HOMEへ戻る
「宮崎駿論」トップへ戻る

「もののけ姫現象」を読み解く

文責/叶 精二

※以下の文章は「別冊COMICBOX/Vol.3『もののけ姫』を描く、語る」(98年1月1日/ふゅーじょんぷろだくと発行 に掲載されたものです。


第一章 現代日本社会の病巣と『もののけ姫』の共鳴

 去る七月一二日に公開された映画『もののけ姫』は、八月二五日にあっさりと日本映画配給収入新記録を樹立、九月一五日には動員一千万人(配収約八四億円)を突破、邦洋総合ランク歴代一位の『E.T.』(配収九六億円)を抜くのも最早時間の問題である。
 各週刊誌やスポーツ新聞には「もののけ妻」「おのろけ姫」「そこのけ姫」などの派生語が並び、某ワイドショー番組では、「もののけ、もののけ!(“真偽不明”という程度の意味らしい)」としゃべる都内の女子高生まで紹介されたりしている。ここまで来ると、誰もが今年下半期を象徴する大きな社会現象と認めざるを得ない。
 しかし、六月の試写段階で、これほどの歴史的ヒットとなることを予想した者は誰もいなかった。関係者の配収予想は下は十五億から、上は四十億までで、それ以上の予想は皆無だったのだ。(『キネマ旬報/七月下旬号』「映画トピックジャーナル」)最大の対抗馬と見られた『ロスト・ワールド』を抜く―などと予想すれば業界の笑い者となっていた筈だ。
 そもそも、製作の徳間書店社長・徳間康快氏からして、記者会見席上での大言壮語とは裏腹に「四十億円ぐらいいけば大成功と考えていた」(『経済界/九月二三日号』インタビュー)と今にして本音を語り、配給の東宝社長・石田敏彦氏も「六十億円いけばありがたいと思った」(『朝日新聞/九月二三日』経済面)と漏らすほどの「うれしい誤算」なのである。

『もののけ姫』は何故記録的大ヒットとなったのか

 この大ヒットの主要因は、作品のクオリティとは別に、約五十億円を費やしたと言われる日本生命、日本テレビ、ブエナビスタなどの絶大なタイアップ宣伝や試写会展開の効果と語られている(『朝日新聞/九月二日』夕刊一面、『朝日新聞/九月二三日』経済面)が、本当にそれだけだろうか。巨額の宣伝費を費やせば、自動的にヒットするとは言えない。宣伝規模も試写会数も興行館数も『ロスト・ワールド』の方が上だったではないか。公にされている大仕掛けの内側にもっと深い問題があるのではないか。
 たとえば、この作品には奇妙な現象が伴っている。それは、九大都市とそれ以外地方興行との成績比率が六五%対三五%で、通常の洋画ヒット作と逆転していることだ。都市にも増して各地方館では次々と興行記録が塗り替えられている。『もののけ姫』興行館に限って見れば、まさに老若男女全世代の動員に成功しており、まるで五〇年代の映画黄金期のような活況なのだ。実はこの背景には、スタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーの緻密な興行戦略が見て取れる。
 鈴木氏は、ジブリ作品の公開ごとに高畑勲・宮崎駿両監督を伴い全国各地をめぐり歩き、ローカルなテレビ局・ラジオ局を回り、すさまじい取材攻勢にも応じて来た。同時に、各地の映画館主と逢い、交流を深めて来たのだ。その中には、鈴木氏のはからいで今春出版された『映画興行師』(徳間書店)を著した東宝関西興行常務・前田幸恒氏、『満員御礼 もののけ姫スペシャル』(日本テレビ系八月九日放映)に出演した東宝中部興行常務・虎岩美勝氏など、職人気質あふれる豪快な興行師もいた。「自分たちの映画館の死活問題として興行を成功せさる」という興行側の熱意は、地域社会に根ざした細やかで独創的な宣伝展開と興行体制を生み出す。九〇年代ジブリ作品の全国民的浸透は、「山奥や離島にもフィルムを持って行った(前田氏)」地道な地方興行に支えられていたのだ。
 虎岩氏の仕切る石川県金沢市では、『ロスト・ワールド』を放棄し、地域に二館しかない系列館でどちらも『もののけ姫』を上映するという大バクチを行っていたと言う。(『FOCUS/七月二三日号』「フォト日記」)筆者は、栃木県宇都宮市で『もののけ姫』特製横断幕が商店街にかかっているのを見たし、神奈川県藤沢市では売り切れたグッズやパンフの代わりに、チラシをラミネート加工した特製下敷を作って売っているのを見た。茨城県水戸市では、行列を作る観客に館員がグッズの行商をしていたと聞く。
 これらは、当然“便乗商売”である側面もあろうが、一面は地方館の興行師たちが制作現場と一脈通じた「自分たちの映画」という自覚を持てたという側面もあったのではないか。つまり、血の通った交流と実績に基づく興行師たちの裏方的尽力が、大仕掛けの大宣伝と相乗効果を成したとも言えるのではないか。今回の大ヒットは、上からの宣伝システムと現場のマンパワーが互いに有機的に機能した結果ではないだろうか。
 しかし、このような“鈴木式起爆装置”は、外側に火薬を抱えて誘爆を待っていた無数の大衆が存在していなければ、今回ほどにフル稼働はしなかったはずだ。客層の特徴については、「リピーターが多い」「かつて宮崎作品に感動した世代が子連れで来ている」とも指摘されているが、それは表層的な現象解釈に過ぎない。大衆動員には、もっと根本的・普遍的な動機があったと考える方が自然だ。では、それは一体何なのだろうか。

