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日本の民話・伝承と宮崎駿監督作品

文責/叶 精二

※以下の文章は、「月刊観光/2005年10月号」(2005年9月20日 日本観光協会発行)に掲載されたものです。同誌は全国の自治体・官公庁・観光施設を中心に広く購読されている雑誌で、「2005年10月号」は「古代ロマン・歴史ミステリー特集」でした。編集部からは「地域振興の参考になるような内容を」「タタラ製鉄と『もののけ姫』について書いて欲しい」という依頼でしたが、「他の諸作品も含めて民話・伝承との関連性をまとめたい」という叶の意向により、このような内容になりました。

2006.10.15.


 『となりのトトロ』(1988年)『もののけ姫』(1997年)『千と千尋の神隠し』(2001年)―、今や国民的映画と万人が認めるこれらの諸作を創作するにあたり、宮崎駿監督は、度々日本古来の民話や伝承を引き合いに出して来た。宮崎監督は「より普遍的・古典的な素材から新しいファンタジーを模索する」という独特の創作スタンスを取っている。換言すれば、現代の観客に通じる創作を突き詰めた結果、古典的な物語に近づいてしまったとも言える。それは、昨年公開された『ハウルの動く城』や、その他の原作付の宮崎作品にも見られる傾向である。
 宮崎監督は、「堤中納言物語」収録の「虫愛づる姫君」から『風の谷のナウシカ』(1984年)の着想を得たと語り、中世の英雄譚「俵藤太のムカデ退治」や「岩見重太郎のヒヒ退治」などの冒険劇を現代的に復権したいといった発言を何度も行っている。また、『千と千尋の神隠し』の企画書には「昔話に登場する『雀のお宿』や『鼠の御殿』の直系の子孫と考えたい」と記されている。
 宮崎作品を鑑賞した観客の多くが、「どこか懐かしい」「安堵感を感じる」ともらしているが、その根因の一つに日本人が古くから語り継いで来た物語の構造、そこに宿る精神性の継承があるのではないか。

●『となりのトトロ』と「笠地蔵」

 昭和三〇年代の都市近郊農村を舞台とした『となりのトトロ』は、「子供の時にだけ見える」精霊のようなトトロやススワタリと姉妹の交流を中心に描いた作品である。宮崎監督は、その着想の一つに民話「笠地蔵」を挙げている。
 「笠地蔵」は、大晦日に笠売りに出かけた貧しいお爺さんが、吹雪の中にたたずむ地蔵たちを憐れんで、売れ残った笠を地蔵に被せて家に戻ると、地蔵が米俵や金を背負って恩返しにやって来るという話で、岩手県花巻市から鹿児島県鹿児島市(こちらは吹雪でなく雨)まで全国に無数の派生型がある。
 自然界の神様に善行を行えば、必ず困難な時に助けてくれるという発想は、八百万の神々を崇める日本人独特のアニミズム的発想であり、人間の絶対神を信仰対象する一神教的宗教とは根本的に異なる。宮崎監督は、これを「笠地蔵シンドローム」と括り、『トトロ』もその流れを汲んだものだと語っている。尤も『トトロ』の場合は、「笠」でなく「傘」である。
 また、作品の後半に五歳の妹・メイが母の入院する病院へ一人で向かう途中で迷子になるというエピソードがある。監督曰く、「物語を閉じるため」に考えた展開だそうだが、これは古来語り継がれた「神隠し譚」の転用にも見える。

