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『もののけ姫』批判記事の分析と反批判

文責/叶 精二

※以下の原稿は97年11月に某出版社の依頼で書いたものですが、コーナーサイズの都合等で掲載に至らなかったものです。


 『もののけ姫』批判で大変面白いのは、ほとんどが「期待はずれ」「アレルギー」の二語に集約出来ることだ。描写意図や表現、テーマや思想を正面から論証して批判したり、具体的対案を示したものは少ない。(あっても、論拠が曖昧であったり、事実とは異なる偏見に基づくものが多い。)
 中には、直感的・印象的レベルの感想もあり、評者の論証能力と趣味・嗜好がモロ出しになってしまっているものもある。にもかかわらず、「個人的意見」という断りもなしに「こうに違いない」式の断定表現が多用されているのは奇妙な現象である。観客がどんな評価を持とうとそれは自由だ。しかし、評者の中には、個人的嗜好を読者に押し付ける絶対的価値があると思いこんでいる方もおられるようだ。これでは読者に失礼だと思う。
 各評者は、一体どんな作品を望んでいたのか。「『エヴァンゲリオン』に比べてつまらない」「『ナウシカ』『トトロ』の方が良かった」「知らないこと・面倒なことは考えたくない」という類のアンチ式指摘から、翻って各評者の対案を組み立ててみると、その評者の「期待通りの宮崎作品」がどんなものだったのかが見えてくる。そこから、批評の基盤の深さも伺い知れるのではないだろうか。
 ここでは、「読者諸氏には各評価に縛られて欲しくない」という思いから、代表的な不満評に一言アンチを述べさせてもらった。ただし、誌面の都合上、抜粋した記事は短文や対談に限っている。興味のある方は、各原本の全文を探して読んで頂きたい。
 どちらの意見が正しいか(あるいはどちらも間違いであるか)は、劇場で作品を観た上でみなさんご自身で判断してもらうほかはない。

斎藤美奈子氏「オトナ心をくすぐる宮崎アニメ。作者の妄想にどこまで付き合う?」Pink/11月号(マガジンハウス)

「これらのアニメの特徴は、子どもではなく、むしろ大人(の男)が熱狂しているということです。」
「問題はこの「荒らぶる神々」のチンケさです。」
「身体じゅうから無数のヘビが湧き出している。「ほーら気持ち悪いでしょ。ね、ね、虫酸がはしるでしょ」といわんばかりの様相で。」
「それはそれは先生の毛穴から噴き出すヘビをたっぷりと見せていただいてありがとうございます。」
「〈人を寄せつけない深い森〉〈荒ぶる神々の森〉というわりに、この森は貧乏ったらしいのです。」
「たぶん宮崎監督は、自然観察よりも、想像力を優先するタイプなのでしょう。せっかく森に赴いても、宮崎さんの虫眼鏡は、自然そのものではなく、ご自身の大脳の中にむいているにちがいありません。」
「じつは『もののけ姫』には文科系の半端なインテリおじさんを喜ばせるアイテム、具体的には考古学・歴史学・民俗学などの新しめの知見が仕込まれているのです。」
「ちょっとインテリなおじさまたちが、ここ十年ばかりの間に勉強して「えっへん」という気持ちになれた知識の片鱗が、『もののけ姫』には、うまいこと取り入れられているわけですね。」
「そこにあるのは、「おやじの妄想を大画面で見るおぞましさ」です。」


