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大塚康生氏講演

「日本のアニメーションに期待すること」(1)

2000年2月27日 於 滋賀県立近代美術館



▲ 企画展「日本アニメの飛翔期を探る」図録
滋賀県立近代美術館、広島市現代美術館、川崎市民ミュージアム、砺波市美術館、宇都宮美術館、高松市美術館
(2000年2月〜2001年9月、各館巡回)

● 解 説

 以下のテキストは、滋賀県立近代美術館で行われた企画展「日本アニメの飛翔期を探る」(2000年2月26日〜4月2日)のオープニングイベントとして2000年2月27日に行われた大塚康生さんの講演を叶がテキスト化し、大塚さん御自身が大幅に加筆したものです。2000年3月当時、大塚さんは公式ホームページ「大塚康生のWEB峠の茶屋」(00年5月24日〜)の開設準備と、著書「作画汗まみれ 増補改訂版」(2001年5月31日発行)の執筆準備に専念されており、双方に何らかの形で活かすという目的でテキスト化が試みられました。一読してお分かり頂けると思いますが、本講演は「作画汗まみれ 増補改訂版」の加筆部分をコンパクトにまとめたような構成になっています。この講演の内容を核として、「作画汗まみれ 増補改訂版」が書き下ろされたとも言えます。ほとんどの内容が「作画汗まみれ 増補改訂版」に吸収されたこともあり、今日まで発表の機会もないままお蔵入りとなっていました。
 2006年8月、本テキストの復活掲載について大塚さんの御了解を頂きました。掲載にあたっては、改めて校正・加筆を施しました。今になって掲載を考えた理由は二つあります。
 一つ目は、大塚康生さんの貴重な講演をWEB上で記録したかったことです。大塚さんは数多くの講演を行われていますが、テキストとしてまとめられ、公に記録されたことがほとんどありません。この機会にテキストを残したいと考えました。また、日米の文化論や海外の事情など、他では読めない内容も掲載の意義があると考えました。
 二つ目は、「作画汗まみれ 増補改訂版」がもっと読まれて欲しいという願いです。日本のアニメーション史を考察する上で、「作画汗まみれ」ほど体系的な証言・記録はないと思います。本テキストを機会に、多くのファン・関係者の皆さんが「作画汗まみれ」の内容を改めて見直し、再読して下さることを願っています。
 御意見・御感想をお待ちしています。

2006年9月29日 叶 精二


●はじめに

 今回の特別展は「日本アニメの飛翔期」ということですから、本日は東映動画と虫プロダクションが始まった頃のことについて話してみたいと思います。はじめにお断りしておきますが、私はこれまでアニメーターの仕事だけをやっていますので、どうしても「絵を動かす」という技術的な話になってしまうと思いますが、その見方の範囲で、日本に於けるアニメーションのある時期についてふれることになると思います。多少我田引水的な話になってしまうことをあらかじめ御承知おき下さい。
 東映の大川博社長がアニメーション事業への進出を決断されたのは、たしか葉国盛と言う名前だったと思いますが、香港映画のプロデューサーと協同出資で、日本とアジア全体に通用するようなフルカラー劇場用長編アニメーション映画を作ろうという計画だったようです。その頃「読売新聞」の社会面に小さな記事が出ていました。はじめての企画が『白蛇伝』(1958年10月22日公開 藪下泰司演出)だったのはその名残りでしょう。ちなみに『白蛇伝』は、「近古奇観」という中国の古典に収められていた「白蛇の精」という話が題材でした。私たちが入社した頃には香港との提携話は解消していました。
 その頃は、アニメーションは一般に「漫画映画」と言われていて、大川社長でさえ、スタジオに来て挨拶される度に「漫画の諸君こんにちは」と言って社員から爆笑を買っていました。それが普通だったんですね。ですが、最初の企画部長だった赤川孝一さんは長編を制作するにあたって「これからは漫画ではなくて動画なのだ」としきりに強調しておられました。来るべき作品がどうあるべきかについて、準備スタッフとして二つのグループを立てた理由の一端もここにあったような気がします。
 私は「読売新聞」のその小さな記事を見て、新橋にあった東映教育映画部に行きました。そこで指示を受けて行ったのは、新宿若松町にあった日動(日動映画)という小さな会社でした。ここで簡単なテストを受けて、東映が発足したらそちらに行くということで入社が決まりました。テストの話は面白いのですが、長くなりますから省略します。
 私はその時は厚生省の役人でしたから、週に一度くらい日動に行って練習用の課題をもらい、役所に通いながら日動へ持って行って、直してもらもらっていました。その時の課題は、どれも随分と簡単なものだったと記憶しています。ラフな原画と原画の間に絵を2〜3枚入れればいい。今日のアニメーションよりはずっと線が少なく、スッキリした絵でした。先生は大工原章さんと森康二さんでしたから、出発点として非常にラッキーなことだったのですね。
 アニメーションの制作全体についての知識は日比谷図書館に通って「漫画映画とその技術」(藪下泰司)「漫画映画の技術と美学」(島崎清彦)(ともに三笠書房刊「映画講座4 映画の技術」に収録)などをまる写しして頭に入れておきました。藪下さんの文章の冒頭に「現在の日本では、漫画映画の殆どすべては主として教育映画方面の需要に対して製作されているので、その企画は先ず少年たちに対する善意から出発する」と書いてあったのを記憶しています。ここでは、少女はまだ水平線の向こうにいますね。少女漫画というジャンルが確立して、少女の大群がお客さんにも作り手にもなるずっと以前のことです。


