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職業としての学問

― 「大学教員任期制」について ―


清瀬 六朗



 君は凡庸な連中が年々君を追い越して昇進していくのをみても、腹も立てず気もくさらさずにいられると思いますか、というふうに念を押しておかなければならない。ところが、こうした人たちから受けとる答えはきまってこうである。もちろんです、わたくしはただわたくしの「天職」に生きるのみです。――だが、すくなくともわたくしの経験では、こうした人たちが精神的に打撃を受けることなくこうした境遇に堪ええたためしはきわめて少ないのである。
 ――マックス・ウェーバー『職業としての学問』(尾高邦雄 訳、岩波文庫、20−21頁)


 1996年10月29日、大学審議会が、すべての大学教員について任期をつけることができるようにするという「選択的任期制」を文部大臣に答申した。

 これに対して擁護論と批判とが出されている。どちらも、もしこういうことが言い出されたらこういう議論が出てくるだろうとあらかじめ予測のついたようなものが多い。

 擁護論は、要するに、任期制の導入によって、大学教員の新陳代謝が進み、怠慢で無能な大学教員が淘汰され、より時代の需要に応じた大学教育ができるようになるというものである。対する批判論は、学問の自由を脅かすとか、大学教員が点数稼ぎに走って短期的に業績の出せる研究にばかり集中するので息の長い研究が出なくなるとか、評価基準を研究業績におくなら研究にばっかり走って教育をおろそかにし、教育実績におけばその逆の事態が生まれるだろうとかいうものである。

 どちらも理解はできる。理解はできるが、ことに批判論の側に、「どうして大学教員任期制の導入というような提案がなされなければならなかったか」という根本的な問題をきちんと考えたのかどうか疑問に思わざるを得ない部分を強く感じる。さりとて、擁護論が批判論の提起する問題点をどうクリアするのかも、これまたむずかしい問題のように思える。

 私は大学の教員ではない。だが、大学院の学生をやった経験から、大学での研究とか教育とかがどういう制度で進められているかということについては多少は知っている。「多少は」程度で大学の制度について横議しないでくれと大学関係者の方はおっしゃるかも知れぬ。そのような立場はあってよいと思う。人民は支配者なのだから天下のすべてのことについて嘴をはさみ意見を言い横車を押す権利がある――などという素朴民主主義的感情は私の採るところではない。ある専門的知識がなければ、あるいはある特別な立場にいなければ発言してはならない分野というものが、近代民主主義の社会にはあっていい。

 私は大学教育に関してはしかしもっと素人が横議してかまわないと思っている。

 大学はかつては少数のエリートが行くところであった。「大学に行くのは一部の特殊な人たちであり、またそれでちっともかまわない」というのが社会の通念だった。かつての大学生は、自分が社会の中で選ばれた少数のエリートであることを自負し、またそれゆえに課された責任を自覚しながら――ばあいによっては課されてもいない責任まで自覚しながら――行動したものである。

 だが、いまや大学は少数のエリートのものではない。いま10歳代の人は数年後には大学に行くかも知れないし、自分は行かなくても友だちや親戚に大学に行く人が一人ぐらいは出るかもしれない。いま20歳代の人が将来お父さんやお母さんになったとき、その息子や娘は大学に行くかも知れない。いま30歳代の人が将来おじいさんやおばあさん……以下略である。それは大学進学率が何十パーセントというような「量」のレベルの話だけではない。かつての大学の受験勉強は学問好きの若者が職人的な努力をもって行うという種類のものだった。だが、現在は、受験勉強の方法はルーチン化され、受験産業によって売られている受験のための道具(模擬試験とか参考書とか単語集とか)を活用することができるようになった。それはかつて大学がそうだったような中世ギルドの面影を残す職人的なものではなくなり、近代産業社会的なものになった。そうした「性格」の点でも大学は大衆化したのである。

 その大衆化した大学での教育については、やはり大学関係者以外の者も、積極的に関心を寄せて意見を述べて行くべきだと思う。もちろん、社会の中で大学が果たしている役割や大学の専門性について無理解なままにそれを論ずることは適当ではない。

 そうしたわけで、ここでこの問題についての私の意見をまとめてみたいと思ったのである。

 まず任期制に対する批判からとりあげたい。批判を先に採り上げるのは、批判論を先に叩いておいて、「以上のような理由で批判論はだめである。だから擁護論が正しい」と持っていくためではない。擁護論については確たる評価を下しにくい部分があるからだ。たとえば任期制が研究の新陳代謝を促すかというと、そういうふうに任期制が活用されればそれは促すだろうがそういうメリットを潰すような使いかたもできる。それこそ分野によってもその効果はちがうであろう。つまりやってみなければわからない部分が多いのだ。これに比して、批判論は論点としている部分が明確である。それを手がかりにして擁護論の問題点を照射することもできるであろう。

