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弁証法的な緊張関係
−高畑勲と宮崎駿の50年−

文責/叶 精二

※以下の文章は、2013年9月17日発売のコミック誌「もっと! Vol.4 2013年11月号/総力特集 ジブリの狂気が大好き・」(秋田書店)に掲載されたものです。同誌は珍しいスタジオジブリ公認のアンソロジー掲載のコミック誌でした。2013年8月末に編集の方から原稿依頼を受けたのですが、「高畑勲、宮崎駿両監督の作風総括と新作批評を短文で」という大変難しいお題でした。当時『かぐや姫の物語』公開前で取材・執筆で忙殺されていたこと、同作の初号試写前であったことなどから、以前の原稿を加筆・再構成するという条件でお受けしました。前半が加筆・再構成、後半が書き下ろしです。
                                                    2015.2.15.



高畑さんを 丸いと喩えるなら
宮崎さんは 四角い
高畑さんは 海のようだとすれば
宮崎さんは 山のようだ
似ても似つかない二人だし
近頃では希な偏屈ときている
仕事のこととなると
テントウ虫の卵ほども妥協しない
でも 不思議な事に
二人はスタッフと組んで
輝くような作品を何本も作った

二人は 丸でも 四角でもいい
私は 海も山も好きだ


森やすじ「二人と私と」(『天空の城ラピュタ GUIDE BOOK』1986年 徳間書店)より

 これは高畑勲監督と宮崎駿監督が心から敬愛した先輩アニメーター・森康二氏(故人)が二人に贈った文章の一節である。ここに謳われた通り、全く異なる主張と姿勢で、対照的な作品を世に送り出して来た。しかし、ある時期まで二人の志向性はぴたりと一致しており、二人三脚で作品を作り出していた。
 映画「太陽の王子 ホルスの大冒険」(68年)「パンダコパンダ」(72年)「同 雨ふりサーカスの巻」(73年)、テレビシリーズ「アルプスの少女ハイジ」(74年)「母をたずねて三千里」(76年)などの作品では、高畑が演出を、宮崎が場面設定や画面構成などを担当。彼らは、驚異的なハードワークで生活空間・風俗・衣食住等を丸ごと設計し、平凡な日常を丹念かつ魅力的に描いて見せた。それは、前人未踏の新たなアニメーション表現の開拓でもあった。
 宮崎はこの時期を「思い出しても胸が熱くなるぼくらの時代だった」「この時代を共通分母としてそれぞれの道を歩んでいる」と述懐する。
 「三千里」以降、地味な日常描写に傾く高畑と、冒険活劇路線に惹かれる宮崎の方向性は次第に離れて行く。宮崎がテレビシリーズ「未来少年コナン」(78年)で演出として自立を遂げると、高畑は中盤の絵コンテでサポート。続く「赤毛のアン」(79年)の中途で従来型のコンビはついに解消する。以降は監督同士として並び立つ新ラウンドを迎える。そして、宮崎は映画「ルパン三世 カリオストロの城」(79年)を、高畑は「じゃりン子チエ」(81年)を監督した。
 その後も協力関係は継続するが、それは暗黙の不可侵条約の下に互いの職務を全うする分業型に落ち着いた。映画「風の谷のナウシカ」(84年)「天空の城ラピュタ」(86年)では、原作・脚本・監督を務めた宮崎の要請で、高畑がプロデューサーを担当。 「ラピュタ」制作に際し、1985年6月15日にスタジオジブリが創設された。「責任を負うスタジオを作るべき」という提案は高畑、命名は宮崎であった。「ジブリ」とはサハラ砂漠に吹く熱風の意味だが、同名のイタリア軍偵察機(カプロニ社製)でもある。ジブリはスタート時から高畑と宮崎の監督作品を制作する目的を掲げていた。
 88年、宮崎は「となりのトトロ」、高畑は「火垂るの墓」を監督。同じく近過去の日本を舞台とした二作を、同時制作・同時公開に仕向けたのはプロデューサーの鈴木敏夫で、二人の競争心を煽って最大限の力を引き出すことを意図したという。制作は別所で行われたが、宮崎は高畑を強烈に意識した。「火垂る」の清太がトマトをかじると知れば、「トトロ」のサツキにはキュウリをかじらせた。「火垂る」で蛍が大量に描かれる為に、「トトロ」では蛍は一切描かなかった。「火垂る」のリアリズムに対抗すべく、「トトロ」では漫画映画的明るさを追求した。一方、高畑は「我関せず」でマイペースを貫き、「火垂る」は一部シーンが未完成のまま公開された(完成後、順次フィルムを交換して上映)。
 「柳川堀割物語」(87年)「おもひでぽろぽろ」(91年)では、宮崎がプロデューサー、高畑が脚本・監督を担当。宮崎も高畑もプロデューサーとしては、創作には一切口を挟まないという理想的管理職に徹した。それは深い信頼関係を前提としてはいるが、一端口を挟めば監督同士の深刻な衝突になってしまうことを互いに自覚していたからでもあった。
 94年の「平成狸合戦ぽんぽこ」では、高畑が脚本・監督、宮崎は企画を務めた。
 97年、宮崎は室町時代の日本を舞台としたファンタジー大作「もののけ姫」を監督。続く99年、高畑は「ホーホケキョ となりの山田くん」を監督。またしても同じ日本を舞台とした二作でありながら、作風は天と地ほども違っていた。高畑は「ファンタジーは現実を生きるイメージトレーニングにならない」と断言し、「もののけ姫」を批判。普通の家族の日常を、素描の水彩画風に描く実験的技法で四コマ漫画を長編に仕上げて見せた。鈴木敏夫は、「もののけ姫」の「生きろ。」に対し、「山田くん」では「適当」という正反対のコピーをぶつけ、作風の差異を際立たせた。高畑本人は「ラクに生きたら?」という更に挑発的なコピーを主張した。興行新記録を樹立した「もののけ姫」に比して、成績は振るわなかったが、高畑は打ち上げパーティで以下のような発言で周囲を驚かせた。
「これが当たろうが当たるまいが、人が一人も来なくたって、アニメーションの表現上は成功したと思います」
作品の価値は集客でなく、アニメーション表現の成否である、という高畑の姿勢は常に厳格で揺るぎない。

