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宮崎駿の源泉

―ありったけの善意を子供たちに手渡すという思想―

文責/叶 精二

注)この文章は「SIGHT/10号」2002年1月15日発行(ロッキング・オン刊)に掲載されたものです。執筆に当たっては、編集部より「風の谷のナウシカ」以前〜初期の宮崎駿監督の作風について考察して欲しいという要請があり、これを受けて書かれたため、近作についての記述は少な目です。


1. 思想的端緒

●出発点

「現在の日本の漫画映画の殆どすべては主として教育映画方面の需要に対して製作されているので、企画はまず少年に対する善意から出発する」

 これは、東映動画の創始メンバーの一人であり、日本初のカラー長篇動画「白蛇伝」(1958年)の演出を担当された藪下泰司氏(故人)の著作「漫画映画とその技術」(三笠書房)に記された言葉である。(大塚康生氏著「作画汗まみれ 増補改訂版」2001年 徳間書店より)
 筆者は、「風の谷のナウシカ」が公開された1984年に藪下氏にインタビューを試みたことがある。氏はその際「アニメーションで人の心をきれいにしようと思っている制作者がいなくなってしまった」と嘆いておられた。私が「高畑勲さんと宮崎駿さんが頑張っていらっしゃいますが…」と切り出したところ、「高畑君も宮崎君も東映の人だからねぇ…」と静かに微笑んでいらしたことを思い出す。
 以来17年、世を賑わせ続けた「アニメ(あえて省略語を記す)」の多くには一つの傾向が伺える。それは、10代後半の視聴者層をターゲットにして、主要な制作者層である20〜30代の本音を語ったものであるということだ。独裁と専政、大量殺戮、近親憎悪、精神錯乱、他者に対するコンプレックス、剥き出しのエゴや殺意、ドロドロの恋愛関係、愛欲と凌辱願望、絶望的孤独感や無気力、等々…。まるで現代社会の病巣や犯罪心理を陳列したようなこれらのモチーフは、主流を占める漫画原作者の志向、読者層のニーズとも密接に結びついている。見かけは美少女・美少年集団と悪徳陰謀集団との抗争といった極ありふれた設定、無国籍で異世界風の舞台、派手なロボット・戦闘機などのメカで「子供向き」に飾られてはいるものの、深刻な矛盾を抱えた話や複雑に入り組んだ話も少なくない。海外で「非常識」と批判の的になっている「日本製アニメーションの過激な暴力・セックス描写」は表現と動機が絡み合っており、意外に根が深い。本年九月のニューヨークの自爆テロの余波で、アメリカのケーブルテレビから某和製作品が姿を消したとも聞く。国内でも企画の見直しを余儀なくされているスタジオがあるらしい。
 一方、宮崎作品はこれらの諸表現とシチュエーションは似ていても、社会的評価は一線を大きく画している。理由の一つには、作中でこれらの諸矛盾をただ放置することなく、登場人物たちに正面から向き合わせ、ある程度の昇華を果たして来たことが挙げられる。作中では絶望的環境を明るさと行動力で希望に転換させるキャラクターたちが躍動し、必死に行動する主人公に手を差し延べる者が現れ、一部の悪役は心を浄化されて同調してしまう。それらの展開は、まさに制作者の良心の発露であり、常に自分の信ずるもの、子供たちに見せたいものを描いて来た結果であったと思われる。

「僕は、漫画映画というのは、見終わったときに解放された気分になってね、作品に出てくる人間たちも解放されて終わるべきだという気持ちがある。出てくる人間たちが無邪気になったというのが、僕は好きなんですよ。」
「僕らは抜き差しならない現実社会に、抜き差しならない自分をかかえて生きているでしょう。だけどね、いろんなコンプレックスとかガンジガラメの関係から抜け出て、もっと自由な、おおらかな世界にあればね、自分は強くも雄々しくもなれる。もっと美しく、やさしくなれるのに、という思いを持ってるんじゃないか。少年も老人も、…女も男も。」
(アニメージュ文庫「また、会えたね!」富沢洋子編 1983年 徳間書店)