 批判論の第一として、客観的な業績評価のむずかしさということが言われる。任期制を採用した場合、新任の教員を採用する頻度も現在よりも高くなるし、現任の同僚教員を留任させるか否かを判断するためにも客観的な業績評価の必要性は高まる。だがその業績評価を客観的に行うことがなかなかむずかしいのである。

 「え? 業績評価なんてかんたんじゃないの?」という声もあるかも知れない。「研究」の業績だったら研究論文の数や量、研究報告の頻度、学界での評価などを見ればいい。「教育」の業績だったら受講する学生の人気や学生数を基準にすればいい。何のむずかしいことがあろう?

 ところがそうではないのである。

 同じような内容を二編も三編もの論文に仕立てて数を稼いだ10本の論文と、先行業績をつぶさに検討して原資料に当たりなおし、その結果を凝縮して簡潔に書いた1本の論文とで、どちらに価値があるか? 簡潔なほどいいという伝統が日本の言論界にはあるがこれはあまり当たらない。あまりに簡潔にしすぎたものは水増ししたものに劣らない欠点があると私は思う。しかし、内容を損なうほどでなければ、簡潔に一本にまとめた論文は、水増しして十本にした論文よりずっと質がいいと判断すべきだ。内容面でいえば、これまでの学説で言われていることを応用してほんの小さな傍証をつけ加えたようなものは軽く、従来の学説に根本的な再検討を迫るもの(もちろん新たに提出された学説のほうが従来の学説よりオソマツだったら話にならないが)は重く評価されなければならない。いちおうそういう基準はある。

 が、である。

 いったいだれが評価するというのだ?

 そのような基準で業績を評価するには、その分野の学説の状況がいまどうなっているかをつぶさに知っていなければならない。その分野について、まるで素人ならもちろん、学部学生程度の知識しかないようでは、その評価する対象の論文が水増しされているのかそれとも凝縮されているのかすら責任ある判断はつかないであろう。しかも、大学のひとつの学部にはじつにいろんな専門があるものだ。私の出身は法学部なので法学部の例を引こう。たぶん民法の教員の業績審査は民法・民事訴訟法・商法ぐらいの先生方ならばそれほど無理をしなくても的確にできるだろう。だが、刑法・刑事訴訟法・行政法・法制史・法哲学などの先生方のなかには現在の民法学界の動向には十分に通じていらっしゃらない方もあるかも知れぬ。まして政治学とか政治史とかの先生はあまり民法学界の現状には通じていらっしゃらないと考えるのが妥当だ。

 法学は、対象としている法というものの性格上、まだある分野の専門家が隣接分野についての知識を持たなければならないという事情がある。だがそういう事情のない、いわゆる「タコツボ」化がさらに進んだ分野ではどうか。フランス文学の専門家が中国文学研究の近況をどの程度まで的確に押さえて評価できるか、いや、近代イタリア史の専門家が古代ローマ史の研究の現状をどこまで押さえて責任ある評価を下すことができるだろうか?

 学生の答案や論文を採点しているのとは根本的にちがうのである。学生の答案や論文は基本的にはその先生の専門とする分野に関するものにしか来ない。また、評価対象である学生の側の知識が教員をはるかに凌ぐということはあまり考えられない。もっとも、大学教員も、教員に迫る知識を持った学生が、しかも往々にして自分の専門とはちがう分野の問題について書いたものを評価しなければならないことがある。大学院の学位論文の審査がそれである。しかし、これは教員にとっては非常な負担なのだ。一年に自分のところに回ってくる学位論文が一本とか二本とかいうペースだからまだ耐えられる負担なのである。また、学位論文を審査する教員は相手の専門の学界の近況・現状に通じていることをとくに要求されない(もちろん主査の教員は通じていないといけないだろうが)。自分の専門家としての知識・感覚に照らしてコメントを加えればよいのである。同僚の教員の業績審査はその学位論文の審査よりはるかに重い負担となるはずだ。

 だったら、その分野のことをよく知っている人物を選任して、その人に評価してもらえばいい――という考えもあろう。だがそうすると情実が生じやすい。審査対象が先輩研究者や自分の恩師であったり、逆に自分の弟子であったりしたら、不正がなくても評価が甘くなることは免れないだろう。逆に、自分の気に入らない人物の弟子が評価対象になれば目の敵にして落としてしまうということも起こりうる。とくに学派・学閥対立がある場では公平な審査は期しがたい。しかも、日本の大学には学派対立とか学閥対立とかがあるところがじつに多いのだ。

