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「耳をすませば」試論

―ニヒリズムの超克と力強い宮崎駿の復活―

文責/叶 精二

※以下の文章は、「耳をすませば/資料集」(95年8月18日/高畑・宮崎作品研究所 編)に掲載されたものです。


 冒頭お断りしておくが、著者は本作を「近藤喜文監督作品」とうたわれているにも関わらず「宮崎駿氏の作品」という観点で多くを述べている。よって、宮崎駿監督作品の系譜に照らした作家論としてのアプローチを試みている。その根拠は後述するが、読者の方々には、まずこの点をご了解頂きたい。

1,「耳をすませば」テーマ論

「ぽんぽこ」から「耳をすませば」へ

 夜景ショットの《リレー》の意味するもの

 ワンカット目から、もうまいってしまった。多摩丘陵から一望した、新宿副都心のそびえる大東京の夜景。これはもう、そっくりそのままスタジオジブリの前作「平成狸合戦ぽんぽこ」のラストショットである。「ぽんぽこ」では、ゴルフ場で踊る狸たちからカメラを振って夜景を映し、これにクレジット・ロールをかぶせて映画は終わった。「耳をすませば」は、逆に夜景からパンダウンして町並みを映してタイトルを出す。まるで前作からバトンを渡されたかのような露骨な「リレーショット」ではないか。

 さらにダメ押しをするかのように、カメラは「ぽんぽこ」の舞台をなぞって見せる。まず、カメラはコンビニエンスストア「ファミリー・マート」で買物をする主人公・月島雫をとらえる。雫は、車の通行量の多い路地のカーブを抜けて、古びた団地の入口から階段を昇って我が家へ着く。BGMはオリビア・ニュートン・ジョンの歌う「カントリーロード」の原曲。

 狸たちが占拠して「のっぺらぼう」を演じた建設中のコンビニエンス・ストア、夜の急カーブで車に跳ねとばされる狸、妖怪大作戦で呆気にとられた団地の住人たちなど、ついつい「ぽんぽこ」の各シーンがオーバーラップされてしまう。何故「耳をすませば」は、このような前作の引継ぎめいたシーンで始まらなければならなかったのだろうか。

 高畑勲氏と宮崎駿氏は、共に一九七三から約六年間、私鉄・京王線「聖蹟桜ケ丘駅(東京都多摩市)」付近にある「日本アニメーション(旧ズイヨー映像)」社に所属していた。目前に広がる多摩丘陵が毎日崩されては団地が建設されていく地域の異変や、都市と同居する田畑や河川や水路の四季折々の風景を眺めながら毎日通勤していたのである。「ぽんぽこ」も「耳をすませば」も、この時の風景が作品世界の原型になっているらしい。

 原風景が共通であるから、同じような風景が創作されるのも頷けるが、もっと別の意図がなければ、こうも露骨にはならないのではないか。宮崎氏は、意図的にこのファーストシーンを提示して「今度は、現代日本を生きる人間の側に立った話なのですよ」「もう一度同じ風景を人間の眼で捕らえてみよう」と語りかけているのではないだろうか。(なお、「耳をすませば」では、現実の「聖蹟桜ケ丘」付近はビルが増え過ぎてしまったことから、わざわざ「十年前の風景に戻した」と宮崎氏は語っている。登場する私鉄は何故か「京玉線」だが、沿線のデパートは「Keio」になっている。)

 あくまで侵略された「狸世界の眼」で人間を眺めた「ぽんぽこ」では、必然的に人間社会の素晴らしさを謳歌するような表現は打ち出していない。夜景のラストショットには、狸の視座から人間社会総体を俯瞰するという、《マクロ的視点》が込められていたのである。これに比して、「耳をすませば」は、夜景のオープニングショットから街の灯の一つに生きる一少女の視点、《ミクロ的視点》に戻っていくのである。それは、あたかも高畑氏の「現代日本の人間社会総体の問題提起」を受けた宮崎氏が、「では具体的にどう今を生きるべきか」とテーマを発展的に継承しているような印象を受ける。

 つまり、この「耳をすませば」の導入部は、宮崎氏自ら語る「今日豊かに生きることをぬけぬけと唱いあげようという挑戦」(劇場配布用チラシ、パンフレット掲載の宮崎氏の文章より)を暗示しているのではないか。

「耳をすませば」への道

 ニヒリズムの超克と現代世界の肯定

 本作品は、少女漫画の純粋な「恋愛劇」の形を借りて、現代日本に生きる中学生の生きざまを、実に堂々と積極的に肯定している。若者が現世を誠実に生きること、恋することを全力で肯定出来る健やかさを見せることこそ、この作品を貫くテーマであろう。

