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宮崎駿の恐るべき老境

戒律を破棄してアニメーションの可能性を追求

文責/叶 精二

※以下の文章は、2008年9月10日発売の「別冊カドカワ 総力特集 崖の上のポニョ featuring スタジオジブリ」に掲載されたものです。当初、編集の方からメイン・スタッフのインタビュー記事を依頼されたのですが、項数が少なかったことやメイン以外のスタッフへの取材の可否などで話し合った結果、「他誌では出来ない分析記事が不可欠では」という叶の要望が通り、このような内容になりました。掲載にあたり、若干加筆してあります。

2010.2.18.


「崖の上のポニョ」は画期的な快作である。手描きにこだわった線の少ないキャラクター、あらゆるシーンで手間暇をかけた動画設計、生命体としての海の表現、歪んだパースと色鉛筆の優しいタッチの美術、それらを影で支えた撮影(映像演出)や色彩設計など、様々な実験的な試みが見事な効果を上げている。登城人物も極端に少なく、物語も裏設定などに立ち入らず、一見シンプルだ。しかし、従来のスタイルから転換しているのは、作画や美術だけではない。宮崎駿は、本作でこれまでの演出上の不文律を随所で破壊している。感想や批評を読む範囲では、ほとんど注視されていないようなので、ここではその一部を分析してみたい。

●台詞がない

 冒頭、海中でフジモトがクラゲを発生させる下りからポニョの家出までの3分39秒、台詞は一言もない。(ポニョの妹たちの会話は除く。)約2分20秒のタイトルバック、その54・5秒後、「宗介、すぐもどるのよ」というリサの声と応える宗介が初台詞。続いてポニョが底曳網に巻き込まれ、宗介に救出されて家に戻るまでの2分55秒も、宗介のつぶやき程度。つまり、スタートから約10分間、短編一本分に相当する尺数と動画枚数を費やして、ひたすら演技を見せる。しかも、どのカットもスローテンポで長く、劇的な場面転換や時間経過もない。こんな長編アニメーションは、およそ前例がない。
 大概の長編アニメーションは、よく喋って観客の興味をそそる。もともと荒唐無稽なファンタジーが大半を占めるので、冒頭から強引に引き込まないと、観客が飽きてしまい、騙されない怖れがあるからだ。たとえば、同じ海洋舞台で魚が主人公(クラゲや底曳網も共通)のピクサー作品「ファインディング・ニモ」と比較すれば一目瞭然であろう。「フジモトが何者か分かりにくい」という感想がよく聞かれたが、実はこの冒頭で何者なのか(仕事から性格まで)は語られている。その情報量を受け取れるかどうかは観客次第というわけだ。
 また、後半にポニョと若夫婦と赤ん坊の船上での交歓という、通過儀礼的なシーンがある。庇護すべき存在と出会って、新しい感情が芽生えるポニョの有様を、全てを差し出すことや、顔を押しつける愛情表現、全身の変化などで表現している。ここでも説明的台詞は一切なし。アニメーションに限らず、赤ん坊の演技設計は、大抵ペットや人形並で、生々しさに欠ける。「魔女の宅急便」でキキが赤ん坊におしゃぶりを渡すシーンがあるが、いかにも記号的な喜怒哀楽しか描かれていなかった。ホンモノの赤ん坊は、視線も定まらず、どこか理解不能の表情をたたえていることがある。おかまいなしに怒るし、眠るし、涙も鼻水もヨダレも一緒だ。そんな茫漠とした演技、言語も理屈も超えた乳幼児間のコミュニケーションを「心から描きたい」と考えた者が、これまでにいたであろうか。それは、無言の演技による“アニメーションの醍醐味”に一切を賭けた果敢な挑戦である。


●スローモーション

 終盤、宗介がポニョのバケツを持って、フジモトから逃れて柵の上を疾走するシーン。立ち上がって出迎えるトキさんは、顔面にバケツの水をかぶりながら、宗介を抱きしめる。このシーン、ほんの一瞬が4カットで20・5秒もある。「スローモーション」、つまり“時間の引き延ばし"が施されている。これは、宮崎作品では前代未聞である。
 かつて、宮崎駿は「日本のアニメーションについて」と題した文章で、「過剰表現主義」という括りで以下のような状況分析を記している。
「空間と時間も徹底的にデフォルメされた。投手の手を離れた白球が、捕手のミットにたどりつく時間は、一球に込められた情念によって際限もなく延長され、ひき延ばされた瞬間が迫力ある動きとして、アニメーターにより追求された。」「絵を動かす技術は、延長され歪められた空間と時間を強調し、飾り立てる役割に限定された。もともと不得手だった、人物の日常仕草の描写は不必要な、古くさいものとして積極的に排除され、非日常性が激しく追求された」(「講座日本映画7 日本映画の現在」1988年 岩波書店)
 日本で異常な発展を遂げたセル・アニメーション(いわゆる「アニメ」)は、動画技法上は省略と合理化に明け暮れた、いわば枚数削減と誇張表現の開拓史であった。直立不動のアップで眼や口だけを動かす「口パク」「眼パチ」、変身・合体・爆発などを使い回す「バンク」、描き込んだ静止画で間を持たす「トメ」、フラッシュ、カットバック等。スローモーションも、常套技法の一つであった。
 宮崎は、東映動画初期のフルアニメーション時代にキャリアをスタートさせ、テレビ時代に移行してからも、高畑勲らと共に、極力「動いて見える」作品制作を追求して来た。叙情的な静的芝居のシーンでは、大胆に枚数を省略するが、アクションシーンには枚数を惜しまなかった。時間は常にリアルタイムで設計され、カットの繋ぎも省略や瞬間移動を排した自然主義に徹し、決して演出の都合で時間を引き延ばしたりはしなかった。スローモーションは、唾棄すべき退廃的技術であった筈だ。
 しかし、このシーンの絵コンテには、「スローモーション」と3回も大書されており、よほどの意気込みがあったと思われる。存分に手間と時間をかけた日常表現を極めた末に、あえて時空間のデフォルメを山場にしたという逆転の発想は、皮肉だが興味深い。ただし、省略技法ではない。むしろ表情から水塊の粘度まで、丁寧に動かすことで、独特のおかしみと真剣さがないまぜとなった不思議な時空間を創り出している。止まっていたトキさんの時間が動き出したというメタファーの意味もあったのだろうが、画期的なシーンとなっている。