 「教育」実績の評価にも問題がある。受講する学生数や受講している学生の評価を基準にすればいいという意見もあるだろう。だが、第一に受講する学生数は講義内容によって変わってくるものである。大きな一般性を持つ分野の講義には学生が集まるし、比較的特殊な分野の講義には学生は集まらない。しかも、それは、分野そのものの一般性によって決まるとはかぎらない。たとえば、司法試験の出題者と目される大学教員の授業には受講者が殺到する。しかしそれはその大学教員の教育者としての素質をそのまま反映したものとはとうてい認め得ない。

 講義を学生に採点させてみてはどうかという提案もしばしば聞かれるものである。たしかにこの提案には聴くべき点があると思う。いかに学生の興味を持続させるように、学生にわかりやすく、しかも学生にちゃんと聞こえる声で授業をするかというようなことをまとめて「プレゼンテーション」の技術などと呼ぶことができよう。で、プレゼンテーションの技術を持つことは、研究者としての素質には無関係でも、教育者にとっては必要な素質である。しかも、それを評価するのは、プレゼンテーションを行う教員自身よりはそれを受ける学生の任であろう。教員がそのプレゼンテーションを学生に判断してもらう機会を定期的に設けるのは悪いことではないと思う。

 だが、プレゼンテーションの技術の枠をこえて、授業内容まで学生に評価させるというのは暴論である。大学の講義は教員と学生の知識や教養の差を前提として成り立っているものである。これから教わろうという内容について、最初のとっかかりのところで「これはつまらない」などと評価することが正当であり得ようか? それはゲームのやりかたがわからなくて最初のダンジョンがクリアできないからというのでゲーム全体を投げ出してしまうようなプレーヤーと同じである。そのゲームシステムに大きな問題があるばあいは別として、「最初のダンジョンぐらいクリアして、ゲームシステムの初歩ぐらいは把握してから文句を言え」というのが、そのゲームをやりこんだプレーヤーの感想としては普通ではないだろうか。

 また、学生が高校までどんな教育を受けてきたか、また世間ではどういう分野の「知」がもてはやされているかということで、講義を学生に受け入れやすいものにできる限度がちがってくるはずだ。その時期に世間で関心が持たれているテーマについての講義に学生の関心を引きつけることは比較的容易だろう。逆に、その学問分野自体が世間的になじみのないものや、高校までの学習からの連続性の乏しいものは、講義の際にその基礎から話さなければならず、そのぶん、授業内容について学生に興味深い講義を聴かせるのはむずかしい。

 また法学部の例を引くとしよう。憲法の講義は比較的学生に受け入れられやすい。憲法については小学生のときから繰り返し学んでいるし、マスコミも何かといえば「平和」や「人権」の問題に関して憲法を持ち出したがる。学生が憲法を考えるための基礎知識はそのなかで十分に養われているのである。ところが民事訴訟法となると、「民訴」ならぬ「眠素」とまで陰口どころか公然と言われるほどの退屈な授業だ。民事訴訟(民事執行・破産も含めて)はこの世になくてはならぬ制度である。それはこの社会で市民生活を営むだれがいつ直面するかわからぬ重要な問題を処理するための制度なのだ。だが、こないだまで高校生だった学生に民事訴訟で(もっというなら民事法で)問題になるような紛争をリアリティーを持って捉えろというのはむずかしい注文である。学生が自分で土地を担保に入れて、もしここの法解釈がすこしちがっていれば自分の住んでいる土地が債権者に取り上げられてしまうかも知れないというスリルを味わうことはあまり多くないだろう。民事訴訟法はそういうきわどい問題を処理するための体系なのだ。バブル崩壊後でこそ企業の倒産や経営破綻のニュースがマスコミを賑わすことが多くなった。しかしマスコミはそれを民事訴訟法や破産法の問題として取り上げることはしてくれない。かくして、「民訴」の教員は、民事訴訟というものがどういうものか、どうしてそんなものが重要なのかというところから話し始めなければならない。そのぶん退屈な概説的な話が延々と続くことになる。しかもそれが学生が身近な問題としてリアリティーをもって捉えられない問題についての話だとなれば、あとは学生の「眠りの素」と化すしかないわけである。こうした問題点にはたしかにプレゼンテーションをもって救える部分もあるし、また普通にやっていれば「眠素」になるものをちゃんとした「民訴」の授業にすることこそ教育者としての腕の見せどころである。しかし、それにしても、民訴の教員がたとえば憲法の講義を担当する教員に比して不利な点を抱えているのは事実だ。

