文責/叶 精二
※以下の原稿は1998年7月に某出版社の依頼で書いたものですが、諸般の事情で掲載に至らなかったものです。
「となりのトトロ」は誰もが認める宮崎駿監督の代表作である。
昨年公開された「もののけ姫」に批判的だった評者にも、「トトロ」を絶賛していた人は数多い。理屈の多い「もののけ姫」は嫌だが、理屈抜きに楽しくてなつかしい「トトロ」は支持するということらしい。確かに、この作品のエンタテイメント性は群を抜いており、世代も国境も越えた普遍性を獲得している。(注1)
ところが、宮崎監督自身は当時以下のような発言をしている。「いままで作った映画のなかで、いちばん理屈が多い作品」「理屈のギリギリのところで綱わたりをしながら作った」(注2)理屈抜きのなつかしさの裏側には、ギリギリの理屈とそれを支えた技術的根拠があったわけだ。それらの理屈は、ずっと以前から監督が日本の風土と歴史を肯定的に捉える核となっていたようだ。その一つは、中尾佐助氏の「照葉樹林文化論」や藤森栄一氏の「縄文中期農耕起源説」といった植物学・考古学・民俗学的興味に裏付けられた自然観や生命思想のことを指すと思われる。つまり、「もののけ姫」でむき出しとなったモチーフと「トトロ」を支えた理屈は同根なのである。
その隠れたメッセージを無視するか否かは一般観客にとっては自由だが、十年間も分析を避け続けて来た評者諸氏には相応の責任もあろう。「もののけ姫」では各評者が否応なく監督の思想に向き合わされたわけだが、これはいわばツケを払わされたということではないか。監督の思想傾向は、一挙的に進化したわけではない。「トトロ」の考察は、結果的にそのことを証明することにもなろう。
「いまさらトトロ?」と見る向きもあろうが、まともな分析にさらされていない以上、意義は大きいと考える。以下、手垢のついていない観点から、実験的な考察を進めてみたい。
これまで語られて来たこの作品の「なつかしさ」とは、主に以下の二点の内容である。
一つは、子供たちの生き生きとした表情や動作に、自らの幼少期や育児体験が重なるというもの。宮崎監督は、自身やスタッフの体験、周囲の観察を子供たちの描写に生かすことに情熱を傾けた。個々バラバラの体験を皆が納得する普遍性に昇華した演出は見事であり、評価されて然るべきである。
この点について技術的・思想的に述べるべきことは数多いのだが、本論の論旨を外れる関係で、今回は避ける。詳論は別の機会に臨みたい。(注3)
もう一つは、物語の舞台である「自然の風景描写」が一種の郷愁を誘うと言うものだ。経度も緯度も幅広い日本では、各地で自然環境はかなり異なるはずだが、評価は不思議と全国一律である。つまり、各々が作品に別々の故郷や地域の過去を重ね見たわけだ。これを「豊かな自然と解け合う瞬間は至福であり、万人に共通の記憶なのだ」などと抽象的解釈で済ますのは簡単だ。しかし、監督の意図はそれほど漠然としたものだったのだろうか。森の妖精と人間が交流する物語はこれまでに幾らでもあった。にもかかわらず、「トトロ」が熱烈に支持された理由は、自然の描写によほどの独自性と説得力があったからではないか。
結論から先に言えば、「トトロ」の最も画期的な試みは、日本の商業アニメーション史上で初めて、日本の原風景たる里山の情景と実在する植物群の生態系を克明に描き分けたことである。そこには、天候の微妙な変化や湿度、嗅覚・触感まで呼びさまされそうな空間がまるごとあった。紙とセルに描かれた表現が、五感をフル稼働させた実体験に迫ったのだ。この点についての客観的評価が、ほとんど成されていないことは残念である。
一般的な日本の商業アニメーションの美術では、あらゆるものが抽象的である。舞台は国籍不明、空間は心理描写でカラフルに変化、スピード感は効果線で表現し、宇宙空間ならば紺ベタでOK。つまり、実景とはかけ離れた特殊な空間として何でも許されてしまうのだ。当然、草木は種別を問わない「緑の記号」として描かれる。草は黄緑色の絨毯、木は針葉樹なのか広葉樹なのかも区別がつなかい。実在種を描き分けるには、すさまじい手間と技術を要するからである。日差しの光線や雲の色、影の長さなどで一日の時間や季節感を表現する手法も、同様の理由で、ほとんど前例がない。大概は真昼と夜の極端な区分だけですませてしまう。過去、宮崎監督もチャレンジを重ねてはいたものの、ここまで徹底したのは初めてであった。
「トトロ」はあえて技術的タブーに正面から挑んだ作品である。監督自身が何度も強調しているように、この作品のテーマは、美術監督・男鹿和雄氏以下のスタッフによる緻密な美術表現によって支えられている。美術スタッフは「道端の雑草も観察して描くこと」を最大のモチーフとしていたと言う。「なつかしさ」の要因の一つはここにある。作品を正面から論じるならば、まずこの点に着目すべきだろう。
ちなみに、作中で筆者が確認出来た草花や樹木を一覧表にまとめてみた。(注4)これだけでも、なつかしい空間を作り出すための努力が、どれほどすさまじいものであったかを伺い知ることが出来るだろう。
では、更に「トトロ」で描かれた自然がどのような計算と思想的動機によって作られていたかを考察してみたい。
「トトロ」の主な舞台である「松郷」地区の「自然」は、「日本人にとって気持ちのいい風景」を巧みに計算して作られた架空の村落である。より具体的には「松郷」周辺は、二種類の風景によって構成されている。
一つは、松郷のほぼ全域にひろがる風景。ここでは、低地に水田が広がり、その間を小川が流れ、丘陵には茶や里芋などの畑が広がり、モモ・カキのような果樹、ツバキやツツジなどの中低木が植林され、鶏やヤギなどの家畜がおり、庭の広い藁葺き屋根の農家がポツポツと並んでいる。典型的な「田舎」である。このような風景を、「里山」と呼ぶ。
