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「蓋棺論定」にはまだ早い

― 搶ャ平氏の死去をめぐって ―


清瀬 六朗




 新ヨミネットの「テツガク的空談会議室」で、最近、「アジア」の「民主主義」とか「人権」とかいう話題が出ている。そこに書き込むために「アジア」の近代民主主義についての文章を書いて、アップロードして登録したら、その直後に搶ャ平氏死去というニュースに接することになった。

 「搶ャ平氏の容態悪化か」というニュースは2月19日の夕方ごろにもやっていたし、それ以前にも、搶ャ平の容態が悪いという情報に対して、中国政府のスポークスマンがそれを打ち消したというようなニュースも聞いた。でも「搶ャ平氏の健康状態悪化」という情報が流れたという話はこれまでにも何度か聞いていたのであんまり気にしていなかった。それに、こんなことを言ってはなんだが、搶ャ平氏は中国にとっての大イベントである7月1日の香港「返還」の日を生きて迎えるにちがいないというような思いこみがあったのだ。

 搶ャ平氏は、その権力をすでに後継の江沢民体制に引き継ぎを終わっているし、みずから望んでそうしたのかどうかは知らないが、1990年代を通じてその権威の影をも徐々に薄めていっていたので、その死去が直接に大波乱を起こすということはまず考えられない。もちろん、中国の政治体制が近いうちに大きな変化を起こすことは考えられないではないが、それは搶ャ平氏の死が直接の引き金になることはないだろう。それは1976年の毛沢東のばあいとはぜんぜん異なっている。

 いや、やはり搶ャ平氏は、自分の高齢化に合わせて、自覚して自分の権威を保ちつつ実際の権力行使の機会を減らすようにしていったのだろうと思う。周恩来首相の死去がきっかけとなって起こった天安門事件(1989年の北京事件のことではない)で失脚した経験のある搶ャ平氏は、自分の死去がそんな事件を起こすような影響力を持つことを望みはしなかっただろう。1989年北京事件だって胡耀邦元総書記の死去がひとつのきっかけになっていた。かつて絶大な影響力や人気を誇った政治家の死が政治を混乱させることのないようにするのが政治家搶ャ平氏の最後の権力行使だったのではないだろうか。石橋湛山(評論家、もと首相)は「死もまた社会奉仕」という文章で、政治家は、身体が衰えても、あるいはテロで身体を傷つけられても、死ぬときまで政治に影響力=権力を持ってしまうものだから、政治家はそのことに自覚的に注意を払わなければならない、というようなことを書いていたと思う。搶ャ平氏はそういう点にはみずから注意を払った政治家であったように私には思える。

 かつて、中華人民共和国の「偉大な領袖」毛沢東主席は世界に大きな影響を与えたものである。毛沢東体制に好意を寄せた国家は、毛沢東時代にソ連と中国の関係が悪化したこともあって、社会主義国にもあまり多くはなかった。しかし、全世界の多くの社会主義勢力が毛沢東の影響を受け、毛沢東思想を信奉する――あるいは狂信する勢力が全世界に広がったのである。日本では、敗戦直後から文化大革命の時代に至るまで、毛沢東は、中国関係者のみならず広い範囲の人びとに影響を与えつづけた。敗戦後の時代の日本の知識人の雰囲気は、武田泰淳の『風媒花』などに見ることができる。他方、保守的な人びとや非共産主義系の社会民主主義者、それにソ連やソ連の影響下にある社会主義勢力には、毛沢東と毛沢東の中国は強く敵視されたものである。

 搶ャ平氏もそれに匹敵する影響力を世界に対して持っていたと見るべきだと思う。だだしその影響のしかたは毛沢東のばあいとぜんぜんちがっている。

 毛沢東死去後の混乱のなかで、搶ャ平氏は、「十年の動乱」に疲れた人びとに期待を持って迎えられた。その後、政治的自由を抑制しつつ「改革開放」の方針を打ち出し、それを実行に移すことでその政治権力と政治的権威を確立したのである。

 べつに搶ャ平氏の政治的自由の抑圧を擁護するわけではないが、搶ャ平氏がデモや壁新聞などの民衆運動を嫌ったのにはそれなりの理由がある。文化大革命で迫害を受けた政治家として、民衆運動が政治的な煽動によって方向づけられたときの秩序の崩壊の恐ろしさを搶ャ平氏は身をもって体験していた。毛沢東は、1920年代末からの国民党との内戦の時期から文化大革命にいたるまで、党内での闘争で苦境に陥ったとき、民衆運動など党の外で起こった「運動」に助けられながら自分の権力と権威を守りつづけた経験がある。その点が毛沢東主席と搶ャ平氏でまったくちがっているところなのだ。