 折しも、バブル崩壊に追い打ちをかけた阪神・淡路大震災による都市の壊滅、オウム真理教関連事件による全社会的動揺、長期不況による失業と雇用不安の拡大等、実にすさんだ社会情勢である。将来の社会を担う若者を育成するはずの中学・高校では、集団のいじめによる生徒の自殺、教師の暴力的体罰による虐待、果ては生徒同士や教師による殺人などが連日各地で報道されている。

 ともすれば、「人間を豊かにする」はずの社会や政治や教育や宗教への不信感が募り、まともな人間関係すらも作れず、ひたすらコンビニエンスストアとファミコンゲーム、ウォークマンに代表されるような自閉的文化に足をからめ取られてしまう。そして、思春期にして既に「何をやってもダメだ」という暗い展望を抱えざるを得ず、人間不信・社会不信の冷めたニヒリズムが蔓延してしまう。

 宮崎氏は、そんな時代に、どうしてもニヒリズムや個人主義とは無縁の価値観、つまり若者を臆面もなく励ますための「健やかな作品」を提示したかったのであろう。そして、その制作動機は、宮崎氏自身の長い葛藤の結果生まれたものでもあるはずだ。

 「耳をすませば」制作に至った経緯は、宮崎氏のライフワークと呼ばれた漫画版「風の谷のナウシカ」に良く示されている。同作品後半のテーマは、「ニヒリズムの超克」と「人間社会への深い信頼(楽観とも言える)」であったと言える。「米ソ冷戦崩壊と東欧ソ連圏での民族紛争勃発」という世界情勢に対する宮崎氏自身の精神的ショックを反映して、政治的・社会的・イデオロギー的な解決が提示できずに混沌とした展開を見せた物語は、ともかく人間の業も情けなさも限界も全てを引き受けて、主人公ナウシカが「生きていく」ことを決意して終わっている。「生きる」ことの素晴らしさの再確認と楽観主義、そして人間同士の信頼。政治不安・社会不安、そしてイデオロギー崩壊を乗り越える術として、宮崎氏はそうした自己の原点的な境地に至ったのではないか。それは、何ら新しい内容ではなく、一種の「開き直り」と言ってもいい。

 前作「紅の豚」の主人公ポルコ・ロッソは、宮崎氏自身を投影した中年キャラクターであり、反社会的ではありながら自己中心的で、過去に支配されて「誰も幸せに出来ない」という歪んだニヒリズムに支配されていた。宮崎氏は、この作品について「本来アニメーションは子供のためのもので、自分のために作ってはいけないのに作ってしまった。」「新しい表現とは無縁のモラトリアム映画だ。」と自嘲的に語っていた。

 この作品は、ハードに自分自身のニヒリズムと格闘していた漫画版「ナウシカ」の反動として、モデル雑誌に描かれた小篇漫画が原作であり、映画もその延長線上にあった。原作は、単なる娯楽活劇の要素が濃かったが、映画版は制作が進むに連れ、自らが抱える心情の吐露に踏み込んだものとなっていった。自らのニヒリズムへの決着が不明確であったため、ラストシーンに七転八倒した末、必然的に曖昧なままとなったのだ。しかし、このような作品が、子供たちに明るい将来への希望や、人間関係の素晴らしさを与えられる作品でないことは確かであり、その意味で宮崎氏にとっては、胸を張れる作品ではなかったはずだ。

 「紅の豚」公開時の各インタビュー・舞台挨拶などで、上記のような制作動機をバツが悪そうに語った宮崎氏は、必ず最後に「次は必ず子供たちのための作品を作ります。」と自らに言訳するかのように加えていた。「子供たちのための映画」。それは宮崎氏にとっては、ニヒリズムの片鱗も存在しない生きる喜びや世界の素晴らしさに溢れた純粋な作品だ。たとえば「パンダコパンダ」や「となりのトトロ」のように。

 余談ではあるが、本作では、ドアーフたちが働く「からくり時計」の下りで、実らない悲恋物語が語られる。このエピソードは原作を離れた宮崎氏の創作だが、この時計のプレートには、何故か「ポルコ・ロッソ」と描かれている。このエピソードは地球屋主人の西司朗とバロンに共通の悲恋物語と重なる部分もあるが、あるいは西がポルコ・ロッソを継承・発展させた「若者を見守る」役割を与えられたキャラクターと言えるのかも知れない。単なるスタッフの「ご愛敬」とも受け取れるが、勝手なオマージュ分析の一つもしてみたくなる。

思春期の子供たちへのメッセージ

「地に足のついた」ファンタジーの模索

 しかし、本当に健やかな「子供たちのための映画」を、現代的意義に照らしてどう作るべきか。宮崎氏は、架空のファンタジー世界を描くことを得意として来たわけだが、その限界性の問題とも向き合わねばならなかった。つまり、高畑氏が語っているような「現代の若者はファタジー世界に遊ぶことで現実の世界の素晴らしさを見ようとしない。」「ありもしない偽物のファンタジーが現代の観客に必要か。」という問題である。天才・宮崎駿をして、現代日本に生きる子供や若者たちに「地に足のついた」共感を呼び起こす映画作品という観点では、まだ未開拓の余地があったと言うべきではないか。

