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「もののけ姫」の基礎知識

文責/叶 精二

※以下の文章は「キネマ旬報臨時増刊/宮崎駿と『もののけ姫』とスタジオジブリ」(97年9月2日/キネマ旬報社発行)に掲載されたものです。


 映画『もののけ姫』には、莫大な量の情報が詰め込まれている。猛烈な速度で駆け抜ける画面には、その隅々に至るまで、新しい歴史観、新しい民俗学・考古学的視点、そして生命の倫理が貫かれている。また、物語は緻密かつ重層的に構築されており、画面には直接登場しない組織や人物たちによる文字通りの暗闘が背後にある。
 本稿は、その一端を明かにすることを目的とする。ただし誌面の制約上、各項ともあくまで概括的な言及に留まっていることを御容赦願いたい。(詳述は別の機会に行っているので、そちらを参照のこと。)

氈C『もののけ姫』の勢力地図

 『もののけ姫』には、「人間の世界」として、一つの異民族と四つの政治勢力が描かれる。そして、四つの勢力と対立する「神々の世界」がある。各勢力の構成要素と、相関関係の内訳を述べると次のようになる。(筆者作成の相関関係図参照)

1. 人間の世界

●エミシの村

 異民族とは、冒頭に描かれたアシタカの村、つまり「蝦夷」のことである。蝦夷は、大和朝廷との戦争に破れ、絶滅寸前の民である。物語ではアシタカ以外の民が、登場した他の勢力と関わることはないが、縄文人の末裔たる蝦夷は、基本的に森との対立関係になく、共生関係を保っていたと考えられる。
 青森県の山内丸山遺跡の発見に明かなごとく、縄文時代の東北地方には日本最古の文明があった。縄文人は、「ナラ林文化」と呼ばれる山内の豊富な資源の採集、サケ・マスなどの漁撈、熊・鹿の猟などで食文化を形成し、様々な部族が共同体的小国を成していた。その根幹は、「我らは山に生かされている」という自然崇拝のアニミズム文化であった。蝦夷は、その血を引き継ぐ山の民であったと言われる。
 一方、弥生時代に渡来人が南方で興した豪族国家は、武力制圧と共に水田稲作を食資源とする文化を各地に広めて行った。この動向は、大和朝廷成立によって更に加速し、東北地方侵略に至る。蝦夷の一部は従属・奴隷化し、一部は徹底抗戦を選択した。七七四年〜八一一年に至る熾烈な三八年戦争の末、蝦夷の長アテルイはついに降伏し、斬殺された。
 かくて蝦夷の残党は、山内深く隠れ里にひっそりと暮らすより他はなかった。そこには、古の因習や独特の文化が残っていたと思われる。
 宮崎氏によれば、アシタカは勇者アテルイの部族の末裔であると言う。

