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「高畑勲・宮崎駿の世界」第一期講義

聴講生との質疑応答
「Q&Aシート」抜粋(1)

文責/叶 精二


 以下は、「高畑勲・宮崎駿の世界」第一期講義(2002.4〜7)の際、毎回聴講生に配布・回収されていた「出席確認カード」付録の質問欄に記された内容に答えたレジュメ「Q&Aシート」の抜粋です。不思議なことに、挙手による質疑を求めてもほとんど手があがらないのですが、文書(メモ)による質疑は毎回たくさん寄せられました。4月の数回は講義冒頭に口頭で逐一回答していましたが、回答だけで授業時間の1/3も消化してしまうため、5月からはレジュメで回答を用意して配布し、代表的な2〜3の疑問に口頭で答えるという形で進めました。範囲の広い漠然とした質問や、一言で答えられないような難問も多々あり、難儀しましたが、自身の勉強にもなりました。なお、質問は毎回10問前後で、総計100問以上が寄せられましたが、半数以上は重複した内容でした。
 講義記録の参考資料として、一部を下記に抜粋しました。


―2002.5.10.回収分より―

Q. 授業でディズニー作品について語ることが多々あり、嫌いに聞こえるのですが何故でしょう?(同様2通)

A. 
「ディズニー」という用語は実に幅広い語意を有します。ウォルト個人なのか、特定の作品を指すのか、商品群を指すのか、テーマパークを指すのか。いわゆる「ディズニー・システム」、つまり経営戦略を指すのか、制作体制を指すのかという問題もあります。俗にこれら全ての矛盾する内容が抽象的イメージとして「ディズニー」とまとめて言われているようです。アメリカ人にとってのシンボルであったミッキーマウスを映像でなくキャラクター商品として世界に浸透させた経営戦略、低予算・外注・別スタッフで名作の「パート2」ビデオを続々と製作・販売する宣伝展開などは、「もの凄い」とは思いますが、個人的には共感出来ません。
御質問の内容は「ディズニーの長編アニメーション映画」を指すと思われますので、ここに限定してお話しします。ただし、昨今ではピクサー社が制作し、ディズニーが資金提供と配給のみを担当した「トイ・ストーリー」(95)「モンスターズ・インク」(01)も含められることが多いのでやっかいです。(これらはディズニースタジオの作品ではありません。)
結論から申し上げると、好きな作品も嫌いな作品もあります。厳密に言うと、素晴らしいカットを含むが全体は評価出来ない作品、シナリオは評価出来ないが技術的には素晴らしいと思う作品など色々あります。それはスタジオジブリの作品についても同じです。ただし、ディズニーの作品は、ジブリと違って作品毎に監督・スタッフが異なるので、デザイン・演技設計などに統一したイメージが乏しいのが実情です。作品毎に個別の評価が必要だと思います。
 ディズニー長編の歴史は、大きく分けて1937〜60年代の黄金期、66年ウォルト没後〜80年代前半までの低迷期、80年代後半からの再興期があると思います。技術的に素晴らしいと思う作品は、“ナイン・オールド・メン”と呼ばれたベテラン・アニメーターが多くを担当した初期の「白雪姫」(37)「ピノキオ」(40)「ファンタジア」(40)、中期の「ビアンカの大冒険」(77)などです。皆さんが御覧になる機会が多い「リトル・マーメイド」(89)以降の“ニュー・クラシック”と呼ばれる作品群では、グレン・キーンという練達のアニメーターが担当したキャラクター(アラジン、ターザンなど)の演技設計が素晴らしいと思います。(※別表資料参照)
 逆に、興行下降・スタッフ拡散により長編制作断念が検討された低迷期のピークに作られた「コルドロン」(85)などは、テーマ・技術・画面設計・演技など最低の作品だと思います。