 一言で言えば、作品を通じてありったけの善良さを子供たちに贈呈することが宮崎監督の理想である。「パンダコパンダ」(1972年)「となりのトトロ」(1988年)「千と千尋の神隠し」(2001年)など、その動機が終始貫かれた作品群について監督が「本当に作って良かった」と繰り返し語っているのはそのためだ。「風の谷のナウシカ」制作後、「このまま子供たちと向き合わない作品を作り続けて良いのか」と自問自答した結果が、より低い年齢のキャラクターを配した冒険活劇「天空の城ラピュタ」(1986年)であった。「中年のための映画」と謳った「紅の豚」(1992年)でさえ、「ダイナミックだが破壊的ではない。」「愛はたっぷりあるが肉慾はよけいだ。」「世界もまた、かぎりなく明るく美しい。」(「紅の豚」企画書より)と清楚禁欲に徹し、結果的にはファミリームービーとして子供たちにも歓迎された。当初過激な暴力描写が話題となった「もののけ姫」(1997年)でも、監督は「避けて通れなかったことを子供たちは解ってくれると思う」と、その反応を最も気にかけていた。

「対象年齢を変えて作品を作ってみることがあったとしても、中心はやはり子どもたちのための楽しい映画を作る。」
「いま日本にいる子どもたちの現実を、子どもたちの願いもふくめて描き、子どもたちが本当に心から喜べるようなフィルムを作りたい。そういう根本的な自分たちの立場というのは、絶対忘れちゃいけないと思うんです。それを忘れたときに、このスタジオは滅びるだろうと思う。」
(「月刊アニメージュ」1991年5月号 徳間書店)

 これほど毅然とした善良さ・健全さをはっきりと制作動機に掲げているアニメーション制作者は皆無と言っていい。他のアニメーション作品とは、出発点が決定的に異なっている。これは、宮崎監督個人の資質によるところも大きいが、初期東映動画の最良部分を継承発展させた思想とも考えられる。
 以下、そのスタートライン前後の軌跡を駆け足で辿ってみたい。なお論旨の都合上、よくある時系列的な作品履歴や紹介はあえて避けていることを御容赦願いたい。

●「白蛇伝」との出会い

 宮崎氏は、中学生頃から学習院大学経済学部在学中まで、ずっと漫画(劇画)家志望であった。高校時代までは、社会に対する不信感や両親からの自立願望から本音や不満を劇画にぶつけて消化していたと言う。要するに、現在の主流「アニメ」と同様に、自分のネガティブな表現欲求に正直な作品を描き続けていたわけだ。
 大学在学中は、漫画研究会がなかったため、児童文学研究会に所属。幾つかの人形劇などを企画しつつ、大長編漫画を描き続けていた。
 ところが、卒業後の進路について悩んだ末に、漫画家を断念し、アニメーションの道を志すことになる。それは、原稿を持ち込んだ出版各社で不採用を宣告されたことで漫画家として生計を立てる自信がなくなっていたこともあるが、基本的には以下のような決意に基づいていた。

「劇画の世界と、東映の長篇アニメーションの世界と、どちらが表現方法として優れているかというので、ずいぶん自分でも悩み続けて、結局、アニメーションの方が優れているという結論を、自分なりに出してしまったんですね。」
「劇画はこどものためのものじゃないと思ったから、そうじゃない(こどもたちのためのものとしての)世界として、アニメーションにすごく魅力があったんです。」
(「THIS IS ANIMATION 1」小学館/1982年)

 後の氏の人生を見れば、これは人生最大の選択の一つであったろう。「子供たちのために創作したい。それには漫画ではなく、アニメーションをやるべきだ。」この決意の端緒となった体験、それは東映動画の「白蛇伝」であった。
 大学受験期の真っ最中、鬱屈とした日々を過ごしていた17歳の宮崎青年は、恋する青年と結ばれるために生死を顧みずに行動する白蛇の精・白娘(パイニャン)と銀幕で出会った。躍動するヒロインの姿に、宮崎青年は恋こがれ、我を忘れて涙していた。それは、紙に印刷されたコマ画にじっと見入り、自由な想像で膨らませて楽しむ劇画・漫画とは全く違った生々しい感動であったろう。
 基より、アニメーションは複雑な筋書きを語るメディアとして発生したわけではなく、動き(アニメート)自体の面白さの連続によって成立していた。当時の東映動画には、「くもとちゅうりっぷ」(1943年)の政岡憲三氏に代表されるような、リアリズムに根ざしつつ、素朴で心和むフルアニメーションの伝統芸が息づいていた。藪下氏と共に短編「こねこのらくがき」(1957年)を制作した森康二氏の画風・作風は、その直系と言ってよかった。もう一方の雄である大工原章氏が中心となって描かれた白娘のアニメートにも、動き(演技)によって動機や心情を表現する要素が多々盛り込まれていた。宮崎青年を魅了したのも、物語の進行でなくヒロインの存在感であった。氏は当時を以下のように述懐している。