「映画講座4 映画の技術」島崎清彦 編(1954年8月15日 三笠書房発行)
第二部」に「漫画映画とその技術」の項目が収録されている。


●東映の映画的なドラマ作り

 大川社長が世界市場を目指してアニメーション制作に乗り出した時、どういう構想をお持ちになっていたのか…ということを考えてみますと、制作母体として、皆さんも御承知のように日動を買収するということが早いうちに決まっていたようです。当時、鎌倉の横山隆一さん主催の「おとぎプロ」、三軒茶屋にあった「芦田漫画製作所」、品川の「ななおらテレビ」などの小さなプロダクションがありましたが、日動は政岡憲三さんを中心としたそれまでの日本のアニメーション技術の正統派ともいうべきリアル志向の技術を継承していたという点で、正しい選択だったと思います。
 皆さん、ここでちょっと考えてみて下さい。アニメーションの会社を始めるにはディズニーのように自分とそのスタッフの仕事を企業化するのが自然です。虫ダクションプロは手塚治虫さんが自分の絵を動かすためのものですし、スタジオジブリも宮崎駿さんが自分の映画を世に出すために設立したのであって、どんな「絵」がフィルムになるかあらかじめ分かっていますね。つまり、営利事業として始めるには「誰に描かせるか」「誰を中心としてスタートさせるか」ということが重要なテーマになります。しかし、この点で東映首脳部には山本善次郎(早苗)さん率いる日動を全面的に採用したのではなかったのです。世間一般からみると大工原さんと森さんは無名に近い存在でした。
 「日動以外のオプションも考慮に入れて」といった狙いがあったのでしょう。当時動画部門の責任者として指名された東映教育映画部長の赤川孝一さんを中心に、漫画家の岡部一彦さん、舞台美術を手がけていらした橋本潔さん、「金襴緞子の花嫁人形」の歌で有名な蕗谷虹児さん、漫画家の花野原芳明さん、ほかにも笹山茂、野沢和夫、山室正男といった雑誌漫画家を4〜5人雇って、そういう人たちが各々独自に短編を準備していました。言うなれば、この人たちと旧日動のグループの持つ技術を組み合わせて新しい作風を作りたい、と考えていたようです。
 もう一つ付け加えておきますと、東映京都撮影所で「御大」と言われていた宮本信太郎さんという編集の長老の方がいらっしゃいました。実はこの方が、動画スタジオの作品をシナリオとラッシュ段階で見て「こことここは捨てる」「こことここは足す」とおっしゃって、宮本さんの指示でラッシュ段階で手を加えるということが行われていました。宮本御大の貢献は、ほとんどの人は知りません。
 考えてみれば、これは映画作りで一番いい方法なんです。ディズニー長編の『ピノキオ』(1940年 ベン・シャープスティーン、ハミルトン・ラスク監督指揮)を例にとりますと、出来上がった映画をディズニー自身が見て30%くらいを捨てているんです。出来上がったものを見たら、素人でも随分色々な評価が言えるでしょう。私たちでも誰でも、皆さんでも言えます。あそこは弱いとか、あそこはもう少し切ってこうした方がいいとか。充分言えるようになります。けれども、素材の段階でそれを言うのは至難の技ですね。
 東映は映画会社としての分厚い経験が蓄積していましたから、娯楽映画のための強いポリシーを持っています。そのノウハウを踏まえて、起承転結がしっかり出来ていることが基本でした。最初にストーリーがおもむろに入って来て、どうなることやらとハラハラさせ、最後の山場で大立ち回りや思わぬドンデン返しが用意され、それまでのドラマを収斂することによって終わりとし、お客さんを満足させて帰す。これが東映の映画作りの柱ともいうべきノウハウです。
 片岡千恵蔵主演の『血槍富士』(1954年 内田吐夢監督)という映画が最も典型的なんですけれども、山場の15分のところをうんと面白くしてサービスしています。当たり前ですが、お客は分かりきっていても、それを期待している。そういうノウハウが宮本さんによって動画の映画作りにも移転されていました。