※資料 近年のディズニースタジオ制作作品の主なスタッフ表

公開年   原題/日本語版タイトル        ★監 督   ☆主なスーパーバイジング・アニメーター(キャラクター作画監督)
1989 The Little Mermaid/リトル・マーメイド  ★ジョン・マスカー/ロン・クレメンツ  ☆マーク・ヘン(アリエル)/グレン・キーン(アリエル)
1991 Beauty And The Beast/美女と野獣   ★ゲーリー・トゥルースデイル/カーク・ワイズ  ☆グレン・キーン(野獣)/ジェームズ・バクスター(ベル)/マーク・ヘン(ベル)
1992 Aladdin/アラジン   ★ジョン・マスカー/ロン・クレメンツ  ☆グレン・キーン(アラジン)/マーク・ヘン(ジャスミン)/エリック・ゴールドバーグ(ジーニー)
1994 The Lion King/ライオン・キング  ★ロジャー・アラーズ/ロブ・ミンコフ  ☆ルーベン・アキノ(シンバ)/マーク・ヘン(シンバ子供時代)/アンドレアス・デーハ(スカー)
1995 Pocahontas/ポカホンタス  ★マイク・ガブリエル/エリック・ゴールドバーグ  ☆グレン・キーン(ポカホンタス)/ジョン・ポメロイ(ジョン・スミス)
1996  The Bells Of Nortredame/ノートルダムの鐘  ★ ゲーリー・トゥルースデイル/カーク・ワイズ  ☆ジェームズ・バクスター(カジモド)/トニー・フィシュル(エスメラルダ)
1997 Hercules/ヘラクレス  ★ジョン・マスカー/ロン・クレメンツ  ☆アンドレアス・デーハ(ヘラクレス)/ケン・ダンカン(メガラ)
1998 Mulan/ムーラン  ★バリー・クック/トニー・バンクロフト  ☆マーク・ヘン(ムーラン)/トム・バンクロフト(ムーシュー)/ルーベン・アキノ(シャン)
1999 Tarzan/ターザン  ★ケビン・リマ/クリス・バック  ☆ グレン・キーン(ターザン)/ジョン・リパ(ターザン幼年期)/ケン・ダンカン(ジェーン)
2000 The Emperor's New Groove/ラマになった王様  ★マーク・ティンダル  ☆ニック・ラニエリ(クスコ)/ブルース・W・スミス(パチャ)/デイル・ベーア(イズマ)
2001 ATLANTIS/アトランティス  ★ゲーリー・トゥルースデイル/カーク・ワイズ  ☆ジョン・ポメロイ(マイロ)/マイク・サーリー(ローク)/ランディ・ヘイコック(キーダ)

※ 一見して分かる通り、ディズニー長編作品の監督は複数分担が多く、同一監督の連投は殆どない。アニメーターも毎回異なり、作品毎に絵柄・画風・演技が全く違う。一方、スタジオジブリの長編作品の監督は全て単独で、主に高畑・宮崎が交代で担当。作画監督・美術監督も同じメンバーの連投が多い。一種の統一感があるのも頷けるのではないか。


Q. 「モンスターズ・インク」などのCG作品も絵を動かす原理は同じなのでしょうか?

A. 
基本的にはそうだと言えます。ただし、動きのタイミングが等間隔であったり、単純で機械的な動作はコンピュータによって自動的に作り出すことが出来ます。この意味では大変便利なのですが、「演技させる」という意味では手描きと同じ(むしろ余計に複雑とも言えますが)行程が必要です。つまり、複雑な軌道を描く場合や人間・動物の生理に合った動作などは、コマ単位で計算して動きのタイミングを変化させなければなりません。「機械的でない動き」はCGは苦手なのです。CG作品では動きの幅がなめらか過ぎて生理的に不快であったり、逆にギクシャクとしか動かない場合などを多々見かけますが、これらは全てコマ単位の演技設計の研究を怠って来た結果と言えるでしょう。その点、ピート・ドクター監督の「モンスターズ・インク」は一部に手描きの絶妙なタイミングを引き写すという形で膨大な手間と労力をかけて作成されており、技術・内容共に世評に違わぬ素晴らしい作品であると思います。