 以下、ジブリ(「ナウシカ」を含む)以降の作品について、ごく概括的に振り返ってみたい。

 映画「風の谷のナウシカ」は、「現代社会の病理を照らす未来世界のファンタジー」として企画されたが、余裕のない展開の末にラストは「宗教絵画(宮崎氏)」的で、人間自身による関係回復の素晴らしさを緻密に描くまでには至っていない。

 続く「天空の城ラピュタ」も、一世紀前の架空国を舞台に、若者たちの恋愛・信頼関係を強く意識して描かれてはいたが、全体の構成は、重い機械文明批判を折り込んだテーマと奇想天外な活劇要素の方がはるかに勝っていた。

 「となりのトトロ」は「日本の日常を描いた成功作」として評価が高いが、四〇年近くも過去の日本が舞台であることから、逆に現代日本の否定とも受け取れる。また、幼児の視点で描かれている点から、郷愁やセンチメンタリズムとも解釈されやすい。

 「少女の自立」をテーマとした「魔女の宅急便」は、やはり舞台が架空の国であり、魔女という設定も(薄めているとは言え)特殊であり、十三歳で就職するという設定も日本の若者には普遍的でない。宮崎氏自身が「ふらふらの自我を抱えた少女の心理」に不確信のまま演出に臨んでいる点や、ラストのサービス満点の救出シーンなど、物語の整合性にも若干の無理が感じられる。「ハプニングによる自己矛盾の解決」という没主体的な展開も、「自力解決型の主人公」を好む宮崎氏の好みとはかなりズレている。

 そして、「中年のための映画」である「紅の豚」は、前述の通り論外である。

 以上、いずれの作品も、宮崎氏の天才的構成力と力業で、ほとんど批判の余地のない仕上がりとなってはいるが、あくまで現実世界のリアリティに立脚しながら、「生きることの素晴らしさをぬけぬけと唱いあげた」作品は皆無だったと言えるのではないか。

 この意味において、「耳をすませば」は、これまでの宮崎作品では「やろうとしても徹底出来なかったこと」の集大成的作品である。巨大な敵も、近未来の異世界も、機械文明批判も、自然の象徴たる大樹も、過去の日本の田園風景も登場しない。主人公は孤児でもなければ、特殊な能力もなく、親だって健在だ。作品世界は、毎日変わり映えのしない通学路と狭い団地の我が家、新興住宅地、私鉄電車、図書館、雑踏、コンビニエンスストア、そして日々開発の進む丘陵などで構成される。つまりファンタジックな要素は一切ない。その当たり前過ぎるくらい当たり前の日常世界で、人と人との出会いの素晴らしさ、都会の風景の素晴らしさ、恋愛を通じた自身の苦悩と成長という、「今暮らしている日常世界で起こり得ることの素晴らしさ」を描くという一点に絞り込んで展開されているのである。

 何よりも、宮崎氏のこのきっぱりとした態度、モチーフの徹底的な単純化、ダイナミックなまでの開き直りぶりが清々しい。漫画「ナウシカ」の痛切な自問自答による「ニヒリズムの超克」に付き合った者として、あるいは「魔女の宅急便」「紅の豚」前後の見苦しいまでの言訳を聞かされ続けた者として、この宮崎氏の境地は心から嬉しく、感動的でさえある。宮崎氏が、自らは決して好きになれない都会の風景とそこに生きる子供たちの生活を、自身の感性と格闘しながら、否定せずに好きになろうと努力した結果が、この作品に結実化したと言えるのではないか。

 宮崎氏は、「耳をすませば」の舞台挨拶やインタビュー取材などで、「作って良かった」と晴れ晴れとした心境を語っている。もちろん、監督の重責を逃れたこともあるだろうが、今回のように公の場でスッキリと語る宮崎氏を、実に久しぶりに見た気がする。

少女漫画的志向への決着

自分で解決して乗り越えること

 宮崎氏が、原作に柊あおい氏の「耳をすませば」を選んだ要因は何であろうか。「現実をふっとばすほどの力のあるすこやかさがある」と氏は語ってるが、それだけならば他の作品でも良かったのではないかと思えてしまう。たとえば、氏が腐心していた(ふゅーじょんぷろだくと発行/コミックボックス掲載「ぼくの少女マンガ体験」参照)高橋千鶴氏の「コクリコ坂から」や「きゃらめるフィーリング」などの諸作でも良かったのではないだろうか。