「『白蛇伝』との出会いは強烈な衝撃を残していった。
 マンガ家を志望して、流行の不条理劇でも描こうとしていた自分の愚かさを思い知らされたのだった。口をつく不信の言葉と裏腹に、本心は、あの三文メロドラマの安っぽくても、ひたむきで純粋な世界に憧れている自分に気づかされてしまった。世界を肯定したくてたまらない自分がいるのをもう否定できなくなっていた。
 それ以来、ぼくは真面目に何をつくるべきか考えるようになったらしい。少なくとも本心で作らなければダメだと、思うようになっていた。」
(「日本映画の現在」岩波書店 1988年)

 しかし、「白蛇伝」には幾多の不満も抱いた。主要キャラクター以外の描写がおざなりで、作品の世界観が実に不徹底であったのだ。このことは、「自分ならこういうアニメーションを作る!」という創作意欲に火をつけることになった。
 以降、宮崎氏は「T劇画Uが描けなくなった」と語っている。それまでどっぷりと浸っていたニヒリズムや個人的情念の世界と手を切り、明るさや健全さを込めた物語や人物描写を模索して、改めてT漫画Uに取り組んだ。人物よりも建物や周辺設定といった世界観の構築に興味が向くようになったとも言う。

「『白蛇伝』を見て、目からウロコが落ちたように、子どものすなおな、大らかなものを描いていくべきだと思ったわけなんです。しかし、親というものは、子どもの純粋さ、大らかさをややもすれば踏みにじることがあるんですね。そこで、子どもに向かって『おまえら、親に食い殺されるな』というような作品を世に送り出したいと考えたのです。」
「そういう出発点が、20年間たった現在でも継続されているわけです。」
(「自分の原点」アニメーション研究会連合主催講演 1982年)

 これは約20年前に当時の心情を語った発言だが、まるで「千と千尋の神隠し」の冒頭部について語ったような内容であり、その一貫性には驚かされる。
 ともあれ、宮崎氏は子供たちを対象に据え、健全さを求めて4年間の大学生活で漫画と格闘した。しかし、それは返ってアニメーションへの憧れをかき立てる過程でもあったようだ。
 また、こうした志向の変化には幾多の児童文学作品、とりわけイギリスの児童文学作品との出会いが大きな役割を果たしたと思われる。宮崎作品を語る上で児童文学の影響は欠かせないが、誌面制約上その詳述は別の機会に譲りたい。