●エボシ御前とタタラ場の人々

 人間の政治勢力の第一は、主要な舞台となるタタラ場の製鉄民たちである。エボシ御前率いる通称「エボシタタラ」は、城塞都市のごとき風貌の製鉄・加工プラントであり、俗世と隔絶された小国のごとき自治体といった印象である。これは当時実際にあった製鉄民の特権制度を膨らませた設定である。
 タタラ製鉄とは、砂鉄から鋼塊を作り出す独特の製鉄法である。太古の昔から明治初期まで、タタラは日本の製鉄技術の主流であった。タタラで作り出された鉄は、世界的な貴重品と言われるほど高い純度と質を持っていた。
 タタラ製鉄は、莫大な労力を要する作業であるため、数十人規模の大所帯による共同体を構成しなければ稼働出来なかった。また、武器・鎧・農具の元となる鉄は最大の必需品であるため、各地の大名や寺院が特権を与えて保護していたのだ。
 タタラ製鉄の元は何より山である。まず、徹底的に森を伐って木炭を作る。同時に山を崩して、土を水と共にトヨに流し、水流で砂鉄を洗い出す。この為、下流域の農民は泥まみれの鉄砲水や山崩れの被害に合う。製鉄民は農民の敵であり、平地に住めないならず者の仕事とも言われた。「タタラ者」とは製鉄民の蔑称でもあった。
 タタラ場では以下のような作業を行う。
 まず「高殿」と呼ばれる特殊な建物の中で、木炭を焚き続けて地下まで地盤を乾燥させ、その上に粘土で炉を築く。ここで火を焚き、砂鉄と木炭を交互に振り入れる。この間、炉の左右に設けられた板踏み式の送風装置(「踏み吹子」と言う)を稼働させ、一五〇〇度前後の高温を保つ。これを三日四晩続けて、ようやく鉄塊(「ケラ」と言う)を取り出すことが出来る。この際、粘土の炉は壊す。
 タタラがどれほどすさまじい重労働であるかは、以下の操業凡例に明かである。一回の操業で使用した砂鉄十九トン、木炭十五トン(基礎部乾燥には更に一五〇トン)、得られた鉄五トン。操業数回で山一つ消滅したと言う。
 物語は、タタラが最も盛んであった出雲(島根県)で展開されているが、実際に出雲の地形は製鉄によって著しく変化したと言われている。弥生時代に、日本の原生林が多く消失していることも、渡来人による製鉄の開始が原因と言われている。作中、タタラ場の周囲はすでに禿山となっており、更に伐り進む必要性を物語っている。
 ところで、タタラ場には女人禁制の掟があった。タタラの神が女性なので同性を嫌ったとか、血(月経や出産など)を嫌ったとか諸説あるが、詳しくは不明である。エボシ御前は、これを真っ向から否定してタタラ場を女性の職場にしてしまっている。これは宮崎監督らしい創作だが、実際に室町中期までは、たくましい女性職人が活躍していたのだ。宮崎監督は、室町期の絵巻「職人歌合(『職人尽絵』とも言う)」に描かれた数十人の女性職人に注目し、その気風を学んだと言う。
 なお、作中のタタラ炉は実に巨大であり、吹子踏みも四日五晩続けると語られることから、出雲でも最大規模のタタラ場であったと分かる。このため操業人員・資材発掘・運搬人員が大量に描かれているのは当然である。
 また、エボシタタラは、「天朝」の保護下にあり、「師匠連」から砲術プロ「石火矢衆」四〇名を借り受け、シシ神退治にあっては「唐傘」の指示も受けていた。ただし、これらの諸勢力とは、完全な友好関係ではなく、一時的な契約共闘関係であり、最終的には破綻する。一方、タタラの経営権を狙う「アサノ公方」率いる地侍たちとは敵対関係にあり、アサノの使者も撃退されている。

●天朝と大和朝廷

 第二の勢力は、天朝(天皇)の大和朝廷である。南北朝の戦乱を経た室町時代において、朝廷の権威は衰退していたものの、職人たちの特権(自由通行権・免田給付など)を認めた「供御人制度」は健在であった。額面通りには、天朝の威光を借りることは、他者の侵略を退けることにもなるのだ。
 天朝はジコ坊を通じてエボシ御前に密書を届けるが、直接登場はせず、書面の内容も不明である。察するに密書は「シシ神の首を刈ったならば、タタラ場の自治的経営権を認める」という類のものではなかったか。シシ神退治の計画は、単に「不老不死の力を得る」というまじない的意味だけでなく、台頭しつつあった戦国大名たちに朝廷の権威を知らしめるため、あるいは新兵器「石火矢」の威力誇示のためにも必要であったと考えられる。朝廷にとっては死活を賭けた一大計画であったのかも知れない。

●謎の組織・師匠連

 第三の勢力は、謎の組織・師匠連である。
 ジコ坊はこの一員であるが、僧侶らしい布教活動や修行とは無縁の術策士といった風貌である。配下に「唐傘」と呼ばれる戦闘指揮官、砲術士「石火矢衆」などの特殊部隊を従え、狩人や「ジバシリ」と呼ばれる山の民なども動員出来るネットワークを持つ。朝廷とは主従関係にあるらしく、「シシ神退治」に於けるタタラ場の指揮を任されている。
 その実体を単純に推察すれば、「石火矢」を日本に持ち込んだ中国(明)か朝鮮の渡来人と思われる。深読みすれば、古代日本に製鉄技術を持ち込んだ渡来人(「韓鍛冶」)の末裔とも、朝廷に新型兵器の売り込みをアピールする「死の商人」とも、さらには朝廷をも闇で支配しようと画策していた陰謀集団とも考えられる。彼らの当面の目的も、「シシ神退治」の見返りとして、朝廷からエボシタタラの独占経営―兵器工場としての機能確保を任されることにあったのではないか。
 なお、「石火矢」とは実在した世界最古の金属製銃器「手把鋼銃(ハンドカノン)」の和名である。中国では十四世紀頃、朝鮮では十五世紀頃から実用化されていた。着火装置は「指火式」と呼ばれ、小枝や棒で直に薬室に点火するスタイルである。何故か種子島の火縄銃伝来以前に日本に輸入された痕跡がなく、幻の銃とされている。作中の旧式石火矢は、中国に残されている最古の青銅製ハンドカノンを真似ている。
 日本では戦国時代に新式石火矢が開発され、「国崩」「佛郎機」などの名で呼ばれた。これが、エボシ御前や女たちが使う薬室カートリッジ型銃(「子母式銃」と言う)に当たる。しかし、この新型は火縄の実用性にかなわず、ついに普及はしなかった。
 宮崎監督の設定は、ポルトガルからの火縄銃伝来(一五四三年)以前に隣国から石火矢が輸入され、子母式銃まで作られていたという、現実性のある仮説に基づくものである。