 「耳をすませば」が選ばれた理由の一つには、恋愛や自分の将来の諸問題について「自力で解決して乗り越える女の子」を描きたいという意図があったのではないか。雫が聖司に出会って「物語を書く」と決意する展開は、大枠で原作通りである。この、「同じ歳の好きな男の子が目的を持って生きていることに突き動かされて、自分の可能性を試す」という原作の発想にもっとも惹かれたのではないだろうか。「男の子に主体を預けて、男の子好みの自分を演出する」という流行の価値観とは正反対の、「自分の個性を磨いて相手と高め合う関係を求める女の子」像。それは、はっきりとこれまでの宮崎作品と底流で一貫しており、「意志の強い」「自我を確立した」少女キャラクターたちの系譜に位置づけられる。宮崎氏の少女漫画志向の本質は、ここにあったのではないか。

 たとえば「きゃらめるフィーリング」は、乗馬愛好会会長の男の子を好きになった病弱な女の子が、乗馬を必死で練習してその面白さを知り、ラストに「北海道の牧場で馬の世話をして暮らしたい」と語る男の子に「私もついていく」と応えるという物語だ。「ラプンツェル異聞」の解説文では、「(作中)断固とした人物(少女)に出会った」ことを最も喜んでいる。(堤抄子・著「クラリオンの子供たち」ふゅーじょんぷろだくと発行)「耳をすませば」ほどストレートではないが、どちらも「頑固に自分を貫いて、現在の立場を克服するの女の子」が描かれているのだ。

 また、毎回ことごとく違うモチーフで作品を作って来た宮崎氏だが、今回は「思春期の等身大の少女を描いている」という点で、前々作「魔女の宅急便」と並んで紹介される機会も多いようだ。また、「『魔女の宅急便』の続編ととらえることも可能だ」(徳間書店発行「『耳をすませば』ガイドブック」掲載の原口正宏氏の文章より)などという奇妙な評価もあるようだ。しかし、「魔女の宅急便」と本作とでは宮崎氏自身の制作スタンスに決定的な違いがある。

 「魔女の宅急便」の主人公キキは、自活することに悩み最後には少しの自信を身につける。宮崎氏は、この作品の映画化にあたり、原作を離れて「親に頼らず自分の力(ほうき)で生きていく」姿を意識的に盛り込んでいた。しかし、主人公が自信回復へと至る展開は、老婦人や親友の励ましといったソフトで曖昧な人間関係と、ボーイフレンド救出劇という予期せぬハプニングであり、多分に「他動的」な解決法であったと言えよう。このため、主人公のハードな主体形成がやや印象に薄く、物語以降も同じような失敗を繰り返すのではないか?というたよりなさも感じられた。(そこが万人に受け入れられた根拠であるかも知れないが)宮崎氏は、最後まで主人公に不確信だったのか、公開後も「フラフラの自我を抱えた子を描くのはうんざりだ」と語っていた。

 これに比して本作では、主人公が「徹底して自分と向き合い、乗り越える」というハードな心理葛藤を描くことに重点が置かれている。原作では「不発に終わった」(前述・ガイドブック収録の宮崎氏インタビュー参照)雫の物語執筆をめぐる心理的葛藤が、かなりの比重で描かれているのだ。ある意味で、本作の制作意図の多くが、「自分自身の力を試す」葛藤シーンに置かれていると言ってもいいだろう。

 それは、「本物の鉱石を探して、手にした途端ヒナ鶏の死骸に変わる」というショッキングな夢のシーンに集約的に表現されている。「ただ書きたいだけではダメだ」という、創作者の厳しい理想と現実。中学生の少女に背負わせるには、残酷なまでに過酷な自分との葛藤である。(そのハードさを描きたいという目的ゆえに、そこまでしなければ距離が埋まらない大きな存在としての異性は、最も自分に厳しい選択肢である「職人志望」でなければならなかったとも受け取れる。)

 雫は、苦闘の末に物語を書き上げる。そして、西老人の励ましもあったが、基本的には自力で自分自身の現状を認識し直し、その上で「もっと勉強するために高校へ行く」と結論を下す。そして、隣には同じように自分と向き合って「職人」を目指して生きている大好きな異性がいる。生きていく場所や道は違っても、向いている方向は深く一致している。二人は、しっかりと前を向いて生きていく。

 これこそまさに、宮崎氏にとっての「描くに足る理想の若者像」であり、暗い混沌の時代を照らす健やかな恋物語なのである。

 このように、作品こそ「耳をすませば」となったわけだが、そこには氏が影響された多くの少女漫画作品の健やかな精神と純粋な精神世界の一切が、「自力で解決する」「個性を確立して異性と向き合う(互いに依存しない)」主人公像に消化・集約されて盛り込まれていると考えるべきではないか。宮崎氏は自らの少女漫画志向に決着をつけるべく本作に心血を注いだと言えるのではないか。