映画はその国の時代性と情緒を反映する

 筆者は以前、日本を代表するベテラン・アニメーターである大塚康生氏に「広く受け入れられる娯楽作品は、常にその国の国民性、その時代の情緒を反映している」との説を伺ったことがある。大塚氏は、アメリカの“国民的映画監督”スティーブン・スピルバーグの作品を例に採り、以下の仮説を説いた。
 スピルバーグの娯楽作は、その時期のアメリカ人総体の抱える思想的・経済的・政治的・精神的な情緒を体現していたために、大ヒットしたのではないかというのだ。つまり、アメリカ人がヴェトナム敗戦で権威を失墜し、新興のアジア諸国の経済発展に脅威を抱く過程が、『激突!』(七三年)『ジョーズ』(七五年)などの正体不明の恐怖感に通底し、次いで政治的協調や文化交流が進むに連れ、『未知との遭遇』(七七年)『E.T.』(八二年)などの“対話もの”に変化していったと言うのだ。要するに、アメリカ人にとって、宇宙人や凶暴生物は、異民族・異文化や国内の閉塞感・圧迫感をシンボライズさせたものだったのではないかというのだ。この文脈を延長させると、『ジュラシック・パーク』(九三年)『インデペンデンス・ディ』(九六年/ローランド・エメリッヒ監督)など最近のヒット作に見る“防衛―撃退もの”も、アメリカの経済的回復や冷戦後の自信再起の現れと見ることも出来る。
 私には、これは日本映画にも転用可能な説ではないかと思えて仕方ない。たとえば、『お葬式』(八四年)『マルサの女』(八七年)など伊丹十三監督の暑苦しい作風は、八〇年代のバブリーな空気をよく反映していたからヒットしたような気がする(九〇年代は低調気味)。『風の谷のナウシカ』(八四年)は、初期「エコロジー・ブーム」の広がりと共に支持層を広げたとよく言われる。『もののけ姫』もまた、九〇年代後期の日本人の情緒にピッタリはまった作品だったのではないか。
 既に、混沌とした価値観や時代の閉塞感が、作品にシンクロしたとする評価、思想の共鳴現象という類の評価は幾つか書かれている。
「国民映画と言われるほどのマスの観客を引きつけた理由はいったい何なのか。(中略)人間の無意識部分が大きな意味をもって『もののけ姫』とある種の共鳴関係をもち、人々に大きな関心を抱かせたのではないか」(『キネマ旬報/九月下旬号』「映画戦線異状なし」大高宏雄氏)
「日本人の先行き不透明感が反映されている」「学校で教える科学や文明を礼賛することへの疑いがある。大人の側も、この問題をだましだまし来たことに、疑問を感じ始めている。」(『朝日新聞/九月二日』夕刊一面・小森陽一氏)
 これらの記事は、抽象的かつ一般的で今一つ判然としない。そこで、以下この問題を現代日本で起きている具体的な現象(社会的病巣)と照らし合わせながら、今一度検討してみたい。


1. タタリ神と「満員電車状況」

 映画『もののけ姫』に感動を覚えた人は多いだろうが、その感動をどこに着地させるべきか迷った人も多いのではないだろうか。テーマとして語られる「生きろ」の意味も、実に複雑で奥深い。
 「生きろ」とは、単に抽象的な閉塞感や無力感などに抗して、積極的・楽天的に生きろという意味ではない。つまり、現在の仕事を徹底して頑張ろうとか、金を貯めてマイホームを買おうとか、学校で成績を上げようという類の俗流幸福論とは無縁なのである。それは、単にペットを大切にしろとか、食べ物を残すな、ゴミを捨てるなという類の道徳的拘束力の伴う「善良な生き方」のマニュアルを指しているのでもない。それらは近視眼的な処世の手管でしかなく、本質ではない。
 実は「生きろ」というメッセージは、タタリ神の描写にも託されている。アシタカのアザは何故ラストシーンで完全に消えていなかったのか。消えないアザの含意とは、暴力衝動を内に抱えながら、それと格闘して「生きろ」ということではないだろうか。
 人間は、地球上で最も残虐な性質を内包した生物と言われる。食用以外の目的で大量の殺戮を行う攻撃的な生物だからだ。その残虐性、暴力性は決してなくならない。その本質を封印して、無理矢理に「非暴力=善良」という近代以降の社会規範に当てはめてしまうことは、逆に歪んだ暴力を醸成してしまうのではないか。

暴力を封印され「善良」を演じる子供たち

 この夏は、例の神戸の中学生(自称「酒鬼薔薇聖斗」)による連続児童殺傷事件を契機として、“「透明」な「良い子」に育てること”の功罪が各報道機関でしきりに取り沙汰された。
 平凡な中流家庭で「善良」に育てられた子供たちが、いつまでも自我を確立出来ず、全てが抽象的で一切の生物に対して生命としての実感が持てないと言う。どこに居てもひしめき合わねばならない大量の他人は、ただただ暑苦しく疎ましい物体でしかなく、出来れば居なくなって欲しい=消してしまいたい存在なのだ。この感情に支配された時、全ての矛盾を消し去る暴力を野放しにしてしまいたくなる。普段大人しい印象の子供たちが瞬時に凶暴化する。封印・消去された筈の憎悪が、実は蓄積されており、より歪んだ形で爆発するわけだ。直接行動に至る割合は極めて低いのだが、頭の中で「みんな死んでしまえ」と思ったことのある子は数多いようだ。それは、前述の事件で逮捕された少年への心情的理解を示す中学生・高校生の声が多く聞かれたことにも明らかである。
 この暴力衝動は子供たち特有のものではなく、余りに人間が多い都市部では誰もが感じるものかも知れない。それは、「突然全身の毛穴から黒蛇のごとき憎悪が吹き出す(宮崎氏)」タタリ神のイメージに重なるのではないか。アシタカの腕のアザは、憎悪と共に突然タタリ蛇となり、すさまじい破壊力・殺傷能力をもたらす。半死半生のナゴの守や乙事主には、大暴走と大破壊のエネルギーが生まれてしまう。つまり、殺意や怨念が暴力的破壊に直結しているわけである。
 しかし、生物としての互いの重さを実感していれば、―つまり、他人がいなければ生きられない、人間以外の生物がいなければ生きられないと心底感じていれば、アシタカのように、この感情と闘い、踏み留まることが出来る筈だ。せめて殺意を催す前に、自分をさらけ出して真剣に言い争うことが出来る筈だ。必要なのは、相手の抹殺でなく、尊厳を認めた上で相互理解へと至る為の意思疎通である。
 そうした関係回復のための暴力をも封印され、「善良」を演じながら、些細なことで傷つき、頭の中で毎日殺人を繰り返すような日常生活は果たして正常か。陰湿な集団的暴力を行使するいじめの加害者となることと、自らを暴力的に殺すことに救いを求めるいじめの被害者に追い込まれることが、メダルの裏表のように「善良さ」と併存する学校生活は健全か。