「血槍富士」(1954年 内田吐夢監督)
内田監督の戦後復帰第一作。槍持ちの楢八が、無瀬の侍に殺された主人の仇を討つ物語。

 私たちはよく色々なことを藪下さんに伺いました。「どうしてこうしないんだ」とか。すると、藪下さんは「映画には作法があって、アニメーションでもこれを破ったらお客さんをガッカリしさせてしまいますから」ということをおっしゃっていました。それは、ほぼ今言った東映の映画作りのルールに沿ったものでした。
 もう一つおっしゃっていたのは、藪下さんと森さんや大工原さんはこれまで小さいプロダクションで15分から20分位の短いフィルムしか作ったことがなかったものですから、いきなり1時間15分という長編の企画が来た時に、どうやって持たせるかということについてのインプットは東映撮影所からあったのだということを記録しておきたいと思うんですね。
 ここでは東映が長編アニメーションをスタートするにあたって、かなり慎重だったということを憶えておいて下さい。


●『白蛇伝』のライカリールで選手交代

 そういうわけで、私たち養成第一期生が入ってみますと、岡部さんを中心とする「トライ派」(初めてアニメーションを手掛ける人たち)と、経験もあり、よく結束していた「旧日動グループ」がスタジオの中に並立していました。岡部さんたちは「今までの漫画映画じゃだめだ」「自分たちの作るものは新しいんだ」と意気軒昂たるもので、それに対して日動の人たちは、岡部さんたちが本当に出来るものかどうかをお手並み拝見という感じでじっと見ているといった雰囲気になっていました。お互いに挨拶程度はしても余り口をきかないという風で、岡部さんたちが先行して『白蛇伝』の準備を進めていたわけです。その雰囲気は新人の私たちでもよくわかりました。折に触れて漫画家グループから「君はどっちにつくんだね」と聞かれたりして戸惑っていました。ともかく、私たち新人は、森さんを中心とした『こねこのらくがき』(1957年5月13日完成)、大工原さん中心でタイ・アメリカ大使館発注の『ハヌマンの新しい冒険』(1957年10月14日完成)、花野原芳明さんの『かっぱのぱぁ太郎』(1957年11月25日完成)、蕗谷虹児さんの『夢見童子』(1958年4月5日完成)、アメリカ人の企画した『たぬきさん大当り』(1959年6月20日完成)などの短編をやって動画技術を磨いていました。
 そうこうしてるうちに、岡部さんたちの作った『白蛇伝』のライカリールというものが完成しました。ライカリールとはイラスト・ボードを絵コンテのように全カット並べて撮影し、動かない状態で1本のフイルムを作ってみるという作業ですが、これから仕事をする全員が、来るべきフイルムの流れを想像出来るという意味で、いかにもアメリカ的な方法です。それをみんなで見ることになったんですね。
 上映会は退屈で退屈で、若干音楽に合うようなスケッチも入ってましたけれど、素人眼にもハッキリと分かるほど、これが動いて完成したとしても見るに耐えないという感じでした。カットの流れと構成そのものが破綻していたように記憶しています。10分も見ていられない。あくびは出るは、眠る人がいるはで、一番驚いたのは大川社長だったと聞いています。赤川さんはその責任をとって交代しました。
 そこで、急きょ藪下さんが中心になって旧日動グループによる再構築作業が始まり、岡部さんたちは自然に後退して行きました。当然宮本御大の指示もあったでしょう。
 ここで、ちょっと岡部さんたちを弁護しておきますが、実は、ライカリールは余程上手に作られたものでもつまらなく見えるものです。一時間半の紙芝居そのもので、動くところが動きませんから、作ったスタッフだけが有効に使える手法であって、素人に見せるものではないのです。熟練した演出家がどこが長過ぎるか、どこを強調しなければならいかを計算する上で役には立ちますが、それは優れた演出家なら絵コンテでも判断出来ることなのです。それに、岡部さんたちの仕事が全否定されたわけではありません。最終的なキャラクターや美術設計に大きな影響を残しているのです。プロのアニメーション作家ではなかっただけに思い切ったキャラクターや設定があって、森さん、大工原さんにとって新鮮な刺激だったものも少なくないのです。
 うがった見方をすると、初めからそれが東映首脳の狙いだったと考えることも出来ます。次作『少年猿飛佐助』(1959年12月25日公開 藪下泰司、大工原章演出)ではイラストレーターの佐多芳郎さんという方と清水崑さんにキャラクターの試作を依頼し、3作目の『西遊記』(1960年8月14日公開 藪下泰司、手塚治虫、白川大作演出)では手塚治虫さんにキャラクター、ストーリーボードまで委託していますが、両作品とも清水崑さんや手塚治虫さんの大きな足跡が残されているのです。
 「日動勢が任すに足る創造力をもっている」と東映首脳部が確認したのは第4作目の『安寿と厨子王丸』(1961年7月19日公開 藪下泰司、芹川有吾演出)からだったのではないでしょうか。それでも『安寿と厨子王丸』では動画スタジオ所長・高橋勇さんが連日作画室を訪ね、キャラクター決定に深く関与し、安寿は佐久間良子、厨子王は北大路欣也のそっくりさんにしてほしい、と懇願しておられました。
 以上の流れを要約して言えば、当時の東映はアニメーションにふさわしい企画、人気キャラクターを試行していた時期だったといえるのではないでしょうか。日本の長編アニメーション市場を独占していたとはいえ、まだ大川社長が夢見ていたディズニーに匹敵する人気を得たキャラクターを持ってはいなかったし、人気雑誌漫画家の原作が最も手早い解決だと気がつくまでにはまだまだ時間が必要だったのです。


