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宮崎作品のアニメーション技術考

安藤雅司氏インタビュー

文責/叶 精二

注)この文章は「フィルムメーカーズ6/宮崎駿」(99年3月17日発売/キネマ旬報社)に掲載されたものです。「1」で宮崎作品のアニメーション技術解説のガイドラインを提示し、「2」で実物の原画を載せて特徴を分析しています。ただし、版権の問題で「もののけ姫」の原画を掲載することが出来ないため、図版の解説テキストのみとなっています。ヴィジュアルと一体の原稿であったため、判りにくい文章となっていますが、どうか御了承下さい。原画の実物は本誌で御覧頂きますよう、お願い致します。


1. 序文

●はじめに

 日本のメディアではアニメーション映画を作画技術の面から採り上げる論調は極めて乏しい。専門的な分野ということもあって評論する側も研究・分析に時間がかかるためか、あるいは地味な内容となることが避けられないためか、ストーリーやキャラクター紹介、声優の人気などを採り上げることに終始しており、映像に血肉を与えたアニメーターの創意・工夫にはほとんど関心が払われない。人気スタッフの業績も人物紹介のインタビュー程度で特別注目はされない。
 宮崎駿監督作品の場合も例外ではない。「もののけ姫」の大ヒットでメディアが洪水のごとく採り上げて来たにも関わらず、ほとんどが著名人の「好き・嫌い」のコメントと物語や設定の解釈に終始して、技術的な分析・評価に踏み込むことはなかった。
 アニメーションの作業工程の七〜八割は絵を描く作業である。ひたすら絵を積み重ねることによって思い描く動きを作り出す。物語や設定の構築も、絵作り・動き作りに大きく制約されることは言うまでもない。宮崎作品のアニメーション映画、あるいは映画全般に於ける独創性・特殊性の多くはここに依拠していると言ってよい。つまり、宮崎作品の魅力の七〜八割は未だ解明されていないのである。

●フルアニメーションとリミテッドアニメーション

 宮崎作品をはじめとするスタジオジブリ作品は、今日の日本のアニメーション作品全体から見れば本流どころか異端である。それは東映動画創生期の正統派の《フルアニメーション》の流れを継承しているほとんど唯一の潮流であるからだ。ここに、宮崎作品と他のアニメーションとの決定的な違いがある。
 アニメーションは、想像上の動きや演技を連続した絵として大量に描き、フィルムに撮影したものを実写映画と同じく1秒あたり24コマの速さで映写し、そこに発生する視覚のイリュージョンによって成立している。つまり、映写室での作業は実写もアニメーションも全く同じ原理なのである。近年デジタル化が進み、フィルムがテープに代わっても1秒24コマの速さで映写されることには変わりはない。
 この1/24秒に基本的に12枚(2枚づつ同じ絵を撮影する)もしくはそれ以上の絵を描く―という技法が《フルアニメーション》といってよい。人間のあいまいな視覚では実際に24コマ全て動かさなくても、その半分の12枚の絵で充分なめらかに動いて見えることから、非常に速い動き以外は1秒/12枚で間に合うのである。世界を席巻したディズニーはもとより、ソ連の「雪の女王」やフランスの「やぶにらみの暴君」など歴史に残る長編のほとんどはフルアニメーションの技法で作られて来た。フルアニメーションは莫大な手間と時間と資金を要するため、世界的に見ても製作される本数は限られていると考えられてきた。日本の東映動画もフルアニメーションの技術から出発し、人員を増やしてフル稼働で制作したが、年1本の長編と短編数本がやっとであった。
 ところが、日本ではテレビ進出にあたって手塚治虫氏が1/24秒に8枚以下の絵ですます(つまり同じ絵を3コマ以上撮影する)《リミテッドアニメーション》を採用。初のテレビシリーズ「鉄腕アトム」を製作し、大成功をおさめた。主人公がロボットであったことが幸いしたのか、少々不自然でギクシャクした動きでも(ロボットだからと)異議を唱える者もなく、逆に熱烈な歓迎を受けたのである。いわば日本では3コマ以上のリミテッドアニメが「鉄腕アトム」によって社会的認知を得た、と言っていい。
 こうして東映動画を含む同業他社も一斉にこの手法に追随した。企画さえ新しければ少々手を抜いても高視聴率がとれることも手伝って、それまで不可能と考えられていた毎週1本(約22分)の製作は慣例となった。一方、金喰い虫であった東映動画のフルアニメ長編は、七一年の「どうぶつ宝島」を最後に制作されなくなってしまった。これが、後の「世界最大のアニメ量産国・日本」の出発点であった。
 1秒8枚のリミテッドでも単純計算で1本当たり「1分=60秒×22分×8枚」で一万五六〇枚もの絵を必要とする。一週間足らずでこれを描き切るのは当然不可能。早い時期から作画枚数は徹底的に削減され、やがて三〇〇〇〜四〇〇〇枚が常識となって行った。もはや1秒あたり五〜二枚程度(4〜12コマ撮影)は当たり前。本来の意味で「リミテッドアニメ」とも呼べない、《日本式超リミテッド》が定着した。制作現場では、極端な省力化のためにありとあらゆる絵の省略法が実践されて来た。
 人物の喜怒哀楽や象徴的シーン(変身・合体・キメ技など)を記号化して何度も使い回す「バンク・システム」、絵が数秒間静止する「トメ」等が多用され、顔や体だけは静止画で口だけを動かす「口パク」が普及した。手間のかかる群衆シーンやロングショットは姿を消し、派手なアップの短いカットを積み重ね、描き込んだ静止画やスローモーションで飾るのが常套技法となった。体を使った演技や動きの面白さではなく、出来る限り少ない絵で台詞やモノローグに頼った物語が主となった。
 また、漫画原作や特撮映画の影響もあって、コマとコマの間の飛躍に等しい「時間の寸断」が平然と行われるようになった。たとえば、「地面を蹴って飛ぶ」という一連の動作は、動きの連続性によって重力からの解放感を表現し得る「アニメーションならではのシーン」として構成することが可能であった。しかし、「地面を蹴る」「飛ぶ」という「本来は繋がらない」二つのアップショットに分解した結果、肝心の浮き上がる瞬間の解放感や蹴り上げる力の表現などの「最も重要な時間」は削除されてしまったのである。観客は寸断された部分的な絵を頭の中で再構成して動きを見出す(あるいは強烈な思い込みによって補う)視覚訓練を行うようになり、それが自然なアニメートなのだと錯覚するようになった。あるいは、この省略が漫画を読み飛ばすリズムに合致したのかも知れない。