また、七国山病院の裏山や、松郷と七国山の中間と思われる道の脇には、マツ林が広がる。バス停の稲荷前周辺にはスギ林がある。これらは、かつて人が原生林を開拓した後に、薪炭林・防風林・建材用として植林されたものであろう。マツは昔話に最も多く登場する種であり、中世以降日本人に最も馴染みが深い木である。スギは、戦後政府が全国的に植樹を奨励した樹である。これらは全て人工の明るい林であり、数百年に亘って里山の一部を構成して来た。
このような里山の風景は、多くの大人たちのなつかしさを誘う。それは何故か。答は、宮崎監督の盟友兼ライバルである高畑勲監督作品「おもひでぽろぽろ」の台詞にある。
同作品で有機農業を生業とする青年トシオは「人間が自然と闘ったり、自然からいろんなものをもらったりして暮らしているうちに、うまいことできあがった景色なんですよ、これは。」と語って、主人公のタエ子を驚かせる。
食糧生産源である田畑、水利に富んだ川、適度の果樹、道の端々に咲く草花、山菜・建材・薪を採取出来る林野、手入れされた竹林、祭祀を行える寺社。これらは、小さな集落で一定の自給自足が快適に行えるようにと何世代にも亘って工夫をこらされ、数百年の風雪にさらされて出来上がった日本独特の風景である。いわば、人と自然との共同作業によって完成された風景なのだ。日本人は、数百年来この風景の中で資源循環型のライフサイクルを保って来た。(注5)
そうした里山は、わずか数十年前まで日本全国にあった。しかし、六〇年代の高度経済成長と八〇年代のバブルの波を経て、ほとんどの里山がニュータウンや市街地に改変されてしまった。なつかしさは、戦後日本の急速な近代化、都市への人口流出とライフスタイルの激変によって作られたのである。
筆者は昨年、宮崎監督に直接里山について伺ったことがある。以下にその一部を引用したい。
「パクさん(高畑監督)とも一致するんですけど、ある時期に非常にバランスのとれた風景ができ上がるんです。」
「明治の中期から、東京の人口が増えて来て、炭とか薪の需要が増えて、プロパンガスや都市ガスが普及するまでは、集約的に手が入ったものだから、結果的に雑木林がすごくきれいになったんです。」(注6)里山の美しさは、人の手が加えられることで保たれて来たのである。
「松郷」とは読んで字の如く、「マツのサト」。つまり、「かつて針葉樹を植林した里山」といった由来の地名であろう。おそらく監督は、日本の近代を象徴する理想の里山を目指していた筈だ。監督は、その地名にふさわしいリアリティを美術スタッフに求めたのである。
一例を挙げれば、草壁家の前を流れる小川について、「澄んだ水が水量ゆたかに流れている」と絵コンテで指定している。護岸工事と生活雑排水によって微生物が死滅し、ヘドロ化する以前の小川なのである。電信柱がほとんど描かれていないこと、電話やテレビ、プラスチックなどの石油化学製品が普及していないことも同様である。設定年代の「昭和三〇年前後」も、里山が理想のふるさとだったギリギリ最後の時代という意味があったのだろう。
もう一つの風景は、トトロの住む「塚森」地区である。ちょっと恐ろしげな暗い森があり、人里とは違った空気が感じられる。松郷の一部でありながら、ここだけは別世界のようだ。
このような風景は実際に全国の村落に多く見られる。この暗い森の中心には寺社が据えられていることが多く、日常とは別個の特別な場所としての機能を持たされている。このような暗い社寺林を「鎮守の森」と呼ぶ。古来、明るい里山には、暗い鎮守の森が不可欠だったのだ。
縄文時代、日本全土は暗い森だらけであった。南西半分は照葉樹林に、北東半分は落葉広葉樹に覆われていた。日本人は、三千年以上に亘って森を生活の場として、アニミズム的世界観の下で、平和的な狩猟採集文化を築いて来た。巨大権力の基盤がなく、部族抗争も少なかった。大量に出土する土器をその象徴とする説もある。日本人は「森の民」として人類史に登場したのである。
稲作文化が輸入された弥生時代以降、人は森を拓り開き生態系を破壊して来た。扇状地を中心に水田を築き、村を作り、周辺に里山を築いた。そうして、安定した食料の確保と定住生活を獲得して来たのだ。しかし、先人たちは現在の建設省のようにやみくもな自然破壊を行っていたわけではない。人間と自然との間には、ある種の礼節、不文律があったのである。
巨樹が密生する暗い森の一部は、原生林に近い形で積極的に残しておいたのだ。暗い森を神の宿る神聖な場所として定め、そこに寺社を築いて冠婚葬祭の中心に据えたのである。森と寺社の歴史はどちらが古いかは各地域によるであろうが、「暗い森が神聖だ」という発想の根本は、宗教確立以前の原始宗教―アニミズムにまで遡ると思われる。まさしく「ここには何か棲んでいる」という鋭い感覚が、暗い森や大樹を祀る風習を形作って行ったのである。
日本人の情緒の奥底には、暗い森に対する畏怖と感謝の混ざりあった感情が、縄文以来脈々と引き継がれているのかもしれない。樹木伐採のタタリで死んだという伝承や、「森厳」などと言う言葉が現在にまで残っているのもこのためであろう。監督は、こうした「根っこの情緒」をすくい上げることに心を砕いたと思われる。
たとえば、巨大なクスノキの根本には、小さな水天宮が置かれている。村人によって落葉が片づけられ、絵馬が飾られている。水天宮は水利の神、田圃の神、子供の神であると言うから、いかにも作品の空気に合っている。しかし、起源をただせば天皇を祀ったものであり、明治一年に全国の神社が廃仏毀釈で国家神道に改変されたことで、戦中は戦意高揚にも利用された筈だ。