●「雪の女王」のショックで腰が据わる

 60年代に差しかかると東映長篇も試行錯誤・紆余曲折を経て、当初の新鮮味は薄れて来ていた。求職当時に公開された東映長篇「アラビアンナイト シンドバッドの冒険」(1962年)は、「技術的には高水準だが、豊かな夢が不足している」(1962年6月24日付「朝日新聞」評)と酷評にさらされていた。宮崎氏も「最低の作品」という印象を持ったという。
 折しも1963年、手塚治虫氏率いる虫プロダクションが国産初のテレビシリーズ「鉄腕アトム」の制作を開始しており、その余波を受けてアニメーション業界全体が激震にさらされた。一言で言えば、漫画人気を前提として極限的スケジュール・低予算・低技術・重労働で作られた「アトム」(1963年〜1966年)や「鉄人28号」(1963年1〜1966年)の大人気によって、アニメーション産業全般の劇的変質が起きた。新規参入の制作会社が林立し、少しでも経験のあるアニメーターは各スタジオに高給管理職扱いで歓迎された。当然、技術水準は底なしに下落し、受注価格も競売的ダンピングにかけられた。東映動画も「狼少年ケン」(1963年〜1965年)でテレビに参入、それまで制作の本流だった長篇の質・予算・技術・精神は衰退の一途をたどることになる。それは、手間のかかるフルアニメーションとテレビ用の超省略アニメーションを同じ「アニメ」というレッテルで視聴者・観客が同一カテゴリーに押し込めてしまう過程でもあった。
 そうした情勢下の1963年、宮崎氏は東映動画の最後の定期採用で入ってはみたものの、漫画家の夢も捨てきれずにいたという。東映動画で制作されていた作品には魅力を感じることが出来なかったようだ。ところが、入社一年目にしてアニメーションの底力を再体験することになる。それは、労働組合主催の上映会でのレフ・アタマーノフ監督作品「雪の女王」(1957年/ソ連)との出会いであった。
 雪の女王にさらわれた親友の少年カイを求めて、地の果てまで旅をする少女ゲルダ。その途中出会う、乱暴でありながらゲルダに同情して涙ながらに彼女を逃がしてしまう山賊の娘。最後の対決で、ついに女王を打ち負かす勇ましいゲルダ。
 原作は著名なアンデルセン童話の一つだが、大学時代に「さよならアンデルセン」と後輩に説教していたという宮崎氏のこと、周知の話運びに感動する筈もない。職を同じくする一アニメーターとして、表現の完成度と、それを裏付ける志の高さ、思いの強さに衝撃を受けたのである。
 「雪の女王」に描かれた、自らを省みず一途に行動することで道を拓り開く主体的な少女像は、ディズニー作品の没主体的で運命に翻弄されるままの少女像とはかけ離れたものだった。何よりも少女の内面を表現した演技は見る者に迫る。とりわけ、心通わせたゲルダと別れる時の山賊の娘の複雑な心理描写は前代未聞であったと言っていい。世界観やキャラクターの不統一といった「白蛇伝」的弱点も見あたらなかった。しかも、ディズニー的な絢爛豪華なミュージカルシーンもないのに、全編ロシア的な民族性・叙情性に溢れていた。
 あらゆる意味で、指標となるべき作品が目前に現れた。二度目のショックは、「白蛇伝」よりも遙かに深く重かったことであろう。

「『雪の女王』は、絵を動かす作業にどれほどの愛惜の念が込められるか、絵の動きがどれほど演技に昇華し得るかを立証していた。ひたむきに純粋に、素朴に強く、貫く想いを描く時、アニメーションは他のジャンルの最高の作品達に少しも負けずに、人の心を打つのだと証明していた」
(前述「日本映画の現在」)
「これほどのことがアニメーションでできるなら、いつか自分もやってみたい、アニメーターになっていてよかったと思って、はっきりと腰が座った」
(前述「THIS IS ANIMATION 1」)

 同時期、宮崎氏は先輩アニメーター・大塚康生氏の班で一動画マンとして参加した長篇「ガリバーの宇宙旅行」(1964年)で、ラストの変更を申し出て実現させている。
 宮崎氏は、人形型ロボットの姫君が主人公のテッド少年に救われて幸せに暮らすという下りを、ロボットの外皮が割れて中から人間の美少女が出て来るという案に変更し、これを自ら作画した。これは「作画汗まみれ」(アニメージュ文庫版 1982年)で大塚氏が紹介して以来、ファンに広まった伝説的エピソードの一つである。眼にハイライトをいっぱい湛えた無垢な少女の仕草は、映画全体からは浮き上がっていたが、観る者を惹きつける力があった。新人としては異例の快挙だが、宮崎氏にとってはやむにやまれぬ要求と行動であったのではないか。
 おそらく宮崎氏にとって、彼女が幸福を掴むためには、生まれ変わった人間として明け方の冷たい風を感じ、太陽の光を目に焼き付け、世界の美しさを全身で感じる必要があったのだ。これは、「想いを貫く」という「雪の女王」を目指す作画姿勢の実践であったのかも知れない。
 余談だが、氏が絵コンテを担当した「耳をすませば」(1995年/近藤喜文監督作品)のラストにも主人公の月島雫が夜明けの光と冷たい風を一身に浴びる感動的なシーンがあるが、案外この辺りが原点なのかも知れない。

