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「もののけ姫」を読み解く

文責/叶 精二

※以下の文章は「別冊COMICBOX/Vol.2『もののけ姫』を読み解く」(97年8月1日/ふゅーじょんぷろだくと発行)に掲載されたものです。ただし、同誌では編集の都合で各章の順序がバラバラになっており、サブタイトルも大幅に変更されています。以下が正しい順序とタイトルによる原文です。また、校正が間に合わず、誤字・脱字も多数あったため、採録にあたり多くの訂正をしてあります。

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前書き

 宮崎駿監督は、一流のアクション・エンタテイメント監督である。宮崎監督に対する「飛行表現作家」「冒険娯楽作家」という評価は、最早定着してしまった感がある。しかし、宮崎監督は単なる娯楽映画監督ではなく、常に現代の政治的・社会的・思想的ムーブメントを作品に反映させている希有の良心的表現者でもあるのだ。
 これまで、多くの誌面を飾った宮崎監督作品の評価は、娯楽性の裏に隠れた面倒な思想的意義を分析することを避けたものが圧倒的に多い。それらは主にシーン分析であり、「飛行表現の生理的快感」「人物描写の誠実さ」「エコロジカルで常識的な理性」などの観点から述べられたものであった。中には、生理的・感性的な「好き」「嫌い」を繰り返すだけの貧困な感想文すら少なくなかった。これらの評価は、監督の作家としての思想性に肉薄する観点が欠落している分、著しく皮相的であったと思える。
 監督自身はインタビューや対談で多くの書物を紹介し、政治的・思想的発言も行っているが、これらの内容に関して、詳しく突っ込んだ考察や論考を行った例はほとんどない。つまり、宮崎監督自身の問題意識に関する正確な評価は未だ棚上げ状態なのである。
 宮崎監督は、これまで前監督作『紅の豚』を「作ってはいけないモラトリアム映画だった」と自戒し、「次作で決着をつけねばならない」と度々語って来た。「監督引退」の噂についても、本意は「積年の課題に決着をつける」ことであったのだ。筆者の取材では、「これを作れば、当分楽しい趣味の作品を作って暮らせる」とまで語っていた。おそらく、今回は宮崎監督の生涯の中で、最も苦しい作品制作であった筈だ。
 では、宮崎監督は、何故それほどまでに重い宿題を自身とスタジオジブリに課したのか。「決着」とは何を意味するのか。
 本論では、映画『もののけ姫』に込められた膨大な情報を、多角的な観点から整理することで宮崎監督の思想的意図をあぶり出してみたい。前例のない実験的論考ではあるが、はるか彼方を走り続ける宮崎監督の問題意識の片鱗にでも迫ることが出来ていれば幸いである。

(なお、本文に引用した宮崎監督の発言で、出典記述のないものは、筆者が直接監督に伺ったものである。)


1,照葉樹林文化

 映画『もののけ姫』の原点の一つに「照葉樹林文化論」が挙げられる。
 宮崎駿監督が、七〇年代から中尾佐助(一九一六〜九三)氏の提唱した「照葉樹林文化論」に傾倒していたことはよく知られている。八〇年のテレビ『(新)ルパン三世』の演出の際には、「照樹務(テレコム)」というペンネームを使っている。「明治神宮の照葉樹林の散策が大好き」と語り、雑誌『世界(八八年六月臨時増刊号)」には中尾氏の著書『栽培植物と農耕の起源(岩波新書)』の熱烈な書評を書いたこともよく知られている。
 『もののけ姫』の舞台は原生林に設定されているが、これが堂々たる照葉樹林である。宮崎監督は何故照葉樹林にこだわり続けるのか。

●西南日本の源流たる照葉樹林文化

 かつて日本の南半分はうっそうとした暗い原生林が覆っていた。それは、年間を通して常緑に輝く葉を持つカシ、クス、シイ、タブ、ツバキ類等であった。これらの常緑広葉樹林を総称して「照葉樹林」という。
 太古の昔、照葉樹林帯は中央アジアのヒマラヤ山脈麓(現ブータン)を起点として中国南西部を経て日本に至るまで、ベルト状に分布していた。照葉樹林帯の各地周辺では、よく似た食文化、農業、風習、宗教、伝説が今に伝えられている。同根の文化圏が時空と場所を越えて発生していたのである。たとえば、ヤムイモやタロイモ、アワ・ヒエ・イネなどのモチ種、そしてナットウなど、数多くのネバネバした食品を好む性質、茶やシソの栽培、麹から作る酒、養蚕、漆器文化などである。これらは元来、照葉樹林帯独自の文化であり、これより北にも南にも存在しなかった。
 海路も陸路もおぼつかない太古の昔、民族も国家も違い、交流も薄かった筈の地帯に見られる驚くべき共通点―、これを「照葉樹林文化」と名付けて体系化し、提唱したのが栽培植物学者の中尾佐助氏である。中尾氏は、地道なフィールド・ワーク(現地調査)を重ねて、人間の食文化・農耕と原生植物の分布を関連づけ、その世界的な体系化を試みたのである。その結果、人類文明の傾向は原生植物に起因しているという驚異的な結論を導き出したのである。氏は自説の体系を「種から胃袋まで」と記している。
 照葉樹林は、温暖で雨に富む湿潤地帯にのみ発生し、森林の蘇生力が非常に強い。つまり、いくら樹を切っても自然の状態にもどせば砂漠化せず、やがて常緑の森林にもどってしまうのだ。昼なお暗い神秘の森のほとりに住んだ人々が、そこに神々の世界を見い出した所以もここにある。
 中尾氏の学説について、宮崎監督は以下のように記している。
「読み進むうちに、ぼくは自分の目が遥かな高みにひきあげられるのを感じた。風が吹きぬけていく。国家の枠も、民族の壁も、歴史の重苦しさも足元に遠ざかり、照葉樹林の森の生命のいぶきが、モチや納豆のネバネバ好きの自分に流れ込んでくる。」(中略)
「ぼくに、ものの見方の出発点をこの本は与えてくれた。歴史についても、国土についても、国家についても、以前よりずっとわかるようになった。」(前述『世界/八八年六月臨時増刊号』掲載「呪縛からの解放―『栽培植物と農耕の起源』」)
 宮崎監督は、この「照葉樹林文化論」に出会って、「人間と自然」という大テーマを語る際、「原生林と人間の関係」を描くことが最も根元的な問題と考えたのではないか。そして、自らの原点たる原生林を真正面から描いたという意味に於いても、『もののけ姫』は集大成的作品と言えるのではないか。

●東北日本の源流たるナラ林文化

 一方、日本の北半分はナラ、ブナ、クリ、カエデ、シナノキなどの温帯落葉広葉樹林に覆われていた。南方に連なる照葉樹林文化に比して、朝鮮半島から東アジア一体に連なる温帯落葉広葉樹林帯の文化を「ナラ林文化」と名付けたのも中尾佐助氏であった。
 ナラ林文化の特徴は、照葉樹林帯よりも食料資源が豊富であったことだ。砕けば食べられる堅果が大量に落ち、日光照射もあるため森の下草である植物種も豊富である。そこには当然狩猟対象となる動物も多い。
 堅果類(クリ・クルミ・トチ・ドングリ)、球根類(ウバユリなど)の採集。トナカイ、熊、鹿、海獣の狩猟。そして、川にのぼって来るサケ・マスの漁撈。これらの狩猟・採集文化により、一定の人口までは充分に生活出来たのである。日本の縄文文化は、主にナラ林文化の下で発展した。事実、縄文時代の遺跡群は圧倒的に東北日本に集中している。
 稲作と鉄器の文化は、弥生時代に渡来人によって伝えられたと言われる。弥生文化は、北九州を起点に、食料資源の少ない照葉樹林地帯には急速に広まったが、中部以北にはなかなか伝わらなかった。南とは食体系が違い、北では採集・狩猟・畑作資源が豊富なのであるから、わざわざライフスタイルを壊して稲作を始める必要がなかったのである。しかし、稲作を基盤として成立した大和朝廷は、武力制圧によって強引な稲作同化・単一文化圏化を押し進めた。縄文人は、北へ北へと追いやられながら文化圏を維持していた。後述する蝦夷と朝廷の戦争は、縄文人の末裔と弥生人の末裔の闘いであった。
 純粋なナラ林文化は、照葉樹林文化と融合した稲作文化に吸収され、十二〜十三世紀にはほぼ崩壊したとされる。
 中尾氏と共同研究を進めて来た佐々木高明氏は、このナラ林文化と照葉樹林文化の学説を民俗学・考古学と結びつけ、日本の根幹には東西別個の文化圏があったとしている。氏は、土器・方言・味覚などに広げて、東西の文化の違いについて興味深い分析を行っている。(NHKブックス『日本文化の基層を探る』)
 『もののけ姫』は、ナラ林文化圏の蝦夷の少年と、照葉樹林文化圏の森林で育った少女が出会う物語である。少年と少女の出会いは、日本人の源流である二つの森林文化の出会いを描いたものでもあるのだ。

●宮崎作品に見る照葉樹林文化の思想

 「照葉樹林文化論」と宮崎監督作品の関連を以下、簡単に追ってみたい。
 宮崎監督が、この「照葉樹林文化」論を最初に反映させた作品が『風の谷のナウシカ』である。この作品で宮崎監督は、最終戦争で荒廃した大地を必ず砂漠として描く西欧産SF(実際中東やヨーロッパでは森林が蘇生せずに禿山と化し、やがて砂漠化した)の逆説として、「腐海」という独特の生態系を持つ不気味な森林を作り出した。再生不能の砂漠でなく、森の自浄作用による再生を描く下りは、まさに森の民である日本人ゆえの発想の転換である。
 『天空の城ラピュタ』に登場するラピュタを覆うもっこりとした大樹も、紅葉・落葉しない常緑樹であり、照葉樹のようでもある。ここでも、文明が消滅して無人化した地には原生林が茂るという発想が貫かれている。
 『となりのトトロ』では、トトロの宿る塚森の大樹は照葉樹のクスノキであった。ついでに言えば、「樹と人は仲良しだったんだよ」と語る物わかりの良いお父さんは、何故か考古学者であった。この作品には、「日本人の心の故郷は、縄文の昔を彷彿とさせる照葉樹林なのだ」というメッセージがさり気なく込められていたのだ。
 『もののけ姫』のメイン舞台となる「シシ神の森」はまさに照葉樹林であり、これは絵コンテでも強調されている。制作にさきがけて行われた屋久島へのロケハンも照葉樹林を肌で感じる意味あいが大きかったと言う。
 また宮崎監督は、主人公アシタカの住む蝦夷の村の風俗・衣裳の参考にブータンや北タイの焼畑農民を参考にしたらしい。後述のように、蝦夷は縄文人の末裔と言われている。(『週刊朝日』九六年一月五・一二日合併号掲載・司馬遼太郎氏との対談)アシタカが粥をすする椀は、ブータンの携帯用小鉢に良く似ている。タタラ場の板を連ねて石を乗せた屋根にも、ブータンの古村にある家屋の影響が伺える。アシタカの衣裳は、同じ照葉樹林帯でも中国南西部のヤオ族の民族衣装に似ているようだ。
 なお、ブータンは、照葉樹林文化の西端に当たる。最古の風習を現在に伝えている地であり、中尾氏のフィールド・ワークの出発点ともなった土地である。北タイ、中国南西部の風習も中尾氏の著作に詳しい。

●自然の概念―里山か原生林か

 映画『もののけ姫』は、一言でくくれば、人間が原生林を破壊して焦土と化した地に、奇跡的に緑が芽吹いて二次琳と里山が復活するという内容である。
 これまでのスタジオジブリ作品で描かれた日本の「自然」は、主に里山である。それは水田と畑を含む風景であり、草木や川を人間が長年管理して作り上げた言わば人工の自然である。そこは二次林である雑木林に、痩せ地に強いマツやスギなどの針葉樹が植林され、クリやカキやモモなど果樹も豊富にある。適時農民によって管理され、下草が成長し過ぎることもなく、大樹は神として祀られている。明るい陽射しにあふれ、農耕の便に富み、散策や採集にも適した場所である。それは、自然と人間の共生の歴史が生み出した調和のとれた空間であり、「森の民」である日本人独特の文化である。だからこそ、懐かしく落ち着く場所なのだ。
 高畑勲監督作品『おもひでぽろぽろ』では、この観点がはっきりと打ち出されている。人工の自然なればこそ、人はその風景を懐かしく思うのであると。『平成狸合戦ぽんぽこ』でタヌキたちの願いも虚しく消滅していく故郷も、やはり里山である。これらの作品では、日々数を減らして行く北と東の日本の里山が美しく表現されていた。原生林の乏しい現代日本にあっては、農村と里山が自然の代名詞なのだが、それすら滅ぼそうとする「エコノミックアニマル」のエゴは悲しいほど深い。 
 一方、宮崎監督の『となりのトトロ』では、周辺環境は見事な里山だが、トトロの棲む塚森は里山らしからぬ暗い「鎮守の森」である。位置的にはどう見ても里山であるが、宮崎監督の思いが原生林に近い森となったのではないか。里山には人やタヌキが棲んでいる。しかし、神の宿る恐ろしい森は照葉樹林でなければならないのだ。『トトロ』が、里山さえ乏しい現代を舞台に出来なかった理由の一つは、ここにあったのではないか。
 人は、暗闇の原生林を伐採し、都合のよい改変を施して明るい里山を作り出して来た歴史を持つ。それは人間中心主義の観点からは懐かしく素敵な森であるが、自然本来の生命力の成せる森ではない。人間には恐ろしく凶暴なものであっても、本来の姿は神秘的な生命力の宿る闇の原生林なのである。
 宮崎監督は、自然との共生思想の現実性に於いて、里山の大切さを充分認識しながら、一方で原生林征服という人間の大罪も描こうと試みている。本来の自然の征服から人の文明は始まったのである。同時に、「人と自然がどう関わるべきか」という大テーマもここから始まったのである。宮崎監督は、『もののけ姫』の制作に当たり「ジブリのこの十年の歩みを嘘にしないために作った」と語っているが、その真意もここにあったのではないか。
 また、宮崎監督は、作中で北方の美しいナラ林と南方の恐ろしい照葉樹林、さらに懐かしい里山を明確に描き分けるため、五人の美術監督をわざわざ出身地域別にシフトしている。徹底的に文化圏の描き分けを行うことを意識した何とも贅沢な人選である。
 余談ではあるが、東京都出身の宮崎監督が南方の原生林に憧れ、三重県出身の高畑監督が雑木林の里山(それも東北)を描き続けているのは、東西が逆転しているような気もして興味深いことである。

参考文献
『照葉樹林文化と日本』中尾佐助・佐々木高明著(くもん出版)
『栽培植物と農耕の起源』中尾佐助・著(岩波新書)
『照葉樹林文化』上山春平・編(中公新書)
『続・照葉樹林文化』上山春平・佐々木高明・中尾佐助・共著(中公新書)
『料理の起源』中尾佐助・著(NHKブックス)
『照葉樹林文化の道/ブータン・南雲から日本へ』佐々木高明・著(NHKブックス)
『日本文化の基層を探る/ナラ林文化と照葉樹林文化』佐々木高明・著
(NHKブックス)
『森の日本文化/縄文から未来へ』安田喜憲・著(新思潮社)
『時代の風音』堀田善衞・司馬遼太郎・宮崎駿・著(朝日文芸文庫/UPU)
『出発点[1979〜1996]』宮崎駿・著(徳間書店)


2, エミシの村

 九世紀まで、東北地方は大和ノ国ではなかった。東北には大和の国境線があり、ここより北は「蝦夷」の統治する別世界であった。蝦夷とは、大和朝廷の侵略により歴史の彼方に消えてしまった謎の民族である。その生活形態・風習・文化水準などのほとんどが未だ解明されていない。
 宮崎監督は、多くの研究成果や仮説を踏まえながら、独自のエミシ観に基づく創造世界を作り出している。もののけ姫・サンとも森を伐る大和人とも心通わせることの出来る主人公は、ナラ林文化の下で独自の自然崇拝信仰を持つエミシの少年でなければならなかった。
 人目を忍んで森と共生するアシタカの村。作中の描写から監督の「エミシ観」を推察する。

● 蝦夷とは何か

 七二〇年に成立した『日本書紀』は、東北に「夷の国」が在り、そこに「蝦夷」「毛人」などと呼ばれる野蛮な異民族が住んでいると記している。
 『日本書紀』の『景行紀』には、「夷の国」に関する記述がある。それによれば、「住民は男女共髪を椎の形に結い、性格は勇敢で凶暴。村には族長がおらず、悪神や鬼がおり、大和の村々を襲っている。夷の中で最も強いのは蝦夷である。冬は穴で暮らし、夏は樹上に住む。毛皮を着て、獣の血を飲み、鳥のように山をかけ登り、獣のように草原を走る。矢を束ねた髪に隠し、刀を衣服に帯びている。辺境を犯し、作物を略奪する。撃てば草に隠れ、追えば山に入る。故に、昔から王化に従ったことがない。(抜粋・大意訳)」とある。これは四世紀頃、景行天皇が息子のヤマトタケルに蝦夷討伐を命じた時の言葉とされる。この頃すでに大和による蝦夷侵略が開始されていたのかも知れない。
 また『斉明紀』では、六五九年に遣唐使となった斉明天皇が蝦夷の男女二人を伴って唐(中国)の皇帝に拝謁したと記されている。これには蝦夷を倭国の属国として、皇帝に認めさせる意図があった。皇帝にあれこれと問われた蝦夷は以下のように答えている。「蝦夷には三種類ある。遠き者を津軽、次の者を麁蝦夷、近き者を熟蝦夷と言う。私は熟蝦夷である。蝦夷に五穀の栽培はなく、肉を食べる。宿はなく、深山の樹の本に住んでいる。(大意訳)」と。
 このように蝦夷の記述は、一貫して「農耕を知らない野蛮人」との評価だが、これには異国人への敵意と賤視を含めた誇張が含まれていたと思われる。「蝦夷」の当文字は、「蝦」はエビ(ガマガエルとする説もあり)、「夷」は大弓を示しているらしい。いかにも野性的表記で余り好意的とは思えない。実際には、大和に匹敵するほどの高度の狩猟・採集の文化圏を持つ部族であったと思われる。
 稲作文化の東進を根拠として成立した大和朝廷は、様々な少数民族を侵略・吸収して膨張して来た。ところが、大和朝廷の勢力は、東北に及ぶに至り最大の障害に突き当たった。それが蝦夷であったのだ。
 明確な国家を持たなかった蝦夷の各部族(各小国)は、対大和の戦争に於いて、統一戦線的連合体をなしていったと思われる。

● 隼人・熊襲・国樔・土蜘蛛

 蝦夷と同様に、近畿以南には「隼人」、九州には「熊襲」という民族が在ったが、これらの諸族も大和によって併合された。
 「隼人」と「熊襲」は同一民族だとする説が多いが、異民族説もある。民族の全貌は、蝦夷同様謎のままであるが、その起源をインドネシアなど南方系に求める説も多い。
 また、蝦夷・隼人・熊襲は、いずれも野生動物を冠する文字で表現されている。これは、蝦夷の「蝦」は水棲生物の「水」、隼人は文字通り鳥であるから「空」、熊襲は陸上動物の「陸」をそれぞれ意味している―とする説がある。つまり、この三民族の当て字は、水・空・陸の世界構成要素を全てを天皇が支配したという権力神話的な意味が込められていたのではないかと言うのだ。この説からも、大和の侵略的側面が見てとれる。
 一方、これら地域定住型で国家らしきものを形成していた民族とは別に、
各地に散見された民族もいた。「国樔人」(『日本書紀』の『応神紀』に記載)、「土蜘蛛」「佐伯」(『常陸国風土記』に記載)などがそれである。
 いずれも、大和とは異種の文化圏を持ち、山に住んでいた非稲作(特に水田)民らしい。これらの諸族も失われた民であり、実体はよく分からない。
 このように、古代日本には多種多様の民族が併存していたのである。中でも、朝廷に対する最大級の抵抗闘争を繰り広げていたのが蝦夷であった。