●アサノ公方と地侍

 第四の勢力は、これも本人が登場しない「アサノ公方」の軍勢である。おそらく下克上の成り上がり大名か、悪党の親玉侍であり、統率の取れない地侍たちを集めて仮の勢力を築いていると思われる。武器の源たるエボシタタラの経営権を狙っており、度々侵攻を試みているが、石火矢の威力の前に撃退されている。その新兵器強奪への渇望もあってか、最後にはエボシ御前と男衆の留守を狙って一斉攻撃を仕掛ける。
 しかし、これは「シシ神退治」の情報漏洩抜きには考えられないタイミングの攻撃である。タタラ場の徹底した監視体制を敷いていたか、アサノと大和朝廷、乃至は師匠連が密通していた可能性が考えられる。つまり両者共謀の上、シシ神退治とエボシタタラ強奪を同時進行させる作戦だったのではないか。そう考えると、アサノ軍がシシ神退治に無関心であることもよく分かる。
 各勢力が各々の野望に燃えて一時的な共闘・共謀を行うものの、やがて「昨日の味方が今日の敵」という泥沼的抗争へと至る。まさに血で血を購う時代である。
 なお、戦国時代の尾張(愛知県)に「浅野氏」は実在している。



2. 神々の世界

●シシ神とディダラボッチ

 太古の照葉樹林の森に棲む神々の頂点に立つ半身半獣の神がシシ神である。設定には「生命の生死を司り、新月に生まれ月の満ち欠けと共に生死を繰り返す」とある。逆に言えば「光満る満月に死ぬ」という意味か。とすれば、闇多き森(つまり原生林)にしか生まれない神とも解釈出来る。
 ディダラボッチは、シシ神の夜の姿である。青白く輝く半透明の巨人である。唐草紋らしき文様が全身に見える。
 シシ神は人間との抗争には超然たる傍観者である。自ら攻撃に出ることはなく、首を狙ったエボシの銃に芽を吹かせる程度である。しかし、首を刈られた後のディダラは、天を覆う巨大な闇となってドロドロの塊を振りまき、森を破壊しながら首を求めてタタラ場に迫る。
 アシタカとサンの活躍によって、首を返還されたディダラは、朝陽を浴びて倒壊し、一陣の風と共に、砕けた破片が地下に浸透して一帯に緑が再生する。同じドロドロがシシ神の意志次第で、破壊も再生も生み出すのである。
 しかし、もし人の手でシシ神に首を返還出来ず、自力で復活したとしたら、憎悪による破壊を続れて朝陽に果てたのか、あるいはタタラ場も原生林に覆われて、人間はこの地から追いやられてしまったかも知れない。アシタカとサンが命がけで尽くした礼儀が、シシ神の憎悪を消しタタラ場を救ったのだ。アシタカの呪いが解けたことも、同様に解釈出来る。シシ神は、共生の意志ある人間の行動を認めたのだ。
 しかし一方では、朝陽を浴びて去勢されてしまったシシ神には、そもそも本来の力がなく原生林を蘇生するまでには至らなかった、という絶望的解釈も成り立つ。タタラ場と禿山を覆った緑は、言わば牙を抜かれた自然であり、穏やかで明るい「里山」であった。
 神を殺して得た里山を「人間と自然の共生の象徴」と理解するのは簡単であるが、事はそんなに単純ではない。構造的には人間側に森の主導権が移ってしまったのである。原住生物たちにとっては「シシ神の死んだ」森で、君臨する神としてでなく、狩られる獣として暮らさねばならないのだ。しかし、アシタカは、それでも「共に生きよう」と訴える。それは、互いに礼を尽くし、生かし生かされる構造を保つという生命平等主義の立場である。それは余りにも厳しく困難な共生への道である。
 なお、ディダラボッチの伝説は全国各地にある。東京都世田谷区「代田」の地名は、ディダラがかけた橋に由来すると言う。