●何故「動かないアニメーション」が好きなのか

 七〇年代末以降は「アニメブーム」と呼ばれた空前の大量生産時代に突入し、技術的な改善は更に絶望的になった。演出の個性は物語の複雑化や設定の煩雑化へと突き進み、アニメーターの個性はカワイイ・カッコイイ(異様な)キャラクターの造形だけに進化を遂げた。利潤の集中する玩具メーカー・放映局主導の企画、徹底的に分業された上に低賃金で大量の作業をこなさなければならない職場環境などを考えれば、現場に創造の余地は乏しかった。
 こうした状況は、超リミテッドの作品を熱烈に認知・支持する観客との合作でもあった。書店にはアニメ雑誌が並び、ファンのサークル活動は異常な活況を呈した。今や出版業界・ゲームソフト産業等とのリンクにより、年間数百億円の巨大なアニメ市場が形成されるまでに至っている。
 また、日本のアニメーションは週刊サイクルで莫大に提供され続ける漫画文化と密接に関わって来た。「動かない絵」と「イラストレーション」で構成された漫画に夢中になって来た観客は、その忠実な再現を望んでいたのであり、初めから「アニメーションの魅力」を求めていたわけではなかった。色がついて、声と音楽・効果音が挿入された「豪華な漫画」を追体験したかったのかも知れない。そう考えると、わざわざフィルムを漫画に構成し直した本が売れたり、「パロディ漫画」という形式で愛着ぶりを表現する志向も理解出来る。キャラクター商品や声優に高い関心が集まり、肝心の動きには全く関心が向かないことも当然かも知れない。
 これは実に根深い問題であり、漫画が全世代に圧倒的な支持・共感を得ている日本独特の文化状況を抜きにしては語れない。論を進めれば、歴史的に静止画や様式美を好む日本人独特の美意識の問題にまで突き当たるのかも知れない。一面、迎えるべくして迎えた末路なのかも知れない。
 ともあれ、こうして今や毎週五〇本もの新作テレビアニメ(九九年二月現在)が生まれており、一見華やかに見える。しかし、大量生産・大量消費と引き換えに、アニメーション表現は手足を縛られてしまった。動きの連続性の中にリアリズムやダイナミズムを持ち込むという発想も技術も衰えてしまった。観客にも「いつも見ているリミテッドこそが気持ちのいいアニメーションなのだ」という《フルアニメ・アレルギー世代》さえ生まれている。事態は、若い世代から「もののけ姫」に対して「アップが少ないから手抜きだ」(「キネマ旬報/九七年九月上旬号」読者欄参照)という逆転した感想が噴出するまでに進行している。
 余談だが、いわゆる《ジャパニメーション》なる造語は、アメリカでは日本製の(暴力・SEXを是とする)リミテッドアニメーションに用いられることが多く、ジブリ作品には適用されていないそうだ。その語源は民族差別用語である“ジャップ”(の作った)アニメーション。つまり、日本独特の超リミテッドアニメをフルアニメと区別する差別用語が「ジャパニメーション」のようだ。(ちなみに、ジブリ作品は単に「アニメーション」と呼ばれ、「ジャパニメーション」とは呼ばれない。)
 昨今「世界に誇る国民的文化」などと一部で語られてはいるものの、歪んだ発展をとげた歴史的実態についての言及は乏しい。少なくとも、「アニメ」の一語で全作品を均質化し続ける日本のメディアの杜撰さは改める必要がある。何故日本人はこれほど動かないアニメーションが好きなのか、何故漫画の忠実な再現をアニメーションに望むのか、何故アニメーションに暴力とSEXを持ち込んだのか―等の大いなる疑問は、今後多角的な研究・討議が必要な問題ではないだろうか。
 以上、ごく簡単ではあるが、《フルアニメ》と《リミテッドアニメ》の違いに触れてみた。もちろん、フルアニメーションにも枚数を水増ししただけの駄作は多々あり、テレビのリミテッドにもトメやポーズの機微を生かした佳作もあるのだが、アニメーションの本来的な特質は、やはり「手間と思いを込めた絵」が「生き生きと動く」ことの醍醐味であるべきだろう。独創的な動きの表現こそ小説や漫画表現とは全く異なるメディア特性というものではないだろうか。

