HOMEへ戻る
「宮崎駿論」トップへ戻る

鈴木敏夫 インタビュー
「これは、意図的に宮さんらしさを押さえた映画です」

聞き手/叶 精二

※このインタビュー原稿は「TECH WIN 10月号別冊/VIDEO DOO! vol.1」(97年10月1日/アスキー発行)に掲載されたものです。ただし、掲載時タイトルは編集部で付けたもので、上記タイトルが原文のものです。


(すずき・としお)
1948年愛知県生まれ。72年徳間書店入社後、78年「月刊アニメージュ」編集部へ。81年に宮崎駿特集を企画し、翌年「風の谷のナウシカ」連載開始に尽力。「ナウシカ」映画化以降、徳間側制作委員として活躍。89年、スタジオジブリへ移籍、以降全作品のプロデューサーを務める。編集者の経験を生かした出版展開も行っている。現在スタジオジブリ取締役。


―企画段階、絵コンテ進行段階で宮崎監督と詰めたお話などを伺えますか。


鈴木 企画の段階では、「もののけ姫」ともう一本「毛虫のボロ」という企画があったんです。宮さん(宮崎監督)は「ボロ」の方をやりたがっていました。しかし、ぼくは「もののけ姫」を推しました。その理由は、宮さんが体力勝負でアクションものを作るとしたら、おそらくこの時期が最後なんじゃないかと。それから、これだけの予算を使えるチャンスは二度とないかも知れないと。もう一つ、ジブリのスタッフも研修制度を始めて以来、かなり中堅を担えるべく育って来ている。ここで「ボロ」を作っちゃったら、もう二度と「もののけ姫」は作れないよと、脅しをかけました。加えて、「もののけ姫」のテーマが、おそらくこの時代にマッチするんじゃないかなと。―そういう諸条件を考えて、ぼくが宮さんを説得したということになっちゃいましたね。それで、宮さんが「じゃあ、やろう」と始めたのが九四年の九月でした。とは言え、宮さん自身が描いていた一九八〇年版の物語、イメージボードをまず解体する、その作業に九五年の正月までかかりました。
 ぼくの仕事は編集者と同じで、絵コンテが出来た段階で、色々なことを言うことです。それで、冒頭ののコンテを読んで、まず不安を感じました。アシタカ君の出発が気になったんです。「ナウシカ」と全く違うなと。端的に言えば、「ナウシカ」の旅立ちは村の運命を背負います。ところが、アシタカ君は自分の運命を見定めるために旅に出るわけで、あの村はおろか、誰の運命も背負わない。ぼくは、「これでは、アシタカ君には感情移入出来ないじゃないですか!」と言いました。すると、宮さんは「そこが特徴なんですよ!」と言い出したんです。(笑)
 もう一つ、「日本を舞台にする」と言っていた割には、普通の日本が全然出て来ないので、それも指摘しました。そうしたら、いきなりその後に侍たちとの闘いのシーンを入れたんですよ。「これなら日本に見えるでしょ」と。(笑)ぼくは、自分がそう言ったことが良かったのかどうか、後々大変悩みました。宮さんがあのままやっていたら、侍が出てこない、日本とまるで関係ない話になっていたかも知れない。ぼくの中には「その方が良かったのかな…」という思いも残っているんです。
 それから、もののけ姫・サンがなかなか登場しない。この調子では、三時間になっちゃう。ぼくの立場としては死活問題です。それで、宮さんに「サンが出てくるまでに二〇分もかかってるじゃないですか」「三時間になっちゃいますよ」と言うと、「それを二時間でやるのがぼくの腕ですよ!」と言うんですよ(笑)。


―絵コンテ完成までには大変なご苦労があったと聞いていますが。


鈴木 彼の役に立ったことと言えば、彼がコンテが出来なくて困っていた時に「漫画の連載をやってると思えばいいんじゃないですか」と言ったんですね。そうしたら「なるほど、ナウシカの連載だと思えばいいんだ」と。それで、かなり気が楽になったようです。
 これまで、彼は絵コンテは早い時で半年、遅くても七、八ヶ月で描いて来たんです。今回の場合二〇ヶ月くらいかかったと思います。普通だったら、絵コンテをある程度完成させてから作画に入るわけです。ところが、連載ならそういう制約が少ないですから。その気分にたどり着くまでに時間がかかりました。


―宮崎さんは「もう一年あればもっと先まで行けたかも知れない」とおっしゃっていますが。


鈴木 実は、スケジュールその他を考慮した二時間案もあったんです。ぼくの立場では、それをやってもらった方が楽だった。タタラ場の大破壊も、エボシの片腕もぎれるシーンもなかった案です。しかし、はっきり言って良くなかった。
 それでぼくは、ある提案をしました。「エボシを殺したらいいんじゃないですか」と。話の連続性を考えたら、ああいう神を神とも思わぬ近代合理主義者は宿命として死ぬべきだと。それで、いわゆるエンタテイメントとしては、収まりがつく。エボシが死に、彼女の遺志をアシタカが引き継ぐ。故に彼はタタラ場に残る。―この方が分かりやすいでしょ?
 この案を宮さんはそうとう真剣に受け止めてくれました。実は彼もそう思っていたんです。彼は悩んだ挙げ句に、ある日「どうしても殺せない!」と言って来ました。「その代わりに、これでどうだ!」と持って来たのが、あの片腕もぎれるやつでした。それは、死んで終わりでは当たり前過ぎるということもあったでしょうし、エボシを本当に殺す為には時間が足りないせいもあったでしょう。結果として、それが二時間の予定を一五分延ばすことになってしまったんです。エボシの「ざまぁない」という台詞も、第二稿の中で生まれたものです。
 スケジュールとの闘いは過酷でした。今だから言えますが、二月末の段階では、公開に絶対間に合わないという状況でした。三月の、外人部隊の協力が本当に助かりました。それがなかったら、本当に間に合わなかったですね。
 ラストの方で言えば、寝たきりの病者の長が、あの大破壊の中で一体どうしたのかとか、色々描いていないものはありますが、意図的にやっていないのです。病者がハッと手を見るとか、すごくささやかにはやってますが、よく見ないと分からない。本人は、本当にもう一年あったら先までたどり着けたかというと、それもまた違うだろうとも言っていますね。


―友人としてのお立場から、鈴木さん御自身は「もののけ姫」という作品をどう御覧になりましたか。


鈴木 ある人に、宣伝で「宮崎駿の集大成」と言っているが嘘じゃないかと言われました。いつもと全然違う、宮さんらしくない映画だと。全体的な構成もそうですが、アクション・シーン一つとってもスカッと晴れやかになることを抑制していますね。ラストの樹が蘇るところも、チョボチョボでしょ。「となりのトトロ」で明かなように、普段の彼はウワーッと突き抜けるようにやるわけです。それを意図的に「らしくなく」やっている。それが現実に近い感じの効果を産んでいると強く感じます。しかし、それは現実を追認するということか、諦めを混えた現状肯定なのか。それとも、混沌の中にも希望を持てということなのか。そこは本人も深く説明していませんし、正直言ってぼくにも分からないんです。今は考えないようにしているんですが…。

−1997.7.31. スタジオジブリにて―

      


HOMEへ戻る
「宮崎駿論」トップへ戻る