 たぶん平均的な憲法の教員の授業と平均的な民事訴訟法の教員の授業を学生に採点させたならば憲法の講義のほうがずっと高い点を獲得するであろう。だが、だったら法学部は民事訴訟法の講義を廃止して憲法の講義を増やすべきなのか? そんなことは絶対にあり得ない。もちろん法学部が法学部をやめて国制学部とか公法学部とか人権学部とか平和学部とかになるのなら民事訴訟法の講義はなくてもいいかも知れぬ(たしかにそういう学部がもっとあってもいいと私は思うのだが――「国制学部」なんていかにもアナクロっぽい名まえだがそういうのがあってもいいはずである)。でも民事訴訟法を含む私法の知識に対する社会の需要は大きい。大学の法学部は民事訴訟法学の基礎を身につけた学生を世に送りだし、また民事訴訟法学を学問的に研究しつづける場としての役割を社会的に要請されているのである。

 任期制の導入に不可欠な「業績の公平な審査」というものにはこれだけの問題がつきまとうのである。

 さらにそれが別種の問題点と結合する。

 任期制が導入されたとする。なんとか公平に、すくなくとも情実には絶対に動かされない業績評価のシステムが作られたとする。さて、ここに、気に入らない教員を辞めさせて、後任に自分の息のかかった弟子を採用したいと考えている教員がいるとする。さて、この悪徳教員はどうすればいいだろう?

 かんたんである。その気に入らない教員を学生に人気のない科目の担任に回せばよい。あるいは科目をいくつも兼任させるという方法もある。もっと有効なのは、学内の行政的な役職をその辞めさせたい教員にたくさん回してやることである。他学部との折衝、あるいは文部省の関係窓口との折衝、予算配分、そこの大学の研究室が事務を担当することになっている学会の事務局の責任者、それに「大学改革」の名のもとに構想されているさまざまなプラン――学内には教員の研究・教育時間を奪い、その精神と肉体を極度に疲労させる行政的事務がいくらでも存在する。それをすべてこなして、なおかつ精力的に研究成果を挙げていくことは非常に困難なことである。そうして、任期が来たら、「おまえは十分な研究・教育上の業績を挙げていない」と称してクビにする。研究・教育上の業績が少ないことは公平な審査によってかんたんに立証できる。まったくかんたんなことだ。

 これが例外的な悪徳教員のことであればまだよい。だが、こんなことを言っては失礼かも知れぬが、大学教員のなかで、その心のなかにその「悪徳教員」的な部分を一パーセントも持っていない教員はそんなに多くないように思う。だれでも自分の従順な弟子はかわいい。かわいいだけではなく、自分の弟子の研究は自分がよく理解できる分野で行われるものだから、たしかにすぐれた研究者に見えてしまうという面もある。「主任教授というものは、一般に、自分では良心的に振舞っているつもりでも、やはり自分の直弟子を優遇しやすい」(『職業としての学問』12頁)という約80年前のドイツの講演で語られたことばは現在の日本でもいぜん真実なのだ。

 また、たんに「あいつは気に入らないやつだ」と思って同僚を排斥したい程度なら、本人にも「オレもいい年をしてこんな子どもじみた思いにとらわれるなんて」という自省も働こうというものだ。だが、大学というところには、そういう思いを正当化するための論理的な道具はいくらでも溢れている。「あいつは教育者として不適格だ」とか「あいつの思想は学生に悪影響を及ぼしかねない」とか「あいつは某組織のスパイであって放置すれば大学自治を崩壊に導く」とかいうものである。自分に都合のよいように世界全体の解釈を変えてしまうという子どもじみた習性に大学の教員のような一流の知識人が感染しないと考えるのは大きなまちがいである――もちろんそれを大学の教員特有の弊風だと考えるのもまちがいであるが。

 なお、ここで、私が「研究業績」の評価を論文の話に限り、「教育実績」の評価を大学での講義に限ったことに対してすでに反発を感じられた方もいらっしゃるかも知れない。大学の教員の「研究」が論文の質や量だけで語れると思っていること自体が学問の閉塞性を産み、またそれにとらわれている証拠ではないか。大学での講義だけが大学の教員の「教育」活動だと考えているのも同じである。「業績」として、たとえばテレビ局でディレクターをやった経験や、海外でボランティアとして活動した経験(ボランティアをするのはべつに海外でなくてもいい。あくまで「たとえば」の話である)、お笑い芸人として積んできた経験、ダメ企業を一躍再建するのに成功した経営経験、あるいはその人物の「おたく」歴……そうしたものを「業績」として評価する視角がこそが必要なのである。教育についても、地域での講演やテレビにコメンテーターとして出席してマスコミを通じて国民を啓蒙するというような活動、あるいは地域や企業での実践にコミットすることなどを、教育の実績のなかに含めて考えなければおかしいのではないか。そういう点でオープンにならないことには大学などというものに存在価値はない……。