「みんな死んでしまえ」という他者への憎悪

 こうした現象について、宮台真司氏は「地域共同体が崩壊して『アカの他人』同士となった生徒が『狭い空間』に『長時間』押し込められて『馬鹿な教師』の話を聞かされ、教室内が教員を含めて『ストレス』で一触即発状態になっている」と指摘し、これを「教室の『満員電車状況』化」と名付けている。
(『週刊読書人/八月一日号』掲載 宮台真司の『世紀末の作法』)
宮崎監督も、同じ「満員電車」というキーワードを使って、人間に対する憎悪について次のように語っている。
「満員電車に乗っている時のような気分(中略)そういう自分のなかの不信感を、ただ野放しにするのは楽なんだけど(中略)そういう感情に乗っかって行くのをやめた」「何でも殺してしまえという風潮には乗りたくなかった」
(『TECH Win 10月号別冊/Video Doo!Vol.1』掲載 叶による宮崎監督インタビュー)
 これまでの日本を築いて来た世代の大人たちに、この問題の重さは実感しづらいかも知れない。生産力が拡大すれば豊かさに囲まれたバラ色の暮らしが出来ると信じられた高度経済成長世代、階級社会の止揚が全世界の平和を産むと信じられた全共闘世代、核の廃絶により戦争のない世界が望めると信じられた非核三原則世代、―そうした大人たちは「人間社会内部の矛盾を努力して解決する」という「明るい未来」思考が脳を独占して来た世代ではなかったか。
 生産力は拡大し、暮らしは豊かになった。しかし、階級社会は存続し続け、地上に理想国家を築くことは困難で、核(廃棄物を含む)とも半永久的に共存しなければならないことが確実となった。誠実な生き方や地道な努力の必要性は認めても、その行く末には解決不能のニヒリズムがベッタリと張り付いていて、行動に至る情熱は生まれない―そういう「暗い未来」を背負って生きる世代が生まれている。
 更に、緩やかな地域共同体や自然環境は失われ、魅力のない学校とぬるま湯のような(または酷く窮屈な)家庭以外に居場所がない。こうして、流行の発信源たる都会の街へと出掛けていくか、一方通行の自閉的文化に埋没するしか逃げ場がなくなってしまう。必然的に仮想世界と現実との区分が薄れ、個々の人間関係も世界の政治関係も、リアリティのない空虚な存在(宮台氏風に言えば「風景」)になって行く。
 そんな子供たちや若者に向かって、旧世代の大人たちが生きるための手管(自分たちが培った世知辛い人生訓や説教の類)を押し付けたとしても、到底人生の活力剤にはならない。むしろ、社会への失望や人生への絶望の原因を作り、内なる暴力を蓄積してしまうのではなかろうか。
 暴力との葛藤を行うための前提は、人間が好きであること(尊敬出来る他人がいること)、動植物が好きであること(一個体一個体が重い生命であると実感していること)、他の個体の痛みを体感出来る感性を持つことなどではないだろうか。自明の条件だが、今の世の中では実践的な手本も見つけにくく、正面から向き合うには難しい問題である。
 なお、宮崎監督が健全な暴力の発散法の智恵として「毎年人が死ぬほど激しい祭を行って来た古来からの風習」に注目している点は大変興味深い。
(「COMIC BOX別冊/『もののけ姫』を読み解く」掲載 宮崎監督ロング・インタビュー「森と人間」)
 地域共同体の崩壊した都市化社会では、いかにして「祭的な暴力」を健全に行使するべきなのか。「オヤジ狩り」や「少女襲撃」「ウサギ殺し」など、ますます増える虐待・殺戮事件はどうすれば減るのか。渋谷系チーマーやクラバーキッズ、テレクラ女子高生たちなど、閉塞した社会でガス抜き(暴力衝動の解消?)を求める青年たちが漂い集うトレンド発祥地は、「新世紀のアジール(世俗から離れた自由解放区)」たり得るのだろうか。
 出口の見えない難しい問題である。

死を覚悟で「こちら側の暴力」を行使したアシタカ

 暴力衝動を押さえ込めないのが人間の本性ならば、それを何と交換すればいいのか。
 細見和之氏は、「対抗的な暴力」でない「肯定的な暴力」の意義として、以下のような興味深い発言を行っている。
「もしも人間にほんのわずかでも智恵と勇気があるのだったら、二者択一(※注)じゃない形をどうやって作っていくか、それ自体暴力的な関係の中からどうやってその関係を変えていくか、そういう暴力を考える以外にない。」
(『文藝』九七年秋号掲載「討議/暴力と出来事のプレヒストリー−寛容へ法なき正義へ−」)
 細見氏は、「現状の関係を粘り強く変えていく素朴な智恵と勇気」、そしてユーモアを「こちら側の暴力」と呼んでいる。これは、実にアシタカ的な暴力観と言えるかも知れない。
(※注)最悪の極貧生活か現状肯定かという抽象的選択肢を暴力的に突きつけられ、結局現状妥協を選び取っていく立場を指す。
 同じ対談で、田崎英明氏は「死にたくなければ言うことを聞け」という「合意の暴力」について語っている。吟味もなされないまま、抽象的な選択肢を突きつけ、無理矢理立場の選択を迫ることも暴力だと言う。

 アシタカは、憎悪のタタリ蛇発現によって巨大な暴力を獲得しながら、それを殺戮に向かわせることなく、理性的な仲裁のために使い尽くす。殺意を封じ込められた憎悪は、静かな風となって下からアシタカを吹き上げる。(彼が本当に人を殺す時には風が吹かない。)彼はゴンザの刀を曲げ、見物の人々をはね飛ばし、エボシとサンを気絶させ、腹部を石火矢で撃ち抜かれても歩き続け、「十人かかって空ける扉」を片手で開けてしまう。彼はおびただしい出血(死の覚悟)と引き替えに、最後まで「こちら側の暴力」を行使し続けたのである。
 あそこで、アシタカが死んでしまったとしても、大局的な事態は何も変わらないのであり、客観的・現実的には「無駄死に」である。しかし、アシタカはそれを百も承知であえて行動した。それは、「暴力的な関係を変えるための粘り強い智恵と勇気」に基づく「暴力」であった。彼の決断に迷いはなく、その瞳は悲しいまでに澄んでいた。ここから学ぶべきものは多い。
 内なる暴力衝動(細見氏に習えば「あちら側の暴力」)といかにつき合うかは、二十一世紀を生きる人間にとって深刻かつ巨大な課題なのである。私たちはアシタカのように、内なる憎悪と共存しながら、その暴発を押さえ込む「智恵と勇気」を持つことが出来るだろうか。そのヒントもまた、「曇りなき眼」で世界の生態系―いのちの連鎖を見渡す中からしか生まれないものかも知れない。


2. タタラ場の禿山と諌早湾のギロチン

 他方、現代社会の抱える矛盾は、人間の内面葛藤で解決するような精神的・思想的問題だけではない。
 監督のメッセージは、何より人が生きるための前提を指していたのではないか。ごく乱暴に括れば、生命循環の息吹を感じて「生きろ」、生態系の中の自分の位置を感じて「生きろ」という意味ではなかったか。それは説教臭い環境保護思想でもなければ、日常と無縁の空想世界でもない。今後数十年・数百年に亘り、好むと好まざるとに関わらず、人類が背負わなければならない具体的な課題なのである。
 今夏各報道機関で話題となった長崎県・諌早湾の干潟干拓問題を例に取ろう。