●ライブアクションを越えるもの

 宮崎駿氏は、高畑勲氏・大塚康生氏・小田部羊一氏らと共に、テレビアニメ時代にあってもフルアニメーション技術の継承を目指し、妥協を許さない独自路線を歩み続けて来た。
 1本三〇〇〇枚〜四〇〇〇枚が限度と言われるテレビ作品(これは現在でも変わらない常識)にあって、常に五〜六〇〇〇枚以上を維持し続けたと言われる「アルプスの少女ハイジ」や「母をたずねて三千里」、七〇〇〇枚突破もザラだったと言われる「未来少年コナン」、一万枚〜一万五〇〇〇枚も費やした「名探偵ホームズ」など。
 これらの諸作品では前述のような省力化を可能な限り避け、自然現象や時間と空間の連続性を重視したアニメーション技術が駆使されていた。アップであっても記号化されない微妙な表情の変化を追求し、生身の肉体に生き生きとしたデフォルメを加えることによって日常を冒険とすることに成功していた。それは、限られた条件と時間の中で、非妥協的に質の低下と闘った成果であった。
 宮崎氏は、当時から驚異的な作業量を驚異的な徹夜の連続でこなし続けていたと聞く。作画枚数だけでも異常だが、作画以前のレイアウトシステムまで徹底して行い、横移動が中心になりがちなテレビに縦割り構図を持ち込むなど野心的な実験さえ繰り返していた。いくら描いても思い描く動きを描き切れない不満があったのだろう。完成作品の質も予算も仕事量も全てに於いて、まさに異端の仕事ぶりであった。
 現在のジブリ作品では制作条件が緩和されたものの、国内での位置は基本的には変わらない。フルアニメーションの長編映画を作り続けているスタジオはジブリだけである。もちろん、予算を獲得してフルアニメーションを目指す動きも幾つかはあった。しかし、フルアニメーションの技術は日本的なリミテッドとは根本的に違うため、一挙に技術転換を遂げることは難しい。枚数を水増しして一律2コマにしたところで、「手間と資金がかかるだけで、アニメートは失敗」というケースは多々あった。宮崎作品では、叙情的シーンは3コマ、激しいアクションや視界の移動では1コマという具合に、緩急自在の使い分けが行われている。どのタイミングでどこの枚数を何枚増やすのか、どんなレイアウトが適しているのか、動きの設計と空間の構築に関する技術的蓄積に於いて、高畑氏や宮崎氏の東映動画以来三十余年の技術的ノウハウとは比肩しようもない。
 ディズニーを始めとした多くのアメリカ産長編は、専らリアルな芝居シーンを一旦実写で役者に演じさせたフィルムをひき写す《ライブアクション》の技術に頼って来た。ところが、人間の動きはコマに分解すると複雑なムダが多く、そのまま絵にすると奇妙な違和感のある動きになってしまい、むしろアニメーションの特性は失われてしまう。ディズニーもその克服に試行錯誤して来たが、「動物は極端にデフォルメされた動きで、リアルな人間の芝居はライブアクション」という根本的志向は未だ変わらない。また、ディズニーにはミュージカルシーンを最大の見せ場として、静かなシーンでも常に動かさなければならないという伝統的制約がある。製作費と作画枚数では勝っても、演技の完成度で勝るとは限らない。ディズニーのアニメーターたちが宮崎作品に憧れる要因もこの辺りにありそうだ。
 一方、宮崎氏らは終始一貫して「眼で観察した動き」の構築を追求し、独自の創造性によって全ての芝居を設計して来た。観察による動きの整理によって、実写とは異なる独特の動きのタイミングを生み出したのである。ライブアクションと無縁のフルアニメーションを作り続けているという点は、世界に類例のない特質と言える。
 よく語られる飛行シーンなども動きの創作の一例である。フルアニメーションの伝統という土台の上に、卓越した画力と特異なタイミング設計によって実写や特撮・CGでは成し得ない独特の表現方法を確立したと言ってもいい。
 宮崎作品の感想では、よく「飛行シーンに解放感がある」とか「雲や風の描写が素晴らしい」という内容が聞かれるが、評論家諸氏までが「少年の心を持っている」「自然を愛している」などと全て抽象的な人格評価に結論づけてしまうのは残念なことである。「解放感」は自然愛好の度合いによって直接生じたものではなく、卓越した動画技術のタイミングによって生じるものである。
 ここでは、スタジオジブリの御協力を得て宮崎監督のアニメーション技術について実例を元に若干の考察を試みた。一つのシーンにどれだけの技術が費やされて来たかを分析してこそ、どこがどれだけ優れているのかが初めて分かるのではないだろうか。

宮崎作品に於ける作画部門の作業工程図


1. 絵コンテ

宮崎監督によって描かれる作品の源泉と言うべきもの。
カメラワーク、台詞、特殊技術、カットの秒数などおおまかな演技設計がなされる。宮崎作品の大きな特徴は、徹底的に緻密なコンテであり、最終台詞もここで絵作りと並行して決定される。通常のアニメーション作品では「マルチョン・コンテ」と言われる通り、キャラクターの識別不能の落書き程度の絵で、台詞・カメラワーク・秒数を描きこんだだけのものが多い。宮崎作品は作品の出発点から違っているのだ。

2. レイアウト

該当シーンの原画を担当するアニメーター(原画マン)によって描かれる。絵コンテの1カット分を動画用紙の実寸に描き起こす作業。正確な人物・事物・背景の空間と位置関係と動きの要点把握を意図して行われる。ここでも、宮崎監督と作画監督と原画担当者による論議が行われ、描き直しになることも多い。
大多数のアニメーション作品では、このような行程を全カットで行うことはあり得ない。(つまり、ラフのコンテからいきなり原画を描くことになる。)

3. 原画

作画は、動きのキーポイントを描いた「原画」と、原画の間を埋める「動画」によって成立する。原画は、一言で言えばコンテを具体的な動きにする作業。動く人物・事物各々に対応し、指定されたカットのコマ数に収めるための動画枚数を計算し、各カットのキーポイントとなる画を描く。動きの速度、演技の設計はこの段階でほぼ決まる。
動画枚数を設計したタイミングに沿って分割指定する作業を「中割」と呼ぶ。たとえば、一動作を少ない枚数で描けば素早い動きとなり、枚数をかければゆったりとした動きになる。これを応用させてあらゆるタイミングを作り出す。
ジブリ作品の場合は、クイック・アクション・レコーダーという機械で原画を撮影し、線だけのビデオ映像によってタイミングを調整することもある。

4. ラフ修正

宮崎監督によって描かれる。仕上がった原画をもとに、演技設計の微妙な差(デッサン・動き・コマ数)などをラフで描き直す作業。宮崎作品の卓越したアニメートのタイミングは主にこの過程で生み出される。
この時点で原画が原画マンに差し戻され、3〜4の行程が繰り返されることもある。また、原画の出来次第では、宮崎監督や作画監督による丸直しの作業になることもある。
大多数のアニメーション作品では、原画修正は作画監督の仕事であり、監督が事前に原画をいじることはまずない。この行程だけでも2〜3人分の仕事量であり、驚異的な体力と画力を必要とする。宮崎作品の最も特徴的な行程と言える。

5. ラフのクリンアップ(修正原画)

宮崎監督のラフ修正を、キチンとした線に拾い直し清書する作業。作画監督が担当する。宮崎監督が放棄した細部の演技設計を作画監督が補完する作業も多い。

6. 最終原画(修正の修正原画)

「もののけ姫」のように複数の作画監督で作業をする場合、チーフ作画監督が最終的な微調整を行う。5の行程と兼任することも多い。キャラクターの顔や小道具の統一、演技の最終的なチェックなど。ここで完成された原画が動画へ回される。
大多数のアニメーションの作業行程では、原画からこの作業に直結することになる。(つまり、4〜5の作業は省略されている)

