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大塚康生氏インタビュー

日本初のカラー長編アニメーション
『白蛇伝』制作の裏側

取材・構成/叶 精二


※以下のテキストは、東映系劇場やグッズショップで無料配布されたPR誌「東映キネマ旬報 vol.8 2008年秋号/特集 東映動画まつり」(2008年8月1日東映ビデオ発行)に「『白蛇伝』公開から50年! 大塚康生インタビュー 〜アニメーションは動きが生命です〜」として掲載された記事を、入稿時の原題に戻し、加筆・訂正したものです。「作画汗まみれ 増補改訂版」(2001年5月31日発行)、大塚康生氏講演「日本のアニメーションに期待すること」と照らし合わせて読んで頂ければ幸いです。
(2010.3.20. 叶 精二)


●なぜ中国の民話が初のカラー長編に選ばれたのか

―大塚さんがアニメーションの世界に入られたのは、御著書「作画汗まみれ」(徳間書店)によれば、1956年6月の「東京タイムズ」と「読売新聞」の記事が契機だったそうですね。
大塚 ええ。その記事に「東映がカラー長編漫画映画『白蛇伝』の製作を始める」と書いてあって、まず新橋にあった東映教育映画部に行ったところ、日動(日動映画)へ行けと言われたんです。日動は新宿区若松町にあった高校の運動具置き場を間借りした小さなスタジオで、20人くらいの人が働いていました。まだアニメーションやアニメーターという言葉は一般に知られておらず、「漫画映画」と呼ばれていました。
―陽気に歌って踊るディズニーに代表される当時の長編漫画映画のイメージと、メロドラマが主軸の『白蛇伝』(1958年)とは随分飛躍がありますし、なぜ初めてのカラー長編の舞台が中国で、日本でなかったのかという疑問があります
大塚 『白蛇伝』の企画は、最初は確か葉国盛というプロデューサーの率いる香港の会社との合作で始まったんです。ぼくが日動に入った頃には合作の話は解消されていました。もともとは中国の民話で、明代の「剪燈新話」(瞿宗吉・作)とか、「近古奇観」といった古典を原型にしていたようです。自国だけでなく、アジア市場を目的として制作していたこともありますし、日本人はもともと他国を舞台にするのが好きでしょう。東映長編にも『西遊記』(1960年)や『シンドバッドの冒険』(1962年)がありました。今もアニメーションは圧倒的に無国籍な舞台ばかりで、よく外国人に「日本人はどうしてやたらと外国を舞台にしたがるのか」と聞かれます。
―不思議ですが、アニメーションで自国を舞台にしたファンタジーは確かに少ないですね。


●漫画家グループから動画家グループに実権が移った

―先ほどの記事によると、『白蛇伝』の「美術考証を杉村勇造、原画を漫画家の岡部一彦、音楽を宇野誠一郎が担当」となっています。名前が挙がっているのはこの三人だけで、日動の買収については何も記述がありませんね。
大塚 その時点で日動の買収は決定していましたが、世間一般からみると日動のスタッフ、藪下泰司さん、大工原章さん、森康二さんたちは無名でしたから、東映としては、著名な漫画家の岡部さんたちを筆頭に進めるという宣伝をしていたのでしょう。他にも、『白蛇伝』準備に舞台美術家の橋本潔さん、別班で童画家の蕗谷虹児さん、花野原芳明さん、笹山茂さん、野沢和夫さん、山室正男さんなど、雑誌漫画家を4〜5人雇っていましたね。漫画も動画も同じ絵描きだという括りがあったんでしょう。
―日動内では『白蛇伝』の準備は全くされていなかったのでしょうか。
大塚 ぼくが入った頃は、森さんを中心に短編『こねこのらくがき』(1957年)を制作していました。東映教育映画部長だった赤川孝一さんたちの意図は、漫画家諸氏と日動勢を競わせたて、画期的な長編を作らせることにあったのではないかと思います。ぼくの最初の仕事は、『こねこのらくがき』の動画で、熊のおじさんが子猫の首をつかんで壁の向こうへ行き、2匹のねずみが右から覗くカットです。森さんにほめられたことを憶えています。
―57年1月に東映動画の新社屋が完成し、早速同時並行で短編が制作されていますね。蕗谷虹児さんは『夢見童子』(1957年)、花野原芳明さんは『かっぱのぱぁ太郎』(1957年)と、作家グループが一作ずつ。短編の出来不出来で長編の担い手が決まったのでしょうか。
大塚 現場ではそれらの短編は退屈で不評でした。ぼくは『ハヌマンの新しい冒険』(1957年)を担当していましたが、多くの新人が『こねこ』の森さんの丁寧に仕草を拾ったアニメーションや、大工原さんの『ハヌマン』のダイナミックなアクションに惹かれていたのです。ただ、東映側にはもっと斬新なもの、重厚なものを作りたいという意図があったのではないでしょうか。
―岡部さんと橋本さんは短編を制作されていませんが、ずっと長編を準備されていたのですか。
大塚 そうです。ぼくも、岡部さんたちに呼び出されて、「君は(漫画家派と日動派の)どっちにつくんだね」と聞かれたしりて、返事のしようがないので困っていました。57年の年末頃に、岡部さんたちのお作りになった『白蛇伝』のフィルムコンテ(絵コンテの静止画を上映時間に合わせて撮影して繋いだ試作フィルム)が出来て、上映されました。そのフィルムコンテはほとんどが俯瞰、バストサイズも同じ構図が多く、一部のヨーロッパ映画のように淡々と続くわけです。余りに単調で、誰が見ても娯楽映画にはなっていませんでした。
―前年春から準備をされていた筈なので、そのコンテまでに1年9ヶ月も費やしたことになりますね。
大塚 そのことについて弁護すると、漫画家とアニメーターの描く絵は根本的に違うんですよ。岡部さんたちは、一枚一枚にかける時間がとにかく長い。一枚いくらのイラストレーションとして描いている。しかし、アニメーターの仕事は綺麗な静止画を仕上げることが目標ではありません。大量の画によって生み出される動きの完成度を目指すわけです。
―日本では、当時から漫画とアニメーションの境界線が曖昧だったんですね。
大塚 漫画家の方々が主導出来なかった理由の一つに、早く大量の絵を描かいて、崩さずに動かさなければならないという、アニメーションに対する根本的な違和感があったと思います。もともと雑誌漫画はコマとコマの間で時間と空間が続いている必要はないでしょう。時間の省略とか経過を、読み手が頭の中で解釈して読み進むわけで、そこで違和感を感じたら成立しませんからね。しかし、アニメーションでそれをやると不自然でしょう。少なくともぼくらはおかしい、観客をなめた手抜きだと思っていたわけです。
 たとえば、手塚治虫さんが虫プロを創設したばかりの頃、実際にテレビアニメでこういうカットがありました。両手を広げて演説している人物を正面から映したカットがあって、その次のカットが人物の真後ろからのカット。そこで、人物は両手を下で組んでいる。つまり手を下げて組む動きが省略されている。そこで時間が瞬間的に飛んでいる。
―つまり、カット間にコンティニュティ(連続性)がないと。
大塚 そう、「コンテ」になっていないのです。しかし、1963年に放映が始まった『鉄腕アトム』は絶大な人気を博しまして、虫プロに行った友人たちは「これが新しい表現なんだ」と胸を張っていました。この「省セル」技法は、その後大変に発達しまして、現在に至っているというわけです。
―確かに、人気漫画をテレビアニメ化した作品では、肝心な瞬間をフラッシュやカラフルなバックで省略したり、延々とスローモーションを多用したり、静止画を派手なカメラワークで見せたりと、やたらと時空間をいじるのが常套ですね。
大塚 元はそれらの技法は実写の演出で導入されたのですが、それらを採り入れることで、より雑誌漫画の再現に近くなったのでしょう。現在、ほとんどの日本のアニメーションは、雑誌漫画を抜きに語れなくなってしまいました。しかし、果たして雑誌漫画がアニメーションの企画に向いているのかという問題は、ほとんど語られることがありません。『白蛇伝』で岡部さんたちが何故主導権を握れずに去って行ったのか、という問題を今一度考えてみる必要があるのではないでしょうか。