 だがこれは一方的に決めつけるわけにはいかない問題である。人が貴重な体験をしたからといって、それが大学で知の体系として教授することに適しているとは限らない。ほかのかたちで伝えるのが適切だということもあり得る。そして、社会的には有用であるかも知れないが大学で研究したり教育したりする必要性を認められない要素を、教員の評価に含めることは適当だとは思えない。もちろん、こう言ったところで、いやそういう大学の「知の体系」についての発想自体が歪んでいるのだという再反論は可能だ。この点についてはまた別の機会に触れたいと思う。とりあえず、私は、論文の本数と授業のコマ数だけで大学教員としての適格性を判断するという制度にはもっと柔軟性があっていいと思っている。ただし、その制度がいかに硬直していようと、それがコネと情実による採用よりはずっとましであることはつけ加えておかねばならない。

 ともかく、「業績主義」というのは、一見、公平なように見えるし、たしかにある局面においては公平である。またたいていの業績主義はたいていの(コネ・情実などを基準とする)ネポティズムよりもずっと現代社会に適した制度だと言い得るだろう。

 だが、注意しなければならないのは、「業績」がその人の能力や適格性を判断する基準として機能するのは、条件が同じで、しかも目標が比較的はっきりしているときに限られるということである。たとえば、ゲームのソフトメーカーの大手ではかなりシビアな業績主義が採られているという話を聞いたことがある。これは、じつは、ゲームの開発の目的が、より多く売れるゲームを作るということにあるということがはっきりしているから可能であり、また有効な制度なのだ。しかも、それがゲームづくりのどの局面での成果が売れ行きに結びついたか――キャラクターデザインなのかポリゴン技術なのかストーリーなのか――を判断するのはそれほどむずかしくない。それでも、ゲーム会社がもし「いま売れている」ゲームの作者にだけ高い賃金を払い、意欲的なゲームシステム開発を進めたにもかかわらずセールス的には売れなかったゲームの作者に払う賃金を惜しむなら、そのゲーム会社は将来の発展の機会を棒に振ることになるだろう。競争のシビアな業界のこととてそうした点で抜かりはないだろうが。ともかく、目標の比較的はっきりしている職場でさえ、「意欲」や「努力」のような、客観的基準で評価することのむずかしい要素を評価に反映させることが求められているのである。

 まして、大学のようなところは、大学教員にとって何が「目標」なのかということが多義的である。大学は青年の教育という役割も背負っている。それはその教育を受ける青年個人に対する義務であるとともに、大学で教養と専門知識を身につけた学生を社会に送り出すという社会に対する義務でもある。また、その研究対象についての研究を前進させるという役割も期待されている。さらに、大学は大きな組織であるから、研究や教育を行いやすい環境を整えるといういわば組織自身のメンテナンスにあたる仕事も重要である(これは一般企業でも同様だろう)。

 そうした場での「業績主義」の導入はさきに書いたような問題点をはらみやすい。その多様な目標のなかで、特定の点だけを評価の基準にして人をふるい分けることが可能になり、それをもって恣意的な運用をいかにも公平なようにカムフラージュすることができるようになるわけである。さらにその業績を判断する基準がまた単純ではない。さきに書いたように、論文の数が多ければその研究者がよい研究者だとはいえないし、学生に評判がいいとか受講生が多いとかいうこともやはりよい教育者である直接の証にはならない。もし比較的妥当な判断ができるとしても、それが教授団の大きな負担になることはまちがいない。

 さらに、ゲームのばあい、市場的な成功とは何かということの基準は比較的明確であった。が、大学ではそうではない。より多くの学生を大学に獲得することが重要なのか、あるいは学部に獲得することが重要なのか、それともより多くの学生を社会のステータスの高い部門に送り出すことが重要なのか、あるいはより多くの良質の研究者を学界に送り出すのが重要なのか。

 このように大学に「業績主義」による適正な人事を求めるのは、たいへんむずかしいことなのである。「大学の教師は、だれしも就任のときの事情を回想することを好まない。なぜなら、それはたいてい不愉快な思い出だからである」(『職業としての学問』17頁)。任期制の導入は、大学の教師にその「不愉快な思い出」を、一生涯にわたって、くりかえし、くりかえし味わわせることにほかならない。