7. 動画

原画(または作画監督)の指示によって、原画と原画の間を指定枚数(「中割」と言う)に沿って描く作業。原画の設計を最終的な動きとして完成させる作業。
ジブリ作品の場合、動画段階で原画の指定やデッサンのミスが発見され、作画監督に差し戻されることもあると言う。

8. 動画チェック

動画の仕上がりをチェツクする作業。作画監督と同様、細部のニュアンスの乱れなどを微調整する。



2. 宮崎作品の動画技術の実例

―解説/安藤雅司氏―

 宮崎作品の最大の魅力は、一枚一枚の原画の間に発生する「生きた動き」にこそある。それは、具体的にはどのような作業によって生み出されているのだろうか。ここでは、「もののけ姫」のチーフ作画監督を務めた安藤雅司氏の証言を交えて宮崎監督の動画技術の一端を見てみたい。

 ここに掲載したのは作品の後半部に登場するカット(以下「C−」)1123の原画(元原画・修正原画)である。
 タタラ場を後にしてエボシを追うアシタカが、追手の鎧武者と対決するシーンで、みなぎる緊張感の中で一瞬の閃光の後に武者の腕が斬り落とされる。この約2秒の短いショットは、様々な意味で他のアニメーションでは滅多に見られない技術を駆使したカットになっている。
 漫画であれば、衝突の瞬間を迫力ある1コマで表現するだけで充分だろう。これに習ったリミテッドアニメ表現の一例をあげてみよう。まず、カットを「長刀を振る武者」「衝突する瞬間」「斬れたショック」と更に短く三つに分解する。具体的には、武者が長刀を振る真正面からのカットを2〜3枚、アシタカと武者が刃を交える瞬間を真横から写したトメが1枚、その後はショック表現の光が2枚、そして集中効果線を2枚程度。作画は合計8枚程度、背景は異常な空気を示す赤のベタ塗り1枚ですむ。これでも派手な効果音と音楽と悲鳴が重なれば、日本の観客は充分納得するだろう。
 アニメーションでは決定的瞬間の前後の時間と空間を創造することが生命線の筈であった。しかし、これでは時間と空間から生み出される迫力は失われてしまう。宮崎監督の演出がいかに違うか、以下順を追って解説してみたい。

 セル・アニメーションでは、複雑に動く対象をバラバラに透明なアセテート板(セル)に描き分け、撮影時に密着させて一つの立体的画面を構成することが出来る。このカットでは最大4〜5枚ものセルを重ねて撮影されている。下から順に、アシタカを含む背景動画を《Aセル》として6枚、途中から独立して動くアシタカを《Bセル》として1枚、馬の首を《Cセル》として10枚、武者の腕と長刀を《Dセル》として16枚、計33枚の絵が主要な動きに使用されている。更に、特殊効果(透過光)を《Eセル》として、アシタカが持っている刀の動きに合わせた光、最後に現れるショックの閃光を4枚で(但し複数枚分を1枚で描いているので実際にはその倍以上)描かれている。Cセル(馬)の繰り返し使用を含めると、2秒で延べ約50枚分の動画が使用されていることになる。(当然リアルな背景も別に描かれている。)この枚数だけでも先の例との雲泥の差がお分かり頂けることと思う。
 このカットの原画担当は大谷敦子氏、宮崎監督のラフを清書した修正原画が近藤喜文氏、最終修正が安藤雅司氏となっている。(つまり同じカットを四人が四回描き直している。)仕上がり具合から見て、単純計算で大谷氏の元原画が30枚、宮崎監督のラフ修正が30枚、近藤氏のクリーンアップ修正が30枚、安藤氏の最終修正が20枚程度は描かれていたように見える。設計段階から完成まで含めれば100枚以上の絵が費やされたカットではないだろうか。
 なお、極めて珍しい例だが、このカットは原画だけで構成されており動画は1枚もない。いわゆる「中なし」と呼ばれるカットで、逆に言えば動画まで原画担当が描いているカットということになる。

★★画像下用のキャプション

C−1121〜1125 宮崎駿氏による絵コンテ

このレイアウト画と「一瞬すぎて何がなんだか判らないとおもうが、残像のようにスパークと火花が画面をかすめる」というイメージの指示に従い、原画が描き起こされることになる。
ラストに「注/BGドーガ(背景動画)同じ調子でなくラストで地面せり上がれるか」と書かれているのも興味深い。風景が接近と共にただ拡大するのではなく、隆起するように迫る効果を狙ったものと思われる。

●A―背景動画の技術

 このカットの技術として、まず注目すべきは武者の主観で捉えたカメラワークである。カメラは追いかけて来た武者の馬の頭上に据えられ、馬と共に高速移動している。カメラは馬に寄り添っているため、馬の頭の大きさは始めからほぼ一定で、アシタカと風景の方がカメラに接近して来るという設計になっている。
 実写ならば馬上にカメラを据え付けるか、クレーンでズームしながら追いかけるところだろうが、前者は上下運動のブレが発生するし、後者は機械的な接近になる。どちらにせよ見た目に近い切迫感を出すのは困難ではないだろうか。まさにアニメーション技術の生かし甲斐のあるカットと言える。
 背景と人物が同時に急接近して来る画面を作り出すために、監督が採用した技術は《背景動画》である。これは、移動する背景や人物を丸ごとセルに描いて動かしてしまうという手法である。通常セルアニメーションでは、動く対象をベッタリと塗り分けを施したセルに、動かない背景は画用紙にマチエルを付けたリアルな画風にと描き分ける。背景動画は、画面のほとんどをセルで埋め尽くして動かしてしまう技法である。成功すれば、背景全体が動くため、観客が自ら高速移動しているようなバーチャルなスピード感あふれるシーンを作り出すことが出来る。
 宮崎監督は、これまでも「風の谷のナウシカ」の冒頭でメーヴェが砂漠を地上スレスレに滑空するシーン、「天空の城ラピュタ」の中盤で少女救出へと草原を高速で飛ぶフラップターのシーン、「紅の豚」中盤で飛行艇が岩場と草原を越えて海へ突き抜けるシーンなどでこの手法を採用。観客に空中移動の解放感を与えることに成功していた。誰もが見事と語る飛行シーンの魅力の一端は、この背景動画の手法にありそうだ。「もののけ姫」でも冒頭のタタリ神が村に迫って来るシーンで背景動画がふんだんに使われている。
 では、このシーンの背景動画にはどんな思いが込められていたのだろうか。