 中国では、政治家の資質を「乱−治」の軸によって評価する伝統がある。『三国演義』の英雄の一人である曹操が、人物評で「治世の能臣、乱世の奸雄」と評価されたという話もある。何百年の南北対立の「乱」の時代をようやく「治」に導いた唐の時代の太宗皇帝李世民のもとで「創業と守成のどちらが難しいか」などという論争が行われた話も有名だ。この軸で評価するなら、毛沢東のほうが「乱」の時代を得意とする政治家であり、搶ャ平氏は「治」への志向を強く持った政治家といえるだろう。毛沢東が「創業」の政治家で、搶ャ平氏は「守成」への志向を強く持った政治家だったといえそうだ。搶ャ平氏の「改革開放」はたしかに当時の社会主義体制にとっては「革命」的な理論であったけれど、それは毛沢東の「創業」した中華人民共和国をよく「守成」することを目標とするものだった。そして、その「治」・「守成」の政治家である搶ャ平氏の民衆運動観――ひいては民衆観が、「乱」・「創業」の政治家だった毛沢東とはまったくちがったものだったのは当然である。

 社会主義圏というものがまだ存在した時代、ソ連ではゴルバチョフが書記長に、のちにはソ連の大統領になり、ペレストロイカと称する改革を精力的に推進した。当時は、政治的自由の実現を先行させるソ連の改革が高く評価され、それに対して搶ャ平の改革は不徹底で問題の多いもの、という評価をされていた。搶ャ平はそのときすでに学生運動を弾圧し、運動に同情的だとされた胡耀邦の解任に踏み切っていたからである(1987年)。社会主義圏の政治的自由化・民主化の進展という国際的な「大気候」のなかでのその胡耀邦の死去とゴルバチョフの北京訪問が学生の民主化運動を活発化させた。1989年の北京事件はそういうなかで起こったのである。天安門広場の学生は平和的に退去したということがのちに明らかになり、「天安門事件まぼろし説」が横行することになった。しかし中国共産党が軍隊を動員して民衆運動に対して大がかりな弾圧を行ったという事実は変わらない。

 その弾圧の一つの焦点とされた天安門広場のすぐそばに外国報道陣がいて、その弾圧とその後の戒厳令下の北京の様子が外国にリアルタイムで報道されてしまったこともあって、中国は国際的孤立のなかにおかれることになった。その後の中国北方の雰囲気はけっして明るいものではなかったように思う。北京事件から2年ほど経ってから私は北京を中心とする中国北方に滞在する機会があった。北京でタクシーに乗ったとき、タクシーの運転手は、相手が日本人と知って中国共産党の悪口をつぎつぎと並べていたのが印象に残っている。

 ところが、そのわずか後に、搶ャ平氏は「南巡講話」を行い、政治的自由の抑圧による閉塞を経済発展を積極的に進めるという方向で突破するという志向を明確に示した。その年の夏、ある中国人の家庭を訪問したとき、その家の若い奥さんは「搶ャ平の評判はまたよくなっている」と語ってくれたものだ。

 昨年、私が北京に行ったときには、あの北京事件後の日々の重苦しさはどこにも感じられなくなっていた。中国の人たちは、外国人相手に中国共産党の悪口をこぼすようなこともなく、自分たちの国への自信を回復していたように見えた。とくに、ある意味で衝撃だったのは、「皇家」とか「皇帝」とかいうことばが高級ブランドを示すためのことばとして平気で使われていたことである。かりにも革命で成立した共産党の支配する国家の首都でである。

 よく言われるように、搶ャ平氏の戦略は、政治的自由や民主化よりも経済的発展を優先するということにあった。

 中国の国民の社会的な潜在力は、19世紀から20世紀を通じて爆発的に高まっていたように思える。清朝時代から持続的に進んでいた人口の爆発や商業社会の成熟に加えて、西洋との接触が正と負の両方の方向でその潜在力をさらに強めたように思える。上海をはじめとする都市には西洋諸国の文化がつぎつぎに流入してきた。その西洋文化と工業製品の流入は中国人の生活のレベルにまで広く影響を与えた。同時に、列強の侵略は中国人の「ナショナリズム」に火をつけた。そうして活性化した中国人の爆発的な潜在力こそが、20世紀の中国の「治」と「乱」の背景をなす基盤をなしていたと私は考えている。