● 征夷政策と蝦夷の絶滅

 六世紀頃までは、蝦夷の一部は大和と属国関係を結び、平和的交易も行っていた。しかし六四五年に「大化の改新」が起き、六五八年には阿倍比羅夫らによる蝦夷征伐(征夷)が行われる。さらに、八世紀に律令国家が成立するに至り、大和は蝦夷に対する侵略政策を飛躍的に強化していく。差別的待遇(奴隷的使役)や領土侵略(村の焼き討ち)などに対して蝦夷の諸族の不満が高まり、ついに武装蜂起が起きるようになる。一方、国境では蝦夷側の亡命者や難民が相次いで流入して来た。これに対し、律令国家は、「城柵」を東北各地に設置し、侵略の前線基地と出張官庁を兼ねた業務を行わせた。七三七年には要所である多賀柵(宮城県多賀城市)が築かれた。これが七八〇年には多賀城となる。
 七七四年律令国家は、ついに二万七千人の大軍を派兵して征夷の大戦争を開始した。以降、八一一年の沈静化に至るまで三十八年間もの間、大和対蝦夷の戦争は続いた。当初は、蝦夷の騎馬を駆使したゲリラ戦術に壊滅的打撃を受けていた征夷軍であったが、七九四年の十万人の大軍を派兵した掃討作戦などにより攻勢に転じ、勝利を手中にした。この結果、日高見国周辺(現・岩手県)の蝦夷は滅亡の道を余儀なくされたのである。
 当然だが、蝦夷の戦力や人口は小規模であった。徹底抗戦の意志と巧みな戦略抜きに、戦闘の長期継続は不可能であった。この史実から蝦夷の優秀な組織力や戦闘力を伺い知ることが出来る。三十八年戦争を闘った蝦夷を指揮していた者は「アテルイ」という名であった。八〇二年、アテルイは大和の和平勧告に応じて一族五〇名と共に生命を保証された捕虜として入京したが、だまし討ちに合って河内で斬り殺された。当時の征夷大将軍・坂上田村麻呂は、後に「征夷の英雄」として語り草になっている。
 更に時代が下り、平安時代になると安倍氏が東北一円を支配し、ついには朝廷軍と闘って勝つという「前九年の役(一〇五一〜六二)」が起きる。安倍頼時は一時和平に応じたが、息子の貞任・宗任兄弟は再び反乱を起こし、一〇六二年源頼義に討たれるまで抗戦を続けた。
 さらにその後、安倍氏と縁故関係にある清原氏が勢力を伸ばし、一族間の闘争が激化し「後三年の役(一〇八三〜八七)」が起きた。源義家がこれに介入して鎮圧したことから、源氏の東北支配が始まったと言われる。この安倍氏・清原氏が蝦夷の末裔と言われる。この事件以降、蝦夷の影は歴史から姿を消してしまう。
 このように、蝦夷は一貫して「伏わぬ民」であった。大和(日本)の他民族侵略=単一民族化への衝動は、この蝦夷征伐に端を発し、近世史の蝦夷(アイヌ)地侵略、琉球(沖縄)処分、更には現代史の朝鮮・中国侵略と触手を広げて行くのである。
 作中、蝦夷の長老が「朝廷との戦に破れて五百年余」と語るシーンがある。室町時代という設定から逆算すると、その戦とは「前九年・後三年の役」のことを示すと思われる。アシタカは安倍氏か清原氏の末裔か、あるいはそれに加勢した部族の末裔なのかも知れない。

● 縄文人の末裔としての蝦夷

 蝦夷の起源を縄文文化を引き継ぐ民族とする説は多い。
 狩猟と採集を主軸とした縄文文化(農耕の可能性も指摘されている)は、朝鮮からの渡来人たちの持たらした稲作を中心とする弥生文化にとって代わられた。それは異民族支配によって急激に成された文化の転換であった。安定した食料によって人口は爆発的に増え、西日本には豪族が集結して国家が出来、その勢力圏を拡大した。縄文文化は野蛮で遅れた文化として屈服と同化を迫られ、その文化圏は北や南に追いやられてしまった。つまり、隼人・熊襲・蝦夷ら山民の平定は、渡来人による縄文人弾圧の歴史であったとする説である。そして、弥生文化圏が日本を制圧していくのである。
 これを裏付ける事実として、北端のアイヌと南端の琉球には今尚、縄文文化と共通するアニミズム信仰や狩猟・漁労・採集の風習(特にアイヌは非水田農耕文化が主流であった)が残されていることがしばしば挙げられている。彼らは現代史にあっても独自の文化圏を持つがゆえに、依然として日本政府の差別政策にさらされている民族であることも不変なのだ。
 この縄文文化と弥生文化の差異は、各地の遺跡で発掘されている人骨などから人類学的にも証明されている。顔の形では、縄文人系は堀が深く鼻筋が通っている。これは「古モンゴロイド」と言われ、亜熱帯の東南アジアによく見られる。弥生人系は、長円型の輪郭で一重瞼、低く丸い鼻を持つ。これは、寒冷地に対応した「新モンゴロイド」と言われ朝鮮・モンゴル・中国によく見られる。日本人には、この二種が混在していると言われている。二千余年に及ぶ混血が進んだ現在でも、「古モンゴロイド」系の顔を持つ人々が関東・東北地方、「新モンゴロイド」系の人が関西・中国地方に多いと言われる。他にも体毛の薄(新)・濃(古)、耳垢の乾(新)・湿(古)など様々な特徴が挙げられる。
 蝦夷の起源については、有力なアイヌ説から北方渡来人説、白人説まで様々あるが、その生活形態や遺跡などから判断して、縄文人の末裔である可能性が高い。誇り高き山の民、原日本人と言えるかも知れない。
 主人公・アシタカは、作中で勇猛果敢な正義漢として描かれる。彼は、縄文人の末裔であるが故に、大和人が失った自然崇拝に長け、驚異的な体力・知力を発揮出来るのではないか。そこには、宮崎監督の失われた縄文文化人への熱い思いが伺える。
 また、「毛人」と言われたように、蝦夷の男性は長い髭をたくわえた者が多かった。これはアイヌ文化とも共通している。作中の男たちも長い髭を生やしている者が多く見られる。アシタカの眉も濃い。

● 蝦夷の王権

 縄文時代には、巨大権力はなかった。弥生時代において、西日本から急激に権力の集中が起きるのである。巨大な方形周溝墓の建造、大量の甕棺製造など、王の権力を示す墓作りのために多くの森林が姿を消した。森林が残っていた地域では木棺を使用したと言われる。
 続く古墳時代には、前方後円墳に代表される巨大墓建造が各地で行われる。しかし、それは関東地方が東端で、東北地方には巨大墓が作られなかったのである。
 アシタカは、ある部族の王(族長)の子息と言われる。しかし、蝦夷には王はいなかったと言われている。それは、巨大墓や部族抗争を示す武器類が発掘されていないからである。つまり、朝廷や豪族のように巨大な権力を公使する王がいなかったと思われる。小さな部族による自給自足の共同社会であったのだ。
 王(族長)は信頼を得ていたであろうが、民衆と同じように貧しかった。他人の搾取による富の集積が行われなかったために、王と民衆の差別化が起きず、権力をめぐる血生臭い抗争も起きなかったのであろう。アイヌにも巨大な王権はなかったと言う。
 作中のアシタカの村も、巫女や長老による合議制社会と思われ、絶対権力者は見当たらない。アシタカは王なき国の王子だったと言うべきか。
 それは、漫画版『風の谷のナウシカ』のラストで、王政を廃止してトルメキア国の指導者となったと伝えられる女傑・クシャナにも通じる思想である。

● 隠れ里と椀貸伝説

 アシタカは「隠れ里」の村に住んでいる。「隠れ里」とは何か。
 古来、人間が到達出来ない深山の奥地や、水底にあると伝えられる異世界は「隠れ里」として伝えられて来た。
 人寄せで多くの椀が必要な時に、池や淵に行って頼むと貸してくれるという「椀貸伝説」は全国にある。貸し主は不明なままか、龍神、蛇などの水神の場合が多い。隠れ里から取って来た椀を持っていると幸福になるという伝説もある。『浦島太郎』の竜宮城も、この類型である。
 近世には、次のような隠れ里の記録があると言う。「山奥から機織りの音が聞こえたり、川の上流から米のとぎ汁や椀が流れて来て、その存在を知った」、あるいは「狩りに出かけて偶然見つけた」など。いずれも、再び行こうとしてもたどり着けないという例が多い。
 隠れ里は空想上の地ではなく、実在の村を元にした伝説だとも言われる。
それは平家の落人の末裔であるとか、縄文時代の末裔たる山民であったなど、諸説ある。山形県と新潟県の県境、岩舟郡朝日村奥三面はかつて隠れ里と言われたそうだし、他にも地名に「隠里」と残る地域もあるようだ。
 もし、東北地方の辺境のどこかに隠れ里が実在したのであれば、それは「蝦夷の末裔が落ち延びて住んだ村」であった可能性も考えられる。
 また、何故か椀にまつわる伝説が多いが、人里では見慣れない特殊な形の椀だったのであろうか。とすれば、アシタカの椀が特殊な形をしているのも、「幸福伝説の元になるような」という描写意味があったのかも知れない。  

● アワとヒエ

 アシタカの村には石垣で囲われたアワとヒエの段々畑が描かれている。これは、山の急斜面を苦心して開拓した畑であり、平地に住むことのできない虐げられた民であることを感じさせる。おそらく焼畑農業であった筈だ。
 粟と稗は、最も歴史の古い雑穀である。この村はアワ・ヒエ、そば・ムギなどの雑穀を主食としていたと思われる。それは稲作伝来以前の照葉樹林文化の典型的な食文化である。
 アワやヒエは砕いて臼でつき、餅状にしたものを蒸して食べる(チマキのようなもの)か、粥(シトギと言う)にして食べる。これは、中国中部や北タイ、台湾などの照葉樹林帯に広く分布する調理法である。南九州の五木村でも、一九六〇年代まではソバ・ムギなどと共にアワ・ヒエを食べていたことが確認されている。
 なお、作中アシタカがヤックルに与える餌は絵コンテによれば、「ムギ」とあるので、やはりムギの栽培も行っていたのであろう。

● 鹿ト

 西村真次氏の著書『万葉集の文化的研究』によれば、「占い」の語源は、ツングース語のトナカイを意味する「Ula」であり、つまり日本では鹿を意味したと言う。中国東部からシベリアに分布した北方騎馬民族ツングース系民族は、古代日本に多大の文化的影響を及ぼしたと言われる。(ツングース系民族が弥生時代に渡来して、大和王朝を築いたとする説もある。)
 古代日本には「鹿ト」「太占」と呼ばれる占術があった。鹿の肩甲骨や肋骨の表面を剥いだ上に、火をつけた小枝か焼火箸を突っ込んで、その亀裂を見て占うのである。鹿トは、中国・朝鮮から伝わった亀の甲羅を焼いて占う「亀ト」よりも更に古い歴史を持つと言う。
 人里近くの森に棲む鹿は、古代から祭祀と関係が深い。弥生時代に作られた謎の神器・銅鐸にも「鹿紋」と呼ばれる鹿の絵が刻まれている。後述のように、鹿は神として祀られていたのだ。
 作中蝦夷の村で、ヒイさまがアシタカを占う際に使うのも鹿角と鹿骨である。火を使わず鉱石や木片と併用して放るという特異な占いだが、これも鹿トの一種(運命判断や方角占いの類か)と思われる。
 アシタカは、鹿の骨が示した方角に趣き、鹿の神に逢ったことになる。

● 鉄はなかったのか?

 作中の蝦夷の村には、石段作りのアワ・ヒエ畑が描かれている。弓矢の鏃も石製であり、石加工の技術が盛んな風習があると思われる。しかし、これを短絡的に「その風俗には、古のまま、時がとまってしまったかのような(『月刊アニメージュ』九七年四月号)」などと解釈していいのだろうか。
 史実に照らせば、蝦夷は高度な鉄加工技術を持っていた。東北地帯の製鉄は、砂鉄ではなく磁鉄鉱を用いたものが盛んであった。中国・朝鮮からの鉄鉱石(近世には「南蛮鉄」と呼ばれた)や加工品された鉄器の輸入も行っていた。
 「蕨手刀」と呼ばれた蝦夷特有の内反り型短刀も鉄製であった。アシタカの刀も鉄製ではないか。蝦夷は騎乗して短刀で相手を突く接近戦と、中距離から弓矢で射る戦法が得意であった。その戦力は歩兵十人分に匹敵する強さだと言われていた。
 「隠れ里」に住むようになって、鉄とは無縁の生活を余儀なくされた末に石器主流の文化に逆行したのか、あるいは鉄は貴重品として珍重されていて、農具や加工器具にしか使われなかったのか。大木を伐採して組んだ監視櫓などの土木建築、狩猟や農作業、調理、衣料品加工など、いかに自給自足とは言え、その生活水準は鉄器が皆無とは思えない。
 また、アシタカの携帯する木椀も、轆轤か彫刻刀などの鉄器で加工されたものと考えた方が自然だ。先代から伝えられたものか、里で秘密裏に交換したものか、いずれにせよ珍品のようだ。漆塗りの赤はアイヌ文化を彷彿とさせる。(椀を携帯する風習は前述のようにブータンにもある。)
 いずれにしても、鉛玉=鉄滓を知らないことから、「鍛冶はあっても製鉄技術はない村」と解釈すべきではないか。尤も、人目を忍ぶ目的の「隠れ里」で派手に火を焚く製鉄作業が出来る筈はなく、技術は先祖が放棄(または禁止)したとも考えられる。

● 石の信仰

 アシタカが占いを受ける寄合小屋には、壁から突き出た岩石が「御神体」として祭られている。彼らは石を信仰する民族なのだ。
 柳田國男氏によれば、石神信仰には石を神の依代・磐座とする信仰と、石そのものに精霊が宿って霊異を示す信仰に二つの系統があると言う。石神は東京の「石神井」の地名に明かなように、「シャグジ」とも呼ばれていた。全国にある石の地蔵が将軍塚と呼ばれることが多いのは「シャグジ」の語源に由来するという説もある。石神や地蔵塚は、土地の境界線、生死の境界線(死者供養)などの「境」の役割があったする説もある。
 『日本書紀』の『斉明紀』によれば、六五七年に斉明天皇が蝦夷の使いを「須弥山の像」という石の像を作ってもてなしたとある。その場所は現在の石神遺跡(奈良県)に当たる。仏教的石神を与えることにより、下級民族を教化する意味があったという説があるが、これも「貴賤の境」の意味があったのかも知れない。あるいは、蝦夷に石神信仰が盛んだったのか。なお、作品の舞台となった出雲にも、石神を祀った神社がある。
 作中に引きつけて解釈すれば、大和との「境を護る」意味で石神を祀っていたとも考えられるし、金属器に頼らない石の文化そのものを祀っていたのか、あるいは縄文文化的自然信仰の類であったのかも知れない。

● 渦状紋と靭皮の衣服

 作中の蝦夷の村には、上下左右四つの半円を直線で結んだシンボルマーク的な模様が多く用いられている。この渦のような紋にも何らかの含意があるのではないか。渦巻紋や卍型紋は、アイヌやロシアの女真族の衣裳に多いと言う。
 アシタカの救出に駆けつけた男は、この紋をあしらった木の盾を持っている。この形状は、隼人が用いたと言われる「隼人盾」に似ている。隼人盾にも渦巻紋が描かれているが、これは雷を示すという説がある。
 巫女のヒイさまの着物にも同じ紋が見られるが、これは刺繍か染め抜きか、それともアップリケか。アイヌには「ルウンペ」と呼ばれるアップリケの技術がある。作中の紋も「ルウンペ」によるものかも知れない。
 着物自体の素材は、アイヌの衣裳「アトゥシ」に習えば、植物の甘皮「靭皮」から織り出したものと考えられる。「アトゥシ」は、アイヌ語で「オヒョウ(ニレ科の木)」の意である。沖縄には、同様の靭皮繊維で織った芭蕉布がある。いずれも非養蚕民の文化である。アシタカの村も靭皮繊維の文化があったのではないか。
 一方、宮崎監督が参考にしたと思われるブータンにも、どてらのような「ゴー」と呼ばれる着物があり、現在も着用されている。尤もこちらは、シルクロードの影響下で養蚕も盛んであり、木綿または絹製である。
 また、作中の衣裳は男女共、紺系で黒っぽい。これは、「藍染め」ではなかろうか。藍の原種であるリュウキュウアイは沖縄・九州から南方の照葉樹林地帯に多く生えており、栽培もされていた。新種の藍が自生していたのか、あるいは、特殊な交易ルートがあったのかも知れない。 
 以上は憶測も含めての展開であったが、衣裳の不明な蝦夷の風俗を実在の民族衣装を基に発展させた監督の苦労が偲ばれる。

● 黒曜石のナイフ

 アシタカの出立に際して、妹カヤは黒曜石のナイフを手渡す。それは、結婚の際に乙女が変わらぬ心の印に異性に贈る「玉の小刀」であると言う。カヤのアシタカへの思いの深さを知ることが出来る。
 火山付近で多く発掘される黒曜石は、切り口がガラス状に裂けることから神秘的な印象を受ける。縄文時代中期、黒曜石文化が各地を覆っていた。黒曜石は、鏃、呪術具、アクセサリーなど多くに加工された。採掘出来ない地方では、貴重品として扱われていた。
 黒曜石は、北海道十勝岳、中部日本の和田峠、九州の姫島・阿蘇山を三大産地として、ここから半径二〇〇キロ範囲で出土している。これは、縄文時代に広範囲の交通路が存在し、黒曜石の大交易が行われていたことを示している。
 蝦夷が、東北には貴重な黒曜石を宝として扱うのは、あり得る話だと思われる。黒曜石文化は、宮崎監督が敬愛する考古学者の藤森栄一氏の著書にも詳しい記述がある。

● 「見送りしない」という掟

 ヒイさまは、アシタカに「掟に従って見送りはせぬ」と告げる。死出の旅路であるからか、「隠れ里」を出る者だからか。アシタカは結局戻らないのだが、一度出た者は戻れない掟なのであろう。
 蝦夷の中には、古くから大和への帰化・同化をする部族が多かった。武力で恫喝され、やむを得ず同化した者も多かったが、利害関係で自ら同化した者も多かったらしい。稲作による安定した食料や、都文化への憧れもあったのだろう。夜逃げ同然に深夜村を出て行った者もいたのではないか。
 そして、同化蝦夷たちは朝廷の征夷の際に動員され、ある者はスパイとして出戻り、ある者は侵略兵として同族に弓を弾く役割を負わされるのだ。昨日の隣人が今日は自分を殺しに来る。蝦夷の経験して来たこの悲惨な歴史が、一度大和の地へ旅立った者は戻らない→大和の地へ旅立つ者は見送らない、出発は深夜に限る、そういう掟を作り出したのではないか。
 アイヌには、「和人(シャモ)に化かされるから和人の里に近づいてはならない」という類の伝承がある。和人との交易で酷く欺かれた経験があったのだ。これも、苦い教訓が伝承となった例と思われる。
 沖縄には、自殺した者は一族の墓に埋めてもらえない―つまり沖縄に還れないという風習がある。自ら死を選ぶことは「生き抜け」という先祖の意志に背くことになるからである。アシタカの場合には生きんがための旅立ちであるから逆であるが、同族保存の意志に背く行為が歓迎されないという掟の構造は似ているように思う。