「これは最もアニメーションにしづらいカットの一つです。直前のシーン(三騎の馬が併走するカットやアシタカが煙を発見するカット)などでCGによる背景動画をやり始めていたので、このカットをどうするかモメました。セルによる背景動画は浮いてしまうのではないかと。結局、この迫って来る感じはCGでは出せないだろうということでセルで行くことに決まりました。
 背景動画はどこまで描き込むのか、どこまで動かすのかという判断が難しいんです。このカットでも、2枚にするか3枚にするか5枚にするかでモメましたね。奇数の方が動画は入れやすいのですが。
 アニメーションによる移動の面白みというのは実景とは全く違うんです。理屈通りに移動幅のゲージを計算して風景が流れていけばいいというものではないんです。近づいて来るものが単に大きくなるのではなく、近くなれば形が歪んで潰れていくように描く。円であれば、近くなって正確に弧に見えるのではなく、潰れて楕円形に開いていく。ちょっとした歪みを加えた曲線の動きを作り出す。そのラインの変化が背景動画の醍醐味なのです。このカットも、騎馬の正式な軌道は直進なのでしょうが、気分としてわざと楕円軌道になっています。その方が迫力が出るというか、出て欲しいという思いが込められているわけです。
 冒頭数枚は(背景と共に)アシタカも描かれていますが、始めは遠いので視線が上を向いているのが近づくに連れて下向きになります。移動距離をアシタカの目線で表現しているわけです。
 線で描いている最中は色々と幻想を抱きます。もの凄いカットが出来るんじゃないかとか。仕上がってみると、割合ベタッとした質感になっていたりしていることもありますね。色を塗ると色の効果で動きの印象も変わってしまうことがあります。思ったより遅くなった、速くなったということもありますね。失敗すれば、ただ塗りムラが流れていくようにしか見えないわけですから、危険なカットでもあるわけです。
 セルに対する幻想や期待を持っているアニメ好きの人達には背景動画を楽しんでもらえるようですが、素人目から見ると、何故ここの背景だけベタッとしているんだと思われることもあるようです。そう言われることは現場の人間にしてみれば大変悔しいことなんです。だから、何とか描き込みによってスピード感を出そうとか、色々な試行錯誤を繰り返した結果のカットですね。」(安藤氏談)

★★画像下用のキャプション

A−1〜4 近藤喜文氏による修正原画

武者の視線の角度変化によって、アシタカの目線も変化し、同じ位置の岩の形が変型していることに注目。また武者の移動速度に対応して草がなびく様子も細かい。この後、A−5〜6はアシタカ抜きの背景のみとなる。
実際には、この修正に更に安藤氏の部分的な再修正が加えられている。

●C―馬の演技

 前述のように、このカットは馬の頭上からアシタカを映したフォローショットのため、馬の首の大きさは変わらない。前のカットが横移動で走る騎馬のカットであるため、馬が最初からフレームインすることで動きがつながっている。時空間をブツ切りにせず、スタンダードな繋がりを重視するのも宮崎作品の特徴である。
 馬の走りは、着地の上下運動に併せたタテガミのなびき具合で表現されている。C−1〜4の動きが基本パターンとして2回繰り返された後、馬は暴れてカメラにぶつかりそうになる画が6枚。C−7〜8で、馬の毛が2、3本斬れて宙に舞っており、この瞬間にアシタカの刀が横切ったことが分かる。その後C−8〜10で武士の片腕が落とされたらしく、手綱がたるんでいる動きまで描かれている。

「馬の毛が切れるというのは、実際にはあり得ないかも知れないわけですが、スレスレの気分を出しているわけです。すんでの所で馬はよけたという印象ですね。それらしく見える動きの一つだと思います。」(安藤氏談)

★★画像下用のキャプション

C−1〜4/C−7〜10 近藤喜文氏による修正原画

カメラと共に移動する馬の首には大きさの変化がない。1〜4は走りの繰り返しで2回使用されている。7でアシタカの刀が通過、タテガミが2、3本斬られて舞う。以降、馬は暴れてカメラにぶつかりそうになる。手綱に注目。
この修正原画には、安藤氏の修正は加えられていない。

●A・B・D―アシタカの演技

 アシタカは冒頭は背景動画と一体でAとして4枚、接近してからは背景から独立してB−2として1枚、最後に長刀を受ける瞬間にDに入り込み2枚という複雑な描き分け方がされている。
 刀のからむアクションは、B−2→D−8の2枚のみで、D−9では既に刀と指だけ。特に長刀を受ける瞬間(D−8)の刀の握り方が安藤氏によって修正されているのは興味深い。宮崎氏のラフ修正では、指が逆の手(右手が左手の握りになっていた)になってしまっていたらしい。

「手の握り方が逆だったのですが、宮崎さんが『一瞬なのでこれでいいだろう』ということでラフではOKだったんです。近藤さんも、あえてそこまで直す労力を使わなくていいと。結局、自分の方がこだわりが捨てられずに直してしまいましたね。
 大きな動きは基本的に宮崎さんのラフの通りですから、あとは個人的に各所をもう少しツメるのが作画監督の仕事なんです。こういう個人的なこだわりは密かな楽しみですね。どうせ直していてもフィルムになってしまうとほとんど分からないんだろうなぁと思いながらも、どうしても直してしまうんですね。宮崎さんは武具に対するこだわりがもの凄くて、細かく修正を入れていましたね。」(安藤氏談)

★★画像下用のキャプション

B−2 近藤喜文氏による修正原画→安藤雅司氏による再修正原画

背景から独立して高速アクションに入るアシタカ。近藤氏の修正では、左脇腹の縫い取り跡(石火矢に撃たれ、サンに繕ってもらった)が消えているが、安藤氏によって加筆された。右手の刀の握り方が逆になっており、しっかり修正されている。左の指の描き方の差も興味深い。修正の微調整は、このように部分的に行われる。