Q. 宮崎監督はアニメーションを作る上で何が優れていたんですか?絵が上手だったから?それとも技術が優れていたから?

A. 
どちらもそうだと思いますが、それは努力の結果ではないでしょうか。更に、一つの世界(民族・風習・言語・生活習慣・食物・政治経済・道具・建築様式・自然環境など丸ごと)を独力で構築する技量・創造力というものが大きいと思います。加えて、流行のエロ・グロ・ナンセンス・暴力と無縁の作品を作りたいという健全な制作動機もあると思います。もっと根本的なことで言えば、毎回1年以上に及ぶ連日の徹夜に耐える体力・忍耐力・集中力ということも言えます。

Q. 作品を分析的に観る時、どんな点に注意して観たら良いのでしょうか?

A. 
難問ですが、自分の場合はシナリオ(脚本)以外ということで言えば、監督の演出全般(時間的空間的整合性・カメラワーク)、各アニメーターのキャラクターの演技、背景美術、レイアウト、色調などに注意して観ています。とりわけ、演出領域は作品の正否を決定します。低予算・短期間で作られたテレビ作品などには、一瞬の間に時間差が平気で生じている作品(台詞は続いてるのに前のカットと人物配置が全く異なっている「瞬間移動」、一瞬に数十分に相当する台詞をしゃべる「引き延ばし」等)や、突然拡大・縮小したり中途半端に移動する意味不明のカメラワーク、人間の骨格や生理を無視したキャラクター設計や演技、遠近法を無視したレイアウトなども見かけますね。

Q. 背景を描く人とか、人を描く人とか決まっているんですか?1本の映画にどの位の数の人が絵を描いているのでしょう。

A.
 背景を描く人は、「美術」または「背景」と呼ばれており、「美術監督」が統括責任者として背景画全体の色調や画風を統一します。主にキャラクター(移動する風景・建物などを描く場合もあります)を描く人を「アニメーター」と呼び、動きのポイントを描いて基礎設計をする人を「原画」、原画の指示に従って仕上げる人を「動画」と言います。「原画」の統括は「作画監督」と呼ばれる人が行い、キャラクターや演技を修正して統一感を出します。本来は全てのスタッフが一同に会して作業を行うべきなのですが、ほとんどの場合「外注」として国内外の美術スタジオ・作画スタジオに下請けに出すため、統一感を維持するのは至難の技です。
 何人が関わるかは作品によって違いますが、昨今はキャラクター・背景の緻密化と下請けの多層化(多くはアジア諸国)によって増大傾向にあります。ただし、スタッフの人数に作品の質が比例するわけではなく、問われるのは常に演出の総合力や個々の技量の問題です。
 ちなみに「太陽の王子 ホルスの大冒険」では、作画監督が1人、原画が7人、動画が18人、美術(監督)1人、背景が3人でした。これが「千と千尋の神隠し」の場合、作画監督が3人、原画が47人、動画が国内99人+韓国27人、動画協力(無記名)が21社、美術監督が1人、美術監督補佐が1人、背景が19人という莫大な編成でした。

Q. 「ナウシカ」の王蟲、「ラピュタ」のロボット、「千と千尋」のへんてこキャラ等…あれらは宮崎さん自身が考えたものですか?それとも皆さんで意見を出し合っているのでしょうか?

A. 
全て宮崎監督御自身のオリジナルです。しかし、スタッフに意見を聞いたり、様々な作品の影響を受けたり、自作のキャラクターをアレンジさせて再登場させているものもあります。「ナウシカ」の王蟲は「砂の惑星 デューン」(ハヤカワ文庫)のサンドワーム(砂虫)、「ラピュタ」のロボットは自作「(新)ルパン三世/最終話 さらば愛しきルパンよ」に登場したラムダというロボットのリニューアル版で、更にその原型はフライシャー兄弟の「スーパーマン」シリーズに登場したメカニカルモンスターというロボットです。「千尋」に登場する不思議なキャラクターたちも、水木しげるさんが描く妖怪・つるべ落としや、諸星大二郎さんの短編「不安の立像」「妖怪ハンターシリーズ」などのキャラクターに似ているものもあります。

