました「移転」が必要だったのです。さもなくば、研究と準備に資金を投入して、テストしながら効果を確かめて使用しなければなりません。フルアニメーションは、ただ枚数が増えているだけではないのです。描き方の細かいところで違っているのです。
 また、これも技術的な話になりますが、例えば「熱狂的に拍手する」仕草を感じよく見せるには1〜2コマでないと気分がでません。しかし、3コマでもポーズがよかったら充分鑑賞に値する演技として成立するのです。場合によってはフルアニメーションでは鬱陶しいだけになってしまうこともあるのです。
 手塚先生は、心の底から2コマのフルアニメーションが好きだったと思います。しかし、当時すでに天才漫画家として超売れっ子だった先生が、東映やディズニーを訪れて基礎技術を学ぶということはあり得ませんでしたし、そんな資金も時間もなかったでしょう。冒頭に話しましたように、東映が長編のスタートに当たって、いかに慎重だったかを思い出してみてください。
 「あのくらい、ぼくでも出来る」といった手塚先生の過信が、真摯な生徒として一から学ぶには遅すぎたともいえましょう。私は、他の誰よりも、手塚先生がすでに東映が蓄積していたフルアニメーションのテクニックを一から学んで出発してほしかったと思っております。


●モニュメントとなった「太陽の王子」

 テレビ漫画の開始にあたって手塚先生だったからあれだけの視聴率が取れたわけで、他の漫画家だったらどうだったのか―という仮説については、ここでは言及しません。ともかく、こうして日本のアニメーションは新しい時代を迎えました。昭和38(1963)年というのは日本のアニメーションの一つの区切りですね。怒涛のような《省セルアニメ》の普及によって、東映は次第にそれまでの手間も時間もかけた長編アニメーションを断念せざるを得なくなっていました。
 『太陽の王子 ホルスの大冒険』は、そうした危機感の中で生れました。「これでもう日本の長編はオシマイだろう」「最後だからいいものを作っておこう」あるいは「失われて行くに違いない長編の技術を残しておきたい」といった気分がスタッフに漲っていました。結果として、会社の意図とは離れた映画を作ってしまいましたが、黄金時代の東映作品の最後を飾るモニュメントとなっているものと、私は信じています。
 その後起こったことについては、多くは語りませんが、東映があれほど腐心した「絵」は原作から借用すればいとも簡単に出来るとあって、各社とも売れ筋の雑誌原作の映画化権抑えに奔走する時代がやって来ました。アニメ界は大量の原作を保有していた虫プロの黄金時代にとってかわります。
 しかし、少ないセル使用、短いスケジュールの厳しい制作状況の中で、次世代の人たちが一生懸命何とか映像に魅力を持たせようと工夫を重ねたことが、日本のアニメーションを多様性のあるものにして来たという点も見逃せません。いちいち検証するのは難しいですが、たとえば、実験的な光の使い方、とんでもないアングルや構図、時間を引き延ばした展開などです。『巨人の星』(1968年3月〜71年9月放映)などは、「父ちゃん、俺はやるぜ」と言ってから、一球を投げるまでに20分も使ったりしていました。そんな映画は、今まで誰も考えなかったのですが、投げるポーズに入ってから色々なことを思い出したりするんですね。どうやって面白くするか、どうやって飾り立てるか―ということに、スタッフの皆さんが随分気を使った結果です。そうした競争が日本中で行われて、作品が多様性を持って来たのは皆さんもよく御存じでしょう。
 20年前に高畑さん演出・はるき悦巳さん原作の『じゃりン子チエ』(1981年4月11日公開 高畑勲監督)の作画監督をやりましたが、それをディズニーの長老フランク・トーマスとオーリィ・ジョンストンさんに見せたところ、「今まで見た日本映画で一番いい。これはいい」と言うんですね。「どうしてですか?」と聞くと「こういうオヤジはアメリカにいっぱいいる。ヤクザ殴ったりして遊んでいるようなどうしようもないオヤジに、けなげに一生懸命働く娘。こういう一家を愛すべき家族として描くことはディズニーでは不可能なことでした」と。
 彼らの敬意は、はるき悦巳さんに捧げられるべきだと思いますが、原作の絵と精神を徹底的に尊重し、生かして映像化された高畑さんの功績も負けるとも劣らないものがあると思うんですね。動きについても、私たちが研究して普通の動きじゃないものにしましたが、いい原作に出会えることは貧しいオリジナルよりいいものです。
 『旧ルパン』(『ルパン三世』第1シリーズ/1971年10月〜72年3月放映)では、私はモンキー・パンチさんの絵を映像化したわけですが、意図的に変えたつもりはありません。準備期間に、原作には出て来ないあらゆるアングルでキャラクターを描いたり、雑誌では表現出来ない表情を描き貯めていくと、少しづつ原作のニュアンスから離れて行きました。モンキーさんに「どうしよう」と聞くと「ぼくより上手いよ」とおっしゃって、ああいう形で決定したのです。
 その後、もう20人以上の人が『ルパン』の作監を手がけていますけれど、絵の変更の基準が何なのかというのを考えてみますと、どの人も自分なりの美意識で前と違ったルパンを描いていますね。各々の絵の評価は視聴者が下すわけですが、自分が描けば自分流になるのはある程度やむをえないことなのです。
 日本のアニメーションの演技についてちょっとお話させて頂きますと、どうやら一番いいのは、日本の演劇や能、新劇、新国劇、歌舞伎、漫才、落語などの伝統芸術を見に行ったりして、「昔の人はどう演じたか」「今はどうか」と思い悩むことでしょうね。人形浄瑠璃などは、いろいろな仕種が様式化されていますから解説本が手離せませんが、勉強になる筈です。そこには、随分ヒントが隠されているような気がします。
 私たちは、少なくともアメリカ人にはなれっこないのですから、いくらアメリカ風を描いてもアメリカにはなり切れませんし、無駄です。日本人が見て、共感出来れば、それが海外の人にも分かってもらえます。やや洗い直してみないと、現代の我々日本人は情報が多過ぎて、どれが日本的なのか、そうでないのか―わけが分からなくなっていますからね。それにアニメーションだけ見ていないで、それとちょっと離れたものを見てみると面白いものがあるんじゃないかと思うんです。
 これは若い人に言っていることでして、私も69歳ですから皆さんにお願いする立場と思って勘弁して下さい。