干潟は驚異の生態系を有する「清浄の地」

 七〇年代以降、干潟の研究が進み、驚くべき実態が明らかとなっている。干潟は、地球規模でも熱帯雨林に匹敵するほどの多種多様な生物相を有すると言う。ここでは、天然の生態系によって「汚染−浄化−再生」という完全な生命循環が成立しているのだ。
 人間は糞尿の汚水や陸地で発生した生活雑排水を干潟にタレ流す。これには、人工的な下水処理では除去出来ないチッソやリンなどの栄養塩が含まれている。まず、これらを干潟に発生する大量のバクテリアが分解し、気体にして大気中に放出してしまう(「脱窒作用」)。また、微小なケイソウ類や海藻も栄養塩を吸収・分解して大繁殖する。有名なムツゴロウは、この藻類を食べて繁殖するのだ。更に、一平方メートル内に数十万とも数百万とも言われる莫大な数の線虫類が有機物を分解する。アサリなど二枚貝は、海水を濾過しながら分解された有機物やプランクトンを取り込んでいく。(二枚貝一個体で一時間あたり一リットルもの海水を濾過してしまう。つまり、貝類の多い海では一日数回海水が濾過されているのだ。)シオマネキなどのカニ類も有機物を餌として繁殖、〇・五立方メートルに三〇〇種以上生息すると言うゴカイ類も活躍している。(ゴカイは、人が一日に排出する汚泥約二四グラムを〇・四平方メートルの面積で浄化してしまう。)
 まさに、二重三重の生態系フィルターによって、完璧な浄化作用が成されているのだ。干潟は驚くほど衛生的で、嫌気性バクテリアの発生する余地がない。この為、ケガをしても傷口が化膿することはないと言う。
 また、有機物を大量に含む海水は、まさに生命のスープであり、稚魚やエビ・カニの幼生の餌となる。このため、干潟には多種の幼生生物が大量に生息している。干潟は「有明海の子宮」とも「生命のゆりがご」とも言われて来たのだ。
 一方、干潟には珍種の渡り鳥が数万羽も飛来する。シギ・チドリ類は一個体で一年間に八三キログラムものゴカイや貝(殻は除く)を食べると言う。しかし、それでも餌は全く減らない。それほど生命の蘇生力・再生力が高いのである。そして、人間はそれらの動植物資源に依拠して生態系の一環を構成し、水辺で暮らして来たのだ。
(参考資料/山下弘文氏・著『西日本の干潟「最後の楽園」』南方新社)
 この構造は、まさに『風の谷のナウシカ』の“腐海”そのものである。汚物以外は何も生み出さず、資源を消費するだけの人間社会を自然が育んでくれていたのである。まさに、「人間が毒にしてしまった水」を干潟の生物が「綺麗にしてくれていた(ナウシカの台詞)」のだ。「青き清浄の地」は、現代日本にもあったのだ。同時にこれは、『もののけ姫』で描かれたタタラ場周辺の禿山にも通じる問題である。人間が禿山にしてしまった森を、シシ神が緑の草むらに再生してくれたのである。

日本全土に降り注ぐコダマの死骸

 日本人は高度経済成長期に水田を拡大するために多くの干潟を破壊・干拓した。それが「米余り現象」を結果すれば、今度は防災事業として干拓を継続し、地域振興を土木工事の利益にすがった。そこには、あくまで人間の生命を護ることが第一で、他の生命がどうなろうが構わないという思想が透けて見える。去る四月十四日に振り降ろされた諌早の「ギロチン(潮受け堤防の排水門)」はその象徴と言えよう。
 しかし、報いは当然あった。湾を仕切った途端に生態系は崩れ、ムツゴロウを始めとする動植物・微生物のほとんどは死に絶えた。湾の水は浄化されることなく濁り、栄養塩が蓄積して悪臭を放った。雑排水はタレ流し状態となり、アオコの発生も時間の問題となった。肥沃だった干潟は死骸の海となり、湾底のヘドロ化が急速に進んでいる。諌早湾の精霊(ウミダマ?)たちはとっくに絶滅してしまったかも知れない。
 これは諌早湾に限ったことではなく、全国各地の干潟で進んでいる事象である。日本の沿岸地域の生命郡は、「人間生活の維持(治水管理=土木事業)」という名目で日々殺されているのだ。やがて日本の沿岸水域は死のヘドロが多くの割合を占めることになるだろう。その結果が、人間自身の死にも繋がっていることは、数十年後には分かる筈である(もっと早くに何とかなって欲しいけれど)。
 実際、岡山県・児島湾では五九年に湾を締め切ったものの、七〇年代から深刻な環境汚染と水資源汚染に悩まされ、現在は自らの後始末たるヘドロ浚渫工事に三二〇億円もの巨費をつぎ込んでいると言う。ディダラボッチの暴走と同じく、これも人間が自分で自分の首を絞め過ぎた「業」を示す例である。
(参考資料/『週刊金曜日/七月二五日号』掲載 中庭克之氏「巨費の浄化費つぎ込む岡山・児島湾は今」)
 宮崎監督は各誌でムツゴロウと諌早湾の問題に度々触れている。
「お前もムツゴロウ食ってるじゃないか、という傲慢な物言い(※注)は耐え難いです。あれは水門をあければいいんだと思ってます。これ以上殺すことはないということです。」
(『ダカーポ/八月六日号』掲載 宮崎駿監督インタビュー「自然に寄りかかる人間の姿に、僕らの抱える問題のすべてがある」)
「突然日本人が駄目になったんじゃなくてけっこうずっと同じようなことをやってきたんじゃないかと。(中略)ムツゴロウをおまえらも食っているんじゃないかと言うような人たち(※注)は変わりようがない。それでも日本人ですから世論がとことん傾くと突然変わるんですよね。」
(『キネマ旬報臨時増刊/宮崎駿と「もののけ姫」とスタジオジフリ』掲載 宮崎監督と佐藤忠男氏の対談)
 宮崎監督のこの種の発言を「エコロジスト」という抽象的概念で括ることで、思考の外に処分したがる人々に問題の本質は見えて来ないだろう。
(※注)「ムツゴロウがかわいそうだというなら、タイやヒラメはかわいそうではないのか」(森喜郎・自民党総務会長・当時)「ムツゴロウも大事だが、人間が一番大事だ」(亀井静香・建設大臣・当時)など自民党幹部・干拓強行派議員の不毛な発言を指す。(共に『朝日新聞/六月九日』掲載)仮にムツゴロウやシオマネキがタタリ神になったとしたら、彼らは真っ先に殺されても文句は言えないだろう。

 最早、「ナウシカ」で描かれた腐海やエボシタタラ周囲の禿山を「空想世界」として笑い飛ばすことは出来なくなっているわけだ。人間至上主義の合理性を求める現代日本人(それも悪いお役人だけではなく、圧倒的多数は私たち一般市民)の残虐性はエボシの比ではない。日本各地の森や海に、毎日コダマやトトロの死骸が降り注いでいるのである。
 自然は「心優しい緑の記号」ではない。各々が「生きよう」という意志ある個性的生物であり、多種多様な生態をはらむ実存である。人間に都合のよい概括的イメージでは括れない巨大かつ細微な存在なのである。そこには、むき出しの暴力性(災害や食物連鎖)と癒し(浄化−再生)の優しさが同居しているのだ。ここにこそ、現代日本人が本当に学ぶべき微妙なバランス感覚があるのではないだろうか。
 アシタカの「曇りなき眼で見定め、決める」姿勢は、現代日本に生きる私たちに多くの示唆を与えてくれるものだったのではないだろうか。大情況を「曇りなき眼で」見据えて生きるとは、これら日々地域で進行する痛ましい現実から眼をそらさずに、殺される生命と向き合うことでもあるのではないだろうか。
 諌早湾のギロチンは未だ閉じたままである。数年、数十年後に水門を開けたところで、生態系が復活するかどうかは分からない。それでも、開けないよりは開けた方がいい。