● 八〇年版『もののけ姫』と「婿入譚」

 大ヒットした映画『もののけ姫』には、映画完成の十七年前にまとめられた原初案があった。それは、次のような物語であった。
 舞台は戦国時代。森の奧に迷い込んだ武士が、大山猫のもののけに「三人の娘のうち、一人を嫁にやる」と約束させられる。山猫に嫁いだ優しい末娘は、悪霊に憑かれて悪鬼の如き専制領主となった父を救う為、山猫と共に旅に出る。
 この「男が動物または怪物に三人娘のうち一人を嫁に出す契約を交わし、優しく賢い末娘が進んで嫁に行く」という「嫁入」「婿入」譚も、全国各地の民話に類型が見られる。たとえば、蛇に末娘が嫁ぐという「蛇婿入」は岐阜県・滋賀県ほか全国各地に流布しており、岩手県には「鬼婿入」という端午の節句の起源説話もあると言う。
 監督は映画化に際して、この一九八〇年版「もののけ姫」を「世界が既成の映画や民話からの借物であり過ぎる」と総括し、一切を廃案としている。これは、民話の世界観でエンタテイメントを作るという最初の試みであったとも考えられる。

● 映画版『もののけ姫』と製鉄民の「物騙り」

 新構想の映画版『もののけ姫』は、「森と人間」という壮大なテーマを抱えてスタートした。監督が選んだ舞台は照葉樹林の鬱蒼とした森と、これを伐り進める人間達の製鉄プラント「タタラ場」であった。監督曰く、タタラ場は美しい森に巣くう「癌細胞」のようなものである。この物語の構築に際して、監督が最も影響を受けた物語もまた、民話と伝承であった。
 以下は監督の談話である。
「全国各地に散らばっている製鉄民の伝承を下敷きにして話を作ってみようと思ったこともあります。平安時代から、奈良、鎌倉時代にも、鍋釜や鋤、鍬などという鉄器はたくさん存在していて、それらが、農業や、生活面で果たした役割は大きかった。それらを作っていた製鉄民の伝承のなかに、顔に大きな痣のある痣姫の物語や、巨大な片目の怪人の話もあって、それなりに調べたりもしました。」(「月刊アニメージュ/1994年1月号」徳間書店)
「山の中を漂白しながら鉄を作っている人たちを、古代の山の麓に住む人々や農民たちは怪物だと思っていたんです。そうしたいろいろな伝承はあちこちに残っていて、そこには火傷で爛れたお姫様の話とか、労働災害で足をなくしたり、手がなかったりする大男が出てくるんです。日本の場合、その伝説が残っているのは、ほとんど山の中を旅をしながら鉄を作っていた人々がいた地域に固まっているんです。それには大きな影響を受けました。」(「ロマンアルバム特別編 宮崎駿と庵野秀明」1998年 徳間書店「ドイツ・ベルリン映画祭」に於けるインタビューより)
 これに該当する資料がある。柴田弘武著「風と火の古代史 よみがえる産鉄民」(1992年 彩流社)である。柴田氏は日本全国の古代産鉄地らしき地名(「金」「鍛冶・梶」「釜」「多々良」等)を持つ土地を巡り歩き、そこに「ダイダラボッチ」、「一つ目小僧」、「片葉の葦」、「金銀長者」などの伝説が発生していることを指摘している。柴田氏によれば、タタラの吹子を片足で踏む作業が一本足の「カラカサおばけ」に、炉心の炎の具合を片目で見つめ続けて視力を失ったタタラ師が「一つ目小僧」として伝えられ、山をまたぎ足跡が窪地になったという「ダイダラボッチ」は山を次々に削って各地を漂白するタタラ製鉄の行程そのものを示したものだと言う。
 また、伝説や昔話に登場する鬼・天狗・河童などが、時の為政者によって貶められた産鉄民であるという沢史生氏の説も援用している。「日本書紀」に登場するヤマタノオロチは土着産鉄民を表し、「桃太郎」の「鬼退治」は産鉄民侵略・制圧の隠喩であり、家来の「犬」「猿」は従来タタラ師の里での僭称だったと言う。山中で斧を振り回す「金太郎」も足柄山の製鉄民の伝承に由来し、「花咲爺」を幸福に導く「犬」は宝=タタラ(貴金属を示すタカラは、金産術であるタタラを語源とするという説もある)の在処を教えたもので、被差別山民の暮らしを語ったものだと説く。さらに柴田氏は、『もののけ姫』の主人公であるアシタカの出身である蝦夷の大和朝廷による侵略も、鉄の製法をめぐる争奪戦だったいう説を展開している。
 柴田氏は、「物語」は本来「物騙り」を語源とし、正史から消された歴史の裏舞台、闇に葬られた真実を一種の抽象化によって封じ込め、代々語り継いだものだと言う。柴田説に従えば、古代日本には全国各地に大量の製鉄民が住んでおり、我々は、今もってその莫大な文化的遺産の恩恵を受けていることになる。
 宮崎監督の創作スタンスが、柴田氏と同様に「物騙り」にあったことは確かである。設定はかなり異なるが、「ディダラボッチ」の登場や、「シシ神は花咲爺だった」というラストの甲六の台詞など、その影響は大きなものがあったと思われる。