「カントリーロード」に込められた

   社会的なテーマと思想的背骨

 この作品の「もうひとつの原作」は「カントリーロード」であるという。確かに、「カントリーロード」訳詞や演奏をめぐる下りは、原作漫画から大きく逸脱している。

 「カントリーロード」は、冒頭でオリビア・ニュートン・ジョン歌唱による原曲が使用され、和訳詞チェックで雫と夕子が歌い、クライマックスのセッションシーンへと至る。聖司は、イタリア一時留学の際「励みに歌う」と語り、ラストシーンでは二人を包むように流れはじめてエンディングを迎える。物語の進行に合わせて度々使用され、二人を結びつけ、二人を励まし、二人の決意を促す。作品の《キィソング》としての役割を果たしているわけだ。ではなぜ「カントリーロード」が《キィソング》でなければならなかったのだろうか。

 原曲「カントリーロード」は「故郷ウェスト・ヴァージニアへの思い」を歌った詞であるが、これを一九歳の女性に意訳してもらい、宮崎氏が補作詞したものが物語で使用された「カントリーロード」である。現代の東京の新興住宅地で生まれ育った女の子にとっての故郷とは、原曲でうたわれているような「母なる緑の大地」でなく、他ならぬ自分たちの生活する街であるという解釈から、「この道、故郷へ続いても、僕は行かないさ」「さよなら、カントリーロード」という創作詞に改められている。

 これは、これまで述べて来たような現代の都会で暮らす若者達への激励を込めた内容には違いない。しかし宮崎氏は、このような若者の激励に際して、これまで氏と高畑氏が大きな関心を持って背景に描いてきた政治的・社会的問題を扱う姿勢―とりわけ環境問題について完全な無関心、棚上げを行っているわけではない。「帰りたい、帰れない」と歌う「カントリーロード」の裏には、都心郊外の環境破壊に対する鋭い批判が込められている。

 たとえば、主人公・雫が国語のテストで答案に書き込む唯一の単語は「開発」である。さらに、雫の模倣詞である「コンクリートロード」は以下のような詞である。

 「コンクリートロード、どこまでも、森を切り、谷を埋め、ウェスト東京、マウント多摩、わが街は、コンクリートロード」 

 これは、コンビニエンスストアやファーストフード店を利用して「コンクリートロード」を愛して生活していくしかない、けれども「自然環境の破壊にも心を痛める若者であって欲しい」という願いの裏返しではないか。言い換えれば、どうすることも出来ない都市化と環境破壊(あるいはそれを必然化させる日本の社会)に心を痛めながらも、それでもニヒリズムに陥らずに、好きな人と一緒に都会の街を愛して生きていこうというメッセージである。要するに単なるノンポリティカル(非政治的)楽観主義ではなく、しっかりと世を見据え、地に足のついた楽観主義だ。つまり、「現実の重さも直視した上で、それでも時代を肯定して積極的に生きて行こう」というメッセージである。何と漫画版「風の谷のナウシカ」のラストと一致することか。

 かつて政治的・社会的背景一切を切り捨てて主人公の女の子の心理描写に挑んだ「魔女の宅急便」を苦々しい思いで制作した宮崎氏が、似通ったテーマの本作では、胸をはって「作って良かった」と語れる今一つの根拠もここにあったのではないか。

 このように「カントリーロード」には、宮崎氏自身の心境を反映した現代の若者観が込められおり、原作を離れた宮崎流の「耳をすませば」の思想的背骨を形成しているのである。

2,「耳をすませば」映像・技術論

近藤喜文監督作品としての「耳をすませば」

  宮崎氏の絵コンテ・脚本に加えられた「α」

 本作は近藤喜文監督の初長編監督作品である。しかし、大枠においては紛れもない「宮崎作品」と言うほかはない。そもそも近藤氏を監督に指名したのも宮崎氏なのである。原作選定にはじまり、製作プロデューサー業、恒例の緻密な絵コンテ・脚本の執筆、井上直久氏の起用と部分演出、ブタ猫ムーンのデザイン変更、声のキャスティングからデジタル合成の監修、さらには近藤氏自身のコーディネイトに至るまで、かなりの要所判断に宮崎氏が決定権を行使している。

 近藤氏は、「(宮崎氏とは違ったイメージの)普通の男女の話を志していた」「原作の黒猫から(宮崎氏提案の)ブタ猫ムーンへのデザイン変更にも反対した」と語ってる。(前述「ガイドブック」、映画パンフレット掲載インタビュー参照)知名度抜群の宮崎氏の発言量に比して、生来無口な近藤氏の発言は極めて少ない。このため、近藤氏の演出技術上の意図や個性的な力点はちょっと分かりにくい。

 結果として、「耳をすませば」はバランスの取れた作品となっているので、大きな問題ではないのかも知れないが、とりわけスタジオ部外者の眼には「ほぼ宮崎作品」と映らざるを得ないし、それが作品評価をおとしめるものであるとも思えない。