●効果線の廃止

 このカットを担当した大谷敦子氏の元原画(D−7〜8参照)には、「効果線」が描かれていた。コマ漫画でスピード感を流線の束で表現するアレである。実は、この流線によってスピード感を代弁する手法の方が現代日本のリミテッドアニメーションでは主流なのである。動きの設計の正否に関わらず「日本人的記号」としてスピード感が納得される上、視線を集中させる効果もあって細部のゴマカシも可能になる。枚数も減らせる。しかし、監督はあえてこの安全な日本的手法を廃棄して、動画で見せることにこだわったようである。

「効果線がビリビリ動いていると返って気になるからでしょうね。細部をゴマカシたくないとか、動きで勝負したいという意図があったのだと思います。」(安藤氏)

★★画像下用のキャプション

作画修正の実例

D−7〜8 大谷敦子氏による元原画

直線的な効果線と残像でスピード感が表現されている。馬が描かれているのは、位置関係を把握するためと思われる。D−8でも刀などに残像が付いているのが特徴。アシタカは上から振り下ろす手刀さばきとなっている。この絵自体はコマ漫画ならば充分過ぎる迫力である。

D−7〜8 近藤喜文氏による修正原画

宮崎監督のラフを受けた清書。効果線も残像も消され、激突の一瞬は静止した感じになっている。アシタカは下から手刀を振り出す変わった技となっている。長刀を受ける場所も移動している。全体的に激しい動きの一部を取り出した印象の絵になっている。

D−7〜8 安藤雅司氏による再修正原画

手の握り方を正しく修正。ひねった刀さばきの迫力が加わっている。表情の修正は実に微妙だが、繊細な印象の近藤氏よりも野生味を感じる表情に見える。判別出来ないかも知れないが、武具の襞も修正されている。

●D―残像の特殊効果

 接近して武者が長刀を振り回す絵になると、実に奇妙な線が加えられて来る。(D−1′〜7)刀の柄や刃に部分的な効果線が描かれ、そこに残像と思われるグニャグニャした影が描かれているのである。驚いたことに、このグニャグニャまで一枚毎に変化している。グニャグニャを引き立てるためか、効果線は黒のトレス線で、影は色トレスで表現されている。要するに、カメラのシャッタースピードを上回る複雑な運動速度を表現しているということなのであろう。

「これは、宮崎さんの考え方がよく出た面白い絵です。長刀を振る方向に対して流線をつけるということは多分あると思うんですが、馬が手前に動いているという動きを加味して手前に歪んだ曲線になっているわけです。
流線や歪みを入れないで描いたとしても長刀を振り回す動作はよく分かりますが、こうした独特の工夫でスピード感の気分を表現しているのです。
 “何だか分からないけれど、もの凄いと感じられる瞬間”を作るということですね。こうした描き込みは、観客の視覚がそこまで判別出来るかも知れないと信じないとやっていられません。きっと人間の視覚の奥底にあるセンサーみたいなものが働いてくれるんだと思いこんでやるしかないんです。そんなところまで描いても意味がないと思いはじめたら終わりですね。」(安藤氏談)

★★画像下用のキャプション

D−4〜6 近藤喜文氏による修正原画

長刀を振り抜く武者の両腕を描いたカット。柄を持つ右手がインし、続いて逆手に持つ左手が映る。本来ならば長刀の振り方向に水平な効果流線が加えられるが、アシタカに向かって移動していることを加味して、歪んだ弧のような流線を描き、その間に刀の残像を描き込んでいる。
番号が「4″→1′→1″→5」と不規則なのは、1′と1″に大谷氏の元原画を生かしてはさみこんだため。
なお、手甲の形を指の山型に合わせたゴツゴツとしたものに修正したのは宮崎監督とのこと。
この原画にもほんとんどに安藤氏の微調整が加えられている。

●D・E―ショッキングな瞬間の表現

 激突の瞬間(D−8)、アシタカの刀は武者の長刀の柄に当たっているようだが、次の絵(D−9)では既に刀のドアップと飛び散る血しぶきになっており、どこがどのように斬れたのかは一切描かれていない。不思議なことに、「腕が斬れれた」とはっきり分かる肝心の絵が意図的に削除されているのである。その後は透過光による閃光になってしまう(E−6〜8)。その閃光も何故か武者の長刀の振り方向とは逆のものや、アシタカの振り方向とも無縁な斜めからの光であったりする。これは何故なのか。

「両者がすり抜ける一瞬が信じられないくらい速いわけです。理屈通りに描くと、その一瞬で何かもの凄いことが起きたというショックが生まれなくなるんです。平面構成的なシルエットで見た時にいかに複雑にからみ合うか、画面を占める線と面がどれくらい変化を持たらすかで、一瞬のショックを生み出すということです。そこは宮崎さん独特のセンスですね。
 斬り落とす瞬間をキチンと描いても大したショックはないんですね。普通に動きをつなぐと理屈になってしまうんです。ここでは、全然違うラインが入って来ることでショックを現しています。いわば、どこかが斬れた分からないダイナミズムとでも言いますか。
 白コマと黒コマを交互にはさみこむというショックの生み出し方がありますね。それと似たような効果を狙ったものだと思います。」(安藤氏談)

まさに、「わけがわからない迫力」を表現した一瞬のトリック・ショットであったのだ。

★★画像下用のキャプション

D−9〜12 近藤喜文氏による修正原画

9は、アシタカの手刀が長刀の柄をすり抜けたような不思議な絵。速すぎて斬れても離れていないということか。10では手刀の刃先が武者の腕を通過したらしき絵。11は血しぶきと光。12では既に斬れた腕が描かれている。何とも不思議な動画だが、これが独特のショックを生み出している。
ここでも、安藤氏によって帷子など武具の修正が加えられている。