筆者注)「荒らぶる」「荒ぶる」、「宮崎さん」「宮崎監督」なとの不統一表記は原文通り。

● 斎藤氏が生理的に不快だったことはよく分かるが、「じゃあ、どうすれば良かったのか」という積極的具体的対案はほとんどない。制作スタッフへの敬意も感じられず、「おぞましいもの、イヤ」「おやじ、イヤ」という個人的アレルギーの押し付けに感じてしまう。各学説そのものの評価を棚上げにして、その読者を忌み嫌うのは酷い偏見では。
 指摘されている「自然そのもの」とは何とも曖昧だが、一体どんな森のことだろう。指摘箇所から対案を組み立てれば、ゴージャスなジャングル風呂のような〈人を寄せつけない深い森〉に、(ファンタジーはいいのだそうだから)可愛らしく無害な森の小人でも出て来ればいい―しかも話は世の中の「新しめの知見」(斎藤氏の挙げている各論は、全て十年以上前のものだが)とは一切無縁でないといかん、ということになるのでは。これでは、ディズニーもびっくりのレトロな嗜好だ。さらに、技術評価の視点も全くないので、“止め”だらけのリミテッド・アニメでいいのかも知れない。
 また、斎藤氏は熱狂しているのは悪趣味の文科系インテリおじさんと断言。これに依拠して同性の共感を訴えているが、興行サイドの報告は「観客は女性と家族連れが多い」と正反対。斎藤氏には、日本人の一割もの観客が、一部インテリおやじの謀略的扇動に踊らされ、見たくないものを我慢して見ている愚民に見えるのだろうか。とすれば、随分女性観客をナメた非現実的指摘で、こちらの方が自身のアレルギー反応を「えっへん」と感じてしまった「オトナの妄想」では。


堀井憲一郎氏「『もののけ姫』は本当に傑作か」週刊文春/9月25日号(文藝春秋)

「見てて、この世界に行きたいとは思わなかったもの。ナウシカやラピュタやトトロは、見てて、行きたかったのにね。」
「誰に自分を投影して見ればいいのか、わからなかった。」
「読みにくい文章をありがたがってるようなものだぜ。おら、読みやすい文章が偉いと思うよ。」

● この評は、堀井氏自ら語られているように明解である。
 要するに、複雑な話は見たくない、感情移入したかったのに出来なかった、だから傑作ではないというストレートな評価。「分からなかった」という感想を、何の掘り下げもなく世間に晒す正直さは、放言や中傷に比べれば結構なことだ。ただし、名指しで批判めいたタイトルを冠するのならば、最低限、積極的な対案を示すべきだと思う。堀井氏にとっては、感情移入出来て、単純明快な話ならば例外なく傑作なのだろうか。とすれば、多くの歴史的名作も皆駄作という評価になりはしないか。


石堂淑朗氏・切通理作氏対談「宮崎駿 もののけ姫/戦後民主主義の申し子が産んだ「説教ブシ」」 
諸君!/10月号(文藝春秋)
(石堂氏の発言のみ)

「三十代の夫婦が「あんな映画に二時間並んだ上に、二人で三千六百円も取られて損した」と盛んに怒っていた。カミさんの方の台詞がすごく印象的でしたね。「メッセージばかりで、ドラマがない」って。」
「『もののけ姫』には、主人公と呼べる人物が出てこない。」
「宮崎さんの考え方は、僕には現実離れしているとしか見えない。エッセイの中でも「縄文時代が一番よかった」なんてことを書いていて、今回の映画も室町時代を舞台にしていますが、僕は縄文時代といえば、まず人が人を喰っていた時代だと思いますから。」
「彼のエッセイにこんな一節があってびっくりしたんです。日本の学校教育は明治から全部間違っている、例えば、小学校のグラウンドはもともと軍隊の練兵場として作られたものだ、というんですね。僕は彼より九歳年上なのに、そんな記憶はない。小学校のグラウンドは、もとから運動場なり遊び場として作られたものですよ。
 その文章を読んだ時、ああ、六〇年安保世代の人は、こういう粗雑な理屈を平気で言うんだな、と呆れたものです。」
「宮崎さんのアニメでは、男も女もみんな同じ顔してるでしょう。あれが象徴的でね、アメリカから入ってきた男女共学にどっぷりと浸かってきた世代の感覚が、すごく滲み出ている。」