監督は生々しい歴史を引きずった国家神道ではなく、素朴なアニミズムを臭わせるために、わざわざサツキたちが水天宮に参拝したり、鳥居をくぐるカットを作らなかったと語っている。クスの根本の注連縄さえ描くかどうか迷ったそうだ。許されたのは、雨やどりに使った地蔵の祠に小さく合掌する程度まで。(注7)宗教色に関しても「日本人の根っこ」に訴えかけるための細かな計算がされていたわけだ。
鎮守の森に感じるなつかしさは、里山に対するそれよりも古い記憶なのかも知れない。「恐ろしい森」が「なつかしい」ということは、里山同様残っていないという逆説を自ら証明していることになる。うがった見方をすれば、やみくもな自然破壊で失った暗い森への後悔の念ということにもなるだろう。
以下、塚森の構成要素について更に検討してみたい。
作中の塚森(鎮守の森)を更に区分けすれば、巨大なクスノキとその周辺の森とに分けられる。これもかなり作為的な構成と思える。まず森の中心を成すクスノキについて考えてみたい。
作中のクスノキ(通称・大クス)は、まるで人格を持った脇役のようである。天を覆わんばかりの巨大樹で、根本の空洞にはトトロたちの棲み家がある。その幹には注連縄が結ばれ、水天宮が置かれている。「自然と人間との関わり」をやんわりと示す場所であり、ストーリィが大きく展開する場所でもある。
不気味だが崇高な巨木という物語上の設定は、児童文学の世界では使い古されたものだ。しかし、樹名が不明確で絵本作家によって解釈が異なっているものが多い。宮崎監督の前作「天空の城ラピュタ」にもリアルな巨木が登場するが、樹名は不明。しかし、「トトロ」ではあえて実在種のクスノキを選んでいる。天然記念物に数多く指定されているサクラの老樹やイチョウの巨木、親しみやすいマツやスギなど針葉樹ではダメだったのだ。他の巨木とクスノキとはどこが違うと言うのだろうか。
実は、クスノキの選択には、監督の植物学的な思想傾向が反映している。
クスは「樟」または「楠」と記す。後者の「楠」は、文字通り「南」の「木」の意味である。クスは日本列島南西部に集中しており、巨樹は特に九州地方に多い。クスは、暖温帯に生える性質を持つからである。
トトロの語源の一つは宮崎監督の住んでいる「所沢のオバケ」とのことで、舞台は関東近郊の感が強い。しかし、監督は意図的に舞台の中心にクスノキを据えたのである。監督自身も「どこか西の方の感覚なんですね。」「あんな巨木はないですよ。」と発言している。(注8)また、「樟の巨樹というのも、三十過ぎて、自然のことに関心をもつようになってから、頭の中に浮かんだ空想上の風景なんです。」とも記している。(注9)監督の頭の中にはなぜクスが浮かんだのか。南方系日本人の情緒の源たるクスを森の中心に据えた理由は何か。
縄文時代以前、暖温帯である日本の南西部はうっそうたる照葉樹林に覆われていた。常緑に輝く葉に覆われ、昼尚暗いジメジメした森林。それは、シイ・カシ・タブ・ツバキなどで構成されていた。同様の植物層から成る森林は、日本を東端として、海を越えて中国南雲省から中央アジアの彼方までベルト状に広がっていた。そこには、ドングリなどの堅果を砕いて食材とする人類文化が芽生え、やがてヤムイモ芋類の栽培が行われ、モチや稲作などネバネバ系の食文化が展開した。また、緑茶や着物などの文化が発展した。同じ森林の元で個々別々に発生しながら、不思議に良く似た傾向を持つこの文化・風習を、「照葉樹林文化」と呼ぶ。それは、国境も民族も言語も越えて、古代から同じ森林の下で生きてきた人類の歴史的共通項を理論的に体系化した学説であった。
たとえば、作中、草壁家とカンタの家には「茶」のラベルが貼られた木箱が何度か登場する。(C-163、C-500)七国山からの帰路には、茶畑が広がっている。(C-257)所沢を含む狭山丘陵は全国に知られた茶所であるから当然ではあるが、この緑茶の栽培もまた照葉樹林地帯でのみ行われていた特殊な文化なのである。お茶の木もまた、照葉樹である。
宮崎監督は「三十過ぎて」から、この「照葉樹林文化論」の提唱者である植物学者の中尾佐助氏に熱烈に傾倒してきた。農村を貧乏の象徴と考え、心情左翼として日本に政治的・思想的失望を抱いていた宮崎監督は、この学説と出会うことで風土への愛着を呼び覚まされと言う。(注10)日本人のふるさとを肯定的に描くために照葉樹を登場させることは、監督にとって必須の課題であったのだ。クスノキは、日本に於ける照葉樹の代表種。「トトロ」は、具体的に照葉樹を描いた最初の作品なのである。太古の昔から、照葉樹林の恩恵を受けてきた「照葉樹林文化地帯人」としての遠い記憶。それが、クスノキに対する畏れと敬いを呼び起こし、なつかしさを生むのかも知れない。
ところで、同じ照葉樹の高木でも、なぜシイやカシやモチノキではなくクスノキなのだろうか。次に、日本におけるクスの特別な役割について論を進めたい。
高畑勲監督は、日本人の情緒傾向について、以下のような興味深い記述を行っている。「おなじ照葉樹でも、シイやカシはぼさぼさとほこりっぽく、どちらかといえば新緑が美しくたたずまいの立派なクスノキに惹かれます」(注11)
日本最古の大樹は、「もののけ姫」のロケハンで話題となった屋久島の縄文杉である。縄文杉は推定樹齢が何と七二〇〇年である。しかし、日本最大の大樹となると、間違いなくクスノキなのだ。「最大」とは幹周りの太さを意味する。
環境庁の全国巨樹・巨木林調査は幹周りでランク付けされる。その調査結果では、何と上位十一位中、十本までがクスノキなのである。どれくらい巨大かと言えば、第一位の「蒲生の大樟(鹿児島県)」は、幹周りが何と二四・二メートルもある。(ちなみに、縄文杉は一六・四メートルで十二位)筆者は、第二位の「来宮神社の大樟(静岡県)」を実見したが、まさにトトロの棲み家にふさわしく、ゴツゴツとした樹皮に囲まれた空洞を持ち、圧倒的な大きさの中に厳かな風格がただよっていた。