 しかし、本作が百パーセント宮崎作品であるかと言えば、そうではない。たとえば、近藤氏が力を入れたと語る、雫と西老人が鍋焼きうどんをすすりながら語らうシーン。近藤監督は、「おいしそうな湯気を描くことに苦労した」と言う。「赤毛のアン」「火垂るの墓」「おもひでぽろぽろ」と、細やかな日常演技を描き続けてきたアニメーターの達人・近藤監督ならではのこだわりである。後述するような各キャラクターの細かな表情と演技の多くは、おそらく宮崎氏のコンテに止まらない近藤監督の経験を活かした演出であろう。

 逆に言えば、宮崎氏は初めから自身が「監督しない(得意でない)題材である」という前提で、原作を選び、適任者と認める近藤監督を指名したと思われる。

 この意味では、宮崎氏の絵コンテ・脚本に大きな「プラスα」が加わっていることは間違いない。近藤監督には失礼だが、詳細が把握できない以上、詳論には言及出来ない。しかし、この「α」が今後どのような形で発展するのかは楽しみに見守りたい。少なくとも、高畑・宮崎に次ぐジブリ社内監督(正確には高畑氏はフリーだが)の誕生は、ジブリが今後も作品を制作し続けるにあたって、実に大きな可能性を秘めている。

「ありったけのリアリティ」とは何か

   見事なこだわりの演技と日常を表現した美術

 宮崎氏は「一つの理想化した出会いに、ありったけのリアリティを与えながら…」と制作意図を語っている。(前述のチラシ用文章)では、この作品において追求されたありったけのリアリティとは、具体的にはどのようなものだったのだろうか。

 この作品には、何度となく同じ風景が登場する。我が家である団地の一室、ガソリンスタンドとラーメン屋「明明」を通る通学路、吠える犬の居る家と急勾配の坂を下る階段、私立図書館、地球屋などなど。これらが距離のはっきりとした地図上の位置関係に沿って描かれている。この地理感覚に溢れた設定は宮崎氏の創作である。

 この風景のリフレインが、実に作品の空気をよく表現している。主人公の好き嫌いや感情の起伏とは無関係に、いつも同じ風景がそこにあるのだ。感情任せで、背景が突然変転してしまう(突然バックが異世界風になったり、風が吹いたり、枯葉が舞ったりする)アニメーション作品が数多い中、この風景のリアルさへのこだわりは見事だ。要は、「都会の現実の風景を肯定したい」という意図が見て取れるのだ。

 主人公は、これらの場所の移動に、とにかくよく歩く。これほど「歩く」シーンの多いアニメーションは稀である。この歩くシーンの多用によって、主人公を取り巻く日常世界は、一層のリアルさを醸し出している。しかも、中央から奥へ、正面から前へ、あるいはローアングルの固定カメラで捉えるなど、既製の即席アニメーションでは表現が困難な、さまざまな「歩き」の表現に挑戦している点は流石で、観る者を飽きさせない。

 日常のしぐさの演技もまた細かい。ラストに雫が窓下に聖司を見つけて家を出ようとする時、まずは慌てて部屋でつまずき、次に走り込んだ入口で傘立てを倒してしまい、音に驚いて入口をソッと閉めるという、とんでもない丁寧さ。果たしてこれをそのまま実写でやったとして、こんなに微笑ましいカットに仕上がっただろうか。

 今一つ、頻繁に登場するのは自動車である。ブタ猫ムーンを追いかけてロータリーへ出た雫はあやうく車と接触しそうになる。地球屋の帰りに浮かれて図書館へ走り込む雫は、またも車と接触しそうになる。初めて聖司と雫が二人で歩く夜道も、二人乗りの自転車で走る夜明けのラストでも、歩道の脇を車が高速で駆け抜ける。とにかく、至る所に自動車が走り抜けている。こんなに自動車を意識させられる映画も少ない。自動車をかわしてすり抜けることが、アニメーション表現の軽快さの助けを借りて「ちょっとした冒険」になってしまうという描写がリアルでなくて一体何だろう。

 欲を言えば、黒のシルエットで描かれた西司朗の回想シーンのスチール・アニメーションが単調に感じられ、今一つの工夫が欲しかった。

 美術シーンのリアルさは、もはやジブリの専売特許であるが、今回も例外ではない。自然描写でも、ロケハンに基づいたラストの夜明けのシーンはもちろん素晴らしいし、夏の夕立をたたえた灰色の雨雲は見事な質感であった。縦割りレイアウトの見事さに支えられた「空に浮いているみたい」な地球屋裏のテラスも、そこから一望するニュータウンの風景も緻密な描き込みがされていた。

 作品の細部を構成する日常世界の緻密な描き込みも素晴らしい。団地の狭さを表現した給湯器と炊飯器をバックにした食卓兼作業机、入口に詰まれた古新聞や傘立て等など、まさに愛すべき日常世界の空気をすくい取っている。

