HOMEへ戻る
「宮崎駿論」トップへ戻る

「もののけ姫」を読むヒント

文責/叶 精二

※この原稿は97年11月23日付の「信濃毎日新聞」の「本の森」欄に掲載されたものです。なお、タイトルは編集部でつけたものです。


 映画『もののけ姫』の大ヒットが続いている。先月三〇日には、歴代1位の『E.T.』を抜き、ついに映画配給収入の新記録を樹立するに至った。宮崎監督の作品評を多く手がけてきた関係で、「なぜこれほどの観客動員に成功したのか」「どこが時代とシンクロしたのか」と聞かれる機会が多い。
 私は、『もののけ姫』が観客を圧倒した中味の一つは、主人公の少年が示した行動力だと考えている。バブル崩壊以降、閉塞観が支配的な現代日本にあって、内省的思索にふけったり、苦悩の泥沼でもがく没行動的主人公の物語は数多く生まれた。そこに突然、解決不能の絶望的矛盾を背負いながらも、共存の策を求めて前向きに疾走する人物が現れた。主人公アシタカは、生命がけで最善を尽くすが、ついに何も解決出来ない。結果ではなく、過程が人の心を動かし、些細な希望を託せる変化は起きる。しかし、世界は浄化されず、矛盾もそのまま。物語後の展望は決して明るくはないが、「それでも生きよう」と結ばれる。スッキリはしないが、じわりと染み入る複雑でリアルな感動がある。ここには、二十一世紀の生き様のヒントがあるのかも知れない。
 新聞を広げれば、株価大暴落、一流企業経営陣の逮捕、連続通り魔、少年の逮捕・裁判など、およそ明るい記事はない。唯一元気な記事は考古学・歴史学・民俗学上の新発見くらいのもの。『もののけ姫』の放つパワーは、この元気な学術的ビジョンにも遠因がある。この種の研究成果は、日常と無縁な希望に思われがちだが、実は現代を照らす意味でも、未来を模索する意味でも大きな意味を持つものが多い。
 たとえば、網野善彦氏が明らかにしたような、中世日本の民衆の捉え方である。網野氏の著作は専門書から入門書まで数多いが、初めての方には『日本の歴史をよみなおす』(筑摩書房)をお勧めする。
 網野氏は、従来の権力者と農民主体の中世史観を覆し、絵巻や文書に基づく斬新な民衆像を浮かび上がらせた。女性の社会的地位が高く、芸能民・職能民が特権を与えられ保護されていたこと、海外貿易や市を司る僧侶集団がいたこと、神仏・天皇直属の特殊職の民がいたことなど。その世界は驚くほど多彩で複雑だ。『もののけ姫』に登場する勇ましい女性職能民や怪しい僧侶は、史実を宮崎監督流に解釈したものだろう。 
 一方、『もののけ姫』には「タタラ」と呼ばれる製鉄プラントが登場する。これも、徹底して樹を伐ることで成立していた「タタラ製鉄」の史実に根ざしたもの。一九六九年出雲・菅谷地区に於いて、一子相伝の秘伝と言われたタタラの技術を解明するため、「最後のタタラ師」を集めて、製鉄の復元作業が行われた。翌年制作された岩波映画『和鋼風土記』はこれを記録した作品だが、五年後に監督自ら舞台裏を克明に記した本が出版されている。それが『和鋼風土記/出雲のたたら師』(角川選書)である。宮崎監督はこの本を熟読し、作品世界の構築に役立てたと言うが、残念ながら絶版となっている。
 ところで、一部評論家や文化人に『もののけ姫』を「期待はずれ」とする不満評がある。奇妙なことに、いずれも大衆的絶賛の根拠に対する分析がなく、感性的反発や知識的アレルギーを吐露したものが多い。これは、生きている社会に対する実感の違い、つまり《感覚の温度差》を示した現象かも知れない。作品の密度と時代性が、評者を篩にかけてしまったと考える。  

      


HOMEへ戻る
「宮崎駿論」トップへ戻る