● 『もののけ姫』をタイトルに冠していながら、半分以上『新世紀エヴァンゲリオン』の内容について語っている奇妙な対談。同種の論旨混同記事は実に多いが、編集側は最低限「比較」と断るべきであろう。なぜ比較でしか作品を語れないのかも実に興味深いが、ここでも物語に対する「親近感」が評価基準で、アニメーション技術論の言及はほとんどない。
 全体に亘る石堂氏独特のドラマ構築論や映画論、世代論や世評については管轄外なので発言する気はないが、指摘箇所の事実関係に関して疑問を拭えない点が幾つかあるので、これらに限って書きたい。
 観客の話を引用された評価については、たった一件のサンプルケースを自己評価に結びつけるのは無理があるのでは。私自身も映画館で同種の不満を幾つか聞いたが、「ドラマに感動した」「並んで良かった」と満足して語っている観客(中には三十代夫婦も老夫婦もいた)の方がはるかに多かった。この事実は「無視すべき例外」なのだろうか。
 「縄文時代といえば、まず人が人を喰っていた時代」という発言は、私の浅い知識に照らしても、かなり疑問である。近年の考古学や環境考古学の研究書を読む限り、縄文時代の食人習俗を示す記述は見かけない。西アジアを覇権主義の文明が席巻していた時代に、日本では狩猟採集を中心とした小規模集落の共同体を作っていた。「森に喰うものがたくさんあった」という科学的指摘も多く、人を喰わずとも生きていけた筈では。「自然との共生の思想を縄文に学ぼう」という主張は、宮崎監督固有のものでなく、今や大手新聞各紙でも見かけるが、氏は独自の反証データをお持ちなのであろうか。現状では食人習俗が無かったとは言えないが、あったとも言えないのでは。もし、単に縄文=未開=カニバリズム(食人習俗)というイメージ連鎖だとすれば、近年の考古学的発見を無視した「粗雑な理屈」と考えざるを得ない。
 「グラウンドが練兵場として作られた」という宮崎監督の「エッセイ」は読んだことがないが、筑紫哲也氏との対談(『出発点』巻頭に収録)に同種の発言がある。監督は、朝礼の習慣について異議を唱える過程で、「軍事教練をやるためにグラウンドは作られ、運動会というのは軍事教練の延長上として行われたものですから」と述べている。対談相手の筑紫氏は監督より「六歳年上」だが、これに異議を唱えていない。
 1886(明治23)年、義務教育制度が施行され、以降全国各地に小学校が建設された。この制度は国家主義濃厚の小学校令に基づくもので、1890年発布の教育勅語を基本精神に据えたものとされる。つまり小学校は、当初から富国強兵・軍事大国化を支える役割を果たしていた。朝礼の起源が軍の点呼であるのは、多くの知識人が指摘していることだ。(参考/山川出版社『日本史研究』、平凡社『平凡社大百科事典』他)
 「グラウンドが何の為に作られたか」の正確な論証は、地域別・学校別の複数データを検証しなければ何とも言えないが、建設年代によっては軍事教練との関係も皆無とは言えないのでは。石堂氏は、ここでもたった一件のサンプル(ご自身の学舎での記憶)を反証として提示し、「粗雑な理屈」と断定されているが、氏の主張が全小学校に適用される普遍的・客観的事実(「緻密な理屈」?)ならば、もっと広範なデータに基づいて言及すべきではないか。
 また、この対談で宮崎監督は「明治以降は全部間違い」とは語っておらず、「洗い出して、残すものと止めるものを整理すべき」と語っている。石堂氏の引用は、この対談ではないのだろうが、同じ論旨でも随分とニュアンスが違うのは不思議だ。口頭では不正確な可能性もあるので、具体的な引用資料を注記などで示して頂きたかった。
 最後の「男も女もみんな同じ顔」とは、何の具体例も例外も指摘されていないので、「アニメ嫌い」の同氏が「キャラクターの顔を識別出来ない」という意味にも受け取れる。これでは、台詞のないシーンや群衆シーンでは頭髪・服装等でいちいち主人公らを確認しなければならないし、アップは誰やら分からず、とてもドラマどころではないのでは。外国映画を見慣れない観客が漏らす「白人は皆同じ顔に見える」という類の不満とどう違うのか疑問に思う。
 ちなみに、私個人は、「男も女もみんな違う顔」に見えてしまった。


岡田斗司夫氏・田中公平氏・民田氏 座談会「OTA-KINGDOM」週刊アスキー/8月4日号(アスキー)
(岡田氏の発言のみ)