福岡県の宇美八幡宮には「湯蓋の森」「衣掛の森」と呼ばれる名所がある。それは実際の「森」ではなく、二本のクスノキの名である。「一本の木でありながら枝が四方八方に広がって、あたかも森を思わせることから『森』の名がついた」と言う。たった一本の木を「森」と呼ぶ地名は他に例がない。これは日本人独特の連想かも知れない。「塚森」の地名の由来もこれと同じではないか。塚森のクスノキは、まさに一本で「森」である。
また、クスは単に巨大なだけではない。クスは様々な信仰の対象として、日本各地で祀られている。クスは、各地の神社仏閣の周辺の植樹された。古来から祀られていたクスの老樹を中心に、周辺にもクスを植林して人工的に「鎮守の森」を作り出した地域さえある。
前述の「湯蓋の森」「衣掛の森」の由来は、応仁天皇が産湯を使った時に、一方の樹が茂って湯蓋の役割を果たし、もう一方の樹が産着を掛けたという伝承に起因すると言う。時の天皇崇拝は、神木の助力で補完されていたというわけだ。
佐賀県の「川古の大樟」には、行基仏が彫られたという伝承があると言う。クスは神仏そのものだったのだろうか。
一方で、伐られても枝がすぐに伸び、長寿でもあることから、子供の守護神としてクスを祀る風習もあったとも言う。
粘菌の研究で知られる南方熊楠は、自伝に「予の名の一字は楠の神より授かり、兄弟六人みな楠の名がつく」と記している。主題歌の歌詞に「子供のときにだけあなたにおとずれる不思議な出会い」とあるが、大クスに棲むトトロは人間の側から見れば子供の守護神と見えなくもない。
クスノキは、古来より日本人にとって、最も大きく、最も特別な樹だったのである。クスは「人の手の及ばない何かが棲んでいる」という神聖さや畏怖を感じつつ、それでいて護ってくれるような親近感が沸くという、まことに希な樹のようだ。宮崎監督にとって、日本人の「森へのパスポート」は、クス以外には考えられなかったのだ。
「縄文時代農耕起源説」に挑戦中の(注12)考古学者のお父さんは娘たちに語っている。「お父さんは、この木を見てあの家がとっても気に入ったんだ」と。全てはクスノキの魅力から始まったのである。
次に、塚森のもう一つの顔である大クスを取り巻く雑木林について考えてみたい。
宮崎監督によれば、トトロはドングリを主食とする生きものだ(注13)と言う。本編のエンディングにはドングリを山盛りにして喜ぶトトロのトメ絵が描かれている。これは、実は少しおかしなことである。
トトロの住処であるクスノキにはドングリはならない。クスの果実は黒くて丸い液果だけだ。常緑で落葉もしないので、水天宮に注いだ落葉の主でもない。と言うことは、大クスの周囲にドングリ―つまり堅花類のなる落葉樹が豊富にあったことになる。ドングリがなるのは、ブナ・ナラ・カシ・クリなどブナ科の樹木である。ブナ科の中には、コナラ・クヌギ・クリのような落葉広葉樹と、スダジイ・マテバシイ・シラカシのような照葉樹とが併存する。ブナに限れば、生育地域が異なるのでクスと競合することはないと言う。監督は塚森をクス林や完全な照葉樹林にはせず、あえてナラやクリを含む雑木林にすることにこだわったと思われる。ここにも大きな理由がありそうだ。
トトロがサツキたちに手渡したササの葉にくるんだお土産にはブナ科のドングリがギッシリ詰まっていた。それは、クリと長短各種のドングリであった。サツキたちは、これを庭に植えて例の「ドンドコ踊り」によって芽吹かせることに成功する。その後、電報を届けに来た郵便配達のおじさんがサツキの観察スケッチをチラリとのぞくシーンがある。そこには、画面左より背の高い順に「クヌギ」「シラカシ」「コナラ」「マテバシイ」とはっきり樹名が記されている。(C-671)いずれも関東以南によく見られるブナ科の植物である。マテバシイのみ九州を中心に分布するが、このドングリは最も美味しいそうだから、美食家のトトロが種を取り寄せ、好んで植えていたのかも知れない。
このシーンは絵コンテの段階では(左から)「シラカシ」「クヌギ」「ミズナラ」と記されている。更に「ミズナラ」は一度消して「コナラ」と書き替えられている。これは、「ミズナラ」は「コナラ」より分布が狭く、高い山地を中心に生育することを調べた上での訂正だろう。順番も一般的生育順を考慮して変更したと思われる。本編ではカットされたが、郵便屋が「シラカシ…クヌギか…上手だなぁ…」と関心する台詞まであった。これだけでも、宮崎監督が露骨に意図してブナ科の植物を配していたことが分かる。
ブナ科の樹木はせいぜい二、三百年の寿命であり、クスのように巨大にはならない。監督が「木の原爆」と語ったあの「夢だけと夢じゃなかった」シーンは絵空事ということになってしまう。監督は、「残念なことに(中略)サツキやメイの庭からはクスノキは生えない」とまで言明している。(注14)つまり確信犯なのだ。その動機は何なのか。
前述のように、太古の日本列島は、南方は照葉樹林、北方は落葉広葉樹が覆っていた。落葉広葉樹林は、照葉樹林と共に太古の日本人の文化を育んで来た。中期を最盛とする縄文文化は三内丸山遺跡の例もある通り、日本列島の北方を中心に展開した。それは、堅花の加工(ドングリを水さらしにしてアクを抜きデンプンを抽出する)、クリの栽培、山菜の採取、サケ・マスの漁などによる山内食文化であった。人々の生活の中心は照葉樹を含むブナ科の森林であったのだ。
中尾佐助氏や佐々木高明氏と共に、これを朝鮮半島―中国大陸に連なる「ナラ林文化」と命名した。一方、ブナ林研究者である北村昌美氏は、これを日本に限定した場合「ブナ帯文化」であるとしている。(注15)