Q. なんで宮崎さんの作品の登場人物は時々ものスゴイジャンプ力になるんですか?

A. 
一言で言うと、そういうシーンが好きなのだと思います。肉体の爆発力を強調して表現するのは宮崎監督の大きな特徴です。かなり初期の頃からやっていますので、アニメーションとして面白い演技を追求した結果だと思います。ただ、その都度「すごいジャンプ力」を出さざるを得ない必然性が場面場面できちんと設定されています。重力からの解放感・浮遊感や落下速度の恐怖などを全身の筋肉で表現するというアニメーションは大変難しく、観客をハラハラドキドキさせるような「説得力のある表現」に高めている点に注目して欲しいと思います。

Q. 何故テレビでは同じ作品ばかり再放映されるのでしょうか?

A. 
局側が版権を有していて、視聴率が稼げる作品を持ってくるからだと思います。視聴率が稼げれば、CM買い取り枠が高騰しますし、その分局側の収入も増大します。アニメーションの場合、再放映の権利は局が持っているケースが多く、本来はCMは必要ないと聞いたこともあります。



―2002.5.17.回収分/総計199通より―

●講義内容に関連した質問

Q. スタジオジブリの作品をもっと上映して欲しい。講義でなく「アニメ」がもっと見たい。上映中だけは私語が少なくなるので、上映時間を増やすべき。(同様2通)
Q. 無理なのは分かっているが、最後まで作品を見たい。(同様2通)

A. 
もし、前者の質問者の本講義受講の最大の動機が「ジブリ作品が見たい」ということであれば、その期待にはお応え出来ません。本講義は無料上映会でも、皆さんの退屈しのぎのためのボランティアでもありません。アニメーション監督である高畑勲、宮崎駿の演出や技術の形成史、各作品の周辺史と成り立ちなどを研究・考察するための「講義」です。作品上映はあくまで、参考映像としての抜粋に過ぎません。作品は各自で鑑賞して下さい。
 スタジオジブリ作品自体をきちんと見たいのであれば、ソフトを借りるなり、買って見るなど手段は幾らでもありますのでご随意に。「教室という場所で学友と見たい」のであれば、どなたか学園祭で上映会などを企画してみてはどうでしょうか?