「時代に共鳴する何かがあった」では済まされない

 以上、主に二つの観点から『もののけ姫』と、現代日本が抱える社会的病巣を照らし合わせて考えてみた。宮崎監督自身の直接的な描写意図と重なるのかどうかは別としても、結果的にはかなり通じるものがある。三年前に端を発した『もののけ姫』の具体的な構想は、実に鋭く「来るべき時代の情緒」を見据えていたと言わざるを得ない。監督自身が何度も語っているように、時代の先端を切り取る作風は、もともと「確信犯的」なものだ。筆者は、この“同時代性”が、観客の心を無意識の内にも揺さぶった一因であったと思っている。
 『もののけ姫』の歴史的ヒットはまだまだ続く。既に、この国に住む全人口(映画館がない地域の人々、外出困難な人々をも含む)の一割近くの人々が、この映画を見るために映画館へ足を運んでいる。この社会現象が混沌の世に生きる日本人の心を映した鏡であるとするなら、まともなジャーナリズムなら「時代に共鳴する何かがあったらしい」では済まされないだろう。社会に照らして作品を読み解く作業は、むしろこれからが本番になるのかも知れない。宮崎監督の三年近くに及んだ『もののけ姫』との格闘は終わったが、その“戦後処理”は私たち自身が行わなければならないのだ。
 監督は以下のようにも語っている。
「もう告発は済んだのです。後は日常生活の中で、一人一人が何をするのかを考える時です。それぞれができる範囲のことをやればいい。」
(『清流/八月号』宮崎監督インタビュー「自然界に生きるものは、みんな同じ価値を持っている」)
 自明だが、重い言葉である。この言葉は、毎日タバコをガンガン吸い、排気ガスをガンガン出しながら三輪自動車で通勤する傍ら、休日には自宅近くのドブ川掃除を手伝い、雑木林保全に三億円もの寄付を行う(『報知新聞/九六年十月五日』など各紙報道参照)という「矛盾を背負いながらも最善を尽くす」監督の日常に裏打ちされている。ここに、映画よりも複雑な現実を肯定的に生きようとする先人の姿を見た―などと筆者が書いても、監督は笑って否定されるに違いないのだが。
 監督自身にとっての「出来る範囲」とは、自らに巣くう妥協や諦観と闘って具体的に措定したものであったろう。ここから何を学ぶかは、自らの行動「範囲」の基準を「最低」に設定するか、「中庸」に設定するか、あるいは「最高」に設定するかで大きく変わるこであろう。それは、前提として「告発」をどう受け止めるかにもよるのであろうが。


第二章 『もののけ姫』のアニメーション技術考

 今回は実に多くの作品評や作品をめぐる座談会・対談の類が各誌に掲載された。反応は賛否両論あるが、文化人諸氏のそ上にのぼるほど、魅力的―または腹立たしい作品であったようだ。しかし、これら諸評にはある共通項が見つかる。ほとんどが、シーン解釈とテーマや思想性の是非について言及しているもので、アニメーション技術について語ったものではないということだ。かく言う筆者もその例外ではないのだが、これらは実に偏った評価と言わざるを得ない。何故なら、「集大成」という宣伝文句は思想的意味だけで使われたわけではなく、「アニメーター・宮崎駿」としての技術的意味も大きいからである。

各作品評に不足していたもの

 アニメーション作品は、本来独創的な動きの面白さ、新しい動画技術の追求という意味での楽しさも兼ね備えている。実写では出来ない、あるいは実写表現を上回る描写があってこそ、アニメーション作品としての思想的完成度も高まると言えよう。私自身は、(作品完成前に書いていた原稿もあり)「アニメーション技術についてはあえて述べない」と断りを入れていた原稿もあるが、他の評に同種の断りは見かけていない。唯一繰り返し話題になっていたのは、ジブリ自身が流した情報に基づくCGやデジタル合成についてであった。しかし、全編一三三分中、十五分分のフィルムに使われた新技術のノウハウを語ったところで、作品総体の技術を語ったことにはならない。他は「スタッフ・インタビュー」の記事を除いて、「圧倒された」「緻密だ」「きれいな絵」という印象程度のものがほとんどであった。
 これまでは、「飛行シーンが見事だ」とお経のごとく繰り返していれば技術論は棚上げに出来た感があるが、その飛行シーンがなければテーマ論とシーン解釈しか語れないというのでは情ない。現場の外から技術をいかに語るかという観点は、今後アニメーション評論が社会的に定着していくならば、大きな課題とすべきではないか。筆者自身の自戒も込めてそう思う。

「動き過ぎてつまらない」という逆転した観客評

 各メディアがアニメーション表現の技術的評価を放置して来た結果、たとえば以下のような「技術的」不満を連ねた作品評が観客の側から生み出されている。
「キャラクター個々の微妙な表情の作り方があまり重視されておらず、悪く言うと手を抜いていたような気がしました(顔のアップがほとんどないのがその証拠)。」
(『キネマ旬報/九月上旬号』「キネ旬ロビイ・読者スクランブル」欄)
「動きのツボをおさえてテンポのよいスマートなアニメート、このテンポのよさとスマートさが私に言わせれば〈チャカチャカアニメ〉のウィルスなのだ(中略)あのフラットなペンタッチで描かれたキャラクターがいかに躍動しようと、今ひとつ胸に迫ってこない。」
(『月刊シネフロント/251・九月号』「CINEMA TALK」欄)
 前者の評は、「アップがないと手抜きだ」という点が実に印象的だ。本意は、「感情移入出来ない」という主旨かも知れないが、他のアニメーション作品との比較で述べていることが興味深い。全編半数以上がアップで目パチ・口パクの「手抜き」リミテッド・アニメに慣れ親しんだ世代(評者は中学生)からは、「最も手間のかかる」ロングショットやモブシーンが多ければ多いほど「手抜き」に見えてしまうのである。何とも皮肉である。
 あえて言うが、一人の顔だけで全フレームを埋める原画と、奥行きある空間に配置された数十人が全身でバラバラに動く原画とでは、どちらが簡単か。記号化されたアップの喜怒哀楽と、体全体を使った感情表現とでは、どちらが微妙な表現に適しているか。顔の隙間を塗りつぶす程度の背景と、建築物や自然環境を含む空間丸ごとを捕らえた背景とでは、どちらが手抜きか。前掲の意見に賛同された読者の方は、一度自分で紙に描いて試してみてはどうかと思う。
 後者の評は、『巨人の星』のような止め絵だらけの劇画タッチ演出作品が見たいというアナクロな論旨のようだが、よく動く(手間と労力が最もかかる手法の)アニメーション技術に感情移入出来ないという構造は前者とよく似ている。派手な止め絵やカメラワークで見せる日本独特の手法は、本来「動かせない」不満の裏返しとして発展して来た技法なのであるが、それこそが自らの情緒にフィットするのだという発想は興味深い。「フラットな」などの形容詞は正確な意味を掴みかねるが、本来長編アニメーション制作は集団作業であり、複数のアニメーターが原画を描きやすいような簡略化を施すのは必然である。動きに徹すれば徹するだけ、ある程度整理されたキャラクター・デザインが求められるのは当然だ。 
 これらの観客評は「技術評価の逆転現象」とでも呼ぶべき現象である。各作品について、アニメーション技術の評価が実に曖昧で、物語性やキャラクター志向、テーマやシーン分析だけが誌面を賑わせて来た弊害と考えるべきではないか。たとえば、アニメーション作品に対して、「アップを増やせ」「動かない絵が見たい」という批判は、欧米では聞かれない。
 日本ではアニメーションの生命線である“動きそのものの魅力を味わう”という視覚回路が閉ざされた代わりに、観客・視聴者が想像力を掻き立てて物語を解釈し、台詞と音楽と効果音で感動を補うという特殊な視覚訓練がされて来たのだ。それは、描き込んだ綺麗な止め絵、可愛い・カッコイイ顔のアップの単純な繰り返し、極端なパースに基づいて簡略化された動き―などで構成された映像に感情的な思い入れを上乗せする鑑賞姿勢だ。絵と絵の合間をワクワクして待つ“紙芝居的鑑賞姿勢”が高度化したものとも解釈出来る。
 尤も、これはアニメーションに限らず、動画より静止画を好む日本人の伝統的美意識や行動様式―つまり民族性にも起因している奧深い問題でもあると思うのだが、この点については論旨を外れるので詳述は避ける。
 ともあれ、前掲のような観客評は、偏った鑑賞姿勢を正直に反映したものであることには違いない。