●絵柄の統一とフルアニメーションの演技について

 こうして、東映長編を代表する顔となったのは大工原さんと森さんのお二人でした。では、そのお二人は個性の違いをどう調整していたのか、という点について触れておきます。
 大工原さんは大胆で豪快な演技、森さんは繊細で可愛らしい仕種が得意―と言うように、お二人は随分違った持ち味をもっておられました。両氏が作画陣の中心となって、次々と東映のカラー長編が生み出されて行ったわけですが、実は『わんぱく王子の大蛇退治』(1963年3月24日公開 芹川有吾演出)までは一人の個性でキャラクターを統一するという作業は行われていませんでした。森さんの担当パートは森さん風、大工原さんは大工原さん風とかなり違っています。現場の私たちからするとそれは大変な相違で、当時も何とかならないものか…と感じていましたが、まるで相互不可侵条約のように、森さんのものは大工原さんは手を入れない、大工原さんは森さんのものに手を入れない。それを藪下さんが調整役として夫々の得意なシーンを配分することで全体として破綻のないように努めておられたわけですが、今見ても気になりますね。その方式が『安寿と厨子王丸』まで続いています。
 また、大工原さんは私たち若手の原画が描いたものが、自分の考えと多少違っていたとしても「面白いかもしれない」といって通したりしていましたが、森さんは御自身の原画の繊細な線と演技を忠実に描いてくれる人以外は評価されない厳しさをお持ちでした。当然、森さんの担当呎数は少なくなっています。それでよく一緒に仕事が出来たものだとお思いでしょうが、長編アニメーションを一人でまとめるということは当時は誰も想像していませんでした。
 ついでですが、初期の東映作品は私たちの造語で《串だんご形式》と呼ばれています。主人公が旅をしていろいろなゲスト・キャラクターに出会い、次へ進むという形式は『西遊記』が最も典型的です。『大蛇退治』や『ガリバーの宇宙旅行』(1965年3月20日公開 黒田昌郎演出)もそうですね。シーン毎にキャラクターのスタイルが多少異なっても容認出来るという意味で、今まで述べたような“相互不可侵条約”(?)的な作画分担システムに対応していたのです。
 『わんぱく王子の大蛇退治』は大胆に絵柄(スタイル)を変える試みとともに、森さんが初めてキャラクターを一人で統一するという、それまでになかったシステムを採った作品です。と言っても、森さんが手を入れていたのは、主役級のキャラクターであるスサノオ(須佐之男/素戔尊)、クシナダ(櫛稲田)、タイタンボー、アカハナ(ウサギ)が中心で、私が担当したオロチや、ツクヨミの氷の国、高天原などのゲストキャラクターがメインの舞台には修正を加えておられません。しかし、主役級だけでも統一したことで、このシステムは大きな成果を収めて、次に受け継がれることとなりました。