●対照的な宮崎と高畑の作品
深い敬意と相互批判の応酬

 宮崎と高畑の作品・作風はあらゆる意味で対照的である。ここで、その差異をざっと比較してみたい。

・宮崎演出は即効性の感覚直撃型。高畑演出は遅効性の感覚浸透型。
・宮崎演出は観客が考える間もなく進展。高畑演出は観客に考えさせる。
・宮崎作品の舞台は欧州・日本・異世界など架空で多彩。高畑作品の舞台は80年以降は全て日本で、実在地も多い。
・宮崎作品は主に冒険ファンタジー。高畑作品は日常性を重視したアンチ・ファンタジー。
・宮崎作品は完成された別世界へと観客を誘う。高畑作品はありふれた現実やつまらない日常への帰還を促す。
・宮崎は(自筆漫画でさえ)原作を破壊して再構築する。高畑は原作をとことん尊重する。
・宮崎は自身で徹底的に絵を修正し、強烈な個性でまとめられる。高畑は自身ではラフ程度しか絵を描かず、スタッフとの徹底的な討議を行い、各個性を引き出す。
・宮崎は伝統的セル・アニメーション。高畑は「山田くん」以降、素描水彩風の実験的アニメーション。
 

 一般に「宮崎アニメ」という用語は使われても、「高畑アニメ」という用語は聞かれない。上記のような特徴から、単純な支持・不支持の色分けが困難な作品が多く、歴代ジブリ作品に照らせば各作品は下位の興行成績に留まっている。
なお、二人はスタジオジブリとの関わり方も異なっている。宮崎は言うまでもなく、スタジオジブリを背負って立つ看板監督である。しかし、高畑は一貫してジブリの社員となることを拒み、フリーの立場で関わり続けている。
 互いの評価はどうか。宮崎は高畑の常にスケジュールを超過するねばり腰を「大ナマケモノの子孫」と揶揄する一方、「悪口は限りなくあるが、他人が悪口を言うのは許さない」と語る。高畑は宮崎の才能を「類希な天才」と讃える傍ら、「余りに良く出来ているために観客がファンタジー漬けになってしまう危険性」に警鐘を鳴らす。
 また、宮崎は、2001年に現実に見て触れることの出来るファンタジー空間を「三鷹の森ジブリ美術館」として完成させた。高畑氏は、これに対し「ホンモノの魅惑的空間を作り、子どもたちの自発的な好奇心を引き出そうする試み」と熱烈な賛辞を贈っている。
 互いの発言だけを採り出すと丁々発止だが、それらは極めて深い敬意に基づいており、相手への回答は常に作中で行っているようにも思われる。 作品の相互批判や評価を通じて、より高次の創作を呼び込むという特殊な意志疎通。それは、高畑の言葉を借りれば「弁証法的な緊張関係」と言うべきだろう。
 2013年、宮崎は「今はファンタジーを作るべき時ではない」として、実在した飛行機の設計技師・堀越二郎と文学者・堀辰雄をゴチャマゼにした画期的な新作「風立ちぬ」を監督。一方、高畑は日本最古の物語と言われる「竹取物語」を題材に「かぐや姫の物語」を監督。当初、鈴木敏夫より同日別劇場で公開と打ち出されたが、結局「かぐや姫」の制作が間に合わず、今秋公開となっている。
 「かぐや姫」は、原典に従えば高畑が批判していたファンタジーである。宮崎が回避したファンタジーを、「今あえて作る」と言わんばかりだが、高畑が単純なファンタジーで終わらせる筈がない。画風と演技の革新性はもとより、物語にもこれまで以上に「考えさせる」内容が盛り込まれていると思われる。