● ヤックルは獅子か

 作中では、蝦夷について「北に赤獅子にまたがる鬼あり」という噂が語られていたが、「赤獅子」こと「ヤックル」の存在は監督の創作である。多くの設定を史実や民俗学に依っている本作にあって、ヤックルの存在は一際異色であり、ファンタジックである。しかし、「赤獅子」の仮面を被って豊穣や好天などを祈る「獅子舞」の儀礼は日本全国にある。その起源は中国ともインドとも言われるが、よく分からない。
 なお、蝦夷のいた東北地方には「鹿踊」の風習がある。これは獅子面をつけた踊りであるが、起源は鹿頭をつけた踊りであったらしい。儀式として定着したのは近世以前らしいが、農耕儀礼との関連が不明な地域もあり、もとは蝦夷の狩猟儀礼と何らかの関係があったのかも知れない。
 「獅子」はライオンのことではなく、河童や鳳凰などと同様の架空の動物と言われている。だが、麒麟や鵺などと違い、何体かの異種動物の混在した露骨な想像動物ではない。何らかの実在動物が原型になっている可能性が高い。獅子面は、大きな瞳と鼻穴、角(または尖った耳)が二本生えた赤面が特徴である。その風貌は、作中のヤックルに近いと思えなくもない。宮崎監督は、ヤックルを獅子信仰の原型動物という大胆な発想に基づいて登場させたのではないか。
 このヤックルが登場したのは、宮崎監督が中央アジアを舞台として描いた絵物語『シュナの旅』が最初である。ヤックルが個体名なのか、種族名なのかは不明である。
 実在の同類種ではガゼル、ボンテボック、オリックスの仲間が近い形をしているが、いずれも1メートル前後の中型種で人が乗れるような動物ではない。ウォーターバックは二メートルを越えると言うが、ずっと短足である。このような偶蹄目ウシ科の大型動物に乗って疾走する民族はおそらくいない。つまり、ヤックルはガゼルと馬を足したような(『ナウシカ』のトリウマのような)架空動物である。
 宮崎監督は、漫画版『風の谷のナウシカ』でもガゼルを登場させ、映画『天空の城ラピュタ』ではヤクを登場させるなど、ウシ科の動物に特別の愛着があると思われる。ウシ科にはハーテビーストなどの絶滅種が多いからかも知れない。

参考資料
『古代蝦夷と天皇家』石渡信一郎・著(三一書房)
『古代の蝦夷/北日本縄文人の末裔』(河出書房新社)
『日本古代文化の研究/蝦夷』大林太良・著(社会思想社)
『日本古代文明の探求/隼人』大森太良・編(社会思想社)
『蝦夷(えみし)/古代東北人の歴史』高橋崇・著(中公新書)
『蝦夷の末裔/前九年・後三年の役の実像』高橋崇・著(中公新書)
『エミシとは何か/古代東アジアと北日本』中西進・編(角川選書)
『よみがえる中世4/北の中世 津軽・北海道』菊池徹夫・福田豊彦・編(平凡社)
『シンポジウム・北方文化を考える/アイヌと古代日本』江上波夫・梅原猛・上山春平 共著(小学館)
『沖縄とアイヌ/日本の民族問題』澤田洋太郎・著(新泉社)
『日本文化の形成(上)』宮本常一・著(ちくま学芸文庫)
『日本文化の基層を探る/ナラ林文化と照葉樹林文化』佐々木高明・著
(NHKブックス)
『神・人間・動物−伝承を生きる世界−』谷川健一・著(講談社学術文庫)
『かもしかみち』藤森栄一・著(学生社)
『遥かなる信濃』藤森栄一・著(学生社)
『柳田國男全集15/石神問答』柳田國男・著(ちくま文庫)
『日本の美術 第354号/アイヌの工芸』(至文堂)
『世界の民族誌1/アイヌ人とその文化−明治中期のアイヌの村から−』R・ヒッチコック・著(六興出版)
『民俗・民芸双書32/獅子の民俗−獅子舞と農耕儀礼−』古野清人・著(岩崎美術社)
『世界の動物』今泉忠明・監修(成美堂出版)


3,室町時代の民衆像

 『もののけ姫』の舞台は室町時代の中期頃ではないかと思われる。この時代は、南北朝の動乱を経て戦国時代へ至る歴史の大転換点に当たる。朝廷の威光も幕府の権力も零落し、「下克上」に代表される戦乱と混沌の中から戦国大名が頭角を現す時代である。一方、技術と道具の発展により生産力を拡大させた農民たちは「惣村」制度によって団結し、やがて土一揆が吹き荒れた時代でもある。
 念仏教の時宗や浄土真宗、禅宗など民衆救済を目的とする新宗教の普及、「書院造」などの建築技術の発展、味噌と醤油と炊飯米という食事メニューの確立、そして能や狂言に代表される芸能と、腐敗し切った中央政治に逆行して文化・学問・宗教・産業が怒涛のごとく開花した時期でもある。これらの文化が、現在に連なる日本の骨格を形成しているのである。
 以上のような特徴が、従来語られて来た中世の歴史観である。しかし、ここには決定的に欠けているものがある。
 庶民の使う農具・日用品・衣料品・木材・装飾品、武器・鎧などはどこで誰が作っていたのか。米以外の畑作・畜産・養蚕農家の製品や、山海食品はどのようにして普及したのか。それらの加工食品を生業とする者はなかったのか。能や狂言などの芸能は、農民の生活から突然生まれたものなのか。これらの現実的諸問題は、「水田耕作農民と侍」という二元的民衆観では解決出来ない。
 網野善彦氏の著作に代表される最近の中世研究によって、民俗学・考古学と合流した新しい中世史の体系が明らかになっている。特筆すべきは、稲作農民に代表される平地の「定住民」とは全く別の生活圏を持つ「遍歴民(山民・海民・芸能民など)」が膨大に存在していたという史実である。
 『もののけ姫』は、この遍歴民たちの世界で展開される物語である。それは、日本映画で初めて中世史をアウトサイダーの側から描くという、「時代劇の革命」を意図したものであった。

●供御人制度と自由な遍歴民

 中世の遍歴民は、以下の二つの傾向に大別出来る。
 第一に、多種多様な職能民である。
 塩作(製塩)、牧童(畜産)、馬借(運送)、木こり、木匠、細工、鎧師、炭焼、轆轤師(木地屋)、鵜飼などと呼ばれた人々。これらの一部は「座」と呼ばれた大規模な職人集団を構成し、各地で工業プラントを組んで資源と共に遍歴し、あるいは船団を組んで流浪し、それぞれ機動力のある商売を展開していた。運搬は、海路・河川路を縦横に開拓し、海外との交易も頻繁であった。これらの職能民は「市」と呼ばれた定期的なマーケットに出荷し、自ら営業・販売を担い、中には巨利を得て金貸しに転じた者もあった。中でも後述するように、武器・農具・鍋釜を製造する製鉄民、「鍛冶」「鋳物師」は特殊な位置を占めていた。
 第二に、芸能民や宗教関連業である。
 猿楽・傀儡子・遊女・白拍子・桂女などは、特別な祭事などに招かれて特殊な歌や踊りを披露する集団である。これには女性が圧倒的に多かった。占いを行う巫女、仏師なども古代から多数いたと言われる。
 これらの職種にある人々は、平民が持たない特殊な技能を持つことから、神仏・天皇の使いと見なされる傾向にあり、「神奴」「神人」「寺奴」「寄人」「供御人」とも呼ばれ崇拝されていた。朝廷や大神社は彼らを庇護し、彼らへの危害は法で処罰されたのである。朝廷は、彼らを天皇直轄の民と認めて、海路・陸路共自由な往来を保証した。(平民は「関銭」など交通税を支払う義務があった)課税も免除され、給免田畠(年貢なしの自由耕作田)を与えられ、食料も補償されていた。
 これは「神人・供御人制」とでも言うべき特権制度で、鎌倉時代に確立した「御家人制度」と並ぶ中世社会の大きな柱であった。
 古来日本には、「俗世以外は全て神の世界」として崇める汎神論とアニミズムがあった。人里離れた薄暗い森には動物や木々の神々が、海や河川には死んだ人間たちや水棲・海洋動物の神々がいる―として、それぞれの神々を祀る習慣があった。よって、山海に出入りして特殊な食品や製品を作り出す職能民や、死者や神の世界を代弁する芸能民が「神界と人間世界の境界線を行き来する人々」として神聖視する宗教的傾向があったのは当然とも言える。
 しかし、室町時代になると多くの遍歴民が社会的地位を失ってしまう。それは、南北朝の内紛に大きな要因がある。また、相次ぐ戦乱と貧困、急速な貨幣経済の到来などが功利主義を第一義に押し上げ、宗教的職業の価値を押し殺してしまったとも言われる。その趨勢は、群雄割拠の戦国時代を迎えて決定的となる。それはアウトサイダーを社会の底辺に押しやる「穢れ」の思想であった。
 一方、職能民の中には大商人や金貸しとして社会的に成功した者も現れた。これを、日本の資本主義化の第一段階とする説もある。
 以上のように、室町時代中期から末期(戦国時代)は、遍歴民が威光を失い始めた境目の時代でもあったのだ。

●女性職能民・芸能民の活躍

 中世の職能民・芸能民の特色は、何よりも女性が多いことである。室町時代の女性は、自ら新職を興して経営を担うほど自立的で、たくましく活発であったのだ。
 その職種たるや膨大である。
 まず、以下のような職種に女性が目立つ。山海の産物を扱う魚売、心太売、農産物や加工食品を売る酒作・餅売・麹売・米売・豆売・豆腐売、繊維製品を扱う紺掻・機織・帯売・縫物師・組師・摺師・白布売・綿売、化粧品や手工業製品を扱う扇売・白物売・挽入売・紅粉解・燈心売・畳紙売・薫物売、など。いずれも、販売・営業だけでなく、生産工程まで女性が担っていたようだ。
 また、宗教・芸能民である白拍子・曲舞ゝゝ・持者・巫・比丘尼などの女性芸能集団もあった。これらの集団は、船を居として移動しており、代表者・経営主も女性のケースが多かったらしい。
 平安末期以降には、重労働である炭焼の女性集団である小原女も確認されている。当時の炭は専ら製鉄の燃料に使用されていたことから、炭焼と製鉄は一体の職種と見る向きもあり、製鉄民の女性集団が実際にあったことも考えられる。
 前述のように、炊飯米と野菜のおかずという典型的和食の調理法が確立されたのは室町時代である。醤油と味噌の二大調味料、餅・うどん・芋などの間食が一般に広く普及したのもこの時代なのだ。その影には女性職能民・商人の活躍があったと思われる。作中、ジコ坊が粥に味噌を入れて煮るシーンがあるが、これは味噌の普及という史実を反映させたものである。
 更に、各種の訴状記録には女性が商売上の権利を巡って訴えを起こした例が数多く残されていると言う。おそらく、旦那より社会的地位が高く稼ぎが多い既婚女性もザラであったろう。
 これらの例は、遍歴民女性が農村よりも解放された立場で社会進出していることを物語っている。逆に言えば、封建的差別の支配する農村から逃散して遍歴民になった女性が多かったとも解釈出来る。また、これらの女性集団が自衛武装していたのかどうかは不明だが、一説には近現代と価値観が違って自衛の必要がなかったのではないか(あるいは政治的に保護されていた)とも言われている。中世の絵巻物には無防備な女性の一人旅の姿が多く描かれていると言う。
 ともあれ、『もののけ姫』に登場するエボシ御前のような有能な女性指揮官や、おトキのような男勝りの快活な既婚女性は、この時代にはたくさんいたと考えられる。室町時代には、女性職人や女性商人たちが軒を連ねた大マーケットが存在していたのである。

●「職人歌合」に描かれた女性たち

 宮崎監督は室町時代の女性について、以下のように語っている。
「女達も『職人尽しの絵』にあるように、より大らかで自由であった」(演出覚書)「街頭で物を売っているのは女たちです。男と女の力関係のようなものは、江戸時代に作られた関係がいつの時代でも同じだと思い込んでいるところがあるんですけれども、室町時代の女たちはもっと自由でかっこいいですよ。」(九七年三月十日、制作発表記者会見での発言)
 「職人尽絵」とは、十六世紀中期(安土桃山時代)以降の作品で、職人たちを描いた屏風絵などであるが、監督の指すものは中世に描かれた「職人歌合」のことであろう。室町時代には著名な『三十二番職人歌合』『七十一番職人歌合』の二作品がある。それぞれ室町時代の中・後期に描かれ、様々な職人たちが職業に則した歌を交わす構成となっている。『七十一番職人歌合』には、何と百四十二人もの職人が登場する。しかも、女性が大変多い。作中に登場する女たちの性格や衣裳は、この絵巻に触発されたものと言える。
 作中に登場する米売やタタラ場の女たちは、皆頭に白い被物をしているが、これも史実と一致している。白い被物は「桂包」または「桂巻」と呼ばれるもので、その起源は桂女の格好である。
 桂女は、元は鵜飼であったが、何らかの理由で芸能民に転じたとされる。鵜は、水に潜って魚を捕ることから「水=神界」と「地上=俗世」を繋ぐ聖なる鳥と考えられており、鵜飼も神の使いとして扱われていた。桂女は特殊な結び方の白い布を頭に巻いて、その上に鮎を入れた桶を乗せて売り歩いていた。これが、市庭に出入りする女性商人に広まったらしい。これは遍歴民女性特有のスタイルだったようだが、後世の花嫁の「角隠し」の起源となったとも言われている。
 作中の女たちが着ている身幅が広く袖が短い着物は、「小袖」と言われるもので、質素で活動的な生活に適していて無駄がない。また、エボシ御前が着ている扇模様の染め抜きを施した小袖は、扇売が多用した「扇散らし」と言う染型である。これらは、中世の女性職人の典型的なファッションである。
 なお、織豊政権期から近世以降の「職人尽絵」では女性職人が激減していることから、女性の社会的地位が他の遍歴民と共に下がってしまったのではないか、とする説もある。

●婆娑羅の風

 一方、「婆娑羅」と呼ばれた派手な模様の衣裳も流行していた。この種の美装は特権ある民にしか許されていなかったが、地侍や悪党・盗賊などに非合法で流行した。その起源は、刑期を終えてから使庁職に従事する元罪人が、派手な装束と異様な形の棒を持たされて平民と区別されたことに由来する。「放免」と呼ばれたこの人々には特別な資格が与えられていたらしい。
 各々が勝手に派手な衣裳をまとった盗賊連合は、さぞかし異様な迫力があったことだろう。同時にこれは、既に幕府や朝廷に悪党を取り締まる力が無くなっていることを象徴している。室町時代には「婆娑羅大名」と呼ばれた、悪党の成り上がりも多数出現した。
 暴力・略奪・退廃の象徴として流行した婆娑羅は、時代の境目に吹いた荒々しい風であった。作品に登場する小悪党の地侍たちの無秩序な装束にも、婆娑羅の影響が見てとれる。
 しかし、宮崎監督によれば、「エボシ御前そのものが婆娑羅だ」と言う。監督は「バサラの気風、悪党横行、新しい芸術の混沌の中から、今日の日本が形成されていく時代」(前述『演出覚書』参照)とも記している。監督の婆娑羅についての解釈は、必ずしも「悪」(悪は強者の意とする説もある)一辺倒ではなく、混沌とした社会秩序を破壊して独自の体系を打ち立てるという、革命的なイメージも含まれているようだ。

● 笠

 作中には、様々なタイプの笠が登場する。
 蝦夷の村では、女の子たちが中央の尖った「市女笠」らしき笠をかぶっている。市女笠は、中世の女性が外出によく使用した笠だ。「市女」とは古くは女性商人の意味であったと言う。ただし、市女笠は山の先端が平らなものが多いが、これは尖っているので、あるいは別の笠かも知れない。
 ゴンザ率いるワラットたちは、頭部全体を覆うような三角形の大きな笠をかぶっている。これは、「苧屑頭巾」と呼ばれた猟師・鷹匠用のカラムシ製頭巾や、「猟師笠」に似ている。
 エボシ御前の笠は「韮山笠」を朱に塗ったもののようだ。
 「韮山」とは、静岡県田方郡の町名であり、幕末に製鉄用の反射炉があった地である。砲術調練が盛んであり、砲術士専用の笠が開発された。それが韮山笠である。本来は黒漆塗りだと言う。当然、室町時代にはなかったと思われる。
 砲術士でもあるエボシ御前の笠は、韮山笠の原型という解釈ではないだろうか。

● 刀剣の流行

 室町期の刀剣には特色が多い。
 南北朝時代には、権威を示す大ぶりの太刀が流行したが、次第に機能優先の小ぶりの先反り刀に取って代わられた。特に、抜くと同時に斬ることを目的として、刃を上向きにして腰に刺す「打刀」と、短刀の「脇差」が流行した。殺傷力に優れた打刀は、戦乱の時代を物語っている。
 中期以降になると武器の需要が急増し、「束刀」と呼ばれた粗悪な量産品が出回る。一方、戦国武将の依頼で作られた「注文打」と言われる名刀も多く生まれた。伊勢の「村正」、美濃の「兼定」「兼元」などである。
 作中の地侍たちは、流行遅れの太刀や束刀を使っていると思われる。
 また、地侍たちは薙刀も扱う。薙刀は室町中期に最も多く使われた武器である。振り回すことで殺傷する薙刀には、特別の技能が必要だ。この為、戦国時代には、薙刀に代わって槍が大流行する。槍は体重をかけて突くだけなので誰にでも扱える武器であった。
 各武将たちは、これらの武器の安定的確保のために、どうしても製鉄民や鍛冶を取り込むことが必要であった。

● アサノ公方は浅野氏か

 各地の戦国大名は、鉱山と製鉄民の獲得を競ったと言う。
 作中には、地侍たちの黒幕として「アサノ公方」なる侍大将がいると語られる。実体は不明であるが、エボシタタラの経営権を独占しようと狙っている。地侍たちは、エボシ御前がシシ神殺しに出陣した隙に、攻略戦を仕掛けるわけだが、これが朝廷や幕府と密通した作戦なのか、独自の諜報ルートがあったのかははっきりとしない。
 いずれにしても、まだ正式な軍を組織し得ていない新進の戦国大名と思われる。(尤も舞台が室町中期以前だとすれば「戦国」とは言えないが)
 この「アサノ」は、史実に照らせば尾張(愛知県)の浅野氏と受け取れる。
 浅野氏は清和源氏の子孫で、美濃(岐阜県)で氏を興し、後に尾張に居を移して織田・豊臣に家臣として仕えた。室町末期から安土・桃山時代には有名な武将・浅野長政(一五四七〜一六一一)がいた。長政は、秀吉の五奉行の首座を務めた。その子、幸長(一五七六〜一六一三)は、徳川時代に紀伊(和歌山県)に封ぜられ、後代には広島藩の藩主となった。忠臣蔵の舞台となった赤穂は浅野氏分家の城下であった。
 実在の浅野氏は、後世に亘って西日本を支配したことから、当時すでに尾張から出雲に手を延ばしていた可能性もある。早くから鉄砲に強い関心を示した信長に近しい浅野氏が、タタラ場独占を狙うのは当然と言える。作中の「公方」は、浅野長政の先代かも知れない。

参考資料
『日本中世の民衆像−平民と職人−』網野善彦・著(岩波新書)
『日本論の視座−列島の社会と国家−』網野善彦・著(小学館ライブラリー)
『職人歌合』網野善彦・著(岩波書店)
『異形の王権』網野善彦・著(平凡社ライブラリー)
『無縁・公界・楽』網野善彦・著(平凡社ライブラリー)
『日本中世に何が起きたか/都市と宗教と『資本主義』』網野善彦・著
(日本エディタースクール出版部)
『日本の歴史をよみなおす』網野善彦・著(筑摩書房)
『日本の女性風俗史』切畑健・編(京都書院)
『図説日本文化の歴史6/南北朝・室町』(小学館)
『東京国立博物館鑑賞シリーズ7/日本の染色』(東京国立博物館)
『詳述/日本史研究』笠原一男・著(山川出版社)
『カラーブックス/刀剣』小笠原信夫・著(保育社)
『原色日本の美術25/甲冑と刀剣』尾崎元春・佐藤塞山・著(小学館)
『広辞苑/第二版補訂版』新村出・編(岩波書店)