Q. 宮崎監督は、色々な作品の映像の一部を真似たり手本にしたりしているようですが、それは良いことなのでしょうか?

A. 
それは結果次第でしょう。何かにインスパイア(感化・鼓舞)されたり、感銘を受けたものを物理的・精神的に真似ることは創作の原点であり、誰もが行う行程です。「模倣は創作の母」ということです。しかし、そのまま露出させたのでは俗流のパロディでしかなく、場面として浮き上がってしまうこともあるでしょうし、決して原典を越えることは出来ません。自らの個性・オリジナリティにまで発酵・消化させて作品に活かすことが出来るかどうかが問題なのです。宮崎監督の煩悶の多くはここに費やされているとも思います。白髪になるまで悩み抜いて作品に活かされているからこそ、借り物でない説得力が生まれるのだと思います。
 たとえば、黒澤明監督は、「駅馬車」「荒野の決闘」などて知られるジョン・フォード監督を「オヤジ」と慕い、彼の西部劇から多くのエッセンスを真似て時代劇を監督したそうです。黒澤の「隠し砦の三悪人」は、フォードの「三悪人」からタイトルを頂いたようですが、どちらも甲乙をつけがたい傑作です。そのフォードの「三悪人」も、実はデュマの名作文学「三銃士」にヒントを得た作品だそうです。さらに、時代は下ってジョージ・ルーカス監督は黒澤を慕い「隠し砦の三悪人」を自己流にアレンジ・翻案したSFシリーズを創作しました。それが「スター・ウォーズ(エピソード4/新たなる希望)」です。
 スティーブン・スピルバーグ監督の「E.T.」は、福富博監督の「ドラえもん/のび太の恐竜」にヒントを得たと言われていますし、ジェームズ・キャメロン監督の「タイタニック」にも「未来少年コナン」とそっくりの水中キスシーンがあります。ウォシャウスキー兄弟は「マトリックス」を監督するに当たり、押井守監督の「攻殻機動隊」を参考にしたと語っています。手塚治虫氏の代表作「火の鳥」シリーズに登場する「火の鳥」は、「せむしのこうま(イワンと仔馬)」(1947年/イワン・イワノフ=ワノ監督/ソ連)という長編アニメーションに登場する「火の鳥」をほぼそのまま使ったものです。手塚氏は「青いブリンク」というテレビアニメーションシリーズでも、この作品の仔馬のデザインを「ブリンク」というキャラクターにして使っています。勿論物語はオリジナルであり、借り物は造形だけですが、このことは余り語られていません。
 あるいは、ディズニー長編の「ノートルダムの鐘」の後半部は「カリオストロの城」に影響を受けたと監督自ら語っていますが、個人的には露骨に過ぎて消化されていないと思います。「アラジン」にも「長靴をはいた猫」とよく似たシーンがありますが、こちらの方は消化の好例と言えるかと思います。また、ピクサー社のジョン・ラセター監督は「天空の城ラピュタ」「となりのトトロ」の演技設計を参考にして「トイ・ストーリー」「同 2」を演出したと語っていますが、これは言われなければ分からないほどに自己消化されており原典を昇華させた例だと思います。
 このように、普遍的なテーマや表現は時代を超え、作り手を変えて活かされ、継承されていくものだと思います。ただ、そこから名作が産まれたか駄作が産まれたかが問題なのです。

Q. ディズニーのミュージカル調の音楽や場面についてどう考えますか?歌によってストーリーが分かりにくくなっているのでは?

A. 
ディズニーの長編アニメーションは、アメリカでは実写と同感覚で物語を楽しむ劇映画ではないという受け止め方をされていると思われます。つまり、ブロードウェイやボードビルを楽しむような感覚で家族で出掛けて、豪華さを満喫して劇場を出るという一種のショー感覚を楽しむものという側面があるのではと思います。とすれば、物語そのものより、ミュージカルシーンが重要な役割を果たしているということになります。本筋は単純明快な話が多いですから、必ずしも派手な演技ばかりというわけには行きません。しかし、物語的には枝葉の部分であっても、突然歌ったり踊ったりすることによって絢爛豪華なシーンに仕上げることが出来ます。以前お話したように、ディズニーはアニメーターのアイデア合戦から作品をスタートさせます。常に動いているために大量のアイデアが必要とされ、最も演技と枚数の手間暇がかかるシーンこそ、ミュージカルシーンなのです。
 何度もお話しているように、「ディズニー」と言っても色々な作品があります。停滞期に作られた「コルドロン」のような物語が複雑な作品にはミュージカルのシーンがありませんでした。最近では、ディズニー出身のドン・ブルース監督作「タイタンA.E.」、ブラッド・バード監督作「アイアン・ジャイアント」などはミュージカルカットがほとんどありませんでした。特に「アイアン・ジャイアント」は良く出来た作品でしたが、興行成績は全てふるいませんでした。これもミュージカルと長編アニメーションの関係性、観客のニーズを語るエピソードです。