各シーンに詰め込まれた「アニメーション演技」

 筆者自身は『もののけ姫』の技術で注目すべきは、「微妙な表情」の描き分けや緻密な全身演技の描写であると思っている。
 たとえば、同じフレームの中に、踊っている者、飯を食べている者、無関心でいる者、笑っている者、考え込んでいる者などが同居している群衆シーンがある。ある者は真剣勝負をしており、ある者は喜んでそれを見ているシーンもあった。個性ある群衆がそれぞれの感情を抱えて雑然と同居するシーンが実に多い。
 群衆シーンに限らず、この作品では常に異なる感情と利害を持つ者たちが対立・同居・錯綜する。加えて、それぞれの個人の内面さえ複雑だ。しかも、説明的台詞は極端に少なく、複雑な演技と緻密な描き込みにひたすら依存している。
 このように、各シーンに要求される演技の質が多義的で複雑なため、描き分けは実に困難であった筈だ。このため、わずか数秒のシーンに、監督とアニメーター諸氏の“動きとの格闘(演技の模索)”が見えてくる。それは究極のアニメーション演技の追求―高畑勲監督の語るところの「アニメ道」(九月一四日東京芸術大学での講演)に他ならない。
 例を挙げればキリがないのだが、印象的なシーンを幾つか書いておきたい。
 中盤、回復したアシタカが洞窟で眼を覚ますと、手刀と折り畳んだ頭巾と巾着、椎の葉にくるまれたチマキ状の弁当などが置いてある。これは「お前はもう去れ」というサンの好意を込めた礼儀を意味している。アシタカはそれを複雑な表情で見る。今後の事態の絶望性、サンへの心配と去らねばならない(何処にも行けない)複雑な心境を表現した見事な表情描写と、直後のズッコケ。監督によれば、「受け身を知っているから一度肘をつこうとするが、体がねじれて転んでしまう」というシーンだ。(七月二八日日本テレビ系放映「スーパーTV情報最前線」参照)
 このカッコ悪いシーンがあってこそ、玉の小刀のプレゼントは説得力を持つ。アシタカは自らの無力感を振り払う意味でも、せめてもの返礼の意味でも、どうしても山犬に小刀を預けなければならなかったのだ。その後、タタラ場へ向かう彼の頭上を雷雨が襲う。曇天が晴れに変わり陽射しが差すと戦場と化したタタラ場の煙が見える。アシタカの心理描写と風景の変化を重ね合わせた味わい深い表現である。
 なお、「サンとアシタカの交流に説得力がない」と見る向きには、この前後のシーンをよく見て頂きたい。サンがタタラ場でアシタカの頬肉と共に切り裂いた頭巾の端は(まるで「ゴメンネ」と語っているかのように)きちんと三、四針縫われており、撃ち抜かれた腹部の穴も十字状に何度も縫い付けられているのである。(洞窟で寝ている時には既に縫われている)この縫い目を以降のシーンでいちいち描き通すというのも、実に面倒な手間であるが、サンとアシタカの関係変化を象徴するものであるから、「いつの間にか消えていた」という御都合主義は許されないのだ。
 また、サンはアシタカの療養中、ずっとアシタカの刀を腰に差して護衛しているのも細かい。アシタカが病床に在った間、サンは不慣れな(?)洗濯や縫い物、ヤックルの世話、チマキ状の餅らしきもの(堅果類を砕いて蒸したシトギ?干肉を噛めないアシタカを気遣って作ったもの?)、スープなどアシタカ用の食料調達と調理―そして森の通常パトロールやモロの看護など、実に忙しく働いていたと思われる。まさに「宮崎ヒロインらしい」献身的看護であったのだ。これらの散りばめられた情報をきちんと眼で拾う能力があれば、ベタベタした看病シーンを期待する発想など出て来る余地はないと思うのだが。
 武器を使い回す描写も緻密である。
 中盤、エボシを突いて気絶させたアシタカは使い慣れた手刀を手元も見ずに、素早くサヤに納める。何気ない動作だが、平たく長い刃物でこれをやるには、実写なら達人の域に迫るほどの修練を要するだろう。その直後、サンがこの手刀を使うシーンがあるが、サヤを片手で押さえてゆっくりと引き抜いている。明らかに慣れない手つきであるが、全くの素人よりは使いこなしが上手い。微妙な表現である。
 弓矢のシーンも見事である。放たれた矢に沿ったカメラの高速移動(背景動画はデジタル合成)や、着地側から見上げた大胆なレイアウトには迫力がある。侍が放った矢をアシタカが素手で捕らえて打ち返す神業的シーンは、息詰まる一瞬であり、過剰さを圧し殺した鋭いタイミングがいい。アシタカが弓を張るシーンの弾力感も微妙な演技である。また、弓矢の柄尻にはキチンと“切り込み”まで描かれている。
 薙刀でアシタカと一騎打ちをする侍のシーンでは、侍が全身で重い薙刀を振り回すリアリティを出すために、初速はゆっくりと遅く、途中から振り抜くまでを高速に描いている。(カメラがかなり低位置に据えられている事も迫力を増している)これは、タタラ場の門の開閉装置の巻取りにも応用されていると思う。上まで回す速度は遅く、下へ降ろす速度は速い。これは、動きの連続性の中に微妙な誇張を加えることによって、観客の視覚的・感覚的なリアリティを増幅させると言う、アニメーションならではの高等トリックである。
 また、薙刀や刀が光線の具合で青白く光る(透過光か)のも、印象的だ。唐傘連の放つ毒針まで光るにのは驚いた。極細針に光を重ねて動かすのは大変だったのではないか。
 終盤、腕を失ったエボシを島に引き上げたアシタカを見たサンは、「その女をよこせ!八つ裂きにしてやる!」と怒鳴るが、この時のアクションも興味深い。以前のようにいきなり飛びかかることも出来た筈だが、サンはアシタカ(あるいは腕を失ったエボシ)を気遣って我慢している。このため玉の小刀を引きちぎって握りしめ、片足で思いきり地面を踏む。自らのやり場のない怒りと苛立ちを微妙なアクションで表現しているのである。
 タタラ場の人々に、アシタカが「ディダラボッチのドロドロから逃れるように水辺へ行け」と指示するシーンも見事である。このシーンの絵コンテには「全身でしゃべる」と書かれている。遠距離の聞き取り辛さへの配慮と一秒を争う切迫感(しかも相手をパニックに陥らせずに的確に表現しなければならない)から、一語一語を大声でしっかりと早くしゃべっているのである。このように、仁王立ちで髪の毛を逆立て、横隔膜を全開にして必死にしゃべるキャラクター演技は見たことがない。
 また、全編通じて、特筆すべきはヤックルの演技である。擬人化表現を捨て、台詞もなく、大きな表情変化もなく、まさに全身で表現するだけの動物のリアリティを描いた点では空前絶後と言ってもいい。左ももを弓で打たれた後も主人を追う愛くるしい動作は、片足をかばいながら重心を右に移してヒョコヒョコと歩く全身の動作が計算出来なければ描けない。それは、驚異的な観察力と記憶力を作画力に転化出来る有数のアニメーターだけが成し得る職人芸である。
 動物描写で言えば、度々サンに鼻先をこすりつけて甘える山犬の動作も細かい。絵コンテには「犬を飼っている人なら分かるはず」「観察して描け」と再三記されている。
 随所に亘る群衆シーンはどれも見応えがある。
 猪神たちなどは、表情からデザイン(模様、傷、禿など)まで微妙に違い、吼えるタイミングまでバラバラに描き分けられている。ジバシリたちの生皮のヌメッとした質感と、滑るような速度感の気持ち悪さも興味深い。
 バラバラと言えば、石火矢衆や牛飼い達の移動や食事シーンから、女たちのタタラ踏みの動作まで、一人一人微妙に描き分けられている。ゴンザの緩急の激しいコミカルなテンポ、水底をおそるおそる歩く演技なども注目に値する。
 いずれにしても、平均的な劇場用長編アニメーションの三〜四本分に相当する総作画枚数、約十四万四千枚はダテではないのである。ちなみに、『風の谷のナウシカ』でさえ五万六千枚余である。