トトロの食材嗜好は縄文人にかなり近い。絵コンテには、チビのトトロたちが隠れている瓶のような器について「縄文土器みたいな器」と書かれている(C-367)。監督は「縄文人から縄文土器を習って、江戸時代に遊んだ男の子をマネしてコマ回しをやっているんでしょう」とまで語っている。(注16)縄文人たちは大人も子供もトトロと共生していたのかも知れない。ひょっとすると、サツキが与えたカサと同じような感覚で、ドングリの食べ方も縄文人から習ったのかも知れない。お父さんが語った「木と人が仲良しだった」という「昔昔」とは、縄文時代のことだったのだ。
かつて日本を象徴する森と言えば、圧倒的に商品価値の高いスギやマツであった。ところが、ここ十年余でブナが急速に知名度を高め、日本を代表する森として認知されるに至った。その背景には遺跡発掘による縄文時代再考ブームも影響している。北村氏らは、一九八〇年に「好きな木」の全国的アンケート調査を行ったところ、ブナをあげた人はほとんど見られなかった。しかし、九三年に全国の小・中学校の教員を対象に行った調査では三割から五割もの人がブナを挙げたと言う。世界的に貴重なブナの原生林を含む白神山地が「森林生態保護地域」に指定されたのは「トトロ」公開の翌々年。針葉樹一辺倒であった全国植樹祭では、昨年ついにブナの苗が植えたられたそうだ。宮崎監督の早くからのドングリやブナ林への憧れは、日本人の変わりつつある情緒を先取りしていたと言えるのではないか。なお白神山地は、後に「もののけ姫」冒頭の舞台のモデルになっている。
また、あくまで余談だが、トトロを照葉樹の主と考えると、ネコバスは周辺の落葉広葉樹の主と考えられるかも知れない。個体に風格のある照葉樹と、類として風格のある広葉樹のイメージがどこかキャラクターの造形にかぶって見える気もする。また、南方文化が北方文化を糾合・支配して行ったのは歴史に合致しているのだが、この論を発展させると妄想になってしまいそうなのでやめておこう。ネコバスは風の使いでもあるようだから、「鎮守の森」に定住しているわけでもなさそうだから。
実は、「シゼン」という名詞は、日本人にとって極めて「不自然」な言葉である。人間を取りまく地球環境を「自然」という用語で表現したのは、実は明治の末期以降だと言う。自然と人間を切り放して思考する西欧文化(自然科学や自然征服思想)の流入によって、訳語として設定されたに過ぎないのだ。
それ以前にも「自然」という単語はあった。だが、これは仏教用語で「ジネン」と読み、動詞や形容詞として使われていたと言う。ジネンは、万物との一体感や本来あるべき姿、一種の開放感を表現する単語だったのだ。今でも天然の山芋を「ジネンジョ」と呼ぶのはその名残である。わずか一〇〇年前まで日本人には「自然」という観念を表現する言葉すらなかったわけだ。
昨今、自然を和解すべき対立物として発想するのでなく、自らを環境の一部として認識するという視点がやたらと見直されている。しかし、このようなエコロジカルな発想は、過去の日本人には常識的価値観であったのだ。近代以降の価値変動に揺さぶられた日本人にとって、シゼンに触れてジネンの視点を見い出す「トトロ」の映像体験は、自ずと過去への回帰なのかも知れない。
原生自然と人工自然とが幸福な共生関係を保っていた風景。理想的な森と理想的な里山の共存。これをなつかしいと感じるのは、日本人としての歴史的記憶、ジネンの感情が呼び起こされるからであろう。その根拠は、遺伝子レベルまで遡って考えるべきなのかも知れない。
草壁家は里山と鎮守の森の境界に位置している。これも実に巧みである。物語は、姉妹が境界を行き来することで進展するという構成となっているのだ。これも、少なくともトトロが見える子供たちにとっては、原生自然と幸福な共生関係が結べるということを意味しているのだろう。
しかしながら、現代に下っては、里山の消滅と共に次世代に引き継がれるべき「なつかしさ」も消滅しつつある。わずか数十年で、数千年の記憶が途絶えてしまったようだ。
たとえば、カンタを演じた雨笠利幸君は「周りの人たちがトトロを観て懐かしいっていってるけど、ボクには全然わかりません。生まれるずっと前のことだし、なんだか違う世界のことみたい。」と語っている。その彼ももう成人前後の年だろう。
糸井重里氏によるこの作品のキャッチコピーは、当初「このヘンないきものはもう日本にはいないのです。たぶん。」であった。この案に対し、宮崎監督は、実際に使われた「まだ日本にいるのです」に変更を要請したと言う。それは、監督自身の強い願望であったのだろうが、何故か末尾の「たぶん」はあえて削除しなかった。(注17)これは、「トトロやネコバスが絶滅したのか(生きていたとしても見えるのか)どうかは観客次第だ」という実践的な含みを持たせたと解釈出来る。深読みすれば、実に複雑で重いコピーなのだ。実は、当初案のコピーにふさわしい後日談も予定されていたのである。それは次のような苦い物語であった。
現代の街中に一箇所だけ木に覆われている屋敷があり、おばあさん(当初案ではサツキとメイは同一人格だった)が独りで住んでいる。おばあさんは縁側で子供たちに庭の大樹の話をしている。街や木が少しずつ昔に戻ってトトロの物語が始まる。最後にまた現代に戻り、子供たちが「トトロはもういないの?」とおばあさんに聞く。おばあさんが「さぁ、どうかね」と答えると、ホーホーというトトロのオカリナが痛ましくもかすかに聞こえて来る―という内容であった。
これが実現していれば、単に明るいファンタジーでなく、後の「平成狸合戦ぽんぽこ」を彷彿とさせる現代風刺劇という評価も出たことだろう。宮崎監督はあえてこの後日談を切り落とし、近過去の物語として完成させた。それは、大人のノスタルジーから現代を否定してはならないという自戒であり、子供達に対して森への扉を開けておくという責任からであった。(注18)