4, タタラ製鉄

 宮崎監督は、二十歳の頃から製鉄民に強く惹かれていたと言う。映画『太陽の王子 ホルスの大冒険』では、鍛冶場にブタ型の送風装置(吹子)を考案するなど、既に製鉄作業の描写へのこだわりを見せていた。以来三十年、ついに自作で製鉄民を本格的に描くという夢が叶ったのである。
 『もののけ姫』では、太古の昔から日本最大の製鉄プラントが在った出雲地方(現在の島根県)のタタラ場が舞台となっている。

●タタラ製鉄の由来と特性

 日本の製鉄は太古より行われていた。日本には、原材料となる鉄鉱石は乏しかったが、火山国の特性として上質の砂鉄が大量に採掘出来た。このため、砂鉄を炊いて鉄塊を精製する特殊な製鉄技術が発達した。この日本独特の製鉄技術を「タタラ製鉄」と呼ぶ。
 タタラとは、神話時代から使われていた古い言葉であり、今も地名に残っている。タタラには、年代順に「蹈鞴」「鑪」「高殿」などの漢字が当てられた。「蹈鞴」は、「鞴」を「蹈む」という意味。「鑪」は製鉄に使う溶鉱炉の意味。「高殿」は製鉄用の特殊な建物(後述)を示す。漢字の推移は、そのままタタラの発展を示すものでもある。
 タタラ製鉄は、諸外国で行われた鉄鉱石の製鉄に比して、はるかに硬度と柔軟性に富む上質の鉄を作り出す技術であった。不純物が混在している鉄鉱石に比して、砂鉄は原料段階で不純物を除去出来る。砂鉄自身の純度が高ければ、極上の鉄塊を作ることが出来るのだ。タタラ製鉄で出来た鉄塊は、現在の製鉄技術を駆使しても及ばないと言われるほど高純度なのである。世界最高峰の鉄刀と言われ、各国に輸出されていた日本刀も、タタラ製鉄なればこそ出来たのである。
 しかし、幕末に「攘夷思想」と共に軍艦建造が計画されるようになると、かつてないほど大量の鉄が必要となった。この為、西欧の反射炉精錬と高炉製鉄という近代的製鉄技術が輸入され、鉄鉱石の採掘出来る各地には大工場が建設された。高炉製鉄が盛んになり、鉄の量産体制が整う明治時代になると、タタラ製鉄は次第に姿を消して行ったのである。

●タタラ製鉄の作業行程

 タタラ製鉄の作業工程は以下のような手順である。
 まず膨大な量の樹を切り、山から運び出して炭焼が木炭を作る。同時に川や山から大量の砂鉄を採集する。砂鉄採集は、当初は「竪穴掘り」と呼ばれた露天掘り、後に「鉄穴流し」と呼ばれた水路設置による分離法(比重選択法)に発展する。大量に採集しなければならないため、大変な重労働であった。これは、「鉄穴師」と呼ばれた者たちによって担われた。
 始めに炉床を深く掘り、石と炭を多層的に詰めて窯状の床を築く。この地下で、土を乾燥させるべく二ヶ月を要して徹底的に炭を焼く。この際、わずかな湿気があっもよい鋼は出来ないと言う。
 次に、粘土によって作られた窯であるタタラ炉を設置する。ここに木炭をくべて火を焚き、砂鉄を放り込みながら炉に空気を送り込み、一五〇〇度以上の高温を保つ。これを指揮者の「村下」一人(表村下・裏村下として二人制の場合もあった)、「炭坂(炭焚き)」二〜三人程度の交代制で行う。
 送風は、数十人を動員して手動のふいごで行っていたが。中世になると六人程度で稼働する「踏みふいご」が出来る。近世には更に改良され、二人ですむような「天秤ふいご」が出来た。作中に登場するのは、「踏みふいご」である。交代制でふいごを踏み続ける重労働を担う者を「番子」(「代わり番子」の語源か)と呼び、力自慢の荒くれ者が多かったらしい。
 このように、一工程の操業には最低十人は必要であった。三日四晩不眠不休で炉を燃やし続け、ふいごを踏み続けると、砂鉄はようやく溶けて鉄の塊となる。これを「ケラ(金へんに母と書く)」と言う。タタラ炉を取り壊してケラを取り出す。この一行程を「一夜」と呼ぶ。
 極上の真砂砂鉄で作られた鋼鉄は「玉鋼」「和鋼」などと呼ばれ、刀剣類や武器・農具に加工された。これらの鉄塊を取り出す前述の製鉄法を「ケラ押し法」と言い、これが最も高度な技術を要する製鉄法である。
 その残りは「錬鉄」と呼ばれ、「左下法」と呼ばれる製鉄法で取り出され、鍛冶が包丁などに鋳造した。
 これとは別に、赤目砂鉄で作られた鋼を「銑鉄」「鋳鉄」と呼び、「銑押し法」と呼ばれる製鉄法で取り出され、鋳物師の手によって鍋釜に加工された。 
 以上の三様式が、典型的なタタラ製鉄の行程である。
 このようにタタラ製鉄には、伐採・運搬・炭焼・砂鉄採集・炭焚き・タタラ踏み・鍛冶・鋳物師などの諸職が不可欠で、当然大人数による産業共同体を構成していた。彼らは、平地の稲作農民からは「タタラ者」「山内者」などと呼ばれていた。
 なお、作中のタタラ炉は実に巨大だが、絵コンテに「四日五晩踏み続ける」とある。よほど巨大な鋼塊を作っていたと思われる。

●タタラ場の立地条件

 タタラ製鉄の集落を構えるための立地条件は、何より水と樹木に囲まれた地であることである。
 まず、膨大な砂鉄を採掘出来、木炭の原材を提供する森林の際であることが必須条件である。また、鉄塊の水冷作業が出来、船輸送に便利な水際でなければならない。
 また、急激な森林伐採により山崩れや鉄砲水などの人為的災害を引き起こす製鉄民は、平地の稲作農民からは嫌われていた。この為、人里離れた山中で作業を行う方が都合が良かった。中世以前は、地と水のせめぎ合う地や、人気のない山奥は「人と神々の境界線」として崇拝する傾向が強かったため、「神ががりの職能民」としての位置も保てたのである。
 作品の設定と描写は、これを忠実に再現していると言っていい。ただし、実際のタタラ場は、周囲を防塵・防災のために松などを植林した里山に囲まれており、資源枯渇を補うために禿山には植林を行っていたらしい。つまり当時の鉄製民は、作中ほどすさまじい環境破壊はしていなかったのである。これは、監督が現代的環境破壊を意識した誇張表現とも考えられる。

●高 殿

 煉瓦作りや石作りの建築技法が伝わらなかった日本では、専ら木造建築が発展した。建物は火災に脆く、炎が高く巻き上がる炉を覆う建物を作るのは困難であった。それには高い天井を支える高度な建築技術が必要だったのだ。このため、タタラ製鉄は露天で行う「野鑪」のみであった。
 江戸時代中期の安永年間(一七七二〜一七八〇)にまで下って、ようやく全国に高い吹き抜けの天井を持つ「高殿」と呼ばれる建物が公に登場する。ただし、これがいつ頃開発された建築物なのかは不明である。
 作品中ではすでに高殿が存在し、重要な位置を占めている。これはおそらく監督のフィクションであると思うが、今後の考古学の進展によっては、製鉄民の歴史が作中のように書き変わる可能性もないとは言えない。
 ともあれ、作中に登場するのは、当時の最先端技術を集結したタタラ場であったのだ。

●製鉄による森林破壊

 記録によれば、一回のタタラ製鉄で砂鉄十九トンと木炭十五トンが消費され、出来る鋼はわずかに五トン程度であったと言う。炉の新設時には、炉床の基礎工事と地盤乾燥に一五〇トンもの薪を焚く。一回の製鉄作業に一山丸ごと消費するとも言われた。まさに「山が鉄を作る」のである。
 製鉄の歴史は古く、稲作発生以前とする説もある。人類は、製鉄技術を開発したことで、森を切る速度を格段に速くすることとなった。鉄製の農機具と調理器具を開発して安定した食料を得た。鉄製の武器を開発して大量殺戮と部族抗争の果てに大国家を作り上げた。しかし、その結果として、自らの首を絞めるほど環境を破壊してしまった。
 中国や西アジア、ヨーロッパなどで進行する砂漠化・禿山化は、もとは製鉄(初期は製銅)で樹を切り過ぎたためとも言われている。太古の彼の地では、樹を植える習慣もなく、森林も復活しなかったのである。文明は森を伐って栄え、伐り尽くして滅んだのである。
 ところが、照葉樹林地帯では、湿潤な気候のため、かなり切っても回復が可能だった。このため、近世までの製鉄民たちは切っただけ樹を植えて、三十年程度で戻って来て作業を再開したと言う。(江戸時代末期には、これが土佐藩によって「番繰山」という名で制度化された)その間は場所を移動しながら回遊していた。豊富な水と樹に恵まれた日本は、まさに製鉄民にとって最高の操業地域であったのだ。中でも、作品の舞台となった出雲地方には、もっとも古くから製鉄民がいたと言われている。
 平地の稲作農民にとって、鉄穴の泥と排水を下流に流し、山を崩して自然災害を引き起こすタタラ者は、天敵であった。出雲には、スサノオノミコトが火炎を吐く大蛇を退治する伝説がある。これを被害に苦しんだ農民が大和朝廷に訴え、製鉄民が平定された話―とする解釈は多い。
 最近の考古学では、弥生時代以降、日本の森が急激に減ったことが明かにされている。日本の稲作は、弥生時代以降に全土に広がったわけだが、当初の開墾時期にはすでに鉄製農具が使われている。稲作と同じ時期に、製鉄も発生したのである。鉄器で森を切り、焼畑と鉄製農具によって開墾された稲作地帯が急増したのだ。
 いくら照葉樹林地帯でも、人の手による開拓が余りに急激であれば、樹が生える余裕はない。邪馬台国の謎の移動も、製鉄で失われた森を求めてのものだったとする説もある。
 以来、日本の森の減少は現在まで続いている。

●特別保護されていた製鉄民

 権力に欠かせない武器や庶民の必需品を作り出す製鉄民は、他の職人たちと共に、幕府や朝廷の特別な保護を受けていた。陸路・海路の自由通行権の付与、年貢を取らない免田耕作の許可等々。製鉄民の保有数=鉄の生産量が、国の政治力を決することにもなっていたのだ。
 一方、手配中の犯罪者や身元不明の者など、怪しげな身分の荒くれ者が、世間の目を忍ぶために製鉄民となったケースも多かった。恩寵を受けているが故に、政府のおとがめなしの解放区でもあったのだ。とりわけ単純だが重労働のタタラ踏みには、荒くれ者が多かったと言う。
 エボシ御前のような婆娑羅の女傑が、特権を利用して職能民女性や荒くれ者を集めて小国のごとき共同体を作っていたのも、あり得ない話ではない。

●女人禁制だったタタラ場

 タタラ場には女人禁制の厳格な掟があったという。作中の華やかな「タタラ唄(儀式唄)」も実際は男たちが歌っていたのである。高殿に入れる女性は「宇成」と呼ばれた飯運びの老婆だけであり、作業員たちの内儀(女房)は、タタラ場の操業中には髪も結わず化粧もしてはならなかったと伝えられる。いつ頃からこの風習があったかは不明だが、かなり古くからあったらしい。その形成要因を、未開地域の伝承に求める説もある。
 アフリカのタンザニアやスーダンなどの各地に残る伝承によれば、黒石や黒砂から武器や農具を取り出す製鉄民は、呪術師やマジシャンのように扱われ、「文化英雄」として神聖視されていたらしい。(エジプトでは「ホルス神の使者」という伝承もある。)この為、鉄には神秘的エネルギーが宿っており、製鉄民と一般民がふれ合うことは危険と見なされていた。これが転じてアフリカにおける操業中の性交禁止や日本の女性忌避につながったと見る説がある。
 日本には、相撲の土俵など、神聖とされる場所が女人禁制であるケースが他にもあるが、これにも何らかの関連があると思われる。
 月経時や出産時の女性を特に忌避する傾向があったとも言う。これを「赤の穢れ」「血の穢れ」と解釈する説もあるが、現代の女性差別に直結するものなのか、別の意味があったのかは判別出来ない。
 赤とは逆に黒色は歓迎され、男達は黒衣で製鉄に臨んだとも言う。作中ゴンザらが、黒っぽい衣裳を着ているのはこの為ではないか。
 作中の設定は、下克上や婆沙羅のはびこる時代の風に乗じて、出生不明の女性指揮官が女性製鉄民を率いていた、という大胆な創作である。それは、エボシ御前の卓越した政治力と組織力を裏付けるものであるが、同時に、室町期の女性職人の地位の高さを考慮に入れた創作でもある。女性職人忌避は戦国時代に入って加速する。
 もしかすると、女人禁制の風習は戦国時代以前は厳格なものでなかったのかも知れない。後述のように、タタラ製鉄の開祖は女性の神様であったという伝承がある。タタラの神が女性であるから、返って女性が敬遠されたとも言う。

参考資料
『和鋼風土記/出雲のたたら師』山内登貴夫・著(角川選書)
『街道をゆく7/砂鉄への道』司馬遼太郎・著(朝日文庫)
『この国のかたち(五)』司馬遼太郎・著(文芸春秋社)
『鉄の語る日本の歴史(上)(下)』飯田賢一・著(そしえて文庫)
『鉄の文明史』窪田蔵郎・著(雄山閣)
『鉄の民俗史』窪田蔵郎・著(雄山閣)
『民俗・民芸双書70/鑪と鍛冶』石塚尊俊・著(岩崎美術社)
『日本古代文明の探求/鉄』森浩一・編(社会思想社)
『たたら/日本古来の製鉄技術』黒岩俊郎・著(玉川選書)
『郷土史事典/島根県』藤岡大拙・編(昌平社)
『緑と文明』朝日新聞社・編(朝日新聞社)
『朝日百科 日本の歴6/中世から近世へ』(朝日新聞社)
『日本史資料総覧』村上直・高橋正彦・編(東京書籍)


5, 石火矢

 『もののけ姫』では、「石火矢(ハンドカノン)」と呼ばれる鉄製の大砲が登場する。その砲身に刻み込まれた模様から、中国製の輸入品を基に生産したものと思われる。物語は室町時代であるから、末期であれば鉄砲伝来後であり、鉄の大砲も考えられなくはない。しかし、これはそのような単純な応用型フィクションではなく、歴史の新解釈によって生まれた現実性を帯びた設定なのである。

● 鉄砲は「種子島伝来」以前に日本に在った?

 鉄砲の伝来に関しては不明なことが多い。正史によれば、室町末期の一五四三(天文一二)年、種子島にポルトガル船が偶然漂着し、二丁の鉄砲(火縄銃)が伝来したとされる。これは、国内文献『種子嶋家譜』『鉄砲記』、国外文献『廻国記』『新旧発見年代記』『日本教会史』などの諸資料検討の結果決定された史実だが、実は異説も多いのである。
 一六〇七年に書かれた『鉄砲記』によれば、一年後に種子島でも鉄砲開発に成功し、その二、三年後には生産技術が全国的に波及したとのことだ。「ごく短期間で鉄砲生産に成功した」というこの記述は、当時の鍛冶職人たちの技術水準が驚異的に高かったことを伺わせる。しかし、貿易盛んな隣国朝鮮・中国から一切伝わらずに、漂着したポルトガル人から、わざわざ製鉄業の盛んだった種子島に着いた―というのも不思議な話である。
 隣国には鉄砲はなかったのか?否である。「種子島以前に隣国から鉄砲が伝来していた」と考えるのは、かなり現実性のある話なのだ。
 実際に、江戸時代に書かれた『中古治乱記』には、一五〇一年に南蛮国(ヨーロッパでなく中国と解釈する説もある)から鉄砲が献上されたが、火薬がなく、使用法が不明なので壊した―とする記述がある。同じく江戸時代に書かれた『北条五代記』『甲陽軍艦』『重編応仁記』などは一五一〇年に鉄砲が伝来したと記している。これらの書物は信頼度が低いようだが、新たな確証が発見されれば歴史が書き変わる可能性もある。

● 「石火矢」は実在した

 火薬の発明年代は不明である。しかし、五〜六世紀の中国には火薬とほぼ同じ成分の発火装置があり、七〜八世紀頃には火薬が開発されていたとする説が有力である。それは、硝石・硫黄・木炭の混合物から成る「黒色火薬」であった。宋(九七九〜一二〇六)代には火薬の武器への転用が進み、一〇四五年に書かれた『武経総要』には、「火毬類」として八種類もの火器が紹介されている。
 初期の火器は、鉄球に火薬を詰めて導火線で発火させて投石器で発射するという、爆弾のようなものであった。一二七四年に元(モンゴル)軍が日本に襲来した際、投石器で鉄の火毬を撃ち込んだという記述がある。これが「てっはう」と書かれたもので、日本史に登場した最初の火器である。以降鉄砲伝来まで二六九年間、「てっはう」に対する研究が日本で成されていた可能性は高いと思われるが、確証はない。
 一二三二年には金(中国)軍が蒙古軍に対して「飛火槍」と呼ばれた火器を使用している。これは、特殊な紙を十六枚重ねて作った筒の中に発火用の縄を付けた槍を詰め、火薬で発射するというものであった。一二五九年には、筒を竹に変え、弾丸式の火薬を詰めた「突火槍」が開発された。これが世界に伝播した筒型火器の原点である。一三〇〇年頃には木筒製の「マドファ」と呼ばれた火器がアラビアで開発された。それから間もなく、青銅や銅製の筒型火器が開発された。金属器の開発年は不明だが、一三〇〇年前後と思われる。現存する世界最古の金属製筒型火器は、一三五〇年頃に中国で作られた青銅製の「手把鋼銃(ハンドカノン)」である。
 この中国製筒型火器が日本に伝来していた可能性は高い。しかし、少なくとも室町末期には筒状火器が実戦に使われていた。それは日本独自の改良を加えた鉄の大砲であった。それら大小の火器は「石火矢」と総称された。石火矢は、各地で様々な型が開発されたが、やがて実用的な火縄銃に取って代わられ、次々と姿を消していった。

● 実戦における「石火矢」の活躍

 石火矢が伝来した時期は不明であるが、以下のような伝書類から鉄砲伝来前後には既に実戦配備されていた可能性が高い。
 『武要辨略』という書物では一五五一年に南蛮人が大友家に献上したとある。また、『豊薩軍記』によれば、一五七六年に南蛮人が石火矢を伝えたので、大友宗麟がこれに「国崩」と命名したと言う。国を崩す超兵器という意味であろうが、余りに不吉であることからこの名は伝わらなかったらしい。一五八六年には、島津軍の攻撃を受けた大友家は、「大震雷」という名の石火矢で応戦し、これを撃退したとことである。大友家の石火矢は、今も二門現存しているが、初期のものかどうかは分からない。
 一方、近代兵器に一早く執着していた武将としては、織田信長が有名である。信長は、一五七五年に日本初の鉄砲隊を組織し、一五七七年に大砲三門を有する鉄の軍艦を建造している。この巨大砲も石火矢の名で呼ばれることがあったらしい。
 また、天正年間(一五七三年〜一五九二年―安地桃山時代初期)には上杉謙信の家臣が開発した「山口流神器砲」と呼ばれる筒型火器があったとされ、これも現存している。 
 宮崎監督によれば「応仁の乱(一四六七〜一四七七年―室町中期)に石火矢が使われていた形跡がある(出典など不明)」とのことである。これが事実だとすれば、石火矢伝来は鉄砲伝来より七〇年も遡ることになるが、可能性は十分と言える。
 ちなみに、大形石火矢が生産されなくなった江戸〜明治時代には、小型の石火矢「火矢筒」が作られている。これは、七〇センチの中型から七センチの超小型までが現存しているが、見せ物芸やアクセサリーに使われたらしい。
 石火矢の実戦での活躍は、ほんの一時期でしかなかったのである。