●山犬・モロ一族ともののけ姫・サン

 作中には、山犬神「モロの君」とその一族が登場する。
 古来、山犬または狼を土地神として祀る風習は日本各地にあった。田畑を荒らす害獣を退治する智恵ある獣として慕われた反面、人間を襲う凶暴な獣として恐れられてもいた。西欧童話の狼が間抜けな悪役であるのに比して、日本では狼を高貴な神とする伝承が多い。
 猪や鹿を獲物として来た山犬が、作中のように猪一族と険悪な関係なのは当然である。
 もののけ姫・サンは、村から神鎮めの生贄としてモロに捧げられた。その原因は、おそらく人間による森林破壊であったろう。モロは、破壊の許可を求めるために赤子をよこした人間のエゴを蔑んだことであろう。しかし、にも関わらず、モロはサンに二足歩行と人語を教え、衣服・靴・装飾品を与え(作らせ)、入れ墨まで施している。これは何故か。
 モロはサンを人間として育てたとしか思えない。ただし、憎き敵の現世の人間文化を与えず、自然との共生関係を保っていた縄文人の文化を与えたのである。サンの呪術的な土面や装束、食物・習俗などは、全て縄文人のものである。神は縄文人を認めていたのだ。
 サンとアシタカの出会いは、北方と南方の縄文人の末裔同士の出会いでもあったのだ。

●乙事主・ナゴの守と猪一族

 冒頭タタリ神としてアシタカの村を襲ったのが、シシ神の森に棲む猪一族の長「ナゴの守」である。ナゴの守は、エボシ御前に鉛玉を撃ち込まれ、死の恐怖と闘い切れず、怨みの塊たるタタリ神と化したのであった。シシ神に与えられる安楽な自然死ではタタリ神となることはない。つまり、タタリとは、神が卑しい人間によって強制的に殺される立場に転落したことに対して抱く、やり場のない憎悪と恐怖が生み出す現象なのだ。
 これは、人間が神をも殺戮出来る兵器を開発し、神の支配を覆す時代となったことに対する神の逆襲だが、高貴な心を捨てて凶悪かつ醜悪な破壊神と化したその姿は悲しい。
 白内障を煩っている「乙事主」は、猪神信仰の盛んな鎮西(九州)を治める齢五〇〇歳の巨大な猪神である。エボシ・ジコ連合に対し、出雲・鎮西連合の猪族を率いて「猪突猛進」の特攻を敢行するが、悉く玉砕する。
 この特攻に際し、猪たちの群は泥水に浸かって体をくねらせ、互いの体に泥の白丸を描く。これは、沖縄・宮古島の島尻部落に伝わる祭を原典としたものと思われる。ここでは神聖な泥水に浸かった男が、里に降りて幸福をもたらすと言う。その泥水を「ニタ(ニッジャ)」と呼ぶ。ニタとは、古来、猪が虱を取るために浸かる(「ニタをうつ」と言う)場所を指す言葉である。つまり、あの白丸は、神がかりの特攻のための隈取り化粧なのだ。

●コダマ

 作中には、「コダマ」と呼ばれる不思議な精霊の群が登場する。いわゆる山彦のことではなく、豊かな森に宿る「樹の精」らしい。人間に対する敵意はなく、アシタカには大変親しげである。 
 これは、宮崎監督が木々の生命をヴィジュアル化したものと考える。森を破壊することは、莫大なコダマを殺すことにもなるのだ。作中のクライマックスで、まるでマリンスノーのように次々と死んで降り注ぐコダマたちは、森の生命の急速な衰退を物語る。人間中心主義の視点しか持たない私たちには、木々が伐り倒される映像よりも、擬人化されたコダマが殺されて降り注ぐシーンの方がはるかに生命の重さを感じてしまう。
 ラストシーンで、破壊の爪痕残る森の深部には、一人ぼっちのコダマがいる。これは、森の生命がこれから復興するのか、衰退するのかは人間次第という暗示ではないか。
 なお、大樹や森に生じる音の精霊を「コダマ」として信仰する伝承も、かつては日本各地にあった。