宮崎監督は、「トトロ」の作品世界から現実世界へ興味を飛躍されるような見方が保護者から提示されることを心から期待していた。監督は評価の高まりに逆行して、子供にビデオを見せるのをやめて、外でどんぐりをひろって欲しいと何度もうったえて来た。
ところが、今や「トトロ」は幼児保育の必須アイテム。ビデオを何十回も見せる時間消化法が流行って早十年が経過した。育児環境の社会的制約からか、未だストーリーや感情表現のみに集中させる情操教育の一種としての活用が主である。
監督は、「自分たちの住んでいる土地に人間が知り得るもっと前の植物が生き続けているのが、心の中に見えるかどうかはずいぶん大きな差です。」とも語っていたが(注19)、現実にはブラウン管の中でしか自然に触れられなかった子供が多かったのではないだろうか。一時間半も「良心的なアニメ」を見て、大人しく座っていてくれれば、多忙な親、助かることはない。
ところで、「唯脳論」で知られる解剖学者の養老猛氏は、宮崎監督との対談の中で、メイがチビトトロを発見しようとジーッと見つめているシーンを絶賛していた。解剖を目指す学生は、ああいう目つきで物を見なければならないと、メイのポスターまで特注して東大の教授室に貼ったと言う。養老氏は、虫や木など自然のディテールに興味を抱かない乱暴さが、現代の若者を危険な方向へ向かせているとも語っている。(注20)ちなみに、宮崎監督は「ああ、かつてメイに見つかってまぬがれ得た者があろうか…」という名文を絵コンテに付記している。(C-119)
メイに繰り返し感情移入することで、現実逃避の時間を増やすことではなく、「メイの目」を持って行動することが出来れば、かなり破壊されてしまったとは言え、まだまだ豊かな現実の日本の風景の中に、トトロが見えて来るかも知れない。トトロの生活エリアを護ることと、トトロを見つける目を養うことは同時並行で考えられなければならない。それこそが、「このヘンないきものはまだ日本にいるのです。たぶん。」というコビーに託された現代的な意義ではないだろうか。
参考文献
梅原猛・c.w.ニコル・宮崎駿・西岡常一・岩波洋造・吉田繁・共著「千年の生命との出会い 巨樹を見に行く」(一九九四年 講談社カルチャーブックス)
大貫茂・著「カラーブックス 名花・名木を訪ねる」(一九九二年 保育社)
門田裕一・著「ポケットガイド2 街・里の野草」(一九九七年 小学館)
岩瀬徹・著「野山の樹木観察図鑑」(一九九八年 成美堂出版)
新井二郎・監修「プチサイエンス しぜんのえほん7/どんぐり」(一九八四年 学研)
沼田真・著「自然保護という思想」(一九九四年 岩波新書)
北村昌美・著「ブナの森と生きる」(一九九八年 PHP新書)
石城謙吉・著「森はよみがえる 都市林創造の試み」(一九九四年 講談社現代新書)
(注1)「となりのトトロ」は九四年七月に、二十世紀フォックスより吹替えビデオが全米にリリースされ、大ヒットを記録した。
(注2)「となりのトトロ絵コンテ集」掲載 宮崎駿監督インタビューより(P438〜439)
(注3)たとえば、ポジティプな世界観を作るために、以下のような技術的試行錯誤があった。
宮崎監督は林明子氏の絵本をスタジオに大量に持ち込み、作画スタッフに参考にするよう進言した。確かにメイやサツキの仕草には「あさえとちいさないもうと」「はじめてのおつかい」(福音書館)などの影響が伺える。
また、シナリオ段階にあった、おばぁちゃんの口うるさいイメージや腰痛をうったえるシーン、サツキと歩いていたカンタが「カップル」と冷やかされるシーンなど、生々しさやネガティブなイメージのあるシーンは全てカットされている。
これらは、同時公開であった「火垂るの墓」との明暗のコントラストを配慮した結果とも受け取れる。姉妹が、畑で子供が一番好みそうなトマトでなく、わさわざキュウリをかじるのもこのためである。
「となりのトトロ絵コンテ集」掲載 宮崎駿監督インタビュー参照(P440)
(注4)
以下は、実在の植物の実物・イラスト・写真などと照応させ、花の時期などから推測したものです。巧みに筆を省かれている植物もあるため、美術スタッフが実際に参考にした植物とは違っているかも知れません。しかし、何れも地味で身近な雑草や雑木です。「トトロ」の映像から植物への興味を深めることは充分に可能だという一つの証拠にはなるでしょう。
カットナンバー 場所 草木の種名
C15 オート三輪を見つめるカンタの足下 タンポポ オオバコ ノゲシ カキツバタ
C22 小川のわき コンロンソウ セリ
C33 草壁家の周囲 ヒメジオン ノゲシ スミレ シュロ
C58 草壁家の裏庭 マツ
C218 草壁家入口付近 クワ
C234 七国山病院の裏山 クロマツ ミヤコザサ
C251 七国山の帰途 麦(畑)
C257 七国山の帰途 茶(畑)
C283 お花やさんのメイ タンポポ
C285 庭で遊ぶメイの付近 エノコログサ ツワブキ コウゾリナ ハルジオン
C295 バケツを持つメイの足下 オオイヌフグリ オオバコ カタバミ
C340 トトロの穴の入り口 シダ(リュウビンタイ) サルビア
C369 トトロの穴の中 ドクダミ クサイチゴ ムラサキケマン
C476 雨宿の地蔵周辺 アジサイ
C510 稲荷前バス停周辺 ケヤキ スギ
C766 土手の上からメイを呼ぶサツキの足下 ヤブジラミ セリ
C787 丘の上からメイを探すサツキの足下 ノカンゾウ カゼクサ
C766 神池に浮かぶサンダルのわき ガガブタ(トチカガミ?)