● 痣姫伝説

 製鉄民の伝承の中で、宮崎監督が最も関心を寄せたのが「痣姫伝説」である。「痣」は、主人公・アシタカの腕に刻まれたタタリ神の呪い、タタラ場内で働く重度・軽度のハンセン病者など、映画『もののけ姫』全体に亘るモチーフの一つである。宮崎監督は、「痣」に自らの罪でなく偶然に(または先天的に)アトピー性皮膚炎やAIDSなどの病理に冒され、苦しい生を生き抜くことを課せられた現代の少年少女を重ねていたと言う。憎悪や不条理、哀しみなどの象徴として痣を扱ったとすれば、「もののけ姫」と呼ばれるサンの両頬に刻まれた紅い刺青もまた、「痣」と見ることも出来る。
 柳田国男は、全国に散在する「炭焼小五郎」「炭焼長者」伝説を収集し、その傾向を分析しているが、この物語にはしばしば顔に痣のある娘が登場する。この話には幾多のヴァリエーションがあるが、おおよそ次のような話だと言う。
 貧しい炭焼きの元に、都を追われた貴族の娘が押し掛け女房に来る。娘の顔には痣があった。炭焼きは女房に金をもらって市へ行く途中、水鳥に金を投げつけなくしてしまう。女房が責めると、「あんなものは谷にたくさんある」と言い、炭焼きと女房は谷から金を持ち帰って長者になったという。また、女房の痣は長者になった途端に消えたともいう。
 前述の柴田弘武氏によれば、千葉県銚子市には、安部晴明に実らぬ恋をして追いかけ、やがて通蓮洞へ投身自殺してしまうという「娘道城寺」とよく似た悲しい痣姫伝説があるという。この姫の足跡が全て製鉄の跡地と重なることから、痣姫と製鉄には深い関わりがあると推測される。製鉄の行程には常に火傷や死傷がつきまとうことや、炭焼はタタラ製鉄の一貫として重要な役割を担うこと、製鉄の神様は「金屋子」と呼ばれる女性神であることとも関連性があるのかも知れない。
 映画『もののけ姫』では、最後に病者の女性が手を見つめて痣が消えたことを確認して驚くカット、アシタカの腕のアザが薄くなったことなどを暗示して終わる。これも痣姫伝説に通じている。

