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さらに「もののけ姫」を読み解く

―「曇りなき眼」で何を見定めるべきか―

文責/叶 精二

注)以下の文章は「COMIC BOX 97年10月号」(97年10月15日/ふゅーじょんぷろだくと発行)に掲載されたものです。ただし、掲載時タイトルは編集部で付けたもので、上記タイトルは当方の原文のままです。


 私はこの作品に限り、ストーリーの急展開に無理があるとか、キャラター各々の魅力がどうのとか、感情移入出来るとか出来ないとか、ラストがスッキリするとかしないとか、―という類の「印象中心主義」「個人体験押付型」の感想文は余り意味がないと考えている。少なくとも、公に「論評」と称する文章たるもの、最低限個々の能力を駆使して監督の描写意図と本気で格闘する必要があろう。それを初めから放棄し、単に「一観客として大作映画のコメントをする」という姿勢で、本作と向き合うことは無理があると考える。

 たとえば、各誌で「監督のメッセージを考えよう」「主人公に同化出来るかどうかはあなた次第」などの表現を散見したが、評者が自らの見解を放棄して、読者の印象にすがるような内容は到底論評とは呼べまい。

 本小論考では、各誌掲載の映画評や宮崎監督のインタビューも参考にしながら、またしても面倒な思想領域の解釈深化を試みたものである。誰しもが「圧倒された」と語る見事なアニメーション技術の素晴らしさには、あえて一切触れていないが、その点は御容赦願いたい。

1. アシタカは何故悩まないのか

 主人公アシタカは不思議な視線を持つ少年である。それ故か、筆者の周囲では以下のような疑問が多く聞かれた。(この種の観点も見方であるから否定する気はないが、ここで作品との対話を打ち切ってしまうのは余りに勿体ない気はする。)

1 アシタカは、自らの死を覚悟でサンをタタラ場から連れ出し、意識も薄らぐ中で「生きろ」と語りかける。その直後、彼は「そなたは美しい」と言う。死に至る人間が、その命と引き替えに、このような甘い言葉を口に出来るものだろうか。

2 モロの君に「お前にあの娘の不幸が癒せるのか!」と問われたアシタカは、「分からない―だが、共に生きることは出来る」ときっぱり応える。これほどの難問を、喰い殺されんばかりの迫力で突きつけられ、寸時に躊躇なく応えられるものだろうか。

3 アシタカは森を出る際に道案内をしてくれた山犬に、「サンに渡してくれ」と「玉の小刀」を託す。自分を愛してくれる故郷の娘、カヤからもらった大切な品であるにもかかわらず、本当に渡してくれるかどうかも分からない山犬に、実にあっさりと与えてしまう。アシタカはカヤの思いを踏みにじっているのではないか。

4 森でエボシと再会したアシタカは、エボシにタタラ襲撃の「証拠は?」と問われ、「ない!」ときっぱり応え、「森とタタラ場、双方生きる道はないのか」と叫んで去る。ここでも彼の言動には、難問に対して微塵の躊躇もない。何故か。

5 シシ神の首を刈られ、絶望するサンにアシタカは「まだ終わっていない。人の手で首を返したい。」と語る。死屍累々たる情況にあっても、彼の判断は情熱を内に秘めながらも冷静沈着である。何故か。

 アシタカは、何故これほどまでに潔く前向きに行動出来るのだろうか。アシタカは、なぜ迷いや恐れと無縁でいられるのか。何故自分の憎悪を封じ込めることが出来たのか。 そのヒントは、一切の大情況を「曇りなき眼で見定める」ことにある。これは大変難しい。筆者は、宮崎監督が「曇りなき眼」という表現に込めたものは一種の裏テーマとも呼べるものではないかと考えている。

 アシタカは、その場その場で最善と思う判断を下して行動している筈だが、その内面の葛藤には重点が置かれていない。このため、躊躇のなさを無根拠な楽天家と受け取る人もいるかも知れない。「曇り切った眼」では、「美しい」は単なる口説き文句に聞こえてしまうし、「小刀」は浮気な使い回しプレゼントにも見えてしまうわけだ。サンとアシタカの交流にも説得力が感じられないかも知れない。悩み苦しんで挫折を乗り越える成長過程など全く描かれないのだから、感情移入がしづらいのは当然だ。これは、同じ自然と人間の間に立つ人物であっても、万人の同情の対象となったナウシカ(映画版)とは決定的に違う点であろう。

 宮崎監督は、おそらくこうした「感情移入させない」演出を意図的にやっている。

 鈴木敏夫プロデューサーに以下のようなお話を伺ったことがある。絵コンテの冒頭で、誰からも何の期待も背負わされず、村に捨てられるようにして出て行くアシタカを見た鈴木氏は、「これじゃあ、観客が感情移入出来ませんよ」と宮崎監督に進言した。ところが、監督は「それが最大の特徴なんだ!」と嬉々として応えたと言う。監督は何故、こんな掟破りの演出を選択したのか。

