Baby Baby‐SCENARIO#7


(注)このシナリオは、著作権者である MADARA PROJECT の許可を得て
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第7話 欲望の記号からつむぎだされる清らかな天使


「月の裏側に連れていって」とウィンドウのなかの文音は言った。 胸には天使の彫像を抱えている。 背後に浮かび上がる月の柔らかな光を浴びて、文音は僕をみつめて微笑んでいた。
「降、これは君のお父さんの遺言だよ・・・」と微かな声で三木が囁いた。
「父の遺言?父は言葉を持たなかった。 最後まで無意味な数字の羅列に埋もれていた ・・・・ 父は最後まで僕に何に関心も持ってはいなかった・・・・」
「でもこの子は文音だろう? 記憶を持たないと誓う君の心に滑り込んできた君の文音だろう?ね、降・・・・」
「違う、文音は僕のものじゃない、文音は・・・・」 言葉を続けようとして僕は軽い眩暈に囚われる。 文音が男に抱かれている映像が浮かび、 それと同時に僕に差し出された清らかな10本の指が再生される。
「降、君のお父さんの最後の言葉、あの2進法の数字を入力したらね、 文音が君に話しかけたんだよ。 君のお父さんは人生の最後にこれを伝えたかったんだよ・・・・・」
月を指差して涙を流していた父の姿を僕は見る。 彼には僕が見えていたのだろうか? 研究のために、果てをもたない欲望のために造られた記号としての僕の姿は 父の目に息子として映っていたのだろうか?
月・・・・
「月はなにを意味するんだろう・・・・」と僕は言った。 あの時、父は確かに月を指差していた。 そして繰り返し僕を無意識の波間に誘うヴィジョン・・・・・ 存在しないはずの文音の声が僕を呼び続けている・・・・
三木はキーボードを叩き続けていた。 ウィンドウが次々に開いてゆく。 終末の天使が横切る。 彼はそれを地図に組み入れる。
「降、みてよ」と三木が僕を呼ぶ。
「これが天使が置かれていた場所。 この点を結びあわせると一つの言葉が浮かび上がるの・・・・・」
僕は真実に打たれ、衝撃に魂を砕かれそうになる。
「わたしをたすけて」と天使は歌っていた。
それは文音の叫びだった。 言葉を持たない文音は沈黙のなかで泣き叫び、 差しのべられる癒しの手をただひたすらに待ち望んでいた。

月の光が広い野原いちめんに降り注ぎ、静寂と共に流れる水にとけてゆく。
僕は橋の欄干にもたれ、煙草に火を点ける。 うさぎのようなくちびるに煙草を差し入れ、 僕にさしだした文音の顔を僕は再生する。 川の向こう側から僕に向かって両手を広げながら駈けてきた文音の涙の雫。 暖かなコーヒーの湯気に包まれた笑顔。 胡桃のように小さな白い顎に揺れる黒い真っ直ぐな髪。 細い腕と不確かな足取り。 僕を求める震える胸・・・・
川の上流から小さなボートが流れてくる。 ラファエロの描くオフィーリアのように少女が横たわっている。
「文音?・・・・」と僕は信じられない気持ちで船を見下ろす。 彼女は死んだように身動きしない。
「文音!」僕は橋を渡り、川面を駈ける。 彼女の名前を叫ぶ。 沈黙だけが木霊する。 僕は魚のように水のなかにすべりこみ、 文音のボートにたどりつき、 彼女の頬を叩いた。
彼女はようやく意識を取り戻す。 僕をみてにっこりと微笑み、僕の体に両手をまわす。 暖かな文音の胸に僕の孤独は崩壊してゆく。 僕は文音を強く抱きしめる。 彼女を深く激しく求める・・・・
そして僕は文音が再び意識を失っていることに気づく。 彼女の体が硬く冷たく閉じてゆく。

兄さん、 これは文音が兄さんに出す最後の手紙になると思います。
文音に、こどもができました。
生むことはできません。殺すことも、できません。
文音を探さないでください。 文音をこれ以上、苦しませないでください。
文音は月の裏側にゆくことになると思います。 そこでは音がないことが自然な世界だから、 そこでなら文音は文音でいられると思うから・・・・

僕は横たわる文音の傍らに置かれた文音の手紙をみつめた。 青い薬瓶からこぼれた黄色い錠剤が金平糖のように月の光を反射させていた。
「文音・・・・」僕は文音の体を抱き、青ざめた唇にキスをする。 文音のくちびるから微かな吐息が漏れる。 僕は震えながら文音の体を揺さぶり、大声で彼女の名前を呼ぶ。 文音は目を開ける。 瞳に僕が映る。 意識が戻ると文音は僕の腕から逃れようと激しくもがいた。
「みないで!」と彼女は両手で叫んだ。 その時僕たちを乗せた船が暗渠に滑り込む。 暗闇が僕たちを包む。
「文音・・・・」僕は文音の肩に腕をまわす。 文音は震えている。 慟哭が文音の胸を激しく揺らしている。 文音の涙が僕のシャツを熱く濡らしてゆく。 文音の叫びが聴こえる。 叫び声が抑圧され、押さえつけられ、行き場所を塞がれた魂が解放してゆく。
「降には・・・降にだけは知られたくなかった・・・・
あたしは汚い・・・あたしは汚れているの・・・・」
「君のせいじゃない、君は悪くない・・・・」
僕は文音の頬を両手ではさんで繰り返しキスをした。 僕の胸を押し返していた文音の両手がやがて僕の背中に廻され、 しっかりと僕を抱きしめる。 僕は右手で前髪をあげ、額にくちびるをつけそして彼女の髪をゆっくりと撫でた。
「始めて逢った時、降は私に今言った言葉をくれた・・・」
「そうだよ、文音。 君は汚れてなんかいない、誰も君の清らかな指を汚せない・・・・」
文音は長い吐息を吐き出す。
「文音、君は生まれてこない方がよかったと思うことがあるの?」 と、僕は思い切って言った。 文音は僕をみつめ、両手で耳をおさえて、笑顔を作ろうとした。
「望まれない子どもだと、思ったことがあるの?・・・」
「あたしは誰からも好かれない・・・・」と、10本の指が語った。
「僕は君が好きだよ・・・」と僕は言った。 文音が両手で口元をおさえながら必死で涙をこらえていた。
「ダメ・・・・ 」
僕は言葉を失った父を思う。 彼はなにもかもを奪われたひとだった。 でもこの世界でそれは特異なことではないのだ。 僕たちは死に向かって生をいきてゆく。
世界は理由をもたない暴力であふれている。 僕たちは誰もがなにかを奪われ、そしてなにかを壊していきてゆく。 僕たちはそこから逃れることはできない。
船が暗渠を抜ける。 澄み渡る月の光が僕たちを包み込む。
「文音、月の裏側にきたよ。僕たちは生まれ変われる・・・・・」
僕は文音の白いワンピースの上からそっと柔らかな腹部をさする。
「望まれない子どもはいないよ。好かれない子もいない・・・・
少なくとも、僕は君がほしいと思うよ・・・・」
「降・・・・」
僕はその時はっきりと僕を求める文音の声を聴く。
天使がアリアを奏でる。 船は川面を滑り、僕たちは月が暗闇に沈んでゆくのをいつまでもみつめていた。


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