●猩々

 作中には、「猩々」と呼ばれる不気味な猿の一族が登場する。一族は、夜な夜なタタラ場周辺の禿山に出没しては樹を植えている。直接山犬族や猪族と共に人間と闘うことはせず、最後には絶望して森を去る。かつては「森の賢者」とも呼ばれていたそうだが、その容姿と赤く光る眼は異様で、地獄の餓鬼のようでもある。
 猩々とは、古代中国の伝説上の怪物である。大型の類人猿であり、学術的にはオラン・ウータンを示す。日本にも古くから猩々の伝説があり、それによれば「全身赤毛で、人語を解し、酒が大好き」とのことだ。能にも「猩々」という演題があり、酒酔いを示す赤い面をつけて踊る。また、猩々の血で染めた「猩々緋」と呼ばれる赤い染物もあった。
 ちなみに、「ショウジョウバエ」の語源は、「猩々のように酒に群がる蝿」の意味である。


,『もののけ姫』に流れる思想

 宮崎監督は、前監督作『紅の豚』を「新しい表現を模索中の過程で作ってしまったモラトリアム映画」としきりに自戒し、「次作では決着をつける」と何度も語って来た。『もののけ姫』は、思想的意味でも集大成であったのだ。では、宮崎流の新思潮とはどのようなものであったのか。

●ギルガメシュ

 『もののけ姫』制作に当たって宮崎監督が最も意識した物語がある。それは五千年にメソポタミアで書かれた人類最古の叙事詩『ギルガメシュ』である。
 ウルクの王ギルガメシュは、親友と共に人間の世界を広げるためにレバノン杉の原生林を伐る。怒った半身半獣の森の神・フンババは、凶暴な姿になってギルガメシュを襲うが、ついには首を刈られてしまう。それを可能にした最強兵器こそ、金属―青銅の斧だった。
 神退治の代償として親友を失ったギルガメシュは、死の世界へと旅立つが、何の成果も得られず絶望の果てに故国に戻って来る。
 ギメガメシュは、神を殺して人間だけの王国を作ろうとした己の傲慢さを恥じ、自然破壊や生命操作は破滅の道だと遺言して果てる。
 この物語には、自然破壊と人間の破滅という現代的テーマが鋭く打ち出されている。宮崎監督は、ここに「自然と人間」という大テーマの普遍性を見たのではないか。金属の武器による神退治が破滅を招くという構造は、作品と深く共通する。五千年の時を越えた物語の共振とでも言うべきか。

●照葉樹林文化

 「自然」という概念は抽象的である。作中では様々な自然の形態を緻密に描き分けている。実は、これが判別出来ないと、作品のテーマを正確に把握することは難しい。
 本来の「自然」とは、天然の「原生林」である。これは数千・数万年を生きた大樹が生い茂る暗く恐ろしい森である。当然人の手など遠く及ばない世界である。
 一方、人の手が加わった田畑を含む「里山」や、植林された「二次林」は、明るく懐かしい森である。通常我々は、このような、人が作り換えた森も「自然」と呼んでいる。
 『となりのトトロ』『おもひでぽろぽろ』『平成狸合戦ぽんぽこ』など、スタジオジブリの諸作品では、後者の「自然」が繰り返し描かれて来た。今回は、これを突破して原生自然を描くという大挑戦を敢行している。かつての日本には、我々が知らない暗い原生林が広がっていたのである。その森を刈り尽くし、人口の自然や村や都市を作り上げて来たのが人間の歴史である。
 太古の昔、日本の南半分は照葉樹林(クス・カシなど)が覆っていた。この照葉樹林地帯は、中国南部を経てヒマラヤ山脈の麓に至るまで広大なベルト地帯を形成していた。この地域には、風習・食文化・伝説・衣裳などに深い共通性があった。同じ原生林が良く似た文化を産んだのである。これを「照葉樹林文化論」として、民族を越えた日本人の根源に迫る学説を提唱したのが、中尾佐助氏であった。宮崎監督は、中尾氏の諸著作に深い影響を受けたと何度も語っている。
 照葉樹林は、温暖な気候と豊富な水分を含む肥沃な土質の地にしか発生しない。その最大の特徴は、森の蘇生力である。いくら樹を伐っても砂漠化せず、人間が手を加えなければ、数十年で元の森林に戻ってしまうのだ。「産業や文明が崩壊した後に森になる」という『風の谷のナウシカ』以降の宮崎監督作品のイメージは、ここに原点がある。
 「原生自然とそれを破壊する人間を描く」壮大な物語は、この照葉樹林文化論に着想を得たものと考える。神聖なシシ神の森は、堂々たる太古の照葉樹林であり、ラストの再生した森は明るい里山である。物語は、取り返しのつかない自然の変質(同時に人間の変質)を描いたものでもあるのだ。
 なお、蝦夷の村の衣裳・風俗には照葉樹林文化の北端であるブータンの高地民を参照にしていることも興味深い。