 一つには「蝦夷」という異民族の歴史に対する憧れと敬意があるだろう。実際、虐げられ絶滅寸前の民を率いる若者に逡巡は赦されなかった筈だ。また、もう一方では、感情的カタルシスに溺れることなく、物語の客観的推移全体を観客の眼に焼き付けさせたいという思いもあったのではないか。観客に要求されているのは、感情移入による感動の準備ではなく、絶望的情況に立ち会い「曇りなき眼で見定める」ことなのだ。

 宮崎監督によれば、その後、彼の地の人々は「聶(※)記」としてアシタカの物語を耳から耳へ伝えたと言う。指導者の伝承や強者の武勇伝ならば分かる。しかし、アシタカは何も解決出来てはいないし、指導者として君臨したわけでもない。物語の後も、「サンという棘を体内深くに抱え(宮崎氏)」、満身創痍のままカッコ悪く生きていった筈だ。彼の行った最大の功績は、困難な問題に対して、悩みも苦しみも内に抱え込んだ上で「曇りなき眼で見定め、決めた」ことではなかったか。監督の意図は、その「曇りなき眼」のアシタカを、タタラ者たちが伝承として伝えた―というものだったのではないか。

 宮崎監督は、「アシタカ聶記」と題された以下のような詩(抜粋)を書いている。

 人々は いつまでも忘れずに語り継いで来た

 アシカタと呼ばれたその若者がいかに雄々しく 勇敢だったかを……

 残酷な運命に翻弄されながらも

 いかに深く 人々や森を愛したかを……

 そのひとみが いかに澄んでいたかを……

(徳間書店『ジ・アート・オブ もののけ姫』掲載)

 ここには、苦悩の泥沼に停滞するのではなく、楽観的で安易な希望にすがるのでもない、絶望を抱えながらも、最善を尽くして世を見据えて生きよというメッセージが感じられる。前二者に身を委ねたい欲求を持つ者には、「同化」しにくいのは当然であったとも言える。

2. ラストシーンは何故スッキリしないのか

 「ラストシーンがスッキリしない」という声も数多く聞いた。以下の映画評はその一例である。

「エンターテインメントにあるはずの、どうしてふたりは別れなければならないのォとか、それほどの『憎しみ』があるならば、その憎しみの根源であるものを取り去ってくれればいいのに…。」

(『TVTaro』97年9月号掲載「おすぎのおしゃべりシネマ館」評者/おすぎ氏)

「すっきりしないエンディングになっているのは、実は製作側の迷いのせいといった方が正確なのかもしれない。自然と人間の戦いも結局決着はつかず、物語は幕をおろしてしまう。」

(『週刊金曜日』97年7月25日号掲載「宮崎ワールドの集大成」評者/瀬戸川宗太氏)

「エコロジーなどの思想的問題(※注―筆者)をポンと投げ出してあって、見た後もスッキリ感がない。」

(『週刊読売』97年8月17日・24日号掲載「『エヴァンゲリオン』VS『もののけ姫』映画界の妖怪はどっちが勝つ?」評者/小野寺昭雄氏)

(※筆者注)ほとんどのスタジオジブリ作品評に於いて「エコロジー」「環境保全」「自然保護」などが「思想的」と評されているが、何故かその具体的な定義は不明である。ここでは「など」が末尾につけられることにより、より抽象化されている。

 しかし「スッキリしない」ことは、作品の完成度を低める悪いことなのだろうか。逆に言えば、何故エンタテイメントでは常にスッキリするラストが求められて来たのか。

 それは、エンタテイメントは日常からの解放の欲求を満たすものであって欲しいという願望に起因しているのではないか。つまり、本作のような解決不能の問題を抱える作品に於いては、「解決ぬきの浄化」が求められるわけだ。それは何を意味するのか。

 たとえばジャーナリストの本多勝一氏は、白人による先住民虐殺問題を扱った映画『ソルジャー・ブルー』(ラルフ・ネルソン監督/七〇年・アメリカ)について、先住民側に立つ白人女性を主人公にして、彼女の良心に救いを見出す構成となっている点が欺瞞的だと記している。(朝日文庫「殺す側の論理」)つまり、観客たる白人の良心に訴える人物の苦悩を通じてカタルシスを産み出し、今尚続く差別の現実から眼をそらさせてしまうわけだ。本多氏は、これを「殺す側の映画」と記している。

 整理すれば、解決不能の現実的諸関係について、良心的個人を立ち会わせ、その葛藤に収斂されてしまうタイプの作品は、そこに現実から眼をそらさせるカタルシス効果を産んでしまうということだ。換言すれば、現実的・政治的・社会的諸関係を全て放り出して、「登場人物に同化出来た」というスッキリとした感情だけが残されるわけだ。これは、極論すれば、ジェットコースターと同じ水準の心理的解放体験である。