 『わんぱく王子』の演出法については、統一コンテがあるにはあっても随分曖昧なもので、演出と作画担当者との打ち合わせでかなり違っていました。最初に《シーン分け》と言うものをやりますが、カット内容は実際に作画する時担当者の判断でかなりの変更が許されていました。ですから、オロチのシーンなど、芹川さんの最初の絵コンテでは8分弱だったものが、最後には15分以上になってしまいました。『長靴をはいた猫』(1969年3月18日公開 矢吹公郎演出)の最後のシーンもそれに近いくらい延ばされているのです。逆に、作画はしたものの本編では切られてしまったものもありました。いずれも、先ほど述べた東映の「ラストでサービスする」ポリシーに合致しているこ分かりになると思います。完成度の高いコンテが出来たのは『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1968年7月21日公開 高畑勲演出)が初めてだったのです。
 演技についても、かなり担当者によって変更されていました。『少年猿飛佐助』で、暗い沼の上を骸骨になった夜叉姫がすーっと飛んで行くシーンがありますが、藪下さんのイメージは、あまり動かずに骸骨が飛んで行く恐〜いイメージだったと思うんです。私がその原画を担当したんですが、描いているうちに、骸骨といえども重力の法則で水面に落ちると思って、ちゃぷっと足が水面に着いて慌てて上に飛び上がったりするように描いてしまいました。出来てから藪下さんが見て「大塚君のはこれ、漫画になっちゃったなぁ。もっと恐くて…動かないまま、すーっと行くんだけど」とおっしゃるんです。「じゃ直します」と言ったら「時間がないし、いいや」と。それで、封切られて映画館で見たら、みんなそこで笑うんです。暗い劇場の中で一人で青くなっていたのを思い出します。
 高畑勲さんが後に「恐ろしいものを滑稽に見せるというのは、あそこから始まったんだ」と言ってくれたんですけど、高畑さんが演出だったらあんな計算違いは起こさないでしょうから、褒められた気はしませんね。
 同じ『猿飛佐助』で森さんの描かれた、おゆうさんというお姉さんの演技は、じっと座って口だけが動いているのですが、実は全く同じ絵を2枚描いて置き換えて僅かにビビっています。そうすると僅かに動いて見えることで「生きているのだ」ということにしてあります。その頃は全く止まってしまうと「死んだ」と思われてしまう、という恐れがあったんですね。今そんなことを言ったらアニメのキャラクターはすべて死んだことになってしまいます。
 個々の演技も担当者が考え出したもので、古沢日出夫さんの描かれた山賊の親玉・権九郎のシーンにこんな演技がありました。「(真田)幸村が山裾の村で美しい娘(佐助の姉のおゆう)と」と夜叉姫に報告する時の演技で、古沢さんは考えあぐねた挙げ句、「娘」の所でヌードの体つきを手で表現して見せたのです。スタッフは大笑いしたものですが、如何にも古沢さん本人らしい仕種でした。演出の指定ではなく、各アニメーターが勝手に考えて演技を作った結果だったのです。
 議論の余地はありますが、演技力のあるアニメーターが揃っていれば、個性を尊重して面白いもの、一風変わっているものでも包含して作るといったやり方は、私たちアニメーターからすると悪いものではありません。少なくとも藪下さんの時代はそんな風に総括出来るのではないでしょうか。

▼「日本のアニメーションに期待すること」(2)へ続く


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