●縄文時代の生命倫理

 宮崎監督は、縄文人のアニミズムに通底する独特の生命倫理を持っている。「人間はドブ川にわくユスリカの幼虫と同じ」と語る監督の生命観とは、動植物と人間の生命の重さを等価と見る一種の平等主義である。ここから、他の生物への礼儀作法を重く見る。
 つまり、動植物を殺して喰らい、環境と生態系をブチ壊して農耕と文明を広げるのが、人間の生来の「業」であるなら、せめて他の生命を奪う痛みや苦しみを味わって最小限度の被害に留める努力をしようと。どれほど人心が荒廃して政治が没落しようとも、この礼儀作法を貫くことで、自然環境との共生の展望を見い出したい―という願いである。それは、森の崇拝を文化の根源に据えていた縄文文化とその末裔たる山民への憧れでもある。
 この観点から見ると、蝦夷の少年や山犬に育てられた少女が主人公であること、その風俗が森との共生の智恵に満ちており、人間の業を背負うに足る賢い人物であることなどがよく分かる。つまり、作中の人物たちの目線は、はるか彼方を見ているわけである。もし、彼らに対して、従来の宮崎監督作品にない親しみにくさを感じてしまうとすれば、それは自己の利害や即物的欲求にしか理解を示せない我々自身の問題でもあるのかも知れない。

●「生きろ」のメッセージ

 『もののけ姫』は、一見楽観的にも見える結末で幕を閉じる。しかし、その後の展開を予想すれば、すさまじく厳しい時代を迎えてしまうことになる。
 あの後すぐ、戦国時代に突入し、戦禍が各地に及ぶ。タタラ場争奪は熾烈化するであろうし、身分差別も激化する。火縄銃が登場し、石火矢ではかなわない。神々を失った獣は狩られ、森の破壊も各地で進むことであろう。蝦夷の村も無事とは思えない。アシタカとサンの共生に向けた必死の努力など、時代の渦に飲み込まれてしまうかも知れない。
 これは、来るべき困難な二十一世紀ともよく符合する。人口増大と自然破壊による資源の枯渇は、早晩全人類的規模の危機をもたらすと言う。しかし、特別な処方箋はない。
 にも関わらず、宮崎監督は作品に「生きろ」と銘打ち、主人公にも「生きろ」と語らせている。どんなに困難な時代にも健やかであれと。それは、手近な終末観やニヒリズムに陥り、安易な憎悪や殺戮にカタルシスを求める凡百の映画とは、根本的に異なる楽観主義である。あらゆる惨禍も業も、「曇りなき眼で見つめ」なおかつ絶望せずに生きること。
 宮崎監督は、アニメーション作家として蓄積した三十余年の経験と技術の全てを注ぎ込んで、次世代に力強いメッセージを伝えたのである。

(参考/拙文「『もののけ姫』を読み解く」コミック・ボックス増刊号掲載)

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「ふいご」
江戸時代のタタラ場。両脇は「天秤吹子」と呼ばれる送風装置。
(先大津阿川村山砂鉄銑取之図)

「歌合」
炭俵をかつぐ炭売りの女性職人「小原女」。室町後期に描かれた。
(『七十一番職人歌合』より)

「いしびや01」
中国元代にあった大名城で発掘された銅銃。石火矢の原型と思われる。
(雄山閣発行『図解古銃事典』より)

「いしびや02」
洪武十年、南昌で作られたとされる銅銃。作中の石火矢の原型が伺える。
(雄山閣発行『図解古銃事典』より)

「像」
江戸時代に作られた蝦夷の長の首像で、「悪路王」と名づけられている。斬殺されたアテルイの伝説をもとに作られたらしい。宮崎監督は、これを参考にして、アシタカにマゲを結わせたらしい。
(鹿島神宮蔵)
所は無数にある。機会があれば改めて詳述してみたい。

禁無断転載



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