 その意味では、映画版「風の谷のナウシカ」もこの範疇を出ていない。ラストのナウシカの蘇生は宗教的な救済のカタルシスに満ちていた。ナウシカの苦悩に同化した観客にとって、このラストで「腐海とどう共生すべきか」という現実的難題は吹き飛んでしまったのではないか。そして、映画館を出る観客に最早矛盾はない。それは、まさにエンタテイメントのセオリーであった。しかし、宮崎監督がこのラストに心から満足していなかったことは、漫画版を読めば明らかである。プロデューサーを務めた高畑勲氏は、当時から映画版に関して「『現代を照らし返す』構成になっていない」と優れて批判的であった。(徳間書店「ロマンアルバム/風の谷のナウシカ」収録インタビュー参照)

 今にして思えば、「現代を照らし返す」エンタテイメントは、ずっと宮崎監督の課題であったのだ。

 解決不能の現実に立ち向かう次世代に向かって、「解決なき浄化」を見せるマジックは、詰まるところ不誠実な嘘つきのすることである。混沌たる現実を堂々と提起して、そのまま終える。観客は矛盾を持ち帰り、現実に起こっている諸問題について「曇りなき眼で見定める」ことが出来るかどうか―つまり自分で考えることが出来るかどうかという実践的態度を問われてしまう。これこそ、映画版「ナウシカ」の一歩先の決意であり、「集大成」の今一つの意味でもあったろう。スッキリしない感覚こそ、宮崎監督の渡したバトンの重さというものだ。バトンを拒否せずに受け取り、一歩でも前に進む観客でありたいものである。

 なお、この問題に関して、本多氏の著作に大変興味深い発言が掲載されているので、以下に引用したい。

「商品の一種のコツとしてT救済Uがあるのでしょうね。ニュースや情報がいつも救済を中に含んでいるというのは、考えてみれば驚くべきことではないでしょうか。(中略)

この深刻な問題に私は参加したぞ、私は見たぞ、認識したぞ、だから終わったぞ、とつい解放されてしまう。

 わたしへの苦情は、この最後の解放がなく、自分で考えることを迫られる不快感だろうと思う。その場その場の、錯覚の救済を求めないで、自分でもう少し考えてみる。自分がどういう社会に住みたいのか、自分の子どもをどういう社会で生きていかせたいのか、くらいのことはきちんと考えをもたないと、このままでは本当にひどい社会ではないかという気がします。」

本多勝一氏著「滅びゆくジャーナリズム」(朝日文庫)収録の岡庭昇(テレビ=ディレクター・文芸評論家)氏との対談より、岡庭氏の発言

3. 憎悪のタタリと「満員電車現象」(誌面制約の都合上省略)

4. タタラ場の禿山と諌早湾のギロチン(誌面制約の都合上省略)

5. 大災害の前に

 論考の最後に、付録として私的取材エピソードを紹介したい。

 筆者が直接宮崎監督に伺ったところによれば、ディダラボッチが首を取り戻した際に大爆発を起こし、大惨事となるという悲観的結末を予測したスタッフが多かったと言う。

 「何かと言うと決着が大爆発というイメージは、核兵器が開発されてから出来たものだ」と考えた監督は、爆発のキノコ雲を避けてバラバラになって風が吹き抜ける描写を選んだ。そして、大殺戮もない代わりに突き抜けるような大再生もなかったのである。皆が無様に生き残る苦渋のラストは、暴力的滅亡のカタルシスを退け続けた結果生まれたものであった。それは「綺麗な死による解決」の誘惑と闘い、解決不能の矛盾を背負い、無様であっても懸命に生きることへの賛歌でもあっただろう。

 発電所が眼前に位置するスタジオジブリの屋上で、宮崎監督は私に「電磁波の渦の中で死ぬ時は死ぬだろう。それでもいいんですよ。」と語った。そこに、単なるニヒリズムや諦観の響きはなかった。おそらく、続く言葉は「必死に生きていれば」ではなかったろうか。そこには、最後まで礼節を重んじながら急逝された司馬遼※太郎氏の影も感じられた。

 取材中、一つの曲が筆者の脳裏をかすめた。それはジャクソン・ブラウンの「BEFORE THE DELUGE(大災害の前に)」である。以下にその歌詞の抜粋を記して終わりたい。

 「BEFORE THE DELUGE(大災害の前に)」

 地球が悪用されていることに怒りを覚える人々がいる

 権力の中で、地球の美しさを忘れ去った男たちに対して…

 だが、彼らの自然を護るための闘争が、返って混乱を招いてしまう

 最期の時、地球は激烈な光を放ち、全ては灰と化す

 全ての土地は消滅し、丸裸となった地に夜明けが来る

 そこにはごく少数の人類しか残っていないかも知れない

 その単純かつ巨大な真実に触れた時、人々は初めて「生きる」ことを理解するだろう

 大災害の後にも…

               (意訳/筆者)

 ―アルバム「LATE FOR THE SKY/JACKSON BROWNE」1974年より−

 我々は大災害の前に、「生きる」ことの本当の意味を理解出来るだろうか。

お詫び 「別冊COMIC BOX/『もののけ姫』を読み解く」掲載の拙文「思想の物語」P161下段左から6行目の地球総人口に関する記述に、「(九七年現在で五三億人)」とありますが、「五八億人」の誤りです。謹んでお詫びし、訂正致します。


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