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【「温故知新」 本をめぐる雑談】

増子義久

賢治の時代


(岩波書店(同時代ライブラリー)、1997年)





 筆者は20年近く宮沢賢治の愛好者である。そして、昨年(1996年)は賢治生誕100周年であった。その筆者の目(といったところで、賢治愛好者には「戦前から」「敗戦後から」といった向きも多くいるので大それたことは言えないにしろ)からしても昨年の「賢治フィーバー」ぶりはいささか予想を超えていた。その印象はどちらかといえば当惑する部分が多かった。もちろん特番がいろいろあったり本が出たりといった「メリット」もあったが、妙に「賢治像」を歪めているような向きが少なからずあった。

 そういう中で、地元出身のジャーナリストが「生誕百年騒動」を眺めつつ、「地元での賢治像」を探ったのが本書である。

 本書は内容的に大きく二分される。前半は「生誕百年」のルポと地元の人々のインタビュー。後半は「古代東北」と「賢治」の間にある「断絶」を扱っている。

 前半については同意する部分が多い。賢治を「聖人」視する傾向への疑問は私も常々思っていることである。ただ、「地元民」と「愛好者」の間にある「断絶」というものを知らされた「愛好者」はどうすればいいのだろう、という戸惑いを「非東北人」の「愛好者」である筆者は同時に覚えもした。

 筆者自身、かつて花巻(賢治の地元)に訪問した折に地元民から「賢治のやったことは金持ちの道楽ですよ」というようなことを言われたことがあった。あるいは筆者の所属する愛好団体の席において、地元の会員が「自分の知り合いでここに在籍しているものはいない。93年の冷害の折に東京から来た講師でそのことに触れてくれた人はほとんどいなかった」と言ったのを耳にもした。

 純粋に「文学」として愛好するのなら、そのテキストを読んでいるだけでもよいのだろう。けれども「この作品が生まれた場所はどんなところだろう?」という興味もまた同時に生まれ、多くの「文学巡礼者」を生み出してもいる。ことは宮沢賢治に限った話ではない。ほかのジャンルで例えれば、地方のアニメファンが東京のアニメスタジオやアフレコスタジオに行きたいと思う心理と同じようなものだろう。

 地元での「賢治像」を探ろうとした著者にそこまで求めるのは酷かもしれない。ただ、そのような面にまで考察が及んでいれば、と思う。

 後半は、従来多かった「賢治は被征服民である東北=縄文の声の代弁者であった」という見方とは違う視点で興味深い。「賢治の立場は被征服者の征服者への”同化”だった」という意見にはそれなりの説得力がある。おそらく著者はそうした先行の説を知って上で書いていると思われるが、文中にその点の紹介がなかったことは残念だった。

 著者自身が「賢治に厳しすぎるかもしれない」と書いた本書の最終章で、賢治も触れたであろう琥珀の神秘から「賢治の思い」を述べる部分は、本質的にこの著者も賢治が「好き」なのだと感じさせてくれる。それが読む側に安心感を与えてくれる。ここ一年ほどの間に出た賢治本の中でも好著の一つであろう。


 評者:鈴谷 了




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