緻密に計算された作品世界の設定

 各シーンの端々にチラリと見える設定の緻密さにも少し触れておきたい。細部に至るまで一分の手抜きもない実に恐るべき時代考証の洞察力と執着が貫かれているのだ。
 たとえば、履き物や足元の設定書には、靴が輸入される前の草履・下駄履きの日本人の足の指は、外向きに開いている筈だから、足の指をつぼめないで描け―などの指示が書き込まれているのである。実際登場人物たちの素足の指は、女性キャラクターでも開き気味に描かれている。
 また、小道具のこだわりもすさまじい。猪たちとの死闘で「修羅の庭」と化した禿山でアシタカと再会したタタラ場の男たちは皆、ボートのオールのような変わった形の棒を持っている。おそらく、この棒をテコにして猪の遺体をどかして死者や怪我人を探していたのだろう。この棒は、実在のタタラ師たちに伝えられている「タネスキ」と呼ばれる道具に似ている。タネスキは、タタラ炉に砂鉄や炭を振り入れる際に使う特殊な道具である。先端の平らな部分に鉄のチップが埋め込まれているが、これは宮崎監督の創作だろう。燃えにくくするために開発されたエボシタタラ特製の新型と解釈出来そうだ。これも、現実にフィクションを混入させた緻密な設定だ。
 また、エボシ御前が初めて登場するシーンで、全ての石火矢には赤いカバーが被せられているが、これは絵コンテに「油紙」とある。つまり、火薬と着火装置が湿らないための防水カバーなのだ。
 タタラ場内の構造も興味深い。
 たとえば、水路が多く描かれているが、これは「鉄穴流し」の排水や、高熱を発する鉄の塊(ケラ)を冷やす「金池」に通じるものと思われる。
 高殿の周囲では、しきりにタガネを打って何かを砕いている様子だが、これは「大鍛冶」と呼ばれるケラから玉鋼を取り出す作業と思われる。
 ゴンザが木管に文字を書いている背後には、烏帽子姿の商人が描かれている。要するにゴンザは取引伝票(納品書?)を切っているのだ。エボシも木管を書いているが、これには「玉鋼…(最後の一字は数字のようだが等級か量か)」などと書かれている。つまり出荷伝票である。
 この類の解釈はキリがないので、一応この辺りで筆を置こう。

アニメ・ジャーナリズムの課題

 以上はほんの一例であるが、こうした魅力は無数にある。何故こうした複雑な演技を擁するシーンが多いかは、まず自らが描きたい・動かしてみたいシーンを描いた「イメージボード」をストーリィに先行させるシステムに起因しているのではないか。それは、宮崎監督が東映動画長編黄金期の正統な後継者であることにも関係がありそうだ。
 歴史と経験に裏付けられた演技の質と幅こそが、凡百のアニメ作品との決定的な技術的差異である。逆に言えば、よく見かける他のアニメ作品とジブリ作品とを水平に並べた比較論は、この技術水準の評価を一切無視しなければ成立しない筈なのだ。「アニメ雑誌」を始めとする各メデイアは、もっとこうした地味なシーンに費やされたアニメーション技術―“動きの魅力”をサルベージする役割を果たすべきだと切に思う。
 一方、たった一、二カットだが、エボシ御前やアシタカの顔に乱れが見えたり、ロングショツトになったサンの顔から口回りの血のりが消えたりする「弱点」もあるが、それこそ他の作品とは比較にならない些細な手違いである。
 他にも、背景美術の驚異的な描き込みと奥深さ、膨大な数の色指定、東京都北区弓道連盟にまで協力を依頼した効果音、端正で印象深い音楽と主題歌、そして超豪華な声優陣の演技についてなど、あらゆるセクションについて書かねばならないことは数多いのだが、筆者の力量不足・時間不足のため今回は言及しない。