 さらに、作品の核であるロマンチックなツーショットシーンにまでリアルさが貫かれている点には特に感心した。「カントリーロード」をセッションした聖司が雫を送って別れる別れ際、ロングで捉えられた二人のバック右には不動産の名前の入った立て看板のある汚い空地が映されている。学校の屋上で二人が話すシーンでも、屋上の手摺りはサビだらけである。

 現在の日本のテレビや映画には、およそ実態とはかけ離れた綺麗な観光地風の風景やトレンドイディ・グッズと豪華な家具だけに囲まれたドラマが圧倒的に多い。本作は、それらの作品では決して見ることの出来ない、生活感溢れる実生活が描かれている。

 かの黒澤明監督は昨年十一月の記念講演で、「今の日本映画は日本人の現状を正直に描いていない」と語っていたが、まさに本作は「ありったけのリアリティで日本の現実を正直に描いた」希有な日本映画なのである。

演奏シーンの設定による

  「音楽アニメーション」の模索 

 また一方、「カントリーロード」の演奏シーンには、音楽と融合した新しいアニメーションの可能性の模索の意味も込められていた様で、これも興味深い。 

 楽器の演奏をアニメーションにシンクロさせる試みは、大変な労力を要することから通常は避けられる。運指のアニメイトと音のタイミング合わせの手間だけでも気の遠くなるような作業である上、今回のヴァイオリンのような手持ち楽器の場合では、楽器の形を崩さずに動かす苦労が並大抵ではないからだ。中途半端で稚拙な表現になってしまう危険度も高い。高畑勲監督の「セロ弾きのゴーシュ」などは、例外的な成功例なのだ。

 宮崎氏は、あえてこうしたシーンを物語の山場に据えることで、音楽と映像の融合を試みたのではないか。それまでわだかまりのあった主人公二人の心の交流が音楽を通じて実現されていくという、隠喩的なアニメーションと音楽の融合。アニメーションならではの細やかな表現でありながら、ミュージカルでない音楽シーンへの挑戦。

 こうした試みは、新しいアニメーションを追求するスタジオジブリならでは技術力をあてにしたステップアップと考えるべきであろう。一面、スタジオ代表である宮崎氏による、若手アニメーターへの「試練の提供」としてもあったのではないか。

 演奏シーンには、物語と合致したテーマをうたう主題歌が何としても必要であった。あるいは、主題歌が決まっていたから、演奏シーンを創作したのか。また、雫が歌う演奏シーンが大きな山場である以上、相手である聖司は原作通りの「絵描き志望の少年」ではなく、「楽器の演奏者」でなければならなかったとも言えよう。

新技術・デジタル合成の効果と課題

 「イバラード」世界との合体は成功したか

 「となりのトトロ」以来「おもひでぽろぽろ」「平成狸合戦ぽんぽこ」と発展させてきた「(ジブリの)自然主義に徹した美術シーンの限界」を度々語っていた宮崎氏は、予定外の大胆なスタッフ招請を行った。そして、独自のファンタジー世界「イバラード」で知られる画家・井上直久氏の美術スタッフ起用が決定した。

 リアルな実景からファンタジーを紡ぐ本作の制作に当たって、井上氏の質感に溢れたファンタジー世界は、「自然主義」「写実主義」を脱する大きなヒントであったようだ。宮崎氏は、現代東京を美しく描く際に「イバラードの眼で見ること」と再三語っていた。「井上氏の精神を現場に持ち込む」という宮崎氏の実験精神は、雫の創作した物語世界の背景を描いてもらうという形で幸福な結実を見た。かくて、本作は、大きく違った作風の美術が同居する作品となったわけだ。物語世界の背景は、宮崎氏の絵コンテ(実質的なレイアウト)に沿って井上氏自身の手で描かれた。さらに、井上氏が美術を担当したシーンに限って、宮崎氏自ら演出を担当するという惚れ込みぶりである。

 井上氏の印象派風の繊細な作風は、前代未聞の異色な異世界ムードを醸し出すことに成功している。セル人物と接近する背景との、かつてない鮮明な合成も見事だ。これは、莫大な資金と労力を投入した新技術「デジタル合成」の成せる業だと言う。

 しかし、鮮明な故にか、余計にセルに描かれた人物(雫とバロン)が背景から浮き上がって見えてしまったのは私だけだろうか。背景の淡い色調を活かした質感は圧倒的に見事だが、これが返ってセル絵の具独特のベッタリと塗りつぶされた人物の色合いと違和感を生じさせてしまっているのではないだろうか。これはセルアニメの限界とも言えるだろうが、「自然主義から脱した美術」と、従来のセル人物との違和感ない画面での同居は、今後の技術的課題と言えるのではないか。

 私見だが、人物のトレス(輪郭)線の黒が特にうっとおしく感じた。せめて「となりのトトロ」「火垂るの墓」「魔女の宅急便(冒頭のみ)」で試みられた茶色トレス、ないしは色トレスを使って欲しかったと思う。