 くわえて教員の生活保障の問題もある。若手の独り身の研究者ならば、任期が来て大学からほうり出されてもなんとか生きることはできる。アルバイトをして食いつなぎながら業績をこつこつと貯め、つぎの就職を狙うだけの体力もあろうし、出費を切り詰めようと思えばそれなりに切り詰められる。

 だが、人、中年に到り、子どもが学校に行きだしたりすると、任期が来ていきなり失業などということになるとなかなかシビアな生活が待っている。たとえば、若いうちならば塾講師のアルバイトで食いつなぐこともできようけれど、歳をくってしまうと、教える内容も自分の若いころとはちがってきてしまうし、だいたい若造どもと対抗してやっていくだけの体力がない。自分の出費を切り詰めることはできても、家族にかかわる出費を切り詰めることはなかなかできないだろう。その日から妻は失業者の奥さんであり子どもたちは失業者の子どもである。娘にアルバイトをさせながら娘の養育費を稼ぎ、そして18歳になったら娘はみごとにプリンセスになって親にいい目を見させてくれる――というほどこの世界はうまい具合にはできていない。彼または彼女の家庭はその日から『こどものおもちゃ』的なヘビーな状況を抱えることになってしまう。

 学問の道は厳しいのだ、十分な業績を挙げずに大学を放逐されたようなやつに何の同情が必要であろう、自業自得だ――というような考えかたもあるかも知れない。私個人はそれでもかまわないと思っている。だが、上に書いたように、その大学教員が主たる家計支持者であったようなばあいには問題が生じる。しかも、その教員を辞めさせる基準となる業績評価というのが上述のような問題を持っているのである。

 以上のように任期制導入に対する批判論の指摘する論点はたしかに的を得たものであるように私は思う。

 では任期制導入に私は反対の立場をとりたいかというとそういうわけではない。私は、任期制導入はたしかに現在の大学教育というものを発展させる契機として十分に活用できるものなのではないかと考えている。

 ちょっと待て――ここまで批判論にいかに理があるかを説いてきておいて、なんでそうなるんだ、というご意見もあろう。ごもっともである。その点を釈明しておこう。

 まず、第一に、任期制はじつは事実としてすでに導入されているのである。すくなくとも私が大学院生として学んでいたころ、知り合いのなかで任期制の助手として採用されていた私と同年代ぐらいの若手研究者は十人を下らなかった。いくつもの大学のいくつもの機関で任期制によって若手研究者を(ほとんどは助手として)採用するという慣行は行われているようだ。『朝日新聞』(1996/10/29夕刊)の記事によると17.8パーセントの大学でそのような制度が「当事者の合意という形で」導入されているそうである。

 私の知っている範囲ではその事実上の任期制は若手研究者のみを対象にしたものである。若手研究者は、さきに書いたように、その職を退職した後も生計の手段にはさして困らない。いや困ることは困るだろうがすくなくとも中年以上の家族持ちが職を辞めさせられたときのダメージよりはそのダメージは小さい。若くても家族持ちだとやはり困ったことになるだろう。生活を支えながらよりよい業績を挙げて条件のよい仕事に転職することは若手研究者にとってはさほどむずかしいことではない。

 だが若手研究者には独特の弱味もある。学界での地歩がないからどうしても年長研究者の言いなりにならざるを得ない。年長研究者が節度をわきまえた人ならばよいが、はなはだしい場合にはその地位を利用したセクシャルハラスメント事件を起こすような人もいる。その若手研究者を任期制によって不安定な地位におくことは、研究の外の世界においてまで年長研究者と若手研究者のあいだに権力関係を生じさせる原因にもなる。

 もし任期制を非情で苛酷な制度であるとするなら、若手だからより苛酷な任期制に甘んじなければならず、年長研究者にはそんな苛酷な制度を適用しなければならないなどという理屈は成り立たない。年長研究者には、生活のスタイルをかんたんに変えることができないという弱味があるのと同時に、学界における地歩があり業績も豊富に持っているという強みがある。業績を豊富に持ってない人もいるようだがそれこそ自業自得である――ただし有能な先生でやはり行政的雑務に忙殺されてついに在任中にはまともな業績を出せなかったという例(わりとその世界では有名な先生らしい)もないわけではない。若手研究者には体力もあり生計に関する柔軟性があるとしても、学界における地歩が弱く、特定の年長研究者に見放されたら研究者としての人生を断たれかねないという弱味がある。その一方にのみ苛酷な制度を適用し、他には適用しないという合理的な理由を私はどうしても見つけだすことができない。