Q. ディズニーのアニメーションはオーバーアクションが多いと思うのですが、お国柄でしょうか?

A. 
ある程度はそうだと思います。「リアリティ」の捕らえ方は民族によって異なると思います。たとえば、欧米では「リップシンク」と言って、キャラクターの発音通りに口を開いたり閉じたりする作画がよく行われます。このため、声優の演技はほとんどが“プレスコーミング(「プリレコーディグ」とも言う。事前録音)”で、音声に合わせた面倒な作画行程を踏まなければなれません。これは、口の開閉や舌の上下動の大きな言語体系を有するために、頬の筋肉や眉・鼻の運動なども活用されます。ここから「話す」ことについての動作自体も大きくなりがちなのかも知れません。そうした日常会話を毎日行っている民族は、日本人のように直立不動で口の開閉の少ない言語を話すキャラクターは人間的でなく「リアリティ」を感じない筈です。つまり、口パク3枚のアフレコ(アフターレコーディング)では話しているように見えないのではないでしょうか。この当たりも、日本の商業アニメーションで「トメ」が流行している根拠なのかも知れません。

Q. 昔のアニメより今のアニメの方が動きがなめらかだと思う。どのような点で退化していると考えているのか分かりません。
Q. 「アニメ大国」と言われる日本では多くのジャンルのアニメが放映されていますが、最近のアニメの傾向についてどのような見解をお持ちでしょうか。自分としては、CGの多用、キャラクター重視、独創性のなさなど否定的に見えます。(同様2通)

A. 
前者は質問の範囲が抽象的かつ広範に過ぎて内容がよく分かりません。「昔のアニメ」「今のアニメ」という作品名は存在しません。過去の作品にも現在の作品にも膨大な駄作と一部の秀作があります。私は、テレビシリーズに限った全体状況としては、基礎技術的に後退しているという印象を持っています。つまり、キャラクターの喜怒哀楽や全身演技、歩き・走り・振り向きといった当然の芝居(アニメート)や時間軸の再現が省かれ、アップを連ねた短いカットのフラッシュや、突然引いたり寄ったり傾いたりするカメラなどの設計が乱発されることに、「枚数を減らして視聴者を煙に巻く」以外の必然性を感じることが出来ません。手間と時間は短縮されたとは思いますが、作品自体の支持される生命も短いのではないかと思っています。

Q. 「ジブリ」とはどんな意味なのでしょうか?(同様2通)

A.
 「GHIBLI」とは、イタリア語でサハラ砂漠に吹く熱風(砂嵐)の名前です。第二次大戦では同名のイタリア軍の偵察戦闘機もありました。強風にさらされる現地では、ほかにも「シロッコ」(サハラ砂漠から地中海に吹き抜ける熱風)など風の名前が幾つもあるようです。アニメーション界に旋風を巻き起こすといった意味があったようです。ただし、正しい発音は「ギブリ」で、宮崎監督の誤読から「ジブリ」と命名されたとのことです。日本でも「貿易風」「偏西風」など風の名前がありますが、「春雨」「五月雨」「梅雨」「驟雨」など、むしろ雨の名称の方がたくさんあるように思います。日本人の生活が雨に支えられて来た証拠ではないでしょうか。

Q.  作品の版権表示に記されてる「二馬力」とは何のことでしょうか。

A. 
「二馬力」とは宮崎駿監督の個人事務所のことで、元は「風の谷のナウシカ」単行本化に当たって版権管理・表示用に作られた名称です。簡単に言えば、「マルシー・宮崎」ということでしょうか。ちなみに、「二馬力」とは宮崎監督が80年代まで乗っていた愛車「シトロエン2CV」の俗称です。このフランスの大衆車は「カリオストロの城」にも登場しています。冒頭で逃亡するクラリスが運転している車がそれです。なお、現在はスタジオジブリ近隣に建設された「豚屋」という宮崎監督のアトリエが「二馬力」とされています。

Q. ジブリ作品はなぜ日本テレビでしか放映されないのですか?

A. 
まず、「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」のテレビ放映権を日本テレビが取得しました。このことが契機となって、「魔女の宅急便」以降、映画の実制作に日本テレビが加わりました。以降は専属契約となっています。毎回映画の冒頭に、徳間書店、スタジオジブリ、映画会社、タイアップ企業などと並んで「日本テレビ放送網」と記されていますので、見てみて下さい。