● 「指火式石火矢」から「歯輪式佛郎機」へ

 作中の石火矢は、中国の初期型とほとんど同じ旧式である。砲口から弾と火薬を詰める。中心の球形状に膨らんだ箇所に火門があり、ここに棒状の物で直接点火して発射する。(これを「指火式点火法」と言う。)作中の石火矢には、砲身に中華模様のような紋様、火門の球状部には「虎」などの文字が刻まれているが、実際に文字や文様が砲身に刻まれている砲も多い。「火矢筒」などは全て模様入りであったし、朝鮮製の「銃筒」は文字を刻んだものが多い。
 しかし、この旧型の石火矢は日本には現存しておらず、発見された記述もない。日本で確認されているものは、「佛郎機」「破羅漢」と呼ばれた新式大砲であり、いずれも中央の球形の膨らみはない。
 作中にはエボシ御前専用の「新型石火矢」が登場する。これは、薬室カートリッジ式の「子母式」と呼ばれる構造の大砲である。これが佛郎機と同じ型なのである。子母式開発以降、石火矢は大型大砲化の道を歩むことになる。
 宮崎監督の意図は明かである。師匠連の持ち込んだ旧式石火矢の改良型が、その後各地の戦場で使われた佛郎機であったということだ。作品の舞台裏は、佛郎機の開発過程をも描いているのである。
 また、この新型機の着火装置は、指火式でも火縄式でもない。絵コンテからは正確には分からないが、おそらく「歯輪式」「鋼輪式」と呼ばれる装置であろう。
 カートリッジ脇にある「鶏頭」と呼ばれるS字型部品の先端に黄鉄鉱をくわえさせ、それに銃身部内にある歯車を回して摩擦で着火させるというものである。つまり、現在の百円ライターのような着火構造である。摩擦回転がより速くなったものが「鋼輪式」である。全国的に火縄式が普及した日本では、この型の銃が作られた記録はない。ただし、一八一四年頃考案されていた記録もあり、作られていた可能性もある。
 和製銃の着火装置は「火縄式」だけではなく、「歯輪式」の佛郎機もあった―、つまり、タタラ職人たちの技術の素晴らしさは、まだまだ知られていないという独特の解釈である。ここにも、歴史の可能性を信じる宮崎監督の姿勢が貫かれている。

● 朝鮮から渡来した破裂弾

 『もののけ姫』に登場する石火矢の弾丸は、時折着弾と同時に光を放って火薬が爆発する。つまり、単なる鉛弾でなく、火薬を詰めた破裂型の鉛弾もあったと思われる。この為、発射時の暴発は撃ち手の命とりとなる。実は、これも映像上の効果を考慮しての監督の独創ではなく、史実に裏付けられた設定である。
 当初の筒型火器は命中精度が低く、直接的な戦果が上がるような兵器ではなかった。実際の兵器としての有用性よりも、爆発音と火光によって敵を恐れさせることが主目的であったらしい。このため、中国では「神器」と呼ばれていた。当初より破裂弾も作られていたらしい。
 また、朝鮮では中国の明(一三六八〜一六四四)代以前に筒型火器が伝来し、以来「銃筒」として様々なヴァリエーションの手持ち式火器の開発を行っていた。独自の技術で命中精度も上げ、一五〇〇年代には「震天雷」と呼ばれる大形破裂弾も開発されていた。豊臣秀吉軍の第一次朝鮮出兵(一五九二年「文禄の役」)の際には「震天雷」の犠牲になった兵が三〇人を越えたと言う。
 作中の弾は、朝鮮製の破裂弾(震天雷の原型か)を基に「師匠連」が開発したものか、あるいはエボシタタラが独自に開発した新型弾かも知れない。

●「師匠連」―「唐傘」「石火矢衆」は韓鍛冶か?

 『もののけ姫』では「師匠連」と呼ばれる謎の組織の存在が語られる。大和朝廷と密通し、エボシ御前に指導的影響力を及ぼす存在らしい。ジコ坊はその一員であり、戦闘プロフェッショナルらしき「唐傘」、石火矢に精通したコマンドらしき「石火矢衆」四〇名を配下に持つ。
 「師匠連」の組織実体は作品では語られず、謎のままである。シシ神の首を狙っていた理由も、朝廷の命であったからだけなのか、独自の思惑があったのかは不明である。そこで、その実体を類推してみたい。
 大量の石火矢を輸入し、実践経験を詰んだ独立部隊を有する組織が守護大名にあっただろうか。増して天朝と密約を交わして暗躍する組織となれば、かなり特殊な勢力である。ジバシリなど異形の山民も動員出来るのであるから、その勢力範囲も広く、古来からの特殊な権威を持つ集団なのかも知れない。ジゴ坊は、身なりこそ僧侶のようだが、布教活動をしている風でもなく、むしろ特殊工作部隊の現場指揮官のような役割を担っている。
 そもそも「師匠連」という名称は、宗教教団的なイメージよりも、職人集団的イメージを連想させる。ここにこだわるならば、師匠連は「韓鍛冶」ではないかという推測も成り立つ。
 「韓鍛冶」とは、朝鮮から渡来した製鉄・鍛冶職人である。彼らは、太古の昔に日本に移住し、倭人に製鉄技術を伝えた。日本人の製鉄の「師匠」である。彼らは数世紀を経て日本人の中に同化していった。しかし、彼らの末裔には廻船民として故国・朝鮮と日本とを往来する商人となった者もあっただろう。中には、中国・朝鮮の最新製鉄技術を常に伝える廻船民、乃至は武器商人もいたかも知れない。または、朝廷に石火矢の一大プラント建設を持ち込もうとアピールしていた新たな渡来人がいたかも知れない。これらのいずれかの勢力が自ら「師匠」と名乗ったとしても不思議はない。
 いずれにしても、師匠連は石火矢の威力を示して朝廷から独自の位置を認められていたと思われる。彼らが石火矢の量産工場として目をつけたのが出雲のエボシタタラであり、その威力を天下に示すためにシシ神退治を(天朝、エボシ、アサノ公方の三方に)焚きつけたとも考えられる。師匠連が、朝廷からの加護で満足していたのか、朝廷の裏支配までも目算に入れていたのかは定かではない。
 いずれにせよ、権威の零落していた朝廷が、武家社会の粛正を願って、最新の武器である石火矢に飛びついたのは考えられる話である。そして、エボシタタラが兵器量産工場として完成してしまったら、その後に続く近世の歴史は大きく変わってしまったことであろう。たとえば、織田信長軍以前に、朝廷が間接的に指揮する鉄砲隊が出来ていたかも知れない。そうであれば、戦国時代の勢力地図は更に複雑になっていたことであろう。まさに「国崩」の惨禍が続いたわけである。

参考文献
『火縄銃』所荘吉・著(雄山閣)
『図解古銃事典』所荘吉・著(雄山閣)
『鉄の文明史』窪田蔵郎・著(雄山閣)
『平凡社大百科事典』(平凡社)


6, 神々の世界

 民俗学者である早川孝太郎氏の著書『猪・鹿・狸』の序文に、肥後の五箇床(熊本県八代郡)に伝わる以下のような実話が紹介されている。
「猪の群を遠巻きにして一群の狼がいる。それはあたかも海で鰯の大群を囲んだ鰹のように、機を測っては外側から蚕食している。猪の中には真っ黒い毛を持ったもの、または黒と白の斑毛のもの、全身が白毛に包まれたものもいた。そうして山から山を幾日もかかって移動していた。あのおびただしい猪の群は全体どこに落ちていったものか、狼は―。それが不思議でならない。」
 かつて、この国の大型動物の多数派は人間ではなかった。この国の森には、人間の二倍とも三倍とも言われる膨大な数の動物たちが棲んでいた。森の主人は、鹿であり、狼であり、猪であり、猿であり、狐や狸であった。獣の棲む森の中は、人智の到底及ばない神々の世界であったのだ。

● タタリ神―「猪笹王」の伝説

 民俗学者の折口信夫氏によれば、「タタリ」の古い語源は「立ち現れる」であり、神の示現を表す言葉であったと言う。神界にいる神々が、何らかの形で俗世に降りて来るという意味である。作品中では、シシ神の森の守護神である「ナゴの守」がタタリ神となって人里を襲う。その原因はエボシ御前らの撃ち込んだ鉛玉であった。実際に、これと良く似たタタリ猪の伝説がある。
 伯母峰峠(奈良県吉野郡)で、ある侍が笹の塊を背負った奇妙な大猪を発見し、鉄砲で撃った。深手を負った猪は、侍に化けて付近の温泉で湯治治療をした。ところが、宿屋の主人に正体を見られてしまった。猪は、「自分を撃った侍の鉄砲と犬を取り上げて持って来い。さもなくば、恨みを晴らすために村人を殺す。」と主人を脅した。侍はこれに応じなかった。 すると、峠の村には一本足の鬼が出現し、村人や旅人を次々と喰い殺した。それから何度も鬼が出現しては人を喰い、村は寂れ果ててしまったと言う。
 猪は「猪笹王」と呼ばれる森の神であった。人間に撃たれたことで、怨霊となり鬼に化けて出たのである。後に、高名な僧が猪笹王の霊を弔い鎮めたと言い、その地蔵尊は今も実在している。
 ここには、人間が動物神=自然界への畏怖を捨てて殺意を示す時、神は怨霊と化して人間を襲うという図式が見てとれる。鬼とタタリ神の違いこそあれ、モチーフはそっくりである。
 かつては立ち向かう術もなく、森は神の世界であり、その住人である動物たちは崇めるしかなかった。しかし、人間は鉄砲という殺傷能力の高い武器を開発し、鉄斧によって容易に樹を切れるようになった。今や神を殺すことも可能となったのである。立場は逆転したのだ。
 作中のヌメヌメとした蛇状の「タタリ神構成要素」は、動物神が高貴な心を捨てて、人間への復讐と憎悪に染まった時に現れる。ジワジワと迫る死の影に、さすがの神も成す術がなく、ついに呪いの塊と化す。それは、客観的には醜悪な姿であるが、同時に滅びの道を暴走する悲しい姿でもある。なお、アジアでは蛇を神とする信仰が多いが、ヨーロッパでは邪悪の象徴である。
 また、冒頭現れるタタリ神(ナゴの守)の姿は、地をはう土蜘蛛にも似ている。古来、蜘蛛は悪霊の化身として恐れられている。能には、『土蜘蛛』という演目がある。源頼光に退治される妖怪の話である。『土蜘蛛草子』など退治談を綴った絵巻もある。この種の妖怪は、差別された山の民たる「土蜘蛛」と同一視されていたとする説もある。

● モロの君と狼族

 モロの君は、巨大な銀狼である。
 「狼」は「山犬」とも呼ばれ、「大神」とも書く。農作物を荒らす狸や鹿を退治して食らうことから、感謝され荒ぶる神として祀られていた。
 近世までの人々は、猪や鹿の作物荒らしに成す術もなかった。案山子や見張り小屋の泊まり込み、落とし穴を掘っても、襲い来る獣たちの数の前にはさして効果がなかった。彼らの天敵である肉食動物=狼による捕食(つまり食物連鎖)は感謝に絶えないものであった。「落とし穴にかかった狼を逃がしたところ、翌日鹿一頭が返礼に置いてあった」という類の昔話が全国に残っているのもこの為だ。
 一方、家畜や人間を襲う凶暴な獣という面もある。仔狼を人間に殺された狼たちが群を成して人家を襲ったという伝説、背後からヒタヒタとついて来て、転んだ途端に襲うという「送り狼」の伝説などである。(余談だが、アシタカが市場を出て地侍に付けられる下りの絵コンテに「送り狼」と記されている。)いずれも、人間が真っ当に生きていれば襲われないという奇妙な共通点があり、「天罰」的含意がある。
 日本の狼伝説には、西欧童話のずるがしこく愚かな狼像と違い、毅然とした神の風格がある。特に白い狼は神の使いと言われた。自然界の突然変異種である白子(アルビノ種)は、大変貴重であることから神聖視される傾向があった。白蛇を御神体として祭る信仰などは、その典型である。
 モロの君やサンの、猪族に対する皮肉な態度や人間に対する怒りは、歴史的に優位に立ってきた森の王たる狼族の誇りがそうさせるのであろう。あるいは雑食動物への肉食動物としての蔑みか。彼らのタタラ場への攻撃は、まさに「天罰」としての攻撃ではないか。
 その後開拓が進んで生息地が狭まると、狼たちは人里に下りて専ら家畜や人を襲うようになった。人間への狂犬病被害も深刻となり、各地で徹底的な撲滅作戦が組織された。狼狩りには賞金が出された。岩手県では四斗俵の米一俵が一円五、六十銭の時代に、牝一匹七円、牡一匹五円、仔一匹二円の高額賞金を出した。人々はこぞって狼を狩った。こうして、ニホンオオカミは一九〇五年には絶滅してしまったのである。
 一方、天敵を失った猪や鹿が増えたかと言えば、どちらも更に生活の場を追われて激減してしまった。言うまでもなく、新たな敵は人間であった。
鹿や猪の狩には、農作物を護るという目的もあった。
 鹿は狩が容易なため、賞金は低額であったが、毛皮目的や食用として徹底して狩られた。猪は、日清戦争(一八九四〜九五)前に「豚コレラ」と呼ばれた疫病が流行したことで数を激減させたと言うが、その後も大量に狩られた。
 現在も、日光など一部地域を除いて、鹿も猪も減り続けている。

● 「もののけ姫」サンの文化

 「もののけ姫」サンの容姿や装束には謎が多い。
 第一に、朱塗りの土面である。何故、戦闘時には土面をつけるのか。
 古来より仮面には神がかりの意味がある。つまり、仮面は人間が素顔たる本性を隠して、神や悪霊・妖怪に変身する願望を示したものなのだ。
 土面本体の形状は縄文晩期に作られた土偶や土面に似ている。強いて言えば、「木菟型土偶」に良く似ている。これは、丸いボタン型の目・口を有するミミズクのような顔の土偶である。鼻は額から続くわずかに隆起した線で表現されている。
 日本には、鬼・天狗・猩々など赤い仮面が数多くある。赤は、怒りの表情や酒酔いの表情など、頭に血が上った状態を示す色でもある。
 サンの土面は、狼族を意味する白髪と耳を携えており、背中にも白毛皮を背負っている。これは、狼族の証でもあるのだろう。
 その風貌は、秋田県男鹿半島に伝わる「生剥」にもどこか似ている。ナマハゲは、森から来た鬼が女子供を脅して食物を奪うという奇習である。
 仮面をかぶって動物に仮装する風習は多い。熊に仮装した踊りをする風習がアイヌやシベリアのオチャスク族にあると言う。獅子舞や鹿踊りもこの類ではないか。いずれも狩や稲作の豊穣を祈り、災疫を防ぐものと言われる。
 これらの諸要素から、サンの土面や装束は、人間としての本性を捨て、怒れる狼神に変身したことを示すと思われる。
 第二に、顔三ヶ所に刻まれている三角型の朱の入れ墨である。
 三世紀前半の日本を記したとされる『魏志倭人伝』には、「朱丹を以て其の身体を塗ること」という記述が見られる。古代日本では朱の入れ墨が盛んであったと思われる。女性を型どったと言われる縄文晩期の土偶には、顔の頬を縦に流れる模様が刻まれているものが多い。それらは、疫病封じや成人儀礼など、重要な呪術的意味があったと思われる。
 また、アイヌ女性には口の周りを赤く染める入れ墨の風習があった。含意は異なるだろうが、その姿はポスターなどで使われた口の周りを血まみれにしたサンを彷彿とさせる。
 宮崎監督はサンについて以下のように記している。
「少女は類似を探すなら縄文期のある種の土偶に似ていなくもない」(『もののけ姫』企画書)
 サンの入れ墨にも、土偶と同様に呪術的意味があると思われる。
 第三に、短刀や首飾りやイヤリングなどのアクセサリーである。
 短刀と首飾りは形状と色から判断して、狼族の牙や骨で作られていると思われる。縄文時代の遺跡からは、「骨角器」と呼ばれる鹿角や猪の骨を加工した鏃・銛・釣針などが多く発掘されている。
 アイヌは、「マキリ」と呼ばれた鉄の短刀であらゆる物を加工した。アイヌは、鹿角と獣骨に彫刻を施し、短刀の柄や鞘、装飾品を作り出している。また、イヌイットにも、セイウチの牙を加工する文化がある。
 イヤリングは金属か貝か石か牙製だろうが、大きな丸い形状は、古代の装飾品に多い。木菟型土偶にも、丸いイヤリングを付けたものがある。『蝦夷島奇観』などを見ると、アイヌにも白色に輝く丸い金属製イヤリングの風習があったらしい。
 祖先の牙や骨を身につけることには、サンにとって一族の力を借りるという霊的な意味もあるのだろう。槍や短刀の刃元に刻まれた赤いV字型文様も、顔の入れ墨と同じく呪術的意味があると思われる。
 靴は一枚皮で足を包んで紐でくくるようなものらしいが、アイヌにも魚の一枚皮を加工した靴をはく習慣があったと言う。
 他、ヘアバンドや腕輪、ノースリーブのシャツとワンピースらしき衣服(靭皮か)なども自分で作ったものと思われるが、どのようにして製作技術を学んだのか(あるいは盗品か)は不明である。
 これら装飾品の加工・製作技術や干肉などの食料加工技術は、育ての母であるモロの君が教えたものと思われる。人語を解する動物神であるモロは、人間の文化にも精通していたのであろうが、何故わざわざ人語を教え、人間的衣裳を身につけさせていたのか、多くの点に疑問は残る。
 森で獣に育てられたと言う実在の「狼少年」や「狼少女」は、一様に四本足で歩き生肉を喰らう獣そのものであったと伝えられるが、サンは通常二足で歩行し、四足は非常時だけと思われる。人間と拮抗するだけの独自の文化を身に付けているのだ。
 この点について、以下、強引な解釈を試みる。

● 生贄

 モロは「生贄」として捧げられ、人間に捨てられたサンを不憫に思いながらも、純粋な狼族としてではなく、人間として育てていたのではないか。いつか人間として暮らせる時が来たとしても、暮らしていけるだけの智恵を与えていたのではないか。あるいは、人間と徹底的に対決するためにも、人間文化を学ばせる必要を感じたのか。
 サンの衣裳・容姿に共通しているものは、縄文文化の呪術的性格である。モロは、室町時代の人間を憎みながらも、自然と共生していた縄文人を人間の模範と見立て、狼族とは違った教育をサンに施していたのではないか。たとえば、土面の風習は稲作文化の始まった弥生時代には途絶えている。
 なお、人間を生贄として森に捧げる風習は太古より世界各地にあった。いずれも暗い森のほとりに住む人々が畏れと信仰によって行ったものである。サンは、荒ぶる森の神々を鎮めるために、ほとりの村から捧げられたものと思われる。物語から十年〜十五年位前のことだろうか。この時期に何があったのだろう。
 エボシタタラの操業開始か。それとも大規模な鹿・猪・狼猟か。もし、人間が神々の攻撃を回避するために、自らの罪を改めずに生贄だけを贈ったとすれば、モロの人間への深い軽蔑の理由も分かるような気がする。つまり、「生贄を差し出すので破壊を認めろ」というエゴ丸出しの請願である。そこに、共存の発想は欠片もない。
 現代にも、これと構造的によく似た話がある。森と村をダムの底に沈め、地蔵や神社の御神体だけを移動させるのである。土地を殺して神だけ残す。突然移された場所に、都合よく同じ神が宿るだろうか。