「アニメーションの属性の中に、ものを動かすだけでなく、精神的な意味でものが変化するということもあったんですよ。ところが物語に取り入れられたとたんにほとんど消えてしまった。僕はそういうの、やりたいですねぇ。」
(前述「また、会えたね!」)

 キャラクターに対するひたむきな思いを鉛筆に集約して乗せ、確かな技術と作画枚数で子供たちの心を打つ演技を描く。その過程でキャラクターは浄化され、外面的精神的な変化を遂げる。
 これは、紛れもなく宮崎氏の原点であり、「ガリバーの宇宙旅行」から「千と千尋の神隠し」に至るまで全作品に共通する思想的な核である。

 

2. 幾つかの特徴の源泉

 

●二つの源泉

 ここからは各作品に通底する概略的特徴から源泉を辿ってみたい。
 前述のように大学時代の宮崎氏は、漫画家としての自己確立を模索しながら、児童文学研究会の人形劇の創作にも深く関わっていた。大学で一年後輩だったフリープランナーの久保進氏は、当時の氏について次のように証言している。
「T人間疎外U―人間が人間として生きられない状況をテーマに、集団討議でシナリオを書いて『ブリキの町』という人形劇を作ったりしてました。人形は宮さんがモデリングしてたんです。」
(ロマンアルバム「魔女の宅急便 ガイドブック」徳間書店 1989年)
 一方、宮崎氏自身はこう語る。
「人形劇の公演を二回ぐらいやったり、機関誌を作ったりしていただけなんです。」
「精神病院が舞台でね、アルファ何号という少年とシータ何号という少女が出てくる話なんです。結局、人形劇として公演はされませんでしたけど。」
「パズーも学生のときに考えた船乗りの名前です。内容そのものは、ほとんどは『コナン』で使っちゃって」
(「天空の城ラピュタGUIDE BOOK」徳間書店 1986年)

 発言から推測すれば、「ブリキの町」や少女シータが登場する劇は暗くハードな社会派志向の作品、一方パズーの登場する劇は明るい冒険活劇のように思われる。時代の空気に鋭敏に反応した社会派志向と冒険活劇路線という一見矛盾するような二つの志向性。これは、後の宮崎作品で見事にブレンドされ、作品の底流を成すことになる。
 時代は少し下るが、この二つの源泉を物語る経緯がもう一つある。
 余り知られていないが、宮崎氏は1969年9月から1970年3月にかけて「砂漠の民」という初の公式オリジナル作品を「秋津三朗」というペンネームで発表している。アニメーションではなく、漫画形式(当初は絵物語)による連載で、「週刊少年少女新聞」に連載された。詳しい経緯は不明だが、所属していた東映動画労組の機関誌に描いていた風刺漫画(公になっているタイトルは革命風刺劇「マンガ・ボコボコ戦争」のみ)の功績を買われて、依頼が舞い込んだらしい。当時一原画マンに過ぎなかった氏は、物語を一から紡ぐ場所を時間外の漫画に求めたのかも知れない。
 「砂漠の民」は、シルクロードをめぐる架空の民族紛争を描いたハードな作品で、十一世紀初頭の中央アジアの乾燥地帯「飢餓砂漠」を舞台に、隊商を営む少数民族ソクート人が覇権主義的な遊牧民キッタール人の侵略に抗して闘うという内容であった。その時代考証と世界観の確かさ、ベトナム戦争や石油権益をめぐる中東紛争を彷彿とさせる時代感覚などは、昨今の諸作品に決して見劣りしない。漫画版「風の谷のナウシカ」や絵物語「シュナの旅」(アニメージュ文庫 1983年)の原点と呼べる貴重な作品であるが、ラストに向かって主人公テムの恋人・親友・恩師が次々と非業の死をとげるという悲惨な展開は、ギリギリの状況で一縷の希望を謳った後の諸作よりもショッキングで絶望的な印象を残す。
 かつて宮崎氏は、「砂漠の民」の残酷な描写と、子供のためのアニメーションを作りたいという志向性との関係性について以下のように語っている。