第三章 シニアジブリへの密かな期待

 最後に、今後の宮崎監督の動向に関する期待を述べたい。
 「宮崎監督引退報道」の喧噪も一段落着き、噂の「シニアジブリ(仮称)」の建設地も決まった。シニアジブリとは、どうやら新会社などではなく、個人事務所兼版権会社「二馬力」の移転先のことらしい。要するに宮崎監督のアトリエ・事務所といった性格のものだ。
 監督は各インタビューで、再三「趣味の娯楽作を作って余生を過ごす」と語っているが、具体的な可能性はどうなのだろうか。各取材で明らかとなっているは、二つのアニメーション企画である。実現するかどうかは別としても、監督の今後を占う意味では興味深い企画である。

近代東京の庶民を描く『東京汚穢合戦』の可能性

 一つは、七月十一日にNHKテレビで放映された「トップランナー」のインタビューで語られた『東京汚穢合戦』と称する企画である。
 近代東京の極貧長屋を舞台に、肥溜の「汚穢(糞尿)」を肥料として買い取ろうとする近隣の農民たちの争奪戦(多摩対千葉?)を描いてみたいという。一見とんでもなくブラックな企画のようだが、実は明治以前の東京の下水処理については最近興味深い研究がなされている。(東京下水道史探訪会編『江戸・東京の下水道のはなし』技報堂出版 参照)現代からは想像も出来ないほど無数の水路がはりめぐらされていた「水都」東京を舞台に、各々が生活を賭けて「うんこ」を争奪する庶民像には、誰も考えつかなかったスラップスティック・コメディの世界が開けているような気がする。舞台が舞台だけに、アニメーションでなければ撮れない企画と言えるかも知れない。
 宮崎監督は、「ギャハハと笑って終わりの短編」と語っていたが、もし実現すれば『もののけ姫』とは別の意味で、時代劇の概念を転覆させてしまう抱腹絶倒のエンタテイメント作品となろう。

虫の視点で世界を描く『毛虫のボロ』の可能性

 もう一つの企画は、既に各誌で紹介されている『毛虫のボロ』である。
 これは、宮崎監督が数年来温めている企画で、当初の企画会議で『もののけ姫』とどちらをジブリの次回作に選択するか論議された作品である。
(前述『TECH/Video Doo!Vol.1』掲載 叶による鈴木敏夫氏インタビュー参照)
 内容は、ほんの数ミリの体長しか持たない毒蛾の幼虫が、卵から孵化して、隣の街路樹までの大冒険を行うというものらしい。人間中心主義の視点を捨てて、世界を謙虚に眺めることが『もののけ姫』の抱えるテーマの一つであったとするなら、まさにその先を展望する作品とも思える。「『もののけ』の次やるべき作品なんじゃないか」(前述「『もののけ姫』を読み解く」掲載インタビュー)という鈴木敏夫氏の直感は実に鋭いと思う。
 今秋公開された実写映画『ミクロコスモス』(九六年フランス/クロード・ニュリザニー&マリー・プレンヌー監督)は、ミクロサイズの虫の世界を接写撮影した奇跡的な映像詩であった。しかし、この作品ではほとんどのシーンが人間の側にカメラが据えられていた。個々の虫たちに成り切って見れると言うよりも、人間の眼で美しい虫の世界を垣間見たといった観察的印象の作品だ。全編「虫の眼で世界を見る」作品は、完全なフィクションになるわけであるから、世界の細微に至るまで構築出来るアニメーションに最も適したモチーフだと思う。宮崎監督は以前、以下のように語っている。
「人間の百分の一しか生きない虫は、僕らの一秒を百秒に感じているんじゃないか」「ハチはものすごい勢いで羽ばたいているけど、(中略)自分が羽ばたいているのが見えると思うの。そうするとね、雨のつぶてだって見えると思うの。」「水ってね、へこみながらフニュフニュフニュってしてるんですよ。ハチが雨の中を飛ぶ場合、そういうのが、ここに一個、はるか向こうの方に一個(中略)と落ちる中を、自分で縫って飛べばいいわけでしょ。」
(宮崎駿・著『出発点』徳間書店 収録「こんな映画を作りたい」九二年六月十九日、仙台 八幡小学校六年三組での講演)
 従来のアニメーションで繰り返されて来た「虫の世界を擬人化して描く」視点をきっぱりと捨て、創造的視点で虫に成り切りって世界を見つめるという観点は、実に斬新である。へこんだ形の雨粒がゆっくり落ちて来る世界では、何がどう見えるのか。想像するだけでも楽しい。『もののけ姫』のヤックルで確立した“非擬人化動物の演技”を更に推し進める新たなアニメーション表現の開拓という意味でも興味深い。 
 テーマ的にも『毛虫のボロ』は「生きるに値するこの世界」という『もののけ姫』の覚悟を具体的に補強する作品となるのではないだろうか。宮崎監督のライフワークであった漫画版『風の谷のナウシカ』のラストには、ナウシカが「生きねば」と決意するに至る過程に、以下のような印象深い台詞がある。
「私達の神は一枚の葉や一匹の蟲にすら宿っている」
 これは、『もののけ姫』の「生きろ」というメッセージと表裏一体の生命思想である。ここには、何を信じ、何を感じて生きるべきかという模索がある。おそらく『毛虫のボロ』は、このナウシカの台詞を体現する作品なのではないだろうか。
 また、宮崎監督を特徴付ける作風を『風の谷のナウシカ』に代表される壮大なシリアス叙事詩と、『となりトトロ』に代表される宮沢賢治的(『トトロ』の原点は『どんぐりと山猫』)な優しさとペーソス溢れる小品に大別するならば、『ボロ』は後者の流れの到達点と言えるのかも知れない。それは、文字通り「一寸の虫にも五分の魂」という宮崎的生命観を集大成したエンタテイメントとなることだろう。

 なお、これらの企画に宮崎監督がどのような立場で参加し、どのような形式で制作・公開されるのかは全く分からない。あるいは、監督の胸中で終わってしまうかも知れない。
 宮崎監督は、もう充分過ぎるほど働いた。整体・マッサージ・鍼治療を続けながら、この三十年で総量にして地球数周分の線を描いて来たのではないか。もう過度の期待を押し付けられる環境から解放されて、「趣味の娯楽作」に専念しても誰も文句は言えないだろう。
 一観客に出来ることは、宮崎監督の精神的・体力的復調を願いつつ、密かな期待を抱きながら、静かに待つことだけである。


追 記


 「『もののけ姫』を読み解く」掲載の各拙稿は、映画完成の一〜二ヶ月前に書かれたため、映画と照らし合わせた際に展開不足の箇所や補足が必要な箇所が幾つかある。また、諸般の事情で意図的に書くのを控えた内容もある。以下の課題についてもいずれ論じてみたいと考えている。
・中世の病者について
・マタギとジバシリについて
・新式石火矢の着火装置について
・巨石・巨木があり、大量の鳥が舞う風景
・金屋子神は一人ではなかったとする伝承
・「花咲爺」伝説について

 
〈了〉


※禁無断転載

HOMEへ戻る
「宮崎駿論」トップへ戻る