Q. ジブリ作品の原画が欲しいのですが、どうすればいいのでしょうか?

A. 
初期には販売もされたことがありますが、最近の作品については原画の流出は有り得ません。ネット・オークションなどマニア市場で高騰しているため、中間素材を表出させないため、版権管理のためと複雑多岐に亘る理由があります。

Q. ジブリでは長編を制作していない時、スタッフは何をしているのでしょうか?

A. 
現在、ジブリでは第一スタジオから、第四スタジオまで四つの社屋があり、幾つかの制作班が別々の仕事に従事しているようです。長編の合間は他社の下請けとして動画の仕事をすることもあるようですが、ほとんどは間を置かずに次の長編の準備作業をされている方が多いようです。最近はジブリ美術館用の短編作品、「アサヒ旨茶」「ローソン」などのCMも手がけていますね。

Q. 宮崎監督は続編は作らないのでしょうか。たとえば「となりのトトロ 2」とか。

A. 
基本的にはそうでした。「風の谷のナウシカ2」という企画は何度も上がったそうですが、宮崎監督はこれを拒否し続けています。鈴木敏夫プロデューサーによれば、「続編制作は大変難しい。前作を上回る作品を作れない限り意味はない。」とのことです。
ただし、「となりのトトロ」については、現在ジブリ美術館用の短編「めいとこねこバス」という作品を制作中です。続編と言うよりは姉妹編・番外編のような作品のようです。また、現在制作中の「猫の恩返し」(今夏公開)は「耳をすませば」の姉妹編のような作品とのことです。(ただし、宮崎監督は企画のみで直接は関わっていません。)

Q. 宮崎監督が主人公に女性を多用することについて色々な説があるようですが、どうお考えですか?

A.
 「色々な説」とは具体的に何のことでしょうか?実家が男4人兄弟だとか、実子も息子が2人の男系家族だから女性への憧れが強い…といった推測のことでしょうか。いずれにしてもそうした創作の個人事情については所詮は推測しか出来ませんから、作品そのものの評価とは別の次元で語られるべきものではないでしょうか。あえて理由を詮索する必要性も感じません。「監督にしか分からない」「好きだから」「そうしたいから」でいいのではないかと思っています。また、「カリオストロの城」「未来少年コナン」「天空の城ラピュタ」「On Your Mark」「もののけ姫」など男性が主人公の作品も多々あると思いますけれど。

Q. 宮崎監督が映画を作成中の睡眠時間はどの位なのでしょうか?

A. 
作品によりけりだと思いますが、一般の方より少ないことは確かでしょう。テレビの「未来少年コナン」を制作していた若かりし頃は、深夜2時頃までスタジオで作画作業を行い、車で帰宅してから徹夜で絵コンテ(シナリオ)を描き、翌朝10時出勤という状態が続いたらしいと聞いたことがあります。今も映画制作中は、近隣のスタジオジブリは深夜まで電気が点いていますね。

Q. 「もののけ姫」はアメリカでは評判が悪く、ヨーロッパでは良かったと聞きます。ほぼ同じ文化を持つ国なのに、この違いは何なのでしょうか?

A. 
ヨーロッパ諸国とアメリカでは文化圏が全く違います。これについては自身で学習して下さい。特にフランスとアメリカでは映画についての考え方も違います。ただ、一口にアメリカと言っても、ハリウッドを頂点とする「ロサンゼルス派」とインディーズが対等に評価される「ニューヨーク派」では映画についての考え方が全く違います。評価は各個で違って当然ではないでしょうか。ちなみに、アメリカの何人かの批評家は「もののけ姫」を絶賛していました。