「僕は映画と漫画とは違うと思ってるんですよ。映画の方がはるかに現実感が強いんです。時間が流れて行くし表現として強制しますからね。やっぱり子供は絵で描いた世界でもほんとにあった事と受け取るんです。漫画は嫌だったらそのページ見なくていいし放り出してもいいんですけど、映画の場合はずっと強制力があるし現実感が強いから、簡単に血を流すことについても考えなきゃいけないと思ってるんです。」
「紙に描いた漫画っていうのは、紙の漫画だから許せる部分っていうのを持ってるんですね。」
(「アニペケ別冊 対談集 ゲストかく語りき」東海アニメーションサークル 1991年)
 
 その一方、宮崎氏は「長靴をはいた猫」(1969年1月〜3月)と「どうぶつ宝島」(1971年1月〜3月)をほぼ同時期に漫画形式で「中日新聞」「東京新聞」日曜版紙上に連載している。おそらく同時期に公開された長篇映画の宣伝展開として描かれたものと考えられる。こちらは、打って変わった無邪気な冒険漫画であり、その世界観は原作となった映画版よりも一層宮崎的解放感に満ちていた。
 「長靴をはいた猫」の主人公・ピエールは映画版では前半部は森康二氏のおっとりしたキャラクター設計の持ち味を生かして内向的で臆病な少年に描かれている。後半、姫が魔王ルシファに誘拐されて以降、大塚氏と宮崎氏が担当するカットが増えるや突然勇猛果敢な青年に変貌。半分閉じていた瞼もパッチリと開き、白馬を駆る紅顔の美青年に変貌してしまう。ところが、漫画版では最初から猫のペロの手助けを借りずに自らローザ姫に接近するなど、ピエールは一貫して凛々しい王子様然とした青年であり、ローザ姫も、映画ではずっとピンクドレスのままだが、漫画版では魔王に純白のウェディングドレスにされてしまう。ほぼ「ルパン三世 カリオストロの城」(1979年)の展開である。
 漫画版「どうぶつ宝島」では更に大胆な変更が施されている。映画では嵐で船が大破して少年ジムと少女キャシーは別々に宝島に着くが、漫画版では竜巻に遭遇して船が大破し、二人きりで遭難して宝島に漂着する過程で心を通わせる。まさに「天空の城ラピュタ」の原形といえるラブストーリーである。船に穂をはる布を継ぎ足すため、ジムは上半身裸、キャシーも白いワンピース状の下着姿になり、より無邪気さが強調されている。
 一方、映画の最大の見せ場であった海賊船同士の大会戦や延々と続く宝島での追っかけシーンは、ばっさりと切り捨てられている。アニメーションならではの群衆シーンの醍醐味を漫画で描く意味は感じなかったのであろう。
 このように、当初は作品毎にカラーを使い分けるアニメーターの職能そのままに、二つの志向性を作品に応じてはっきりと使い分けていたように思われる。「砂漠の民」は吹き出しや効果音もほとんど使わずにレイアウト風、「長靴」「どうぶつ」は伝統的コマ漫画。これは、かつて手慣れた漫画という紙媒体とアニメーター的志向のせめぎ合いの結果とも考えられる。また、各キャラクターの心理的変化と外見上の変化が一体で描かれている点も後の原点と言える。
 ともあれ、この二つの源泉が融合を遂げるのはテレビシリーズ初演出作品「未来少年コナン」(1978年)と続く「カリオストロの城」を待たねばならない。前者は最終戦争後に生き残った人類という終末的世界、後者はニセ札作りで国家財政を賄って来た小国というネガティブな舞台を後景に、明るく波瀾万丈の活劇が全面展開する。また、社会派的要素より活劇的要素が勝ったこの二作に対して、双方が拮抗する比率に高まった作品が「風の谷のナウシカ」であった。
 以降も、この二つの徴候は天秤のように一方に傾いたり、均衡を保ったりしながら各作品の底辺を支えているのである。ある作品が一方に傾けば、次の作品では逆転したりする。これも各作品を通じて詳述を要する特徴である。