E−6〜8 近藤喜文氏による修正原画

右斜め気味に表れる不思議な閃光。

●動画としての流れ

 なお、この後のカット(C−1124)は腕を斬り落とされた武士のリアルなアップ、その次(C−1125)は腕と長刀の柄が宙に舞うカットとなっており、「わけがわからない一瞬」を見事にフォローしている。(絵コンテ参照)連続して見ると、誰が見てもすれ違い様に武士の腕が斬り落とされたことが納得出来る展開となっている。
 これはほんの一例に過ぎないが、宮崎作品の動きの魅力の一端は、不自然でダイナミックなフィクションを一瞬はさみこむことによって逆にリアリズムを補強している点にあるのかも知れない。いわば瞬間的アクロバットであり、人間の視覚効果を知り尽くした職人芸と言えるのかも知れない。
 「もののけ姫」の総カット数は一六七六。単純計算でもここに掲載した作画行程が千五百回以上も繰り返されていたことになる。


3. 作画監督 安藤雅司氏 インタビユー

−緻密な作画から立ち昇る「気分」−

(聞き手/叶精二)

安藤雅司氏 プロフィール

1969年広島県生まれ。1990年、日大芸術学部在学中にスタジオジブリを受験し合格、第2期生として入社。「おもひでぽろぽろ」の動画からスタートし、「紅の豚」「海がきこえる」「平成狸合戦ぽんぽこ」「耳をすませば」で原画、「On Your Mark」で作画監督、「もののけ姫」でチーフ作画監督を担当。制作中の「ホーホケキョとなりの山田くん」では原画を担当している。

●経験と感覚で勝負する

―安藤さんは、「もののけ姫」で作画監督の大任を果たされたわけですが。

安藤 宮崎さんの作品で作画監督という名前はいやなんですよ。仕事の内容は「作画の監督」ではないんです。

―他でも以前「チーフ・クリーン・アッパー」とおっしゃっていましたが。

安藤 そうですね。動きのタイミングは全て宮崎さんがラフで直していますから、自分は線を統一するといいますか、最終的な微調整を延々やってました。「もののけ姫」は、宮崎さんにしては線が多い作品でした。アシタカにしても、矢は持っているは、弓は背負ってるは、刀は下げてるはで、付属物が多いんです。途中から顔に傷も出来ますし、胸に縫いとりの跡が付くし、手に痣は出ているし…。そのちょっとした描き忘れや小道具の統一には気を使いました。

―三人の作画監督の分担はどのようにされていたのでしょうか

安藤 (共同作画監督の)近藤(喜文)さん、高坂(希太郎)さんにずいぶん助けてもらいました。宮崎さんが原画の束が机の上に溜まってチェックをやらなければいけないのに、絵コンテにかかりっきりで出来ない時、近藤さんか高坂さんをつかまえて「こういうカットにしたいんだ」という意向を伝えて丸直しに近い修正をやってもらっていました。俺のところには、そういう丸直しの依頼は来なかったですね。こっちは、そこで上がったもののラインを微調整してました。

―宮崎さんの作品では初めて本格的にアクション・レコーダーを使用したと伺いましたが。

安藤 アクション・レコーダーを使ったのは、主に難しいカットですね。全部撮っていたわけではないんです。宮崎さんは、「アクション・レコーダーに頼るのは敗北だ」とよく言ってました。経験と感覚で勝負する人なんです。

●偶然も計算して描く

―全編大変難しいカットが多かったと思うのですが、アシタカが弦を張って弓矢を放つシーンなど、実に緊迫感が出ていましたね。

安藤 宮崎さんは弓矢をつがえてから射るまでのタメを長く取っていましたね。その方が射た瞬間の弾力がよく出ると言っていました。

―原画を見せて頂くと、射た瞬間に弓の周辺に何か飛び散っているようですが、これは木製の弓の破片がはじけ飛んでいるという表現なのでしょうか。

安藤 さあ…(笑)。何かが飛び散っているということで、弓のすさまじい強さの気分を出しているんだと思いますね。

―後半に相手の武者が射た弓を素手でつかんで射返すシーンがありましたね。つかむ手が一瞬、矢の速さに負けてから握るような微妙な動きが良かったですね。思わず息を飲む迫力でした。

安藤 あのカットでは、(アシタカが握るまで)矢を描いてないんです。手の動きだけで(高速の矢を)表現しているんです。

―それは驚きました。視線が手に集中したので全く気がつきませんでした。返って矢の弾道を描いてしまうと素早さが出ないのでしょうね。黒澤明の「蜘蛛巣城」のラストシーンを彷彿とさせる緻密なトリックですね。

安藤 あのカットは髪の毛の動きも難しかったですね。風が吹いていたので、風の方向を計算してなびかせるのと、殺気と矢の影響で髪が膨らむ感じを同時に表現しなければなりませんでした。

―宮崎作品では、殺気や怒りなどを髪の毛で表現することがありますね。アニメーションでは自然現象は全て計算しなければ描出出来ませんものね。

安藤 計算しながら、偶然も入れていくわけです。わざと不自然にしてみたり。

―なるほど。偶然も計算するわけですね。ところで、今回は架空の動物がたくさん出て来たわけですが、たとえばヤックルの走りなどは基本パターンを作ったりしたのでしょうか。

安藤 宮崎さんが、絵コンテに専念していてこちらが作業出来ない時期に、「ヤックルの走りのパターンを作っておけ」と言われて作ったことはあるのですが、作っただけでしたね。(笑)基本にして12コマとか14コマ(の走りのパターン)で、ゆったりとした動きを作ったんですが、いざ作品に入るとどんどん速くなっていきまして、平然と8コマになりました。テキパキとした、キビキビとした動きですね。宮崎さんは何を描くにしても素早い動きが好きですね。結局、ゆったりとした走りになっていたのは、はじめの旅立ちのカットぐらいでしたね。(笑)

―武者の三騎に追いかけられるシーンなど、実に素早くて飛び跳ねるような動きでしたね。

安藤 あそこでは、宮崎さんに「カモシカっぽい走りを入れたい」と言われました。走りの中に、カモシカらしく両足を蹴上げたポーズが入っていますね。(カモシカの生息地と同じような)ゴツゴツした山肌の岩場を走っていたので、軽やかに走っているという感じが欲しかったのだと思います。