●「火垂るの墓」と「風立ちぬ」
   宮崎駿の25年後にして最後の回答


 宮崎は、かつて高畑の「火垂るの墓」について次のように記している。
「飢えと栄養失調で死んだ四歳と十四歳の兄妹の二人の幽霊が、なぜ母の幽霊と出会わないのか。母と二人は別々な世界に行ったのか。生に執着し、恨みを残して死んだのなら、二人の幽霊は死ぬ寸前の飢餓の姿であるはずなのに、なぜ肉体的に何も損ぜられていない姿をしているのか。(中略)
あの二人は生きながら異界へ行ったのだ。(中略)兄の甲斐性なしを指摘する者がいるが、彼の意志は強固だ。その意志は生命を守るためではなく、妹の無垢なるものを守るために働いたのだ。
二人の最大の悲劇は、生命を失ったところにはない。(中略)魂の帰るべき天井を持たないところにある。あるいは、母親のように灰となって土に化していくこともできないところにある。しかし、二人は幸福な道行きの瞬間の姿のまま、あそこにいる。兄にとって、妹はマリアなのだろうか。二人の絆だけで完結した世界に、もはや死の苦しみもなく、微笑みあい、漂っている。
「火垂るの墓」は反戦映画ではない。生命の尊さを訴えた映画でもない。帰るべき所のない死を描いた、恐ろしい映画なのだと思う。」
(『朝日ジャーナル 88年8月5日号』)より
宮崎の透徹した視点は、誰より鋭く高畑の意図を探り出し、正確に受け止めている。推測だが、その上で宮崎は「死しても魂が帰るべき場所」があって欲しい、描かれて欲しかったと考えたのではないか。
  「火垂るの墓」とほぼ同時代の日本を描いた宮崎の最新作「風立ちぬ」。そのラストに以下のようなシーンがある。
 堀越二郎は先達のカプローニに導かれ、亡き妻・里見菜穂子と再会する。菜穂子は「生きて 生きて」と語りかけて昇天する。二郎はこれに「うん うん」と涙ながらに応え、カプローニは「君は生きねばならん」と語りかける。
 この不思議な結末は、ダンテの「神曲」をイメージした創作である。第二部「煉獄篇」のラスト、詩人ウェルギウスに導かれたダンテは、永遠の淑女ベアトリーチェの祈りと導きで天国へと昇天する。詩人は煉獄から出ることは出来ない。呪われた殺戮機械の設計士として煉獄に留まるカプローニと二郎。しかし、天国へは行かずに煉獄で二郎の昇天を祈り続けた菜穂子の誘いで、二郎は現世に戻る道、天国への道を選択する。
 宮崎は、世間から隔絶された二人の永遠の世界、つまり「帰るところのない死」ではなく、相手のために役目を果たして果てる「帰るべきところのある死」「他者を生かすための死」を提起し、もって「火垂るの墓」への25年目の答案提出としたのではないだろうか。それは同時に、宮崎にとって、ある種の節目を刻む覚悟であったのかも知れない。
「かぐや姫の物語」は現在七七歳の高畑勲の「最後の作品」と言われている。そして、七二歳の宮崎駿は「長篇から引退」と報じられた。二人の熾烈な弁証法は、終始一貫しており、見事にゴールまで競り合って駆け抜けた、と言える。しかし、あるいはまた、50年目にして新たな弁証法のステージに進んだだけなのかも知れない。

(了)
禁無断転載


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