 余談だが、「デジタル合成」に関しては、むしろ雫と杉村が歩く(背景がゆったりと遠ざかる)何気ないシーンの方が、完全に違和感がなく圧巻であった。

 また、作品の「売り」でもあった宮崎氏演出による唯一の「飛翔シーン」についてだが、これも「背景負け」してしまってるせいか、地味な本編とのバランスを保つためか、いつもの突き抜けた解放感が感じられなかった。豪華なシーンであったことは充分堪能したのだが、実に物足りなかった。しかし、逆にこのシーンが圧倒的な印象を残す出来映えであったとしたら、物語の印象が冒険ファンタジーに傾いて、構成のバランスが崩れてしまったかも知れない。また、誰の演出作品であるのか、更に不鮮明になったことだろう。

 いずれにせよ、井上氏の起用が、ジブリの創作して来た「自然主義」美術シーンに新たな巨歩を刻んだことは間違いない。この飽くなき実験精神は、大いに評価すべきと考える。

 また、美術面では今一つ、宮崎敬介氏の木口木版画「牢獄でヴァイオリンを作る少年」をキーポイントに採用している点も、大変効果的であったことを付記しておく。

異色のキャティングの妙

  ドルビー・デジタルへの挑戦について

 本作の異色のキャスティングも興味深い。特に立花隆氏のお父さん、室井滋氏のお母さん、小林桂樹氏の西司朗、露口茂氏のバロンという超豪華なベテラン役者陣によるアフレコは、密度の高い絵に生命を与える味わい深い演技に成功していた。心なしか、露口氏の演技は力が入りすぎのような気もしたが。

 主人公・雫役の本名陽子さんは、「おもひでぽろぽろ」のタエ子役の硬質気味の演技からは格段の成長ぶりで、絶賛に値する。彼女の歌う素朴な主題歌も作品世界にほど良く合ってる。聖司役の高橋一生君もよく頑張っていた。夕子役の佳山麻衣子さん、杉村役の中島義実君など、皆が主人公たちと同世代の若々しい役者たちである。

 かつて「となりのトトロ」でカンタ少年を演じた雨笠利幸君は、アフレコの感想として「生まれるずっと前のことだし、なんだか違う世界のことみたい。」と自分の住む現代世界との違和感を語っていたが、今回の彼ら彼女らの感想は全く違う。「自分のことととして受け止めた」「どこにでも起きる話」などと語る彼ら・彼女らからは、共感出来るキャラクターと同化しようと精一杯の演技をしている、という印象を受けた。

 ともかく、アフレコは理想的なキャスティングと演技で申し分ない。

 なお、「音作り」の面では、資金と労力を継ぎ込んで新技術「ドルビー・ステレオ・デジタル」へ挑戦した点も大きな功績である。日本映画でこの録音方式を採用したのは、本作で第二作目だが、純国産の「ドルビー・デジタル」は初めての試みだそうだ。

 新聞配達が朝刊をポストに挟む音、歩道を歩く子供たちのざわめき、雑踏の喧噪など、緻密な音作りが、地味ながら確実な臨場感を醸し出して、作品を陰でしっかりと支えていた。

 日本映画の音作りの向上の意味でも、パイオニアの役割を果たした点は大きな成果である。

付 記

最後の宮崎監督作品

  九七年公開「もののけ姫」への期待

 以上、「耳をすませば」について、思いつく限りの拙文を連ねて来たが、何よりもこの作品で強烈な印象を残した点は、「自信に溢れた宮崎駿氏の復活」である。混沌の八〇年代、苦悩の九〇年代前半を経て、ついに「時代の肯定」の境地に至ったと言うべきか。いずれにしても、これまでの作品で鬱積して来た自身の不安定な精神状態を「浄化」させる意味で、本作の制作は実に大きな意味があったと言えるだろう。また、そうであるがゆえに、一層のジャンプアップが予想される次回作への期待は、否が応にも高まってしまうというものだ。

 次回予定作「もののけ姫」は一体どのような展開を見せるのか。すでにジブリのスタッフ諸氏は、今春屋久島にロケハンを敢行し、この七月からは作画も開始されているという。宮崎氏は、諸処のインタビューで「絵本とは似ても似つかない作品になる」と語っている。どうやらメインの舞台は森林らしく、物語の展開は「ナウシカ」以上にハードな内容が予想されている。宮崎監督作品では、初めて制作期間が二年という長期に設定されている。当初「九六年公開予定」と公表されたが、難航を想定して延期されたものと思われる。

 「時代を切り取る時代劇」は、本当に出来るのか。物語の収束は、例によって、今後の社会情勢に左右されて二転三転があることだろう。何しろ価値の定まらない時代の先を読んで制作しようというのだから、並大抵の政治的関心と観察眼では作れないだろう。

 ともあれ、宮崎作品の集大成となるであろう、自称「最後の監督作品」に大いに期待したい。

(1995.7.)


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