学生時代のコミュニケーションツール

パソコン(というよりマイコン?)

高校生の頃、父親が持ってきた、NHKの「マイコン入門」のテキストがありました(こういう本でした)。 PC-8001 に run, list, new の3つのコマンドを試すところから始まって、 やがて BASIC のプログラムを入れるとそのとおりに計算してくれたり、 文字や色が表示されたり...これがマイコン(今でいえばパソコンか?)へ 興味を持ったきっかけでした。

しかし、親には買ってもらえませんでした。 そんな中、雑誌「初歩のラジオ」に SR-05 という Z80 マイコンの製作記事が載っていたので、 これを作ってみることにしました。当時はパネルスイッチ式で、 単5電池でバックアップできる低消費電力の RAM (6116) が 2KB しかありませんでした。

部品はできるだけ粗大ゴミを活用し、積極的にリサイクルに励んでいました。 この頃はまだ粗大ゴミが有料化されていなかったため、団地のあちこちに粗大ゴミ置き場があり、 そこへよく拾いに行っていました。粗大ゴミから得られなかったパーツは、 エジソンプラザ(横浜・石川町)や秋葉原へ行って調達していました。

その後、このマイコンは徐々に成長していきます。

よくありがちな、プログラムミスなどによる暴走でメモリ内容の消失。 パネルスイッチでパチパチと入力し直す...という面倒な作業を少しでも省くため、 カセットテープへ保存する仕掛けを作りました。 データレコーダとして、英語教材のLLカセットテープレコーダを流用。 全部ソフトウェアで 1200bps の速度に変調して音に変換して録音していました。 データ形式は生のままで、ヘッダなどはなーんにもつけていませんでした (「ぴーーーぽーぎゃららら...」ではなく、 いきなり「ぎゃらららら...」から始まる)。 それでも、ちゃんと読み書きできていました。

ただし、これだけでパネルスイッチが不要になると思ったら大間違い。 カセットテープから復元するプログラムだけは、 パネルスイッチで入力する必要があるからです。 (よーく考えてみてください。 テープからの復元に必要なプログラムをテープに保存しても、復元できるわけないでしょ?)

そこで、ROM ライターの自作と、殺菌灯を使った紫外線ROM消去器の自作。 これによって、プログラムを ROM に焼いて ROM からブートすることができるように なったため、パネルスイッチは完全にいらなくなりました。

144MHz のハンディ機の周波数を制御するのも CPW-1 で行っていました。 デジタル信号を送ることで簡単にできたからです(でもハンディ機が小さいため、 細かい作業でちょっと大変でした)。

表示装置として使っていたのは、7セグメントLED (電卓やデジタル時計のように、7本の棒を点灯・消灯させて 数字を表示するタイプ)ではなく、 右の写真のような8x8ドット手作りマトリックスLED。 1バイトx8行表示を2進表示で実現していました。 2進表示でも、慣れるとそのまんま読めてしまったりします。

こうしておくと、将来に備えてCRT表示用のフォントパターンを作るとき、 パターンが文字としてそのまま表示されるので、結構便利だったりします。

その後、ビデオ信号出力回路(MSXパソコンで使われているのと同じLSIを使用) を作って、TVを改造してビデオ入力を引っ張り出して接続し、 半角 40x25 文字表示が可能になりました。

ちょうど Shift-JIS 漢字でチャットをやっている人が出始めた 頃でしたが、CPW-1 は漢字を扱えませんでした。そこで、全角文字を 半角文字に変換して表示するプログラムを書いて、相手には 「全角でもいいけど、漢字変換しないで送ってね」 とか言ってチャットをしていました。

CRT と 8x8LED の両方があった頃の写真。

シャーシーの上から基板が刺さっていて、しかもむき出しのまんまです。 当時の無線の知り合いがうちに遊びに来たとき、これを見せたら大笑いされました(^^;)

使っている途中でたまにハングすることがありましたが、 シャーシをゆらしてからリセットすると直ることも多かったです。

CPW-1の性能

CPU
Z80A (クロック 4MHz)
メモリ
ROMとRAM合わせて64kB。 最初はバッテリーバックアップSRAMを使っていたが、のちにDRAMに乗り換え。
キーボード
ジャンク品に多数のダイオードをはんだ付けし、 マトリックスを組んで接続。
ROMライター
2716 (16KBit=2kB)専用
アセンブラ
なし。ハンドアセンブルしてました。
ミュージックキーボード
粗大ゴミとして捨てられたエレクトーンからキーボードを取り外し、 多数のダイオードをはんだ付けすることでマトリックスを組んで接続。 音源はPSG(Programmable Sound Generator)とFM音源(YM2203)。
ディスクドライブ
5”2Dドライブのジャンク品を無線仲間からもらって、 フロッピーディスク・コントローラICで制御しようとしたが、 やがて就職のときがやってきてPC98Vmに乗り換えてしまい、 結局は動かずじまいで終わる。

TNC

Terminal Node Controller の略。アマチュア無線用のモデムです。 お金がなかったので、市販品の TNC よりも安価だった PacComm TNC-200 ( TAPR TNC-2 互換機、ケースなし) のキットを買いました。

マニュアルは英文のみでしたが、当時の僕の英語力でも一応理解でき、無事に組み立てることができました。 完成後しばらくは、右の写真のようにケースにも入れずに基板むき出しのまま使っていました。 (写真の無線機は 430MHz ハンディトランシーバ YAESU FT-709)

▼その後、このようにケースに収納。

Z80-CPUがたまに暴走して電波が出っぱなしになり、他の局が通信できなくなってしまうというトラブルが たびたび起きていたので、対策としてウォッチドッグタイマーを組み込んで、送信状態が一定時間以上経過したときに自動的にリセットをかけるようにしました。

実はこれ、CQ誌にも投稿したことがあって、「腐ったTNCを復活!」というタイトルで始めたような記憶があります。 bug をカナモード入力すると「こなき」になることから、通称「こなき・りせったー」と呼んでいました。 何年何月号かはよくわかりませんが、1980年代後半のはず(いまだ発掘中)。

あとは、接続があったときにチャイムを鳴らす「コネクト・チャイム」を組み込んだような...。 写真では NAND ゲート x 4個を装備した汎用デジタルIC、74LS00 を使っています。


無線機

アルバイト代は無線機のほうに多くつぎ込んでいました。その理由は、 デリケートな高周波回路よりもマイコンのデジタル回路のほうが作りやすかったからです。

当時はパソコン通信が流行っていましたが、貧乏学生だった私にとっては、 電話代を気にしなくてよいパケット無線のほうが適していたのです。 こんなにボロくて安上がりの設備でも、パケット無線のチャットに出て、 キーボードで連絡をとって食事会に行ったりしていました。 この頃の磯子周辺の仲間が大和市周辺のパケット無線仲間と融合、 YMT_netとしてTCP/IPを使ったNetNewsもどき(笑)である「寺子屋ネット」の 運用をするまでに至りました。

さらに、この設備でなんと自宅からパケット無線経由で UNIX へアクセスすることもできたのです。 当時、UNIX をパケット無線へ開放しているサイトがいくつかあったのですが、 この頃は UNIX よりもパソコン通信のほうが有名だったので、 UNIX に関心のある人は少数派でした。
しかし MS-DOS と違い、E-mail の機能が最初っからついていて、マルチユーザを前提にしていて、 OS自身がC言語で書かれている...などの点で UNIX の将来性を直感。 就職先は単なるパソコン関連ではなく UNIX 関連を選んだのですが、時代を先取りできて大正解。



懐かしのコンピュータリンク集


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