●海外のアニメーション事情について

 ここでちょっと、本題から離れて、海外のアニメーション事情について触れておきます。
 アメリカ人というのは理屈っぽい国民で、アニメーションを教える時に、「全て自分でやれ」と言い渡して、「自分でキャラクターを創り、自分で動かせ」とやるわけですね。まず、アニメーションの学校では彼等の好きな“Principle(原理)”から教えます。アニメーションの原理は先ほども言いましたが、単純そのものですが「原理に照らしてどうあるべきか」を教えるわけです。一体どれだけの人がそれを正確に受け取って育って行くのか知りませんが、とにかくまず理想を語るのですね。それに比べて日本のアニメーション教育はいきなり実技、それもきれいに描けるよう手先の器用さを鍛えることに主題がおかれています。アメリカで会ったアニメーターのほとんどは、私に言わせると「能書き」ばかり言っている。「本来こうであるべきだ」と理想的なやり方に固執して、やってみて失敗しても平気で次に挑戦する―といった風で「そんなやり方では失敗するのは始めから分かっている」と言っても、めげずにトライして行くのです。あの粘りで、時間が経ってみると、ちゃんとそれなりの作品を完成させてしまいます。ちょっと日本人には真似の出来ない気風をもっているのに驚かされます。しかし、「金と時間がかかるのが当然だ」という贅沢な発想は、「少ない予算で何とか…」という日本式からすると、実はあんまり羨ましくない思いもしました。私たちは随分と言い訳が出来やすい国に住んでいます。「もっと時間があったら…」とかね。
 アメリカの面白さには、「多国籍だから」という点も付け加えておく必要があります。ハリウッドには強力なユニオンがあって企業は一定水準の報酬(最低30万円くらい)を支払わなければなりませんから、『ムーラン』(1998年 バリー・クック、トニー・バンクロフト監督)を多くの中国系アニメーターを雇用してフロリダで作る。『ターザン』(1999年 ケビン・リマ、クリス・バック監督)はパリとアイルランドで作画するというように国内制作にこだわらない。映画が一本終わりますと、どこのシーンを誰がやったか、どこのシーンのコンテを誰が切ったのか、それを誰がどういう風に考えて動かしたかといった内容を判断するT評価委員会Uというのが開かれます。その評価委員会によって、各人の次回作の契約が決まる。場合によってはレイオフ(解雇)。厳しい社会です。
 一方、フランスをはじめとするヨーロッパは、「プライベート・アニメーション」と呼ばれる作品の作り手たちの大勢いるところです。それだけでは、食えませんから、他の仕事をしながら、自分の好きなアニメーションを作っている。いわば「作家」の多い国だと思って下さい。
 フランスでは、土曜日など朝からアニメ番組をやっていますが、ほとんど全部ヴェトナムか台湾、中国で作ったものです。日本でもテレビアニメは韓国、中国、タイ、フィリピンで作っていますが、駐在員が現地に行ってチェックしています。しかしフランスでは、1992年に「最低賃金法」という法律が出来て、新入りのアニメーターでも月給が大体1500フラン、日本円にすると初任給31万円もします。チェッカーで海外に赴任するとなると、相応のキャリアーを持つ人でしょうから、給料も高い。日本みたいに、単身赴任で行ってはくれません。奥さんも子供も連れて行くとなると、その金も出さなければなりません。それに法律でがっちり休みます。ですから、すべての作品はノーチェックでフランスに戻って来るわけです。