(注5)
高畑勲監督は以前、地域の自然を根こそぎ破壊して資源を枯渇させてしまう資本主義的開発と里山のライフサイクルとを対比させ、「自分がとったものを、自分の子や孫の代になっても取り続ける」ことは、「再生産循環できる範囲内にとどめるというような消極的な話じゃない」「それが地球の恩恵なんだ」と語っている。
「月刊ニュータイプ」九一年六月号掲載 高畑勲・深沢一夫対談「失われ行く原風景」より
(注6)「テック ビデオ・ドゥー!」九七年十月掲載 叶によるインタビューより
(注7)「となりのトトロ絵コンテ集」掲載インタビューより(P439)
(注8)「となりのトトロ絵コンテ集」掲載インタビューより(P440)
(注9)「巨樹を見に行く」掲載 宮崎駿・文「一本の樹に生きるものたち」より(P100)
(注10)「世界」八八年六月臨時増刊号掲載 宮崎駿・文「呪縛からの解放―栽培植物と農耕の起源」参照 「出発点」に再録(P265)
余談ですが筆者は「出発点」の編集の方にこの文章の再録を勧めました。
(注11)「男鹿和雄画集」掲載 高畑勲・文「男鹿さんの描く自然」より(P90)
(注12)演出覚書に「縄文時代に農耕があったという仮説を立証しようと週2回の出勤以外は書斎にとじこもっている」とある。「となりのトトロ絵コンテ集」掲載(P415)「出発点」に再録(P265)詳細は拙文「『となりのトトロ』の父親像」参照のこと
(注13)「となりのトトロ絵コンテ集」掲載インタビューより(P434)
(注14)「ロマンアルバム となりのトトロ」掲載インタビュー(P125)「出発点」に再録(P489)
(注15)北村昌美・著「ブナの森と生きる」参照
(注16)「ロマンアルバム となりのトトロ」掲載インタビュー(P )「出発点」に再録(P )
(注17)「月刊アニメージュ」八八年 月号掲載 糸井重里氏インタビューより
(注18)「となりのトトロ絵コンテ集」掲載インタビューより(P434)
(注19)「巨樹を見に行く」掲載 宮崎駿・文「一本の樹に生きるものたち」より(P102)
(注20)「広告批評」九八年二月号
これまで各誌面を飾った「トトロ」コメントや感想文では、風景のなつかしさや子供達の日常描写、トトロやネコバスの造型について述べられたものが数多くあった。いずれも、物語上の構成や場面展開を書き起こして執筆者の解釈を加えた類のものである。しかし、それ以外の人物描写や演出について述べられたものは少ない。
筆者は本作の世界を支える登場人物は、まず「おとうさん」ではないかと考える。本作のおとうさんには、父の権威を振りかざす封建的態度もなければ、上から教え諭すインテリ風の厳しさもない。かと言って、外では企業戦士を気取りながら、家庭では無口で陰の薄い気弱なダメ亭主でもない。つまり、これまで、テレビドラマなどで描かれて続けて来たステレオタイプの日本的父親像とは決定的に違うのだ。昭和三〇(一九五五)年前後という物語の抽象的時代設定を考えるなら、一層その意義が浮かび上がる。ここにこの作品の現代的意義を感じる。
「おとうさん」の本名は、「草壁タツオ」。宮崎監督は演出覚書の中で「世慣れたおとなの落ち着きがない分、子供っぽさを残してるが、大事なことはふたりの娘を愛していることである」と記している。より具体的には、「めしをたかせりゃコゲつかせる、風呂をたかせりゃ水を入れ忘れ、寝坊し、約束を忘れ」「突然娘の手をうやうやしくとってダンスを始めたり、悪漢になって娘どもを追いまわしたりする」とある。
何とも頼りないヘンな父という設定にも見えるのだが、映画本編からは特別そういう印象を強く受けることはない。むしろ、それを補って余りある不思議な安心感を与える父である。物わかりのよい父親を描くのはたやすいが、子供の気持ちと同調して一緒に遊べる父親を描くのは密かな冒険であったのではないか。それは、単に子供にとっての理想的父親像などという抽象的イメージに流された結果ではなく、もっと具体的に計算された演出であろう。また、おそらく監督自身が若い父親だった頃の自分を投影させた設定ではない。むしろ、その逆に自らの自戒を込めた癖の強い父親像なのかも知れない。
制作当時、監督は自らの子育ての教訓に触れて「ぼくなんか、自分が黙っていても、子どもを追いたててる気がする」と語っている。(注「月刊アニメージュ/八七年十二月号」久保つぎこ氏との対談)
ところで、この「子どもを追いたてない」父親像は、次作「魔女の宅急便」や、後に宮崎監督が絵コンテを担当した「耳をすませば」にも引き継がれている。盟友・兼ライバルの高畑勲監督は、「耳をすませば」に描かれた大人たちについて以下のように記している。