 誤解のないように断っておきたい。若手研究者の任期制採用はすくなくとも通常は若者をいじめるために行われているわけではない。何より若手研究者自身のために行われている例が多いように私の知っている範囲からは感じられる。つまりすぐれた研究者に生活費を稼ぐ心配をしないで研究に専念してもらうために形式的に助手として採用するのである。その何年かのあいだに(短い例で二年、長い例で五年)講師とか助教授とかになるにふさわしい業績を挙げてもらい、そして任期切れで退職してもらう。あとはその業績を手に自分で講師や助教授の職をつかみ取ってもらう。こうした任期制採用の助手は「研究助手」などと呼ばれているようだ。「研究助手」というのは、つまり給料の出る大学院生なのである。そして、大学院に在学年限が設定されているのと同様に、任期が決まっていて当然だ、というわけだ。

 このように任期制は柔軟に活用できるわけである。とすれば、その対象を若手研究者に限る理由というのがいよいよわからなくなる。

 じっさいには、年長研究者を任期制的に採用したいばあいには、そのポストを専任教員で埋めずに、ほかから非常勤講師として一年ごとに約束して来てもらうという形式が採られる(もちろんこの形式は若手に対しても採られる)。だが、非常勤講師という職はようするにパートタイマーであって、給料が安く、身分保障が不安定である。その不安定さは任期制の教員以上のものである。しかも、非常勤講師を引き受ける先生方はたいていどこかの大学の専任教員である。その多忙な研究者に無理を言って来てもらう――しかも安い給料で!――というような例も多いようだ。私にはそれが研究・教育機関というものの健全なあり方だとは思えない。それだったら任期制で専任教員として採用したほうがずっと問題は少ないように思える。

 第二に、批判論が挙げる「任期制導入の問題点」というのが、はたして「任期制導入」固有の問題点なのか、きちんと考える必要があるのではないか。じつはこれがいちばん申し上げたい論点なのである。

 たとえば「業績主義」である。私はこれまでの部分で大学教員の「業績」の評価の難しさを縷々述べた。だが、じつは、形式的には任期制が導入されていない現在においても、大学の人事は「業績主義」によってなされているというタテマエなのだ。そこでは、露骨な情実採用が行われることもあるし、比較的オープンで公正な審査がなされることもある。だが、平均的にいえば、やはり、その学部で有力な教員の弟子や学統的に近い人物が採用されることが多いことは、80年前のドイツとあんまり変わっていないようだ。「かくて、大学に職を報ずるものの生活はすべて僥倖の支配下にある」(『職業としての学問』20頁)。任期制の導入はそれを好転させはしない。それだけの話のように思える。

 また、任期に関係する審査によって不公平な依怙贔屓が行われる可能性があるということも指摘した。たしかに任期制の導入はそうした不当な権力行使の契機を増やすであろう。だが、その問題の根本は任期制ではなくて不当な権力行使のほうである。問題を取り違えてはならない。そのような不当な権力行使は任期制がなくても大いに問題とすべきものなのであって、任期制がその弊害を増幅するからといって任期制を攻撃するのは攻撃相手をまちがえているように私には思える。

 むしろ、高等教育機関としての日本の大学を改革しなければならないとするならば、その改革すべきはネポティズムと学統・学閥対立と既得権主義が強い影響力を持ってしまう現状そのものなのではないか。日本の大学の教授陣の頽廃ぶりは、自分より若い研究者の研究に対して、ほかでもない研究の場において、ある企業と深い関係にある教授(元某大学副学長)が「そんなことを発表したらあなたは一生浮かばれない」などとおよそ学問的ならざる恫喝をしていた現場の録音が公表されたことでやや過剰に印象づけられた感がある。日本の学界の名誉のために言っておくが、私自身もいくらか大学に職を持つ先生方と学会や研究会で同席したことはあるがあんなのは体験したことがない。だが、それでも、いったんは就職が決まりかけた若手研究者が、あとから割り込んできたコネ就職のおかげでその就職がふいになったとか、学閥対立のおかげで自分より業績の乏しい者に先を越されたとかいう話はよく聞く。そんなのだから「大学の教師はだれしもその就任のときの事情を回想することを好まない」のだ。コネ就職・学閥就職の被害を受けたほうも思い出したくないだろうが、自分がコネ就職・学閥就職した当人にとってもけっしてそれはよい思い出ではない。こういうことは学問の発展のためにあまり貢献しているとは思えぬ。そうした弊害はなくしていったほうがよいに決まっている。そのために、大学審議会が任期制導入の理由として挙げた「教員人事の流動化」はたしかに要請されているのではないかと感じる。