● 乙事主と猪族―ニタとくまどり

 乙事主は鎮西(九州)猪族の総大将であり、人語を解する「猪神」である。タタラ神となったナゴの守も出雲の一族を率いた猪神であった。
 猪神の話は、「野猪」という名で『今昔物語集』にも登場する。人を呼び止めてからかった罪で殺されてしまう野猪の話、夜な夜な病死体を覆う青白い光を放つ野猪が退治されるの話(いずれも『巻第二十七』収録)などである。乙事主も青白い姿をしている。白子(アルビノ種)が神であるのは、モロの君同様よく伝えられるところである。
 一種の図鑑である『和名類聚抄』では、「毛郡類」の項目で、人を騙す高等順に「狐」「狢(正体不明の動物。狸という説もある。)」、そして「野猪」を挙げている。つまり、ナンバー3の位置を与えられているわけであるが、その正体は不明である。ちなみに、単なる猪(イノシシ)ははるか後の項目できちんと扱われている。
 猪は、体を冷やし、皮膚の虱を取るために、山中のたまり水に出没し、体をこすりつける。あるいは松の木などにも体をこすりつける。この習慣を「ニタ(またはヌタ)をウツ」と言い、作中でもきちんと描かれている。日本各地に残る「ニタ」「ムタ」などの地名の語源である。
 このニタは、「神の出現する場所」という含意があるとする説もある。沖縄の宮古島の島尻部落では、自然の貯水池を「ニッダァ(ニッジャ)」と呼び、神界への入口と見なしている。祭りの時には、仮面を被った男がここで泥を塗って部落に下りて来て祝福を与えるという儀式がある。
 作中の猪たちは、出陣前に盛んにニタをうち、互いの体に泥で円を描く「くまどり」を行っていた。この儀式には、お清めや神がかりの意味があったと考えられる。
 「隈」とは、歌舞伎役者が顔(目の周囲や顎など)に施す特殊な化粧を指す。これも仮面と同様、凡庸な人間からの変身を意味するものである。
 また、作中では猪の無謀な特攻が描かれるが、実際「猪突猛進」の語意通り、追いつめられた猪の反撃はすさまじいものだそうである。手負いの猪の攻撃を受け、絶命した狩人も多く、「崖っ淵まで追われて、ついに谷底に落とされた」という伝承も多く伝わっている。
 乙事主の故郷である九州には猪を祭る神社が多い。大分県大野郡の熊野神社の元宮には、大量の猪の下顎骨(「カマゲタ」と言う)が祭られている。宮崎県西宮市のの銀鏡神社では、今でも猪の頭を供えて祭りを行う。
 猪は山の神であるとの伝説もある。ヤマトタケルは、伊吹山の神様を退治しようとしている際に、巨大な白猪に会った。猪は氷雨を降らせてヤマトタケルを悩ませ、ついには死に至らしめる。白猪は地域全体の神であったのだ。乙事主は、この伝説に現れたような存在であったのかも知れない。
 なお、巨猪伝説としては、北設楽郡古戸の山で実際に三五〇キロ近い巨猪が狩られた―という伝説もあるそうだ。まさに、作品顔負けの巨猪である。あの時代、本当に「獣は大きかった」のかも知れない。

● 猩々

 「猩々」と書いて「しょうじょう」と読む。大形の類人猿であるオラン・ウータンの俗称を指すと言う。だが、本来の意味は、古代中国に伝わる伝説の怪物で、猿の一種とされる。『広辞苑(岩波書店)』には、「人に似て体は狗の如く、声は小児の如く、毛長く、その毛色は朱紅色で、面貌は人に類し、よく人語を解し、酒を好む」とある。
 日本にも『猩々』という演題の能がある。内容は酒に浮かれた猩々が舞を舞うというもの。猩々の役者は、赤い能面をつけて演じる。原型となった猩猩の伝説が古くからあったと思われる。
 また、赤褐色は猩猩の血で染めた色と言われ、「猩々緋」と呼ばれた。赤褐色の葉や花を持つ「猩々木」「猩々草」、鮮血色の美しい「猩々蝦」などの派生語がある。更に、酒や甘味に群がる習性のある蝿は「猩々蝿」と名付けられ、酒豪の人を赤ら顔にたとえて「猩々」と呼ぶ風習もある。
 このように、猩猩は日本人の生活文化に深く根を降ろしている。その関連語彙は、同じく古くから親しまれた「河童」以上かも知れない。よほど身近にいたと信じられていたのか、あるいは過去に大形猿人か何かの怪物が実在していたのかも知れない。
 作中の猩々は、群を成して闇に出没する。両眼は赤いが、体は黒々としている。まるで、亡者か餓鬼のような描かれ方で、神の一族としての誇りは感じられない。これは、宮崎監督独特の猩々像と言えそうだ。
 ところで、エボシ御前の小袖はまさに猩々の血を思わせる「猩々緋」で染め抜かれており、「穢れを払う」象徴と言われた「扇子」が染め抜かれている。扇子の黄色は、チベットのラマ信教の衣裳「黄衣」にあるように、「神の色」であったとも言う。これは単なる偶然なのであろうか。

● コダマ

 コダマは、「木霊」「木玉」などと表記し、樹木に宿る精霊のことを指す。いわゆる「山彦」のことではない。山彦はコダマの成せる技のほんの一つでしかないと言う。
 鎌倉期に編まれた『天地麗気記』によれば、山の神の群族として「木玉神」「応音神」がいると言う。これらは、「天の声」を発する類の神であり、時には人を死に至らしめるとも言う。
 『今昔物語』の中に、次のような話がある。ある舎人が山中で独りで歌を詠んだところ、「面白い」という声が聞こえた。恐ろしくなって戻ったが、うなされて死んでしまったと言う。
 八丈島や青ヶ島には、森の伐採の際に、コダマの宿る樹を伐るとタタリがあるという伝承が多くある。伐採の際には必ず一本残し、コダマサマを祀り供養をすると言う。
 作中のコダマも木々の精霊と思われる。木々の数だけ増え続け、木々の死と共に死に続ける。可愛らしく滑稽なその姿は、何故か人の子供のような形である。木々が人間にさり気なく訴えるべく現れた姿なのか、あるいは人の眼を通すとこんな形に見えてしまうのか。
 いずれにしても、宮崎監督が「木々の一本一本に生命が宿っていることの重さ」をヴィジュアル化する試みであったと思われる。それは、ラストショットに明かなように、作品のテーマに深く通じる設定である。

● サカキの木と「あの世」の島

 死にかけたアシタカをサンが連れて行った場所、それは森の深部にある不思議な中州(島)であった。サンは、サカキの小枝を折ってアシタカの頭の前に刺した。それが墓標の意味なのか、シシ神への何かの符号なのかは不明である。そこは生と死の境目の島であり、シシ神が現れる場所であった。シシ神はここでディダラボウへ変化するのである。いわば、森の心臓部である。夜は月明かりが射し、昼は陽光が射す。静かで穏やかで、この世とは思えない場所である。
 中州は、水(神界)と地(俗世)のせめぎあう土地として神聖視されていた。中世に中州で市を開いた職人たちが多かったのもこのためと言われる。『古事記』のイザナギ・イザナミ神話でも、一面の泥海を矛でかき回して出来た中州島(オノゴロ島)に降り立って結婚したとある。天と地を結ぶ場所、生と死を司る場所の典型と解釈すべきではないか。
 サカキは、「榊」「賢木」の字に明かなように「神」の宿る「木」と言われている。神社の境内などによく植えられる常緑樹である。太古より祝い事や神事に欠かせない樹であり、僧侶や巫女はサカキを両手に持って呪術的儀礼を行っていた。現在も、シメナワと共によく用いられる神具である。 
 また、サカキを枕元に敷いて寝ると吉夢を見るとも言う。サンは、アシタカが苦痛なく天界へ旅立つことが出来るよう、サカキを頭の上に刺したのではないか。
 ところで、作品の舞台となった室町時代には、次のような不思議な絵が描かれている。
 それは、神鏡に映る十一面観音と鹿を描いた『春日鹿曼陀羅』という絵である。この絵では、鹿の背にかけられた鞍に、神鏡を支える神木が立てられている。それがサカキなのである。観音→サカキ→鹿という構図は、室町時代に鹿を神仏の使いとする信仰があったことを示すと言われている。

● 鹿信仰

 物語の鍵を握る幻の神・シシ神は、漢字で「鹿神」と書く。その名通り身体は鹿だが、頭は人に見えることもある。その形状は諸星大二郎の描いた漫画『孔子暗黒伝」に登場した「開明獣」を彷彿とさせる。(宮崎監督は同作品の熱心なファンであった。)物語では、その血に不老不死の魔力があると伝えられる鹿神だが、この設定にも史実の影を感じる。
 中世の僧侶の旅支度には鹿衣と鹿杖(鹿角の付いた杖)は欠かせないものであった。『梁塵秘抄』にも「聖の好む物、木の節・鹿角・鹿の皮」とはっきり記されている。これには仏教的な理由がある。一つは、釈迦が入山した際にまとっていたのが鹿皮と鹿杖だった。もう一つは、空也上人(九〇三〜九七二)の話である。上人が修行中に親しんだ鹿が漁師に殺されたことから、あわれみに角と皮をもらい受けて身につけた。このことから、浄土教の流れを組む一遍上人(一二三九〜八九)など時宗一派に鹿杖・鹿皮のスタイルが流行したと言う。
 鹿は実際に神として祭られてもいた。筑前の志賀島は、古くは「鹿島」と表記された島で、志賀海神社には一万本の鹿角が祭られている。鹿は群をなして海を渡る動物と言われ、海人との関係が深いとも言う。東北には前述の「鹿踊」の風習がある。日光では、今も狩猟の際に鹿の頭に祈りをさざける風習がある。
 鹿の美しい皮としなやかな肢体は、古来より狩人たちの格好の的とされ、徹底的に狩られて来た。中世に於いて「狩」とは、「鹿狩り」のみを指す用語だったと言う。また、狩人たちが鹿を祭るのは供養の意味もあったと言う。潤んだ大きな瞳に、死に行く獣の哀れみを感じた為か。
 なお、司馬遷の『史記』に『秦其ノ鹿ヲ失ヒ天下共ニ之ヲ遂フ』とあり、これに由来する「鹿を遂う(互いに政治権力を得ようと競争する)」という故事もある。『もののけ姫』の物語はまさに「鹿を遂う」話である。

● シシ神―生死を司る神秘の自然

 作中のシシ神は、生命の授与と奪取を行い、新月に生まれ、月の満ち欠けと共に誕生と死を繰り返すと言う。
 月の満ち欠けが生物の生死に関わるという説は多い。海に棲む魚類や甲殻類には、満月を選んで産卵する種族が多い。
 人間の場合も、潮の満ち欠けと同じように、体内の水圧・血圧が高まると言う説がある。月の引力が高まる満月・新月には、出産率や死亡率、さらには事故率・犯罪率まで高まると言うのだ。満月になると変身する「狼男」の話なども、月の引力が体内を変化させる性質に注目したフィクションではないか、とする説もある。
 シシ神の存在は、月と連動する生死の神秘と関わるものかも知れない。
 また、カモシカのように大きいシシ神の角は、樹木で出来ていると言う。角に魔力があるという信仰は多いが、森の神として樹木を頂いているのか。また、生物の頭には力が宿るという信仰は多いが、頭部が人間に見える(変化する)のもこの為か。
 シシ神は、何とも解釈しがたい不思議な表情をしている。
 宮崎監督は、かつて映画『ネバーエンディング・ストーリー』(一九八四年西ドイツ/ウォルフガング・ペーターゼン監督)の龍や亀の擬人化された顔形を嫌い、作者の自然崇拝の貧困さが透けて見えるとして痛烈に批判していた。
「何を考えているかわからない方が、自分たちにとってはるかに憧れの対象になるんです。要するに、人間が擬人化して、感情移入しやすいものにすればするほど、つまらなくなるのですね。」「簡単には理解できない存在、力みたいなものへの憧れが、どうも初めからある。」「そういう自然観を自分たちが持っている。」(「季刊iichiko」No,33号掲載/対談『メタファーとしての地球環境』)
 シシ神の表情は、人間には解せない自然の摂理や真理とでも言うべきものを内包しているからと解釈すべきだろう。それは、人間感情を自然に対しても押し付ける擬人化を嫌い、自然は人間の理解を超えた存在と考える監督の自然観が生み出したものであった。

● ディダラボッチ―唐草模様で覆われた夜の闇

 シシ神の夜の姿であるディダラボッチは、世界各地に伝わる巨人伝説を彷彿とさせる。天を覆う不気味な巨人は、まさに夜そのものである。
 直接的には、関東一円に伝わるダイダラボッチ伝説に語源を求めることが出来る。ダイダラボッチは手足足長の巨人で、深夜に出没して橋や建物を動かすと言われている。東京都世田谷区ではダイダラボッチがかけたと言われる橋があり、地名もこれに由来して「代田」と名付けられている。
 ダイダラ伝説の中には、頭を奪われて凶暴化したダイダラが土地を荒らすという、作品そっくりの内容もあると言う。
 沖縄本島には、アマンチュウ(天人)が岩に踏ん張って天を押し上げ、空を高くしたという巨人による創世神話が伝えられている。
 作中のディダラボッチは、宵闇に広がり天を覆う。灯の少なかった時代(室町時代にはエゴマ油によるランプ程度はあった)には、夜は神々の独占する時間であったのではないか。照葉樹林から発生して、果てしなく広がる巨大な暗闇。それは、畏怖すべき悠久の自然の猛威と人間の矮小さを痛感させる。
 また、全身半透明のディダラは「唐草文様」らしき斑紋で覆われている。唐草文様は、植物の花や葉の形を蔓状のリズミカルな曲線で繋いだものである。古代エジプトを発祥地として、ギリシャで完成されたと言われ、中国・朝鮮を経て日本に伝えられたのは古墳時代ではないかとされている。
 唐草文様は、世界各地にヴァリエーションを持つ。中でも「波状唐草」は、山と谷を表す記号(等高線のようなものか)であったと言う。作中のディダラの文様ははっきりとは分からないが、唐草であれば、山の神の紋章という意味ではないか。

参考文献
『妖怪談義』柳田國男・著(講談社学術文庫)
『猪・鹿・狸』早川孝太郎・著(講談社学術文庫)
『神・人間・動物−伝承を生きる世界−』谷川健一・著(講談社学術文庫)『現代民話考10/狼・山犬 猫』松谷みよ子・著(立風書房)
『日本の伝説/全十八巻』日本伝説拾遺会・編(教育図書出版/山田書院)
『神話伝説辞典』(東京堂出版)
『暮らしの中の妖怪たち』岩井宏實・著(文化出版局)
『別冊太陽/日本の神』山折哲雄・監修(平凡社)
『新版・魏志倭人伝』山尾幸久・著(講談社現代新書)
『土偶の知識』江坂輝彌・校訂/小野美代子・著(東京美術)
『縄文文明の発見/驚異の三内丸山遺跡』梅原猛・安田喜憲・編著(PHP研究所)
『日本の文様9/唐草』(光琳出版)
『広辞苑/第二版補訂版』新村出・編(岩波書店)


7, 森の再生

 一度死滅した森が再生するラストシーンは圧巻であるが、これには様々な意味が込められていると考えられる。

● 「死体化生型神話」としてのラストシーン

 ラストシーンで、エボシ御前に首を狩られたシシ神=ディダラボウは、バラバラになって、山を焼き払いながら襲いかかる。その後、サンとアシタカの活躍によって首を取り戻したディダラは、朝陽を浴びて倒れ、再びバラバラになって消滅してしまう。ところが、このバラバラになって降り注いだ塊から方々に緑が芽吹き、森は再生し、タタラ場も緑で覆われる。
 実はこのラストシーンは、日本神話に共通する内容を多く含んでいる。それは、「神を殺して、バラバラに埋めた場所に緑が生まれる」という図式である。これは各地に伝わる「死体化生型神話」に通じるものがある。
 『古事記』(七一二年完成)には、次のような話が記されている。 
「下界に下ったスサノオはオオゲツヒメに食べ物を所望した。ところが、オオゲツヒメは、鼻や口や尻から食物を出して饗宴したので、スサノオは怒ってヒメを殺してしまった。すると、ヒメの死体の頭に蚕、両目に稲、両耳に粟、鼻に小豆、陰部に麦、尻に大豆が生じた。そこでカミムスビノカミがこれを取って種にした」
 また『日本書紀』第五段には、次のような話が記されている。
「アマテラスの命で弟のツクヨミが下界のウケモチノカミを見に行った。ウケモチノカミは口から御馳走を吐き出してもてなそうとした。しかし、ツクヨミは、けがらわしいと言って斬り殺してしまう。そのウケモチノカミの死体の頭からは牛・馬、額に粟、眉の上に蚕、眼に稗、腹に稲、陰部に麦と大豆・小豆が生じた(一書十一)」
「イザナミが火神カクヅチを生み、産道に大火傷を負って死ぬ。カクズチはハニヤヒメと夫婦になり、ワカムスビを産む。ワカムスビの頭の上に蚕と桑が生え、臍の中に五穀が生まれた。(一書二)」
 いずれも、女神の死後(ワカムスビの場合は不明)、死体からバラバラに作物が生じる展開であり、作物起源神話と言われている。山姥伝説や、瓜子姫とアマノジャクの昔話にも、良く似た類型を探すことが出来る。
 これらの神話や昔話は、世界各地の神話に類型を見い出すことが出来る。中でも、東部インドネシアに伝わる「ハイヌヴェレ型」神話は、最も古いものではないかと言う。これを発生源として神話が各地に伝播した可能性も高い。こちらの話では、民衆に殺された女神=ハイヌヴェレが、夫によってバラバラにされて埋められ、そこから作物が発生したとされている。
 ところで、縄文時代に、土偶をバラバラに砕いて埋めるという風習があったことはよく知られているが、これは最初から壊しやすいような工法  (「分割塊製作法」と言う)で巧妙に作られていたと言う。しかも、土偶のほとんどは妊娠状態にある女性を形どったものである。このことから、女神をバラバラにして埋めて豊作を祈る儀式であった可能性を指摘する説がある。それは、「縄文時代にすでに農耕文明があった」という大仮説を裏付ける有力な証拠でもある。
 一方、作物だけでなく、イザナミが死の間際に苦しんだ際の嘔吐からは金属の神カナヤマヒコとカナヤマビメが生まれたとも言われる。さらに、イザナギによって殺されたカクヅチもバラバラにされ、それぞれが山の神や水の神になったと言う。古来より、神の惨殺―バラバラ死体と農耕・産業の発生は一体と考えられていたのだろうか。
 本作では、累々たる神々の死とバラバラ遺体が人間の明るい展望に繋がるというラストが描かれる。これは、どうにも幾多の神話と重なって見えて仕方がない。

● 照葉樹林文化としてのラストシーン

 前述のように、実際のタタラ製鉄民は、山を伐りっぱなしではなく、樹を植えて、資源再生も行っていた。人工的に管理された里山でタタラ場を囲み、防災と食料自給も行っていた。それは、伐ったら砂漠化してしまうことのない照葉樹林帯なればこそ可能なリサイクル型の産業であった。
 映画の後、エボシタタラの人々は樹々と共存し、タタラ場の中にも樹を植えたのではないか。―と言うより、シシ神より与えられた木々を大切に育てたと言うべきか。いずれにしても、シシ神によって「有限なる資源のリサイクル」という環境学的観点を与えられたと考えられる。シシ神をめぐる戦禍の教訓によって、鉄製民(人間)は産業と環境との共存を学んだのである。
 これを、もう少し構造的に分析してみたい。