●ライブアクションは使われていなかった

―そうした経緯で、日動勢に実権が移って、ようやく制作が動き出したわけですね。
大塚 藪下さん、森さん、大工原さんが中心となって大急ぎで絵コンテを作り直していました。ぼくのメモによれば、作画インが12月10日。全部の原画が上がったのが7月18日です。リテイクはありませんでした。
―作画がたった7ヶ月ですか。準備期間の1/3以下ですね。資料によれば、原画が1万6千枚、動画が6万5千枚、合計で8万枚以上になりますね。
大塚 今考えても結構早いですね。大工原さんと森さんという、たった二人のベテラン以外はみんな養成を終えたばかりの新人という中で、まさに毎日深夜までの突貫工事。みんなが懸命に描いていました。
―宣伝素材では、『白蛇伝』の制作に際して、当時ニューフェイスだった佐久間良子さんが白娘(パイニャン)、石川良昭さんが許仙(シュウセン)、子役の松島トモ子さんが少青(シャオチン)の扮装して実演し、撮影した時の写真がよく使われていました。このライブアクションは作画にどの程度活かされたのでしょうか。
大塚 そのライブアクションの存在については、僕らは全く知りませんでした。だから参考にしようがないですよ。
―後続の長編作品でもライブアクションの撮影がよく宣伝素材に使われていましたが、ほとんど活かされていないのでしょうか。
大塚 長編第四作の『安寿と厨子王丸」(1961年)では、会社側の方針もあってライブアクションを参考にすることが多かったですね。ぼくも、厨子王丸が坂を駆け下りるシーンでライブアクションを生かした作画にトライしたのですが、ライブをそのままトレスすると不自然なので困りました。現実のリアリズムをそのまま再現すると、アニメーションとしてはおかしなことになるのです。他にも『わんぱく王子の大蛇退治』(1963年)の終盤で、クシナダという女の子が襲いかかる大蛇から足を引きづって逃げるシーンはライブアクションを活かして作画しています。


●東映のドラマ作りが東映動画に受け継がれていた

大塚 また、東映の初期長編で忘れてはならないのは、東映京都撮影所の編集のベテラン、宮本信太郎さんの功績です。宮本さんが編集された前後では、明らかにテンポが良くなっていて、藪下さんも感心していました。
―映画製作会社としての東映のノウハウが流れ込んでいたわけですね。
大塚 東映動画の初期長編の特徴は、終盤に最大の見せ場があって、観客に存分に高揚感を味わってもらってから劇場を出てもらうという展開ですね。それは、東映チャンバラ映画の王道で、『血槍富士』(1954年)『鳳城の花嫁』(1957年)などがいい例です。そのノウハウは、宮崎駿さん率いるスタジオジブリに今も引き継がれています。
―東映のドラマ作りが長編動画にも反映していたわけですね。最後にこれから『白蛇伝』などの長編を御覧になる方に一言頂けますでしょうか
大塚 『白蛇伝』の制作からはや50年が経過して、スタッフにはお亡くなりになった方も多いのですが、こうしてまとめてソフト化されて若い人達に見てもらえるのは嬉しいことですね。

(了)

※禁無断転載 (C)Yasuo Ohtsuka


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