「主人公は、森と人間の共存はできるのかと悩むんですが、途中から、人間が嫌いなもののけ姫が、人を信じて主人公の思いを受けとることができるかというふうに、いつのまにかすり代わってしまう。主人公は、自然と人間の共存という問題はすっかり忘れて、もののけ姫とラブラブになるんですよ。おい、待て(笑)。後で、プレスシート見たら、宮崎さんも、そんな問題に解決はないと、書いてる。ないんだったらテーマにするな!」
「照葉樹林論や縄文期の人間のこととか、ものすごい勉強してる。思想的なものも含めて、このぐらい描かなきゃいけないという使命感はわかるんだけど、それを語るべき人じゃないと思うな。それはうまいラーメン屋に哲学語らせるようなもので、ラーメン屋が「子供の教育も俺に言わせりゃ」とか(一同笑)。」
「ついに宮崎さんが、本気で自分の暗黒面やドロドロした部分を全部描くという噂を信じたオレがバカでした。表現は過激だけど、隅から隅まで健全だよ。」
「そんな解決できない問題出すより、最初から、怪獣と一緒に住んでる美人の姫さまをナンパするんだ!という話にすりゃ、もっと爽快だったのに。最後は室町幕府がガーッと襲ってきて、「行け、怪獣!」そういうの観たいな(一同笑)。」

● この対談では、岡田氏が諸手を挙げて技術面を評価されているが、同時に前掲のような批判めいた指摘もされている。しかし、この指摘はおかしい。
 サンが「人を信じて主人公の思いを受けとることができるか」と悩むシーンなど全くない。サンは「人間は許せない」と最後まで言明している。サンにとって、アシタカへの好意は例外中の例外で、人間全体への好意には直結しない。(「シシ神が癒したら人間を許すのか」という猪神たちと同じ疑問ならば、まだ分かるが。)逆に、アシタカの方が「サンと共存出来るか」と悩み続けたのではないか。その悩みは、「森と人の共存」にも直結していたと思うが。アシタカも最後までアザの脅威と葛藤し続けるわけで、どこで何がどう「すり代わった」のだろうか。
 「もののけ姫とラブラブになる」シーンとは、どのシーンのことだろうか。この件については、むしろ、「なぜラブラブのエロチック・シーンがないのか」と池田憲章氏や切通理作氏が不満を表明されているくらいである。もしかすると、口移しで干し肉を食べさせるシーンのことだろうか。あれが、重病人と看護者が、互いの立場を忘れてラブラブになっているシーンに見えたのだとすれば、氏はかなり繊細かつ過敏な感性をお持ちの方のようだ。
 「そんな問題に解決はない」とは何を指しているのか不鮮明だが、個人的なラブラブで世界は救えないという自明の解釈だろうか。「解決不能の問題を扱ってはダメ」という主旨なら、宮崎監督の意図とは相入れない“予定調和待望”の立場と解釈するほかない。
 また、「照葉樹林論」は正確な用語ではないので、「照葉樹林文化論」「照葉樹林文化複合」などと記すべき。「縄文期の人間とか」も抽象的言い回しなので、「語るべきかどうか」を判断された根拠が不明。学説自体の評価が全くないのは、斎藤氏の立場と共通している。
 岡田氏の「ドロドロしていない」という不満は、斎藤氏とは正反対の立場で興味深い。おぞましさが物足りない、もっと不健全なものが見たいという要望に受けとれる。とすれば、どんな内容のおぞましさを期待していたのか具体的に明らかにすべきではないか。
 氏の望む宮崎作品(対案?)は、前掲のような怪獣特撮的な(ドロドロの?)時代劇らしい。氏にはレトロなサブカルチャーの組替・再生産から決別した、現代社会を照らす作品を観たいという欲求は全くないのだろうか。
 なお、私個人は、閉塞感漂う時代にあっては、怪獣特撮的アニメより、ギャグとは言え「ラーメン屋の哲学」の方がよほど新味があると思う。


「ポスト倶楽部/シネマ」週刊ポスト/7月11日号(小学館)
(評者は「K」とだけ記載)

「つまり狼少女みたいな存在であるが、その造形が、これまでのアニメのヒロインたちに比べても浅い気がした。宮崎監督の永遠のテーマともいうべき「環境問題」に偏りすぎて、その分少女と若者との愛のドラマが物足りない。」

● この評も、岡田氏とは逆にラブシーンの不足を嘆くものである。「環境問題」とは、何とも抽象的な用語だ。余りにも展開不足で、評者の不満の内容が計りかねるが、「これまで通りの造形のヒロインと若者のラブストーリーが見たかった」とでも解釈すべきか。つまり、80年作の絵本版から飛躍しないで欲しかったということか。


追 記
 他にも、批判めいた記事は多々あるが、同じような内容の不満を散らした感想文も数多い。最終的な成否の判断は観客に委ねられてはいるが、最低限検証に基づく真摯な批判を望みたいものである。

      


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