 アメリカ合衆国では、一年に一本は論文を、数年に一度は単著を刊行しなければ教授としての研究者生命を断たれるという話を聞いたことがある。まあアメリカ合衆国にも寡作な研究者というのはいるし、その先生もあいかわらずプロフェッサーの肩書きをもっているようだから、それにも幅はあるのだろう。だがたしかに日本の同年代の研究者とアメリカ合衆国の研究者をくらべれば、研究業績はアメリカ合衆国の研究者のほうが豊富なのは事実のようだ。教育実績については残念ながらアメリカで授業を受けたことがないので私にはよくわからない。

 こういうふうに書くと「なんでアメリカが基準になるんだ?」というお叱りを受けるかも知れぬ。だが、ここでアメリカ合衆国を挙げたのは、たまたまアメリカ合衆国についてそういう話を聞いたからにすぎない。研究者が思う存分に研究を行い、論文や単著をどんどんと発表できる社会が現実にあり、その例がたまたまアメリカ合衆国だったというだけの話である。ついでにいうと、そういう国家と、研究者が授業の負担と行政的事務に忙殺されて十分に研究できないような国家とが技術力を競うような局面が生じた場合、競争に勝つのがどちらかは目に見えているだろう。

 人事を流動化させればそうした弊害はなくせるのかという問いが出されるかも知れない。だがネポティズムや学統・学閥対立や既得権主義は同じ者が同じ職場にいつづけることによって生じるものなのだから、人事の流動化はたしかにそういうものの弊害を一掃するうえで大きな効果があるであろう。問題は、スタッフの流動化によってその大学やその学部としての長期計画が立てにくくなり、また執行しにくくなる欠点があるということ、人事の入れ替えがかえって派閥を固定化し対立を激化させる可能性があること、それに何より任期制が人事の流動化のために効果的に活用されるという保障がどこにもないということなどにこそある。

 日本の学問が抱える弊害の除去にとって、大学教員の任期制の導入はたしかに有力な方策であろう。だが、それが単独で日本の大学を改革できるというものではない、というのが私のとりあえずの結論である。むしろ、現状で任期制だけを導入することは、その弊害を固定化・激化させる可能性もはらんでいると思う。

 だが、任期制の導入に伴う弊害とされるものの少なくない部分は、任期制そのものが生み出す弊害ではないということにも注目すべきだと思う。任期制が導入されなくてもそれらの問題点をうまく解決する方法を私たちは考えなければならない、そういう種類の問題なのである。それを任期制の導入反対で解決することができるとは考えられない。

 任期制はその事実上の部分的導入によってすでに一定の成果を挙げている制度である。一方的に悪いばかりの制度であるとは思えない。非常勤講師という形式で低賃金で苛酷な労働を強いしかも専任教員の数を減らすことで求職中の研究者の就職のチャンスを奪うような制度と、任期制とどちらがよりよいのか――学生にとって、社会にとって、研究者自身にとって、そして大学にとって。そうしたことを検討していく必要があるだろう。任期制の導入によって生じる中高年教員の失業問題や頻繁に職場を変わることにより生じる年金・保険の問題などは、それに相応した制度を作っていかなければならない。

 じつはここまで論じてきたようなことは、マックス・ウェーバーの『職業としての学問』でいえば、最初の五分の一ほどを占める「職業としての学問の外面的事情」の部分に相当する問題にすぎない。そして、現在の日本の「職業としての学問」を論ずるには明らかにそれでは不足である。

 たとえば、ウェーバーはこの講演を聴きに集まった学生たちが大学教員に「指導者」を求めていることを厳しく批判し、大学教員は「教師」であって「指導者」ではないことを力説している。たしかに現在の日本の大学生は大学教員に「指導者」であれなどと求めてはいない。だが、大学教員に「教師」ではなく「どんなにだらだらした受講態度でもとにかく単位をくれて卒業に力を貸してくれる人」つまり「単位製造装置」とでも呼ぶべき者を求めているという事態が、大学教員に「指導者」であることを求めているという事態よりましかといえばけっしてそんなことはない。

 私にはウェーバーの百分の一ほどの学識もない。ウェーバーほどの地位もなく、地位にともなく職分も義務もない。しかし、私はこの先を考えつづけなければならないと思っている。思ってはいるが、なにぶんにも私には荷が重い。とりあえずこのあたりで小休止させていただくことにしたいと思う。

 私は、この文章を書くにあたって、大学からは局外者であるという立場と、かつて大学院の学生であったため大学というのがどんなところかいくぶんかは知っているという立場の両方を利用した。だがそれゆえの限界というのもあるだろうと思う。
 諸方面からのご教示・ご指摘を待つしだいである。





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