「扱いにくい岩のカケラのように両親や先生から見られている少年少女にも、こんな嬉しいことを言って励ましてくれるおじいさんが身近にいてくれればどんなにいいことだろう。親や先生もまるで友達のようで、人生を教えてくれそうにもないし…」「この映画はひょっとして、(中略)宮崎駿本人をふくむ仕事人間に徹してきた中高年の男どもに強く反省を迫っている、熟年向けの作品かもしれないぞと。」(「COMIC BOX/九五年九月号」「耳をすませば」特集号より)
こうした観点から論じられた批評はほとんど見かけなかった。しかしこれは、「トトロ」にも通じる実に鋭い考察ではないか。
作者がどんな大人を描くのかは、どんな大人であるべきかという自らへの問いかけの側面もある。それは、これだけ中高生の暴力的犯罪や自殺が相次ぐ昨今にあって、子供向けメディアの発信者たちにとって、ますます意義の深まるテーマであろう。ここに改めて、宮崎監督の時代と向き合う先見性と独自性を感じる。
では、父のこの性格はどんな巧みな背景によって支えられていたのだろうか。
監督の演出覚書によれば、父の職業は、「若い考古学者。大学の非常勤講師をやりながら、翻訳の仕事で生活している。今は革命的な新学説の大論文を執筆中。縄文時代に農耕があったという仮説を立証しようと週二回の出勤以外は書斎にとじこもっている。」とある。
何とも変わった設定である。特に映画本編とは直接関わりのない論文の内容を詳述しているのは不思議なこだわりである。実際、父の書斎の美術ボードには、縄文式土器(関東出土の縄文中期・勝板式土器や、晩期の亀ヶ岡式土器と思われる)を描いた額縁が二枚も飾られ、「東北の古代史」「古代の農業」「森と農耕」「アイヌ…」などの蔵書がしっかり描き込まれている。初期に描かれた監督自身によるイメージボードには、畳の上に丸く並んだドングリに「環状列石?」と驚く父の姿まで描かれているのだ。監督のこの設定へのこだわりは尋常ではない。筆者は、昨年「もののけ姫」を論じるに当たって、監督の縄文文化への強い憧れについて何度か書いてきたが、それは一〇年前の「トトロ」に遡ってなお衰えぬものであった。
草壁タツオの設定には、モデルらしき実在の人物の陰が感じられる。それは、宮崎監督自身が「最も憧れている人物」として度々挙げている藤森栄一という考古学者である。藤森氏こそ、最も早くから「縄文時代農耕起源説」を唱えていた日本考古学界の異端であった。藤森氏の略歴は熱血的情動と波乱に満ちていた。
戦前の藤森氏は、権威にしがみつく保守的な考古学界の傾向を「脚のない古代史」として痛烈に批判し、フィールドワーク(発掘調査)に基づく独自の古代史を見い出そうと努めていた。一九四一年には出版社・葦牙書房を興し、月刊誌「古代文化」を発行。ところが、翌年戦地へと召集されてしまい、敗戦までをボルネオで過ごす。帰国後は、体をボロボロに病みながらも、研究と執筆を続けた。一九四六年、考古学にまつわるエッセイを集めた自著「かもしかみち」が発行され、読者の大反響を呼ぶが、間もなく出版社が倒産。一九四九年、自身の研究成果を「縄文中期に農耕があった」とする新説を核とする論文「日本原始陸耕の諸問題」を発表。学界の主勢力の批判にさらされる。以降は、古本屋・紙屑屋など職を転々としてジリ貧生活を十数年続けた後、学界へカムバック。闘病を続けながらも、信州・諏訪の古代史を中心に研究・執筆を精力的に展開。一九七三年、六二歳の若さで亡くなっている。
藤森氏は、物欲や金銭欲と無縁のところで学問に没頭するひたむきさと誠実さを持ち合わせており、その言葉には門外漢であっても心打たれる感動がある。その情熱に打たれて考古学を志した者は数知れないとも言う。藤森氏を突き上げて来た考古学への情熱とは、突き詰めれば自らの足下―つまり人間の根源へと遡る旅への衝動であったのではないか。それは、宮崎監督が「もののけ姫」でとことん追求したモチーフとも一致する。
「遥けき昔/人ありて/かの人は/ただひたすらに/生きたりき」(一九六四年出版された自著「銅鐸」に藤森氏が記した言葉)
このロマンチックでありながら、大変に厳しい言葉には、「昔、木と人は仲良しだったんだよ」と優しく語る草壁タツオの原型が伺えないだろうか。縄文の昔、木と人は仲良しであった。
また、昭和三〇年前後という時代設定は、藤森氏が学界から退いていた時期であるにもかかわらず、学界周辺では「縄文中期農耕論」の賛否が噴出していたと言う。「縄文農耕」関連文献の数も、昭和三〇年では二篇しかなかったものが、昭和三一年では一一篇と五倍以上に膨れている。(藤森栄一著「縄文農耕」巻末資料参照)まさに、ブームの様相を呈していたわけであり、草壁タツオもその最先端を行っていたわけである。彼は、ひょっとすると二十歳頃に「かもしかみち」を熟読して考古学の道へ入り、関東地方のフィールドワークによって藤森氏の学説を補強・体系化しようと努力していたのかも知れない。それもまた、現代考古学にあってなお、最先端の分野である。
(1998.7.15.)