 暴走するディダラによって焼かれた山々は、「焼畑」を彷彿とさせる。古来より照葉樹林帯では、木々を伐採して乾燥させた後に火を放ち、焦土を開墾せずに畑にする焼畑農業が行われて来た。それは、最も原始的な畑作農業の形態である。
 しかし、この作業はいきなり焼き払うのではなく、事前に神々の土地を侵すことに許しを請う儀式が不可欠であった。人は森の神々に気を使う下宿人であり、主人ではなかった。そして、人が畑作を止めて移住してしまえば、また森は復活出来たのだ。
 首を捕られたシシ神は、森の守護神としての力と権威を失い、人々に森をあけ渡すことを余儀なくされた。そして、このことが山々が焼けただれる=焼畑による開墾に直結する。大規模で徹底的な焼畑は、生態系のバランスを崩し、土地の保水力も奪うことから、自然災害が多発し、人は自業自得の苦しみを味わうことになる。これが首を失って凶暴化したディダラの姿に相応する。
 しかし、シシ神の首を返還することによって、神としての権威は復活する。ただし、シシ神は朝陽を浴びたために実体を失い、バラバラになった姿で地下に浸透することになった。至る所で森は復活するが、人々の家屋を押し潰し破壊するまでに木々が茂ることはなかったようだ。
 これは、森との共存=資源のリサイクルを自覚した人間たちが、自覚的な環境保全を行ったことを意味しているのではないか。ただ、暗い闇を含んだ原生森(シシ神=ディダラ)は一度征服(斬首)され、隅々にまで文明の光(つまり朝陽)があてられてしまったために、神々の威光は失われてしまった。人間の心からの畏怖・自然信仰はなくなってしまった。これがサンの語る「シシ神様は死んでしまった」の意味である。
 しかし、アシタカは語る。「シシ神は死なない。生と死そのものだから。」
と。つまり、シシ神への畏怖=森との共存は人の生死に直結していると言うことである。一度実体を殺してしまった神を、自らの心に再生出来なければ、再び森は壊滅してしまうだろう。その時、自然は凶暴化し、資源も枯渇して人心も荒れすさび、文明は滅びてしまうのである。重要なことは、自然と真剣に共生するという観点と、人間の欲望のコントロールである。
 アシタカの言葉は、司馬遼太郎氏が生前何度も語った、「人間として最も大切なものは礼節である」という思想を代弁したものではないだろうか。

● コダマはなぜ一人しか復活しなかったのか

 『もののけ姫』の絵コンテ(現時点では作品は完成していない)は、破壊の爪痕著しい森の最深部にただ一人たたずむコダマのショトで終わっている。一見、これは明るい未来を描いた希望的終息と感じることも出来る。しかし、これは本当にハッピーエンドだろうか。
 このショットは、映画『風の谷のナウシカ』のラストショットを彷彿とさせる。それは、「青き清浄の地」にチコの芽が吹いていたショットである。これを見たC・W・ニコル氏が感激して「あそこに開拓団を送り込むのか」と宮崎監督に語り、監督が失望したというエピソードは有名である。
(対談『メタファーとしての地球環境』)
 監督の意図がそれほど単純でなかったことは、漫画版を読めば誰でも分かることである。監督は、自然搾取を場所を変えて行うだけの開拓を嫌い、人間の手の届かない場所での原生林の復活を願っていたのではないか。『もののけ姫』もまた、単純に森林復活でコダマも再生したという人間中心主義の希望を描いたラストとは思えない。
 このショットをよく考えてみると、森は再生しても深部は再生せず、樹の精霊たるコダマはほとんど再生しなかったことになる。このコダマがかつての生き残りなのか、新生児なのかも不明である。コダマが一人もいない森とは、神のいない明るい森、人間の作り上げた森である。
 つまり、このラストショットは、原生林と里山の境目を描いた苦い結末と解釈すべきではないか。逆に言えば、わずかながらも原生林の生命力が残されているという光明を描いているとも言える。たった一人のコダマが今後増えるのか、あるいは絶滅してしまうのか、コダマ族の命運は人間の行い次第という含意があるのではないか。
 それは、糸井重里氏が考案した『となりのトトロ』のキャッチコピーを「このヘンないきものは、もう日本にはいないのです。たぶん。」から、「このヘンないきものは、まだ日本にいるのです。たぶん。」に変更することを要請した宮崎監督らしい複雑な願望と言える。それをどうとらえるかは観客次第である。

参考文献
『神話の考古学』吉田敦彦・著(福武書店)
『昔話の考古学−山姥と縄文の女神−』早川孝太郎・著(中公新書)
『あの世と日本人』梅原猛・著(NHKブックス)
『照葉樹林文化の道/ブータン・南雲から日本へ』佐々木高明・著(NHKブックス)
『時代の風音』堀田善衞・司馬遼太郎・宮崎駿・著(朝日文芸文庫/UPU)
『出発点[1979〜1996]』宮崎駿・著(徳間書店)


8, 「生きろ」の意味

 以上見て来たように、『もののけ姫』のラストは、「万能のシシ神の力で何でも叶った」という安易な描写でもなければ、人間中心主義のハッピーエンドでもない。作品で描かれた事件は、一筋の光明を描いて終わっているが、史実は楽観を許さない。では、物語の完結の後、どのような事態が展開したのであろうか。また、物語の前と後では何が変わったのであろうか。

● 物語の後の物語

 エボシ御前は、天朝様との約束(タタラ場の自治権存続と交換にシシ神の首を献上することであったと思われる)を果たせず、師匠連から送り込まれた監視役である唐傘連とも対立状態となった。アサノ公方の差し向けた地侍たちも大量に殺してしまったのであるから、侍との戦闘状態も継続するのではないか。エボシ御前がタタラ場を存続させるためには、天朝・侍双方を敵とした孤立無援の闘い、乃至は高度の政治的駆け引きが問われることになるであろう。いずれにせよ、森と共存するタタラ場の存続は困難を極めるに違いない。だからこそ、アシタカはこの地に残る決心をしたのではないか。
 しかし、史実を見るならば、室町時代中期以降にシシ神の教訓が生かされた形跡はない。製鉄産業=森林破壊は更に進み、武器は粗製濫造されるに至る。武器が幾らあっても足りない戦国時代に突入してしまうのだ。遍歴民の地位は落ち、百姓一揆も一層頻発するようになる。エボシタタラとシシ神の森を維持するための闘いは、一層厳しいものとなったであろう。

● 金屋子神の思想

 物語では描かれていないが、実際のタタラ製鉄の場所には必ず祀られていた神があった。その名を「金屋子神」と言い、何故か日本神話には登場しない神である。各地に微妙に異なる金屋子神の昔話が伝えられている。
 金屋子神は、播磨から出雲に赴いた製鉄の神で、自ら初代の村下となって働いたと言われる。(村下を随行していたとする話もある。)その素性が面白い。カナヤマヒコ(金属神)と、山神・海神を父母に持つ人間の娘との間に生まれた子供だというのだ。これは、タタラ製鉄は山=樹木と海=水との共存・調和があって初めて栄えるという示唆を含んでいるのであろう。
 これとは別に、カナヤマコヒとカナヤマヒメの子供であるとする伝承もある。金屋子神の両脇には杉の大木が植えられているが、これが親子三神を意味するとのことである。
 また、金屋子神は女性だったと伝えられている。しかも、犬(土地によっては四つ目の犬)に追われて、その土地に倒れ込んだというのだ。山犬に片腕を取られ、タタラ場に生還したエボシ御前そっくりの話である。
 さらに、中国にも良く似た女神の話がある。『広東新語』には広東地方の製鉄の祖として「湧鉄夫人」という守護神の話が書かれているという。それには「炉将に傷めば、すべからく白犬の血をもって炉に灌げばすなわち無事をうるべし。(中略)その神は女子。(中略)その夫官鉄の逋欠するを以て是において身を炉中に投ず。以て鉄多く出る。」とある。ここでは何と、白犬の血(生贄か)で修復された炉に、自ら投身自殺をすることで鉄が湧いたと言うのである。これも、作中のモロの死や片腕を失うエボシ(宮崎監督によれば、「壮烈な死」という腹案もあったと言う)の話と不思議なほど対応する。
 中国でも日本でも、製鉄の神がなぜ女神なのか、製鉄を妨げる者がなぜ犬なのかは分からない。神聖なる技が母神信仰とつながったのか、森を伐る自然破壊の後めたさが犬神殺しとなったのか。これらの含意は、作中の構造と通じる部分が不思議なほど多い。
 ともあれ、差し迫る乱世にあって、エボシタタラの人々に問われたのは、この「金屋子神」の思想であったのではないか。あるいは、エボシ御前とサンをめぐる寓話が後世に語り伝えられて、「金屋子神」信仰となった―などと考えてみたくもなる。
 近世に出雲最大のタタラを有していた菅谷地区の金屋子神は、今も大きな岩の下に祀られている。その岩をタタラ場の人々は愛着を込めて次のように呼んでいたと言う。「烏帽子岩」と。

● 絶望の一歩手前の希望

 宮崎監督は、「失われた可能性」というモチーフを反復して使っている。
 『風の谷のナウシカ』は、腐海に埋没する直前の村々や戦場が舞台であった。『天空の城ラピュタ』は、失われた文明の末裔の物語であった。冒頭の舞台は失業者であふれる直前の炭坑の町で、軍隊が台頭する直前のキナ臭さも描かれていた。『となりのトトロ』は、高度経済成長から列島改造論へ至る直前の日本の農村風景が舞台であった。『紅の豚』では、世界恐慌からファシズム台頭に至る過程のイタリアが舞台であった。また、デビュー作である漫画『砂漠の民』に於いても、後にモンゴル帝国によって絶滅させられた架空の騎馬民族の前史を描いていた。
 並べて見ると、いずれも絶望的に環境が改編される一歩手前の舞台背景を選んでいることが分かる。これは趣味の連載漫画などでも、第二次世界大戦末期のドイツや日本の兵器にまつわる物語を多く描いていることからも分かる。そして、いずれも「このような人物たちがいれば、万に一つは絶望が回避されたかも知れない」と思わせるような、快活で聡明な人物たちの物語を作り上げて来たのである。
 もちろん、史実の壁は厚く、数人の英雄的活躍などで絶望的状況は回避されたりはしない。しかし、こんな人物たちがいたら、そして絶望の一手前で大変な冒険を経験していたならば、最悪の状況でも逞しく生き抜いていけるのではないか。そうすれば、歴史はもう少しマシになっていたかも知れない。それは、「失われた可能性」の発掘作業としての作品作りと言うべきではないか。宮崎監督は、以前以下のように記している。
「人間は生まれ落ちたときに、“可能性”を失っているのである。過去と未来に人類の歴史がある中で、一九七八年に生まれた瞬間、あらゆる時代に生まれてくる可能性をその可能性をその人は失ってしまったわけだ。そこで、空想の世界で人は遊ぶ。これは、一種の失われた世界への憧れであり、アニメをつくる原動力になっているといえよう。」(『月刊絵本別冊アニメーション』一九七九年三月号掲載『失われた世界への郷愁』)
 『もののけ姫』の場合、これまで見て来たように「失われた可能性」の発掘作業が細部の設定に至るまで驚異的なほど徹底している。照葉樹林、蝦夷、室町時代の女性職人、タタラ製鉄、石火矢、森の神々―。これらは、単なるお伽噺ではない。これらは、人間中心の近代文明の発展の中で失われてしまった「もう一つの日本」であり、学ぶべき多くの教訓を含んでいるのだ。
 壮大なスケールで「失われた日本」を描き、そこに現代に通じる「自然と人間の関わり」という普遍的テーマを貫くこと、宮崎監督の「決着」の一つはここにあったのではないか。そこには、経済的・政治的閉塞状況下で、最悪の二十一世紀を迎えようとしている現代世界に対する強烈なメタファーが込められている。同時に、現在を「失われた過去」にしないために、作中の人物たちのように絶望的環境であっても積極的に可能性を模索して生きなければならない―というメッセージが込められているのだ。
 これが世界の観客に向けられたキャッチコピー、「生きろ」の意味だったのではないか。

●実在の人物たちへの尊敬

 「失われた可能性」というキーワードからは、宮崎監督が尊敬する以下の実在の人物たちを想起することも出来る。
 まず、優秀な飛行機乗りで作家のサン=テグシュペリ(一九〇〇〜四四)である。ファンタジックな児童文学『星の王子さま』や、飛行士の体験を基に綴った『人間の土地』『夜間飛行』などの著作で有名な彼は、対ナチスのフランス解放戦争に従軍し、地中海上で行方不明となっている。
 次に、対ナチス戦争で英国軍戦闘機乗りとして活躍し、後にアメリカで作家になったロアルド・ダール(一九一六〜九〇)。アフリカの石油売りだったダールは、突然志願して飛行機乗りとなり、わずかな訓練でナチス機を迎撃した天才であった。その行動には迷いがなく、豪快で自己完結的であった。作家としては、宮崎監督が傾倒した『飛行士たちの話』『単独飛行』など初期の自伝的小説の他、人形アニメーション映画『ジャイアント・ピーチ』(一九九五年アメリカ/ヘンリー・セリック監督)の原作として有名な『おばけ桃の冒険』などの児童文学がある。『単独飛行』に登場する複葉機「タイガー・モス」は、後に『天空の城ラピュタ』に登場する海賊船の名前にもなっている。
 そして、国内で最も尊敬していた作家に堀田善衞氏(一九一八〜)と司馬遼太郎氏(一九二三〜九六)がいる。
 堀田氏は、戦中・戦後を通じて独自の観点から日本の軍国主義を批判し、ヨーロッパ文明や日本中世などを俯瞰された人物である。監督は、当初堀田氏の著書『方丈記私記』を下敷きとした平安末期の時代劇を構想していた。
 『方丈記』の著者鴨長明(一一五三〜一二一六)の生きた平安末期は、遷都後の政治混乱に飢饉・大地震・火災などが重なり、荒廃の一途であった。長明は、世を捨てて隠遁したが、乱世の観察と原因探求を怠らないことで社会批判の姿勢を示した特異な人物である。堀田氏は、『方丈記』の世界と第二次大戦末期から敗戦に至る日本社会の混乱を重ね合わせ見たのである。
 監督の構想が実現しなかった背景には、鴨長明の生きた死屍累々たる混沌の時代が、余りにオウム真理教事件や阪神大震災の世情とダブって見えたため敬遠したと思われる節がある。(前述『週刊朝日』掲載・司馬氏との対談)
 司馬氏は、二十二歳で敗戦を迎えて日本に失望したことを原点として、尊敬すべき日本人像を求めて歴史小説の作家になったと言う。小説を断筆した末期に書いたエッセイ『この国のかたち』や対談・紀行集は、自己批判と一体の現代社会批判の意味があったのではないかとも言われている。司馬氏が小説に託して変革を望んだ日本人像とは、遠くかけ離れてしまった社会に対して、庶民の歴史と風俗という観点からアンチテーゼを発し続けていたのである。なお『この国のかたち』の最終巻には、司馬氏がこだわり続けた鉄についての考察が収録されている。
 また、考古学の分野では藤森栄一氏(一九一一〜七三)の影響を受けたと言う。藤森氏は、独自の山岳フィールド・ワークの成果に基づき、「縄文中期の信州・八ヶ岳に農耕文化圏があった」という仮説を立て、学会の猛反発に合いながらも生涯筋を曲げずに通した気骨漢であった。同時に、優れたエッセイストでもあった。近年、青森県の三内丸山遺跡など大規模な縄文遺跡が次々と発掘され、縄文時代農耕起源説が再考されている今日、藤森氏の学説は再び大きな注目を集めている。
 これらの人々は、物を見極める理知的視線とドン・キホーテ的痛快さを併せ持ち、時代の大勢に切り込んでいった人々ではなかったか。また、国家のイデオロギーや民族主義に振り回されることなく、独自の価値観を貫いて来た人々でもあった。それは「失われた可能性」に対する抵抗や自己主張であったと呼んでもいいのではないか。
 宮崎監督の作品に登場する気持ちのいい人物たちには、この実在の人物たちに対する尊敬が脈打っているのではないか。「どう生きるべきか」という処方箋は、独り勝手な瞑想にふけって生まれるのではなく、必死に生きた人々を手本に必死に習わなければならない実践的問題でもあるのだ。

参考資料
『別冊太陽/日本の神』山折哲雄・監修(平凡社)
『鉄の文明史』窪田蔵郎・著(雄山閣)
『鉄の民俗史』窪田蔵郎・著(雄山閣)
『日本古代文明の探求/鉄』森浩一・編(社会思想社)
『和鋼風土記/出雲のたたら師』山内登貴夫・著(角川選書)
『人間の土地』サン=テグシュペリ・著(新潮文庫)
『飛行士たちの話』ロアルド・ダール・著(早川文庫)
『あなたに似た人』ロアルド・ダール・著(早川文庫)
『方丈記私記』堀田善衞・著(ちくま文庫)
『方丈記』鴨長明・著(岩波文庫)
『対談集/日本人への遺言』司馬遼太郎・著(朝日新聞社)
『かもしかみち』藤森栄一・著(学生社)
『時代の風音』堀田善衞・司馬遼太郎・宮崎駿・著(朝日文芸文庫/UPU)
『出発点[1979〜1996]』宮崎駿・著(徳間書店)


9, 思想の物語

 『もののけ姫』が「人間と自然」をテーマとして扱った物語であることは一目瞭然である。人間も自然も心優しい存在でなく、自らの生を賭けて凶暴な破壊と殺戮を繰り返す。憎悪は最後まで残り、破壊の爪痕も消えることはない。一見明るくも苦々しい結末には、宮崎監督の現代社会を生きるための思想が滲み出ている。
 これまで述べて来たように、『もののけ姫』の各シーンには多くの学説や神話の要素が凝縮されている。本論で挙げたものの中には宮崎監督が意識していないものもあったかも知れないが、それは同じ人間の営みの中で生まれた物語というアバウトな共通性でご勘弁願うことにしたい。
 本論の最後に、作品の背骨を形成している宮崎監督の思想を追ってみたい。

● ギルガメシュの物語

 『もののけ姫』の物語全体の大枠を思わせる物語がある。それは五千年以上前に書かれた人類最古の叙事詩『ギルガメシュ』である。
 かつて人類最初の文明が発生した地、メソポタミアには巨大なレバノンスギの原生林があった。シュメールの神エンルリに命じられた半身半獣の森の神フンババは、数千年もの間、人間たちから神々の森を護って来た。
 ところがある日、ウルクの王ギルガメシュは「人間は今まで、長い間自然の奴隷であった。この自然の奴隷の状態から人間を解放しなければならない。」と決意し、エンキムドゥと共にフンババ退治に出かけたのである。
 森は余りに美しく、ギルガメシュは一瞬たじろぐが決意を新たに森を伐る。怒ったフンババは凶暴化し、嵐のような唸り声をあげて、口から炎を吐いて襲いかかる。ところが、ギルガメシュとエンキムドゥはひるまず立ち向かい、ついにフンババは首を刈られて殺されてしまう。それを可能にした最強の武器こそ青銅の斧であった。人類は金属器の開発によって、ついに森を征服したのだ。
 しかし、フンババ殺しの天罰を受けてエンキムドゥは殺されてしまう。ギルガメシュは、あの世に旅立ちエンキムドゥを連れ戻そうとするが失敗する。不死の薬を入手することも出来ず、失意の末にウルクにたどり着いたギルガメシュは次の言葉を残して息絶える。
 「私は人間の幸福のために、いかなるものを犠牲にしても構わないと思っていた。フンババの神と共に、無数の生きものの生命を奪ってしまった。やがて森はなくなり、地上には人間と人間によって飼育された動植物だけしか残らなくなる。それは荒涼たる世界だ。人間の滅びに通じる道だ。」
 神を殺して最高の権力を手にした者にも手に入らなかったもの、それは生死を司る自然の摂理であり、支配でなく共生の価値観であった。アシタカの言葉「シシ神は生と死そのものだ」が頭をよぎる。
 宮崎監督の意図かどうかは分からないが、『ギルガメシュ』には『もののけ姫』に深く通じるテーマを感じる。同時に、五千年の時を経ても人間の抱える矛盾が少しも解決されていないことを思うと暗澹たる気分になる。
 ギルガメシュに相当するエボシ御前は、部下でなく片腕を失い、失意の底で死ぬことなく、生き延びるわけだが、タタラを囲む復活の新緑は「人間と人間が飼育する動植物」にならなかったかどうか。史実の回答は否定的である。