 搶ャ平は、その国民の潜在力を、民主化による政治参加に向けてではなく、経済発展へと方向づけたのである。政治的な自由を得て政治に参加する喜びによって国家と国民を結びつけようとするのではなく、国家の経済的発展が自分の生活水準の向上として実感できるという方向で国家と国民を結びつけようとした。そして、それは幾度かの試練を乗り越え、いまや大成功を示しているのである。

 政治的自由の実感によって国家と国民を結びつけようとしたゴルバチョフのペレストロイカのような華々しさはなかったが、そのかわり、ペレストロイカが経済的な苦境に陥ることで破綻し、その後に政治的混乱を残したのとは対照的に、かなりの期間を持続する成功を見せたのである。

 搶ャ平氏が政治的自由の拡大や民主化をまったく考えなかったとは思わない。搶ャ平氏は有名な「一国両制」提案で「50年は香港の資本主義を変更しない」というようなことを言ったそうだし、三権分立と共産党による指導の廃止を学生運動に求められたときにも「50年早い」というようなことを言ったらしい。50年間は香港の資本主義を変更しないというのは、そのあと中国型社会主義にする、という展望なのではなくて、50年後には中国社会主義自体が現在とはちがったものになっているはずだということを考えていたからではないか。50年後には共産党の一党独裁は社会的な条件の変化によって中国には必要なくなるのではないかというようなことを搶ャ平氏は夢想していたのではないかと考える。おそらく、50年後には、中華人民共和国は、アメリカ合衆国のような豊かな国になって、一党独裁の必要なんかない世界のトップクラスの国になっている、アメリカよいまに見ておれ!!――というようなことを夢に描いていたのではないだろうか。

 もちろん、だからといって、搶ャ平氏が現実には政治的自由の拡大と民主化を拒みつづけたことには変わりがない。

 この「経済優先」の政策がいつまでも持続できるかどうかはわからない。たぶん経済が行き詰まれば従来の「改革開放」路線は修正を余儀なくされるであろうし、それに伴ってある程度の政治的な変動も予想されないではない。だが、私はここで「ポスト搶ャ平」の予測のようなことをやりたいわけではない。

 そうではなく、ここで私が言いたいことは、搶ャ平氏が毛沢東後の中国の指導者として示した設計図が、中国以外の多くの国――とりわけ「アジア」の国に影響を与えたのではないかということである。つまり、「アジア」国家が発展し、国民の潜在力が高まってきたとき、国家指導部が「民主化」と「経済発展」の板挟みになったときには、断乎、「民主化」を抑制して「経済発展」をめざすべきである、という模範を、搶ャ平氏は全「アジア」に対して示した。その意味は、今日の「アジア」を考える上で、けっして小さくはないはずである。

 今日、中国だけではなく、多くの東南アジアの国家で「経済発展」を優先させ政治的自由の拡大と民主化を抑制するという発展戦略が採られている。一種の権威主義政治であり、ヨーロッパでもラテンアメリカでも行われてきたことなのだが、現在の東南アジアの指導者は、「欧米」に対して、それを「アジア」の文明の独自の価値観から説明しようと力を注いでいる。「欧米」がその政治的自由の拡大と民主化に対する抑制政策を「人権」問題として批判してきたときには、その「文明の独自性」の主張を「植民地支配が破綻しても欧米はなお「アジア」に自分たちのもの(価値観)を押しつけようとするのか」というかたちで突っ返すことができるからだ。また、「東西文明の対立」という図式は、経済発展を遂げた日本や韓国の世論にも、露骨な権威主義政治を主張するよりずっとよく受け入れられるという読みもあったのだろうし、その読みは(私にとっては残念なことであるが)かなり的中したようである。