●絶景と出会う

 最後に、やや技術的観点から一点述べておきたい。
 「長靴をはいた猫」の魔王の城(宮崎氏のデザインとアイデアをまとめたのは美術の土田勇氏)から「未来少年コナン」の三角塔、「カリオストロの城」の古城から「千と千尋の神隠し」の油屋まで、宮崎氏の最大のモチーフの一つに高低差のある町並みや自然環境、建築物という舞台設定が挙げられる。高所から下界を見下ろした風景の新鮮さ、一瞬立ちくらむような感覚や解放感、追いつ追われつの昇り降りの苦労や、傾斜のきつい坂道の向こうに別の風景を発見する楽しさは誰もが普遍的に思い当たる記憶であろう。宮崎作品はこの「風景と出会う」感覚を直撃する。この特異な演出は、大雑把に言って、次の三点を源流としていると思われる。なお、以下はあくまで監督の発想の起点となった記憶や参考資料を辿った論考であり、各作品の舞台設定はオマージュ一般などではなく、あくまで監督の独創である。
 第一に、ポール・グリモー監督の長篇アニメーション「やぶにらみの暴君」(1952年/フランス)である。
 物語の舞台はタキカルディという架空の王国。絵画から抜き出たやぶにらみの王様は、恋人同士の羊飼いの娘と煙突掃除の少年を追いつめる。近代的なトラップだらけの城では上層に支配者層が、下層に抑圧された市民と動物が住んでいた。やがて鳥を先導者とした一同は圧制からの解放を求めて上階へと攻め昇る。囚われの娘は無理矢理王様と結婚式を挙げることにさせられてしまうが、鳥と少年らはこれを阻止。王様は巨大ロボットで最後の反撃を試みる―といった筋立ての作品である。
 宮崎氏は、アニメーターを酷使した映像技術に反感を覚えつつも、上下を生かした設定には魅了させられたと言う。

「実に上手く出来た一つの世界を作り上げてるんです。上から下へ方向性を持たせる、こういうのは設定の作り方としては一番いいやり方ですね。しかも一遍下から上へ行かせてるでしょう、エレベーターで。下から上へ、上から下へ、あれは巧妙なやり方ですね。三角塔ってのは抽象的すぎてよく判らなかったんですが、『長靴をはいた猫』の時ははっきりこれを意識してやったんですよ。」
(「FILM1/24別冊 未来少年コナン」1979年 アニドウ)

 「コナン」の三角塔も作中で昇り降りを繰り返していたが、余りに高層なためかダストシューターによる高速下降などで中間層を省く描写が目立った。ここで言う「抽象的」とは、こうした箇所を指しているのであろう。
 「カリオストロの城」では、地下水道からレセプション会場と甲冑だらけの倉庫を経て城壁と大屋根を昇って北の塔へ、地下牢からニセ札工場を昇って礼拝堂へと上下の舞台装置を見事に使いこなしている。
 「やぶにらみの暴君」の影響は他にも多々伺える。花嫁略奪をめぐるドタバタ劇は「長靴をはいた猫」や「カリオストロの城」、ロボットのデザインは「未来少年コナン」のロボノイド、暴走するロボットが町を破壊する展開は(直接展開には関わっていないが)「ガリバーの宇宙旅行」後半部を起点として、「空飛ぶゆうれい船」(1969年)「新ルパン三世/第155話 さらば愛しきルパンよ」(1980年)「天空の城ラピュタ」と幾つかの作品で見い出すことが出来る。