―途中で、一度周囲を見渡すために、わざわざ止まって三六〇度回転しますね。あれは印象に残りました。

安藤 緊張感の中でちょっとした間合いが欲しかったのではないかと思います。馬だと完全には回転しないのではないでしょうか。半回転して、振り返って戻る動作になる。

―それもヤックルの軽快な感じを出すための演出なわけですね。足を撃たれた後、痛々しく片足をひきずる動きも印象的でしたが、実に難しい演技だったのではないですか。

安藤 そうですね。繰り返しが出来ない動きなので大変でした。自分なりにパターン作っていましたが、臨機応変でした。

―またわざわざ窪んだ所を歩かせて痛さをアピールしていたようですが、何と難しいカットを作るものだと関心しました。痛さで首が上向きにあえでいる感じがよく出ていたと思います。

安藤 宮崎さんは、架空の動物をリアルに描く人ですね。「魔女の宅急便」のジジは違いますが(笑)。

●キャラクターの気分を理解する

―二年の長丁場を宮崎さんと机を並べて仕事をされたわけですが、特に技術的に盗んだと言いますか、学んだことをお聞かせ下さい。

安藤 ものの見方は影響を受けたかも知れません。後は手が速くなりましたね。ずっと仕事が遅かったんです。「作画は量より質だ」という考えは捨てていないつもりなんですが、スケジュールを気にするようになりました。
 ただ、宮崎さんの動きは真似の出来るようなものではないんです。自分が宮崎さんの作品が好きだといっても、その通りに出来るかといえば、もちろんそんな技術も経験もない。それに、自分とは動きに対する考え方が感覚的に違うこともありますから、そういう個性は押し通したいと思いますし。いくら宮崎さんの動きを真似ても、真似でしかないことは誰にでも分かってしまうんです。宮崎さんのものは宮崎さんでしか作り出せないものです。長年一緒にやっていた近藤(喜文)さんと宮崎さんでも(動きの設計は)全く違います。

―安藤さんはアニメーターという立場で宮崎さんの動画技術をどうお考えですか。

安藤 業界全体を見たとき、技術的には多少古くなっているのかなという気はします。かつては宮崎さんに憧れてこの業界へ入ったというアニメーターが多かったと思うんですが、今はどうなんでしょうか。時代の流れに押されて、いつの間にか保守本流のような言われ方をされているような気もします。

―東映動画から引き継いでいる伝統的フルアニメですから、全体から見ると保守的な異端になるのかも知れませんね。圧倒的な量のテレビ・ビデオ作品のリミテッド・アニメーションが主流ですから。デザインの主流も、宮崎さんの影響があるとは全く思えませんし。宮崎さんの後に宮崎さんなしということですか。

安藤 一人の天才的な個性でまとめられてしまうと、確かに質は高いですけれど、生理的なものがどこか似て来てしまうということはあるかも知れません。参加した様々な人の個性が反映される多様な作り方というのも一方ではあると思います。
 押井守さんがやっているような、もっとリアルな画風で、かつトメを少なくして動くという技術もずっと向上していますね。もちろん、一方で全然ダメなアニメーションもありますけど。

―確かに、リアルで緻密な描き込みのキャラクターが枚数をかけて動く作品は増えていますね。特に映画では安易なトメ・口パクを減らした作品も多い。ただ、それが強く印象に残る動き、気持ちのいい動きなのかというとほとんど成功していないと思います。もっともっと線を整理して、枚数とタイミングに労力を注いだ方が観客の視覚にうったえる動きになると思うのですが。

安藤 CGの活用とか、もっと技術的な実験が進んでいくと、最後は作品の面白さに欠けているものは何なのかという所に行き着くと思いますね。それは、やはり宮崎さんがいつも言うような「気分」とか「動きのセンス」になるんでしょうね。技術的には保守なのかも知れないのですが、そこに宮崎さんの越えられない凄さがあるんだと思います。

―そうした「気分」について、宮崎さんから何か注意を受けたことはあるんでしょうか。

安藤 「どうしてこのキャラクターの気持ち、気分が分からないんだ」と随分言われましたね。最後は「お前はそういう人間なんだ」というところまで行ってしまうという。その迫力に押されて「そうなんだろうか」と悩んだりしました。(笑)
 宮崎さんは自分の経験値から感覚的に優れた動きを描き出す力があるんです。それはもう直感的領域で、論理的な分析じゃないんですね。描ける人だから言えることですね。

―「もののけ姫」という作品は作画技術的には宮崎さんの集大成と考えていいんでしょうか。

安藤 宮崎さんには爽快な冒険活劇を作って欲しいと望んでいる人が一番多いと思うんです。それは、宮崎さんが生理的に気持ちのいい動きを作り出せる人だからです。宮崎さんが得意とする動きのタイミングは、冒険活劇に最も向いているんでしょう。
 だから、よく(「もののけ姫」では)「作風が難しくなって来た」という言われ方をされてましたよね。哲学的なテーマでなく娯楽物をやって欲しいと。「もののけ姫」も確かに宮崎さんの動きなんです。ただ、こういう人間の業を突き詰めていくような深淵なテーマを扱う場合、また別のアニメートの仕方があるのかも知れないとは思いました。宮崎さん自身は、本当はそういうアニメートの問題でも、もうちょっと先へ進みたかったんじゃないかという気がします。こちらの方がついて行けなかったと言いますか、下手で描けなかったんですけどね。

―極端なたとえですが、「もののけ姫」がセルアニメでなく「シュナの旅」のような動かない絵物語だったとしたら、確かに物語の印象まで違っていたかも知れませんね。私も絵コンテを読ませて頂いた感じと、出来上がった作品の印象との間に微妙な差を感じました。

安藤 実際に色がついてアニメートされると、キャラクターが理想化されてしまうということがあるのかも知れません。それも宮崎さんの特徴なのかも知れません。フィルムになった時に、線で描いているアニメーターの思い込みをいい意味で裏切ることもあるとは思うのですが。

―新しいアニメートの模索という意味でも、「もののけ姫」は集大成ではなく新境地だったのですね。次回作は技術的に先へ進むのか、活劇路線の集大成を行うのか、また期待が高まるところですね。本日は長時間ありがとうございました。

(九九年一月二九日 スタジオジブリにて収録)


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