Q. ジブリ作品は声優のミスキャストが多いのではないでしょうか?声優を使わずに著名人や役者ばかりなのはおかしいと思う。誰が声優を選んでいるのですか?(同様3通)

A. 
声優起用はケース・バイ・ケースです。オーディションや会議で決まることもあるようですし、鈴木敏夫プロデューサーの鶴の一声で決まることもあり、当然高畑監督・宮崎監督の推薦で決まることもあります。「ジブリ作品」では分かりませんので、具体的にどういった作品のどんな役のことを指しているのか教えて下さい。
また、「声優」と「役者」には元々はっきりとした境界線はありません。声優になるための基礎レッスンは呼吸法・発声法・発音・台詞解釈・全身の感情表現などで、演劇・芝居を志すものと共通しています。実際、ベテランの職業声優と思われている方の中には劇団の主宰者・役者で舞台出演や演出が本業である方も多いのです。日本のアニメーション・ファンダムでは、キャラクターと声優の奇妙な同一視によって一部の若手声優をアイドル視する傾向にあり、結果としてCDセールスやコンサート、ラジオ・パーソナリティの仕事などで活躍されている方もいるようですが、そうした芸能活動が声優業の収入を上回る方は、収入上は「マルチタレント」「芸能人」と呼ばれても仕方ないのではないでしょうか。

Q. 「手塚治虫アニメ」についてどう思いますか?(同様2通)

A.
 具体的な作品名を挙げて下さい。講義でみかんやワインの品種・産地区別の話をしたと思いますが、「手塚アニメ」では何を指すのかさっぱり分かりません。実際にそう呼べる作品があったのかどうかも疑問です。
ちなみに手塚氏が関わったアニメーション作品群は、東映動画長編にコンテ・原案として関わった初期(「西遊記」「シンドバッドの冒険」)、虫プロ時代の実験的短編(「ある街角の物語」)とテレビシリーズ(「鉄腕アトム」「ジャングル大帝」「リボンの騎士」)、虫プロ倒産後の手塚プロ時代の長編(「火の鳥2772」)・テレビスペシャル(「バンダーブック」「フウムーン」「バギ」)・テレビシリーズ(「アトム」新シリーズ)、個人作家としての自主制作短編(「JANPING」「おんぼろフィルム」「森の伝説」)、死後別スタッフで作られたテレビ・映画・ビデオ(「ブラック・ジャック」「ジャングル大帝」新シリーズ)と、カテゴリーが幾つもの枝葉に分かれていて、トータルな評価は難しいというのが現状です。
 はっきりしていることは、生前手塚氏は、アニメーション作品を漫画連載を抱えながらやれる範囲で関わっていたということです。このため、原画・脚本・コンテ・監督など職種は幾つも兼任していても、常に制作現場に姿があったわけではなく、細部までトータルに専念した作品は希です。氏は、(自主制作を除く)ほとんどの作品を「野心作だったが失敗作だ」と自己評価していたようですが、演技設計やアニメートに無関心では優れたアニメーションになる筈がなかったように思います。実際、手塚氏はフルアニメーションの基礎技術をディズニーなどの先達に学んだ形跡がなく、ろくにアニメーターの養成もせずに漫画的なリミテッドから出発している点も実に不思議です。こうした経緯は大塚康生氏著「作画汗まみれ 増補改訂版」(P95〜「4章 テレビアニメーション時代の幕開け」)に詳しく記されていますので、是非読んでみて下さい。
ところで、個人名を冠して「○○アニメ」と呼ぶ呼び方はいかがなものかと思っています。「ドラえもん」シリーズは「藤子・Fアニメ」とは呼ばれないことが多いですね。「デビルマン」を「永井豪アニメ」、「ゲゲゲの鬼太郎」を「水木しげるアニメ」、「犬夜叉」を「高橋留美子アニメ」という呼び方もしませんね。「宮崎アニメ」という用語はあっても「高畑アニメ」という用語は存在しません。実に不思議なことです。何度も語っているように「アニメ」という用語自体が定義不能な上、「○○アニメ」では更に意味範囲が抽象化してしまいます。カリスマを仕立てて、集団作業を個人業績に切り縮めるのは分かりやすいことですが、制作実態の本質をぼかしてしまうのではないでしょうか。


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