 「民主化」ではなく「経済発展」を国家の発展戦略の基礎におくべきだという発想は、「民主主義」を理念としている欧米に対しても有効な戦略であった。中国は世界資本主義にとっては未開拓の商品市場であるにちがいないという魅力があったからである。アメリカ合衆国が「民主化」の理念に殉じてその商品市場をあきらめることなどあり得ない。中国の「経済発展」は先進資本主義国にとっても――その政権に絶大な影響を持つ大企業にとっても貴重なビジネスチャンスである。先進国自身の市場は飽和状態であり、そこに市場を拡大するにはソフト面の知識とそれに基づいた戦略を要求される。しかし発展途上国に対してはそれほどソフト面の知識を必要としない生産によっても市場のシェアを獲得することができる。大企業は、だから、中国独特の慣行(あるいはたんなる不慣れ)や官僚の恣意による理不尽なトラブルに何度も直面しながらも、けっして中国市場への進出をあきらめようとしない。それどころか、政治理念による中国制裁に対しても、「商売の邪魔だ」として政府に圧力をかけることもある。資本主義国を支える大企業が社会主義国を擁護する立場で資本主義国政府に圧力をかけるのだ。毛沢東時代の指導者が見たら腰を抜かすかも知れない(毛沢東はそれぐらいでは動じない人物だったと私は思っているが。1937年には共産党を生き残らせるために昨日までの敵だった蒋介石と手を握った人物なんだから。国民党との協力を毛沢東より早くかつ大胆に構想した共産党員がいなかったわけではないが、それらはすべて前線で国民党と戦っていた党員ではなかった。その意味で、搶ャ平氏はプラグマティックで毛沢東は原理主義的だという対比はあまり正当ではない)。

 搶ャ平氏の戦略は成功した。外国に対して積極的な理念外交を展開したクリントン政権も、中国に対しては「孤立させてはならない」として中国封じ込め戦略を採ることはしなかった。

 自国の「経済発展」の可能性をアピールすることで、国内の政治体制の変革に対する有力な先進国の干渉を防ぎ止め、かえって先進資本主義国に自国の現体制を支持させる――その現在の「アジア」諸国の政治の範型を作るうえで、搶ャ平路線の果たした役割は小さくないように私には思われるのである。搶ャ平氏がいなければ、マレーシアのマハティールやインドネシアのスハルトはいまのように自信満々でいられただろうか(いちおう今回の故人にだけ「氏」がついているということで納得してください)。

 毛沢東主席は「革命と反革命」という図式による世界把握に大きな影響を与えた。それに対して、搶ャ平氏は、「アジア」対「欧米」という図式による世界把握に大きな影響を与えたように思えるのである。「アジア」の権威主義政治を「欧米」の民主主義政治に対してなんのやましいところのあるものでもないという地位に押し上げた功績の第一人者は、マハティールやスハルトよりもむしろこの搶ャ平氏ではないかという気がするのだ。

 アメリカ合衆国やEU諸国が「アジア」に対して「人権」批判や民主化に関する批判を行っていることをめぐる私の考えを全面的にここに書くことはしない。

 私はほんとうに経済発展には権威主義政治がいちばん馴染む政治体制なのかということについてそもそも疑問を持っている。日本の高度経済成長は、さまざまな面で問題はあったものの、民主主義的政治体制のもとで成し遂げられたのだ。また、ある程度の国家権力による社会の統制が必要だとしても(日本の経済発展にはこの要素が色濃くあったといわれる)、それが政治犯に対する弾圧を自動的に正当化するとも思えない。もちろん、テロリストをここでいう「政治犯」から厳然と区別しなければならないのはいうまでもない。

 他方で、近代民主主義は、あくまで、政治共同体がみずからを運営し、その成員の幸福を図るための道具にすぎないと私は考えている。近代民主主義体制の整備が絶対的に経済的発展に優先しなければならないという立場は私は採らない。もしその政治共同体の成員が権威主義政治のもとで経済発展によって近代民主主義が得られる以上の幸福を得られるのであれば、強いて近代民主主義制度の確立を急がなければならないとは考えない。

 けれども、この搶ャ平氏の示した「経済発展」優先戦略が、「アジア」の発展戦略として、「アジア」のいう「欧米」とはちがう独自の発展戦略と位置づけられるものかどうかには疑問がある。

 政治的自由の発展を伴わない「経済発展」が国民の発展への潜在力を引き受けていられるのは経済的発展が進んでいるかぎりでの話である。しかも、中国のばあいもそうであるし、多くの東南アジア諸国でも似た状況があるようだが、その経済的発展は国内に階層的・地域的な大きな不平等を生みつつある。さらに、その経済的発展は環境に対して大きな負荷をかけつつ達成されるものである。

 それらの矛盾による国民の不満が昂進したり、経済発展が停頓したとき、近代民主主義的な問題解決の方法が制度として定められていないばあい、どういう事態が起こるかはなお予断を許さないものがあると思う。

 棺を蓋って(おおって)論定まる――という中国のことばがあったと思う。だが、私たちは、搶ャ平氏についての「論」を定めるにはまだ早いように思う。




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