 ヨーロッパでアニメーターに出会うとみんな「日本が羨ましい」と言いますね。大変な欲求不満です。今、32〜33歳の人は『アルプスの少女ハイジ』(1974年1月〜12月放映)『未来少年コナン』(1978年4月〜10月放映)『ルパン』などの日本のアニメーションをいっぱい見て育っていますから、「あんなのを俺たちも作りたいよ」と言うんですが、個々のアニメーターと話してみると自己主張が強い。それに多分あの賃金水準、労働条件では無理でしょう。フランスでは国内で製作した手描きのテレビアニメは文字通りゼロ!になってしまいました。
 一方、日本のよさは機会均等とでもいいましょうか。あれだけアニメの専門学校があって、大半の人は卒業して何処かのプロダクションに入ってアニメの仕事が出来ます。大して上手でない人でも…ですよ。言っては悪いけど…個性を主張しない、理屈は言わないかわりに黙ってあの大好きなアニメ・キャラクターを毎日描いて暮らしたい、と言うだけで働く人の多いこと。給料は決して高くないかわりにチャンスは何時も口を開けて待っているというほど恵まれていることになります。決して厳しい社会ではありません。
 アメリカでスティーヴ・レイバという人が1982年頃「シュガードリームはやめよう」と言う論文を発表しているのを読んだことがありますが「アメリカのアニメはシュガー・ドリームだ。甘い甘いキャンディのような、最後はハッピーエンドでみんな幸せだと。そういうのはやめよう。」と言う主旨で、当時アメリカではまだ日本のアニメは評価されていませんでしたが、アニメーションでもディズニー式の楽しいものだけではなくて、もっとバラエティのある人間ドラマを考えていたらしいのですが、それがどんな方向を指すのかは書いていません。
 その少し前、ゲーリー・カーツという人が『スター・ウォーズ』(『エピソード4 新たなる希望』1977年 ジョージ・ルーカス監督/『エピソード5 帝国の逆襲』1980年 アービン・カーシュナー監督)という映画をプロデュースしました。
このゲーリー・カーツという人には『リトル・ニモ』(『ニモ』1989年7月15日公開 波多正美、ウィリアム・T・ハーツ監督)という映画で何回かお会いしたことがあるんですが、高畑さんや宮崎さんが聞き出したところによると、「アメリカ映画は分かりやす過ぎる。よく分からない映画、一寸考えなければならない映画、何か人生の大事なことを言っている(らしい)映画がいいんだ」と語っていたそうです。アメリカでは、観客がよく分かる映画は馬鹿にされている気がするんだそうで、そう言われてみると『スター・ウォーズ』にもヨーダなどが出てきて、哲学らしきものがある(ように見える、本当はないんだけど)んですね。ゲーリー・カーツは「しかし、“らしきもの”でないとダメだ」「本当の教訓や本当の説教が入ったらお客さんは嫌う。そんなものは見に来ない。見に来るのはエンタテイメントであって、“そんなものがあるらしい”というのがいいのだ。」と。これは面白かったですね。
 日本製のアニメーションがアメリカで評判になって、アメリカのアニメーション関係者は改めて研究したと思います。先ほどの『じゃりン子チエ』なども、改めて見ると、貧しいながらも明るく楽しく生きている庶民をこともなげに描くという、アニメーションの別の可能性を示していると思います。「真面目なドラマもアニメーションになり得るのだ」という発見が、これからアメリカのアニメーションの可能性を広げるに違いありません。
 演題と少し違ってしまいましたが、駆け足での東映時代について話してみました。時間の都合上、本日はこれで終わりとさせて頂きます。御静聴有難うございました。

(了)

※ゲーリー・カーツがプロデューサーを勤めたのは『エピソード4 新たなる希望』『エピソード5 帝国の逆襲』のみ。カーツと高畑勲・宮崎駿両氏との会談の事情など詳細は大塚康生著「リトル・ニモの野望」(徳間書店)を参照のこと。

構成・載録/叶 精二 (C)Yasuo Ohtsuka

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