● 『千と千尋の神隠し』と「鉢かづき」

 室町時代に編まれた「御伽草子」の一編としてよく知られる「鉢かづき」の物語には、『千と千尋の神隠し』と様々な共通項がある。
 母に先立たれた少女が、母の教えで鉢を被らされ、奇妙な容姿故に実父と後妻に忌み嫌われる。少女は入水自殺を図るが、鉢の浮力で川に押し戻されて叶わず、ある名家に身を寄せて風呂焚きとして働く。その家の四男の湯女を務めて恋に落ちるが、周囲は猛反対。二人は駆け落ちをしようと決めるが、鉢が割れ中から財宝と絶世の美少女が現れ、無事家督を継ぎ、流浪の父とも再会してめでたしといった話である。
 これも各地に派生型の多い「継子譚」の一種だが、大阪府寝屋川市は「わが町の物語」として、マスコット「はちかづきちゃん」を採用するなど地域振興のシンボルとしている。仮面的な鉢の役割、風呂という舞台、川との関係など『千尋』との類似点が多く、これを指摘したウェブサイトもある(「ゆら庵」http://www014.upp.so-net.ne.jp/ura-n/b ※2006年10月現在は封鎖されています)。
 宮崎監督は、二十一年前のインタビューで次のように語ったことがある。「私はナウシカみたいなのは信じられないって反応ももらいましたけど、そういう人には、国を追われたお姫様の物語をつくるべきなんです。そういうのは昔からあるんですよね「鉢かつぎ」とか。ただそういう物語が今、全部力をなくしちゃったと思うんです。」(「季刊 幻想文学/第9号」1984年幻想文学会出版局発行)宮崎監督はこの頃既にお伽噺の現代的復活を意識していたが、「鉢かづき」も古くから選択肢の一つだったと思われる。

●『ハウルの動く城』と「姥皮」

 『ハウルの動く城』は、イギリスの児童文学者ダイアナ・ウィン・ジョーンズ著「魔法使いハウルと火の悪魔」(1997年 徳間書店)の映画化である。しかし、中盤からの展開は原作とは異なっており、実質的なオリジナルとも言える。顕著な創作箇所は、主人公のソフィーが場面によって九〇歳の老婆になったり、十八歳に戻ったりと、精神状態によって入れ子状態となる場面である。監督は宣伝過程で一切の取材を拒んだ為、明言は一つもないが、この展開は日本の民話「姥皮」を彷彿とさせる。「姥皮」とは、前述の「蛇婿入」の後日談であり、「婿入」の冒頭部を含めて「姥皮」と総称されることが多い。これも岩手県二戸市や山梨県南都留郡など全国に派生形が存在する民話で、総じて男女が結ばれて終わるハッピーエンドが特徴である。
 蛇に嫁いだ娘が蛇に針を飲ませて殺し、里に逃れる途中に老婆(娘の父が助けた蛙の化身)から「老婆に変身出来る不思議な皮」を授かり、これを被って山中の鬼から身を守って人里へと逃れる。娘は老婆の姿のまま長者の家で働き、入浴や就寝のプライベートタイムのみ姥皮を脱いだ。それを見てしまった長者の息子は娘の美しさに恋煩いをして病気となる。周囲の猛反対を押し切って二人は結婚し、娘は姥皮を脱いで幸福に暮らしたという結末である。柳田國男は、この話を「英國の猫の皮、沸國の驢馬の皮、独逸のあらゆる獣の皮などと違って、更に一段と奇抜である。」と分析している(「底本 柳田國男集 26」一九七〇年 筑摩書房)。
 原作版『ハウル』では、荒れ地の魔女によってソフィーにかけられた魔法は絶対的で、解けるまでその容姿は変えられない。しかし、宮崎監督版『ハウル』では、いつの間にか魔法は解けており、心の持ちようによって老婆にも少女にもなる。ここが、「分かりにくい」「共感出来る」と観客や批評家の評価が別れたところでもある。主人公の主体的な判断で老婆にも少女にもなれるという展開、就寝時に少女になる場面、幸福な結末など、偶然かも知れないが『ハウル』には「姥皮」との共通点が多い。

 以上、幾つかの例を見てきたが、テレビメディアを中心とした日本のアニメーション作品は、四〇年以上も邪悪なモンスターや陰謀集団との抗争に明け暮れる一神教的な退治・戦争話がメインを占めて来た。その舞台は日本が舞台でも欧米風無国籍であり、およそ歴史性・民俗性の欠落したものであった。民話・伝承・御伽噺を再構築して日本的民俗的なエンタテイメントに仕上げるという宮崎監督の試みは、グローバル・スタンダードの真逆であり、だからこそ世界の観客を魅了する独創性を獲得出来たのではないだろうか。

(了)
禁無断転載


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