● 消えた巨石像文明の謎

 ギメガメシュの物語は、単なる神話ではなく、史実を鋭く見据えたものだったのではないだろうか。この物語は、昨今話題となっているある学説とよく符合する。それは、「イースター島の文明がなぜ滅んだのか」という問題である。
 謎の巨石像モアイで有名なイースター島は、南米チリの沖合にある面積わずか一二〇平方キロの小さな火山島である。
 五世紀頃ポリネシア系の移民が住み始めた頃、この島はヤシ類で覆われた緑の島であった。しかし、動植物・魚類の資源は乏しく、雑穀類も育ちにくい痩せた土壌であった。人々は鶏とサツマイモを主食とする単純な食文化を築き、余剰時間を専ら宗教的祭祀に当てた。島の火山ラノララクの凝灰石を石器で削って巨大な石像を彫り上げ、海岸線に散在する「アフ」と呼ばれる祭壇に運んだ。その運搬方法は大木を伐り、延々たる丸太の行列をコロにして運ぶというものであった。また、暖房用の薪や家屋・船の建設のために更に多くの樹が伐られた。
 高度な祭祀文化に明け暮れる平和な島の人口は、年々確実に増え、一六〇〇年頃には七千人(一万人以上とする説もあり)に達したとされる。ところが、一六五〇年頃から急激な食糧危機に見舞われ、資源争奪を巡って部族抗争が頻発、果ては食人にまで及んだのである。この時代の地層から発掘された多くの武器やバラバラに砕かれた人骨がそれを物語っている。
 各部族の象徴である巨石像は、力の宿る眼の部分を潰され、次々に引き倒された。戦争に明け暮れるうちに人口も激減し、人々は文化を失い、次第に未開状態へと逆行していった。
 一七二二年、オランダ人のJ・ロッグベーンがヨーロッパ人で初めてイースター島を訪れた。島には樹がなく、一面草原に覆われ、住民は草ぶきの小屋や洞窟で原始人的な暮らしをしていた。一七七四年、クック船長が訪れた時には、住民は武器を手にして闘っており、人口は六百人程度まで減っていた。それは文明の終末を物語る風景であった。
 一八六二年以降は、奴隷商人がやって来て次々と住民をペルーに連行した。そして、一八七七年には住民はわずか一一〇人になってしまった。それも奴隷としては役に立たない老人と子供だけであった。
 こうして、イースター島の文明は消滅した。残ったのは、後世物議を醸すことになる千体もの巨石像(うち三百体は作りかけで放棄されたもの)と樹のない荒れた大地であった。

● イースター島の教訓

 一六五〇年以降のイースター島の食糧危機はなぜ起きたのか。それは、人口が増え過ぎたためと、何よりも樹を伐り過ぎたためである。
 樹の激減は土地の養分と保水力を低下させ、表土流出を招いて畑作を不可能にする。河川は枯れ、泥水でも飲まねば生きられず、疫病が発生する。海に流れる養分もなくなるため、近場の魚はますますいなくなる。遠洋航海用の大船を作る樹もないので、漁も移住も不可能になる。木造家屋の建造も不可能となり、草ぶき小屋や洞窟住まいを余儀なくされる。唯一の食料である鶏を他部族から守るために石小屋が建てられ、それを巡って抗争が起きる。―そして全島で戦乱が頻発し、相互に殺し尽くし、食べあうという最終事態にまで至ったのである。
 島の資源は最初から乏しく有限であった。島に暮らす住民は、七千人もの人口を支えられる食料が続くわけもなく、樹を伐り尽くせば生えないことは充分分かっていた筈である。にも関わらず、人々は人口増加も森林伐採も抑制することが出来ず、最後の最後まで巨石像を彫り続け、運ぼうとまでしていたのである。人々は自滅するまで資源消費の欲望を捨てることが出来ず、ついに資源再生と共生の術を知らなかったのだ。
 環境考古学者の安田喜憲氏によれば、クレタ島のミノア文明やローマ文明もまた、数世紀の繁栄を欲しいままにしたものの、樹の消滅と共に資源争奪戦争が起こって消滅したと言う。イースター島文明滅亡の歴史は、世界各国の文明の歴史を凝縮したものであったのだ。
 我々には、イースター島やローマの民を「愚かな民」と笑う資格はない。現在、地球の総人口は毎日増え続け、資源も減り続けているが、大量消費の欲望を制限しようという動きは極わずかなものであるからだ。
 一九五〇年代には二五億人に過ぎなかった地球の総人口は、わずか四〇年で五〇億人を突破している(九七年現在で五八億人)。地球の資源総量で、先進国の価値観で言う「最低限の人間生活」を維持出来るのは、八〇億人が限界と言われている。しかし、今のままでは単純計算で二〇二〇年には八〇億人を突破、二〇五〇年には百億人に近くなる。それは、全世界の砂漠を緑化し、耕地面積を最大限に拡大しても、まかない切れない数だと言う。さらに、先進諸国の贅沢な消費生活や後進国の人口増加の加速が、このリミットを大幅に前倒しにすることは確実である。
 宮崎監督の見解はさらに厳しい。
「地球の人口が百億になることを想定して物事を考えたりするのは、非常に傲慢な感じがする。とても百億まで行かないだろうと思ってしまいます。」(前述『週刊朝日』掲載・司馬氏との対談)
「アトピーやエイズの渦の中で、子供を生み、人口が百億人になっても、ひしめき合いまじり合って生きていかなければならないと考えている。」
(『朝日新聞」九四年二月二四日付インタビュー)
 「資源を喰い尽くせば文明は消滅する」という教訓は、全世界に重くのしかかっている。たとえ、この国が照葉樹林地帯であっても、アスファルトとコンクリートの敷設された土地や、水脈や生態系を破壊して建造したゴルフ場には森は再生しない。現在の消費量を維持するために、他国の資源争奪を巡って戦争が起きないという保証はない。(実質的には既に経済的な市場争奪戦下にある。)他国を収奪して豊かになれば、ますます難民や移民が増えることになるだろう。ギルガメシュの遺言であった「滅びの道」を驀進している我々は、イースター島の教訓を生かすことを真剣に学ばなければならないのではないか。
 なお、宮崎監督は漫画版『風の谷のナウシカ』の連載終了前後に、このイースター島学説を序章とするクライブ・ポンティングの著書『緑の世界史』を読み、大きな衝撃を受けたと語っている。(『COMIC BOX』九五年一月号掲載インタビュー)『もののけ姫』の制作にあたり、監督はここに思想的出発点を見い出したのではないか。
 前述の「シシ神は生と死そのもの」という言葉には、この全人類的大テーマが含まれていたのではないだろうか。

●エコロジーの行方

 前項で絶望的大状況を提示したわけだが、刹那主義に浸ってあきらめることは宮崎監督の本意ではないだろう。あくまで生き抜く力強さと、人間の可能性への信頼こそ宮崎監督作品の底流を流れる思想と言える。それは、個人の殻に閉じこもって大状況を正視しない現代的な若者文化とは、異質なものであろう。しかし、困難な大状況と正面から立ち向かう者こそが新時代を開拓するのではないだろうか。混沌とした世界にあっても、大状況を拓り開こうとする思想の流れはある。
 宮崎監督は、自らの不健全な生活スタイルから、「エコロジスト」と呼ばれることを大変嫌っている。しかし、八〇年代以降のエコロジー思想は様々に分化・展開しており、一言で括ることは出来ない。あくまで実践重視の宮崎監督に近いと思われる新たな思潮も生まれている。それらを、宮崎監督の思潮と対比させつつ簡単に紹介してみたい。
 まず、「ディープエコロジー」の思想である。
 ディープエコロジーとは、八〇年代アメリカを中心として盛り上がりを見せた実践型の環境保護思想のことである。その起源は一九七三年にノルウェーの哲学者アルネ・ネスの提唱した論文「シャロウエコロジーとディープエコロジー」で、人間を自然の一環に組み込まれた網目の一つとして考えることを核としている。西欧の自然支配主義から、生命相互が関連する平等主義へ転換しようというもので、「なるべく環境を保全しよう」という常識的倫理を唱えるだけの非実践的エコロジーを「シャロウエコロジー(浅いエコロジー)」として批判したのである。
 ディープエコロジーは、個人や企業の自覚を一義に考え、生活様式や発想の転換を強く呼びかけた。具体的には、「ウィルダネス(原生自然)」と呼ばれる大いなる自然に触れ、そのエネルギーを感じ取ること、「生活地域主義」として地域の動植物との共生を中心としたおだやかな小規模社会を実現することなどであった。
 「自然を神(人間)が作ったもの」として利用・支配の対象と教えるキリスト教文化圏にあって、ディープエコロジーは体制批判の思想とも言われた。しかし、「一人一人の変革が環境を変える」とするディープエコロジーには理想主義の限界があった。そもそも自然と共生して来た歴史を持つが故に差別されて来た原住民をどう考えるのか。環境破壊の産業でも誘致しなければ生きていけない貧しい国々の人々をどう考えるのか。
 次に「ディープエコロジー」を「社会問題を切り捨てている」として、真っ向から批判した「エコフェミニズム」の思想を見てみたい。
 エコフェミニズムは、以下のような主張を展開した。
 ディープエコロジーは、「人類が環境を汚染した」と規定するが、少数の原住民や抑圧された女性まで「人類」とするのは誤りである。この「人類」とは、先進国の男性のことである。西欧の合理主義と産業第一主義が、自然環境を破壊し、生命を抑圧する支配の構造を作り上げて来た。それは、女性や少数民族差別の歴史と同根である。つまりは家父長制の男性社会が暴力で自然を破壊し、女性を抑圧して来たのだ。だから、女性の解放こそが環境問題の解決にもつながるのだ。体内に生命を宿すことの出来る女性こそが、本当に生命連鎖を実感出来、環境保護の理念を実現出来るのだ。
 これらの思想は、宮崎監督の思想とも通じるところがある。「ウィルダネス」の概念や「生活地域主義」からは、宮崎監督が好んで描く大樹・森林崇拝や村落共同体を思い浮かべることが出来る。『となりのトトロ』のビデオがアメリカで爆発的なセールスを記録した背景には、ディープエコロジー流行の影響もあったのかも知れない。
 また、女性こそが生命連鎖を実感出来るとするエコフェミニズムからは、ナウシカやシータなど自然に寄り添って暮らす歴代ヒロインを思い浮かべることも出来る。
 ただし、これらはあくまで部分的かつ構造的な類似であって、宮崎監督が特定の「主義者」でないことは明かである。ただ、このような類似点は、ディズニー配給による今後の世界市場の展開に於いて、宮崎監督作品が普遍性を持ち得る根拠を示すには充分ではないだろうか。
 一方、宮崎監督作品には、環境保護の思想だけでなく、次に見るような独特の生命倫理が貫かれている。

●崩壊する生命倫理

 現代は、これまでのどの時代にも増して、生命と生命のつながりが希薄な時代、生命の重さが実感出来ない時代と言わねばならない。
 カルト教団による大量自殺や無差別殺人、女性・幼児に対する変質的猟奇的殺人事件の頻発、老人や労務者の虐待、さらには小動物の惨殺までが連日起きている。学校現場ではいじめが続き、少年・少女の自殺は後を断たない。仮想世界でも、大殺戮ゲームのごとき推理サスペンス映画や、ボタン一つで生殺が行えるペットゲームが大流行するご時勢である。
 そして、バイオテクノロジーと呼ばれる動植物の生命操作技術が発達し、ついにクローン羊が誕生するに至った。人間は高等生物の生命まで操れる時代になりつつある。この国では、人の脳死問題の是非までが不透明なまま国会で論議され、法案が採択されている。
 一方、地域共同体が崩壊し、他人と関わらない一方通行の個人主義文化がはびこっている。これとは逆に、自閉症の子供や痴呆症の老人の治療には、アニマル・セラピーと呼ばれる動物飼育が有効だと言われる。
 これらの諸現実を関連づけて考える時、人間は生命の価値を見失い、本質的な生命力を失いつつあるのではないかと思えて仕方がない。
 人間が生きることは、それ自体他の生命を殺して食べることである。人間は、自らの生命を維持する限り、他の生命を奪い続けるのである。これは逃れられない現実である。この現実に向き合うことなく、生優しい自然保護などを唱えたところで、それは敗者に対する勝者の哀れみのようなものでしかない。
 では、生命倫理をどこに見い出すべきなのか。

●いのち論の彼方

 縄文人の残した貝塚は、食べかすのゴミ捨て場ではなく、貝の墓場だと言われている。貝を弔うことで、貝の子孫が戻って来ることを願ったのである。縄文時代の遺跡からは、子供の鹿や猪の骨が発掘されていないと言う。彼らは無駄な狩猟や殺戮はしなかったのである。そこに流れているのは、人間を自然の一環に組み込んだ「生命の循環」の思想ではなかったか。
 アイヌには「イヨマンテ」と呼ばれる熊おくりの儀式がある。人間に食料や衣料を提供してくれる熊に感謝し、丁重に弔う儀式である。殺した熊に対する感謝を忘れず、熊の遺体を食べ尽くし無駄なく活用するならば、熊は喜んで他界し、生まれ変わってもまた身体を提供してくれると言う信仰である。それは、人間の犠牲にされる他の生命への感謝に支えられた生命循環の礼儀作法である。
 しかし、われわれは合理主義の基に呪術的礼儀の意義を切り捨て、縄文人の生命倫理とはかけ離れた社会を作り出してしまった。ここに学ぶべきものは多いが、実践的にはどうすべきなのか。森岡正博氏によれば、近年の生命倫理は「いのち論」として日本独自の展開を見せていると言う。
 たとえば、東京都の公立小学校教諭を三十年間続けた鳥山敏子氏は、生徒達に「生きた鶏を殺して食べさせる」という授業を行っている。
 鳥山氏は、他の生命を殺して生きなければならない苦悩の末に、空高く飛び続けて星になってしまうという、宮沢賢治の童話『よだかの星』に流れる思想に感銘を受けたと言う。氏は、殺す者と食べる者の分業が始まってから差別が始まり、生命の境界線があいまいになったのではないかと主張する。
「自分の手ではっきりと他のいのちを奪い、それを口にしたことがないということが、ほんとうのいのちの尊さをわかりにくくしているのだ。殺されていくものが、どんな苦しみ方をしているのか、あるいはどんなにあっさりとそのいのちを投げだすか、それを体験すること。ここから自分のいのち、人のいのち、生きもののいのちの尊さに気づかせてみよう。」
(鳥山敏子・著『いのちに触れる』)
 授業の当日、女子生徒は鶏を抱いて逃げ回り、泣きながら「殺さないで」と叫んだが、やがては空腹の余り肉を食べたと言う。子供達には、直に生命を奪った後味の悪さが残った。
 子供達は、その後の授業で如何にたくさんの生命を奪って生きているかを実感し、食物に宿る生命の重さを知り、戦争や無意味な殺戮に対して強い嫌悪を抱くようになったと言う。
 他の生命を奪って身体に取り込むという強烈な自覚が、自らを維持するために捧げられた他の生命への感謝に繋がり、自らの生命も他の生命も慈しむ心が生まれたのである。それは、いのちに触れる授業であった。
 血まみれの残酷さと向き合う中から、生命の重さをつかみ取るという生々しい葛藤。それは、いのちといのちの荒々しいぶつかり合いであり、自然と人間との対話ではなかったか。このような強烈な自覚を伴ってはじめて、人間の生命力は回復に向かうのではないか。そして、生きることの楽しさと苦しさを受け止め、自然保護を実戦し得る力強さも立ち昇ってくるのではないだろうか。
 ここには、「人間はドブ川にわくユスリカの幼虫のようなものだ」(リクルート社発行『ダ・ヴィンチ』九四年六月号掲載インタビュー)と語る宮崎監督独特の平等主義に深く通じる思想があると思えてならない。
 環境保護の概念も、善行一般のキレイ事でなく、同じ生命としての痛みを分かち合う苦悩なしには、耳慣れた道徳的宣伝文句と化すだろう。

●闇にまたたく光

 宮崎監督は漫画版『風の谷のナウシカ』のクライマックスで、ナウシカに以下の台詞を語らせている。「いのちは闇の中にまたたく光だ」と。これは、文明の全てを是として、「正義の光」にたとえがちな人間中心主義に対する宮崎監督流のアンチテーゼである。宮崎監督は、以前以下のように語っていた。
「アメリカ映画に限らないのですが、ヨーロッパからはいってくるファンタジーがありますが、光と闇が闘っていつも光が善なのです。悪い闇がのさばってくるのを、光の側の人間がそれを退治する。それと同じ考えが日本をむしばんでいると思います。」
「森と闇が強い時代には、光は光明そのものだったのでしょうね。でも、人間のほうが強くなって光ばかりになると、闇もたいせつなんだと気がつくわけです。私は闇のほうにちょっと味方をしたくなっているのですが。」
(鼎談集『時代の風音』)
 ここで語られている「闇」とは未開世界、人間の生存権以外の自然である。前述の『ナウシカ』で語られている「闇」は、更に広義に、自然に則した人間生活全般をも指しているように思われる。つまり、「光を際限なく拡大させる人間社会」と「闇に寄り添う人間社会」の違いである。このモチーフは、『もののけ姫』にも立派に受け継がれている。
 『もののけ姫』の物語の後、タタラ場に残ったアシタカは、サンと話し合いながら樹を伐り続け、動植物を殺して食べ、鉄を作り続けることになる。それは、余りに困難な共生構造である。だが、破壊と殺戮の中にしか人間の存続はない。その人間としての業を実感しながら生きることは、心に闇を持つことではないか。心を光で満たすことが人間中心主義の破壊と生命倫理の崩壊につながるのなら、逆に心に闇を持つことが破壊の抑制と生命倫理の再生につながるのではないか。
 重要なことは、人間と自然が互いに生かし生かされるという生命循環の思想、互いに生命権を主張しながら必死に生きるという共存の思想があるかどうかである。これが芽生えた時、破壊の闇の中にほんの一瞬、生命の共振現象が起き、共存の光が瞬くのではないだろうか。その光とは、人工的な蛍光灯のネオンではなく、生命エネルギーに溢れた自然光であろう。その光の量が、人間の未来を照らすものであると思いたい。『もののけ姫』には、そのような宮崎監督の願いを強く感じる。監督は、以下のようにも語っている。
「光と闇は全部人間の内部に混在してあるものでしかない。人間は汚れを生みだしながらも、その環境の中で生きるしかできないと考え始めました。」(『朝日新聞』九四年二月二四日付インタビュー)
「これから三十年、日本の人口は減りはじめますから、攻撃性を失うんじゃないかと期待しているんです。そして、この島で緑を愛して、慎ましく生きる民族になってくれないかなと。根拠のない妄想ですが…。」
(鼎談集『時代の風音』)
 これを宮崎監督が全力を尽くして「次世代へ手渡したバトン」であると解するならば、真の「決着」はわれわれ観客一人一人の前に開かれている。渡されたバトンを持ってどこへ走るのか、それはもうわれわれ自身の問題である。つまり、観客に引き継がれて現実へと続く思想の物語なのだ。
 そして、歴史の方向如何によっては、映画『もののけ姫』は伝説的名作となることだろう。五千年の時を経てなお現代を照らす、あの『ギルガメシュ』のように。

参考文献
『緑の世界史(上)(下)』クライブ・ポンティング・著(朝日選書)
『森の日本文化/縄文から未来へ』安田喜憲・著(新思索社)
『森と文明の物語/環境考古学は語る』安田喜憲・著(ちくま新書)
『自然保護を問い直す/環境倫理とネットワーク』鬼頭秀一・著
(ちくま新書)
『生命観を問い直す/エコロジーから脳死まで』森岡正博・著
(ちくま新書)
『森の思想が人類を救う』梅原猛・著(小学館ライブラリー)
『日本人の「あの世」観』梅原猛・著(中央公論社文庫)
『ギルガメシュ』梅原猛・著(新潮社)
『いのちに触れる』鳥山敏子・著(太郎次郎社)
『賢治の学校』鳥山敏子・著(サンマーク出版)
『時代の風音』堀田善衞・司馬遼太郎・宮崎駿・著(朝日文芸文庫/UPU)
『出発点[1979〜1996]』宮崎駿・著(徳間書店)

〈了〉



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