●ストップモーションと黒丸ワイプ

 本作のラストカット、ポニョは自ら宗介にキスをして人間になり、二人がおでこをつきあわせた横位置のレイアウトでカメラが引いて絵が止まり、縮小する黒丸で囲われて閉じる。1秒間の「ストップモーション」と2・5秒の「ワイプ・アウト」による幕切れ。これも、宮崎作品では前例がない。原画として参加した「長靴をはいた猫」のエンドロール以来であろう。
 宮崎作品のラストカットの定番は風景ショットで、それが独特の余韻を感じさせて来た。「カリオストロの城」の山々や道路の遠景、「風の谷のナウシカ」の腐海深部に芽吹くチコの実、「天空の城ラピュタ」の宇宙を漂うクラゲ状ラピュタ、「魔女の宅急便」のコリコの俯瞰、「千と千尋の神隠し」の木々の梢、等々。キャラクターらしきものが映り込む場合も、風景と同化したワンポイント的起用である。「となりのトトロ」(本編)の大楠の梢でオカリナをふくトトロたち、「紅の豚」のサボイアと大空、「もののけ姫」の去勢された森で独り首を振るコダマ、「ハウルの動く城」で彼方に飛び去る城、等々。
 キャラクターが行き交うアクションの途中で、「ハイ、ココまで」と静止画のワイプで閉じるなどという、チープで「アニメ」的演出も敬遠して来た筈だ。しかし、このカットもまた、綿密に計算されている。当方の取材によれば、このカットは、一度寄ったアップの二人をワイプするコンテが描かれたが破棄され、トラックバックでカメラを引いてから、より小さな黒丸で、0・5秒長くワイプするように設計し直されている。
 17万枚余を費やして、動きに動いた映画の大ラストであればこそ、ストップモーションとワイプは生きる。激しいコントラストを承知で、かつてない潔い顛末を提示したかったのではないか。一部の感想に、「ラストがあっさりし過ぎていて物足りない」といった内容が聞かれるが、それも演出の意図通りの反応だとすれば、「見たことのないラスト」という褒め言葉とも受け取れる。

●宮崎駿の老境

 リサが宗介を抱きしめるカットで「わたしは、げんき〜」と歌う。「となりのトトロ」のオープング「さんぽ」(中川李枝子/作詞)のワンフレーズ。この程度の自作引用も、実は前代未聞だ。そういう曲が存在するだけで、作品世界のリアリズムを壊しかねないわけで、これまでは積極的にやろうとは思わなかった筈だ。冷蔵庫の上にくっついたちびトトロのマグネットも同様。
 その他、水(特に水道水)を実線で描き水色で塗りつぶすタブー(「トトロ」の井戸水参照)の放棄、全作画(画面全体が動画)が多い、生死を分かつ緊張感や強迫的展開の回避、魔法の背景に理屈がない、等々書ききれないが、ともあれ、随所で戒律を破棄して、何でもやってやろうという強烈な意志が感じられる。
 筆者はかつて「ハウルの動く城」について、これからは老人・妻帯者・幼児ら周辺と社員の為に、死ぬまで働き続ける−という宮崎の決意を淡々と語った遺言的作品だと記した。本作は、その先で、あの世へのカウントダウンを迎えた晩年の創作とどう向き合うかという新たなテーマに踏み込んでいる。「おむかえ」を待つ老人にとっての幸福(「歩ける」というファンタジーが要介護者にとってどれ程重いことか)、孫世代の乳幼児と子供たちへの期待と慈愛(傍で観察出来る、共生の喜び)、核家族時代の子育てに奔走する若い母親へのエール(子供を叱らず許容しながらしつける、父親不在でも自ら判断し行動する)等々。それらは、一作毎に「ジブリ解散」「引退」を公言していた「千と千尋の神隠し」以前には、メインに表出していなかったモチーフを掘り下げたものだ。もはや、鋼の意志と身体を存分に機能させ、独りで社会と真っ向勝負を挑むという過去作と同じ姿勢は望めない。オソロシイのは、そんな老境を迎えながらも、みっともないルーティーンや枯渇でなく、より身近なモチーフを源泉に、開き直って更に高次の表現を開拓していることである。モチーフは一層誠実で健全だが、表現は一層アナーキーで凶暴である。あくまで優秀なスタッフに支えられているという前提付だが。
 本作の試写で高畑勲が「宮崎駿の老境を見た」と感想を語ったと言う。その高畑は、先日著者に「健脚のうちにもっと世界を見て回りたい。映画は車椅子になっても出来る」とポツリと語っていた。不世出の二人の老境は、汲めども尽きぬ創作意欲に溢れている。

(了)
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