 第二に、1930年代の「ベティ・ブープ」「ポパイ」、1940年代の「スーパーマン」などのシリーズの生みの親として知られるマックス&デイブ・フライシャー兄弟の長篇アニメーション「バッタ君町へ行く」(1941年/アメリカ)である。
 開発で空き地を追われた虫たちが、新天地を求めて高層ビルの工事現場に迷い込み、鉄骨の上をひたすら昇っていく。危険をかいくぐりながら、ひたすら上へ上へと向かううちに、下界はますます小さくなって行く。善人の住む屋上に広がる緑の庭園にたどり着いた虫たちは下界を見下ろして言う。「人が虫のようだね」と。
 宮崎氏はこの作品について「虫達がビルをのぼっていく、そのひたむきさは心を打ちます。構成が充分アニメートされたシーンとして私は大好きなのですが、なんとむなしいおわりではないでしょうか。」(「FILM1/24」31号 1981年 アニドウ)と語っている。上下を生かした空間構成に挑んだスタッフを賞賛しつつ、金と名声を讃えた風刺的ラストは監督のデイブ・フライシャーによる「マンガ映画では、ついてはいけないウソ」だと痛烈に批判している。
 宮崎氏が「バッタ君」から好んで受けた影響は、一部のアニメーターによる上下のパースを生かしたレイアウトや情感あふれるアニメート、懸命に行動する結果としてのギャグという志向性などであり、子供たちについてはいけない嘘の教訓であった。
 これらの諸点も、「コナン」「カリオストロの城」で結実化している。とりわけ、「アルプスの少女ハイジ」(1974年)「母をたずねて三千里」(1976年)で作り上げたT名作路線Uのリアリズムとは打って変わった、「地平線から3歩くらいでダーッと走ってくる」「漫画映画的」な軽業、「本当に嬉しい時には抱き合う」(共に前述「FILM1/24別冊」)というてらいのない感情表現、善悪を問わず懸命なキャラクターなどは、以降の宮崎作品の大きな特徴となる。
 なお、フライシャーの一部傾向を愛する宮崎氏は、「さらば愛しきルパンよ」に「スーパーマン」シリーズの「メカニカル・モンスター」に登場したプロペラ付ロボットをアレンジしたラムダというロボットを配し、「紅の豚」(1992年)でポルコ・ロッソが見る映画をわざわざ「ベティ・ブープ」風に仕立てている。

 第三に、実在するヨーロッパの景観―とりわけイタリアの山岳都市の風景である。宮崎作品には、町並みを俯瞰やロングで見せるカットが多用されているが、ほとんどが上下に広がりのある多層的な構造で、何もない平面的な町並みは少ない。
 宮崎氏は、古くから写真集「イタリアの山岳都市 テベレ川流域」(鹿島出版会)を舞台の参考として愛読していたという。写真で見る限り、中世に築かれたイタリア各地の山岳都市は、まさに上下の空間が複雑に錯綜しており、遠景から路地裏まで一つ一つが驚きと発見に満ちている。まさに「長靴をはいた猫」の魔王の城を実体化したような場所であり、「カリオストロの城」以降の宮崎作品には「山岳都市風」の町並みや建築物が何度も登場している。
 建築家の竹内祐二氏は、山岳都市の魅力の一端を著書「イタリア中世の山岳都市 造形デザインの宝庫」(彰国社)で以下のように記している。
「舞台の幕開けのように、出現の仕方に、はっとするような演出があり、感動させられるくらいにおもしろい」
「頂上に廃墟となった城砦(ロッカ)がある」
「誰も知らない、わかりにくいところに廃墟となった街があり、冒険心をくすぐられ、目を輝かせることができる」
 宮崎作品の舞台設定にそのままあてはまる感想であり、特に「ラピュタ」を彷彿とさせる。(実際、竹内氏の撮影されたトレビやルッキオの町並みはラピュタそのものである。)
 こうした志向性は、幻に終わった企画「長靴下のピッピ」でスウェーデンのゴトランド島、城塞都市ヴィスビー、ストックホルムのスカンセン野外博物館などを訪れて以降、諸作でヨーロッパ各地をロケハン(ロケーション・ハンティング)を積み重ねてきた成果とも言える。
 「ハイジ」ではスイスとドイツ、「三千里」ではイタリアとアルゼンチン。いずれの作品でも異国の風景との出会いを記憶に焼き付け、T文化人類学的視点Uで人々の暮らしや風土を丸ごと吸収しようと努力して来た。そこには、高畑勲というもう一つの巨大な才能の導きがあったことは言うまでもない。
 その中でもイタリアの山岳都市は強烈な印象を残していたのであろう。監督は「紅の豚」制作時にもイタリアの山岳都市へロケハンを行っている。
 
 他にもアニメーション技術面での源泉は多々ある。たとえば、監督は飛行シーンの成功例にディズニーの「ピーターパン」(1953年)を挙げている。イメージボードを起点とした創作行程は、ディズニー式のアイデア合戦に通じる。
 物語・設定解説や主観的感想に終始する論評が主流を占める中にあって、源泉解析はまだまだ立ち遅れている。続く各詳論は次の機会を待ちたい。

2001.11.21.脱稿


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